初めて訪れたナンガサキ。
そこは切り込んだ入江の奥にある、天然の要害だった。
商港とするには坂が多くて不便も多いが、防衛拠点としては、これに勝る地形はあるまい。
水深は20ブラサもあり、ナウの停泊には申し分ない。
ポルトガル定航船団の専用基地として、71年に開港した。誕生以来コンパニヤが育み大きくしたこの町には、500軒ほどの家が建っており、邪宗徒はひとりもいない。暦もエウロパのものが使われており、主日には皆が安息する。
だが、タカツキとは大きく異なる点がある。
住民の気の荒さが、並大抵ではないのだ。
港町の漁師に共通する荒々しさとも異なる。ポルトガル人やチイナ、レキオスとか、様々な人種が常に大声で場所を取り合っている。
骨を折られる程度では喧嘩などと呼ばない。
肉屋はけっこう、あちこちにある。丘の先へ行くと豚の牧場も見える。清潔を好む日本人には耐えられないだろう臭気に充ち満ちた、別世界だ。
ドン・バルトロメウが手放したがった理由が、ようやく解った。
すっかり忘れていたが、アルメイダの言葉も思い出している。
ここには邪宗徒がいないから、住民同士の揉め事はすなわち信徒同士の諍いだ。
事件など、起こさせるわけにはいかない。まして殺人など絶対に発生してはならない。だから、なかったことにする。住民は誰もがそれを理解している。
あざやかなものだ。
そして私たちの仕事は、コンヒサンを聴き、反省をうながし、赦すこと。ただそれだけだ。それだけでなければならない。
いやあ、慣れるまで、どのくらい、かかるかなあ。結構しんどいんですけど。
アリマ・ウスキ・アヅチで行われた協議会では、宣教師が日本で禽獣の飼育をすることが禁止された。
それに伴いフナイ教会では、獣と見做されない鶏と鴨のみが許可され、牛と豚はナンガサキへ送られた。エウロパ式の食事を日本人に提供することも禁じられたが、ナンガサキでのみ、これは適用されない。
今ならその理由もわかる。不可能だもの。脂ののった肉は美味しい。日本人は、その味を知ってしまった。
私は会議の書記に、コエリュの補佐に、年報執筆にと、多忙を極めている。
書くべき内容が多すぎるので可能な限り手隙の者に分担してもらって、最終的にはコエリュと私の連名という形で提出するつもりだ。
総会長およびポルトガル王室宛の要録は、年報を書き上げたあとで抜き出す方が正確だし整理された文章にしやすいだろうということで後回しにさせてもらったが、一年遅らせることは許されないので間に合わないときはパードレ・メシヤに代筆してもらう。
仕方ないな、と諦め顔で引き受けてくれたメシヤには、感謝しかない。何度目だい。
そんな忙しいさなか、ある事件が起きる。
ナンガサキの町人同士が、喧嘩を始めた。念を押すが、骨が折れる程度の殴る蹴るを、ここでは喧嘩などと呼ばない。
乱闘ではなく、男同士の一対一だったのが幸いだが、刃物が使われた。原因についてはコンヒサンの守秘義務に抵触するから語れないが、つまらんことだ。ともかくかれらはよりにもよって、教会の聖堂で、おっぱじめた。血飛沫が聖画を汚した。これに巡察師が激怒した。
せめて広場か、林の中か、浜辺でやってくれればなあ。
よりにもよって、なんで教会を使うんだよ。聖地だぞ。
普段は囃し立てる町人たちも、青筋を立てた巡察師を見てさすがにまずいと感じてくれたのであろう。血の跡は綺麗に拭き取られ、聖画も修復された。
手当てを受けた当事者ふたりも反省し、破門を覚悟していたようだが赦された。重すぎる罪を背負い、奉仕をせねばパライゾへは辿りつけぬという戒めを、深く深くアニマに刻むことを条件として。
だってねえ。破門して放り出せば、外でこの町のことをバラされちゃうでしょう。
そんなことは、させませんよ。一生ナンガサキから出させません。
それが罰です。
デウスの掟は厳しいのです。
二度と聖地を汚す人が現れないよう、私たちは目を光らせ続けなくてはなりません。アーメン。
パードレ・アイレス・サンチェスの話をしておこう。
私より早く来日していた古株中の古株で、音楽の才能を買われてトルレスが日本でイルマンに抜擢した。つまり元はミゲル・ヴァスと同じような船乗りだったわけだ。聖歌の指導には必ず呼ばれ、信徒から、特に子供たちから慕われる人気者だったらしい。
優しい先生だったんだろうと思う。
巡察師からパードレへの叙階を認められ、79年度定航船の復路に乗ってアマカウへ行った。そこでアルメイダと彼がジュデヨだと発覚し、パードレになって戻ってきたものの帰国後に追放同然の処分を受けた。
アルメイダはアマクサ島の奥地へ追いやられ、サンチェスはフィラドへやられた。
フィラド。そう、領主が交易だけを望むので何かと悶着が絶えぬ。それでも、ナンガサキが誕生するまでは船員たちの一番人気だった。私にとっても思い出の多い島、フィラドだ。
そのパードレ・サンチェスからの手紙がここにある。
私に宛てたものではない。あくまでも、ただの報告だ。
しかし芸術家らしい踊るような字体で書かれた彼の言葉には、私にもこんな文才が欲しかったなあと羨ましがらせる美しさが籠もっている。
私がフィラドに住んでいた頃、領主と私との板挟みになりながらずいぶん助けてくれたドン・アントニオ・コテダ殿が、降誕祭を前に帰天した。その最期を看取ったのが自分だと、綴られてある。
サンチェスには、手紙を書こう。できる限りの言葉を尽くそう。
そして僕のぶんまで、もう一度ドン・アントニオへ捧げる追悼の演奏をお願いしたいと伝えよう。
叶うならば君ともう一度会って、昔の話でも語らいたいと思っている。
そんな日をいずれ設けよう。アーメン。