8月28日。タイコーの息子が、オーサカで誕生した。
発表は翌週だった。
最初の息子が3歳で病没している経緯もあり、城の重臣たちはきわめて慎重になっている。
母子ともに容態が安定し、授乳も順調になってから、ようやく城門は開かれた。
ミヤコ知事はただちに祝儀を届けに駆けつける。ナゴヤへも、使者が向かった。
ミヤコ市民は歓喜に満たされ、そちこちで市場が立つ。
情報統制の練度がここまで高いことは奇異に感じた。ナゴヤではタイコーを頂点とした階層が明確にあり、それは軍事機構として理解できたのだが、現在の首都圏にそこまで強固な中枢はいない。にも拘らず各地の領主と民衆が、あまりにも従順に、かつ柔軟に、動いているように見えた。
すでに産まれているのだが、告知されるまで一切口に出してはいけない。それを誰もが心得ているかのような、そんな神秘的な空気だったのだ。私には初めての体験だった。
物資統制は、ずっと厳しい。
市場を見ればわかる。人口密度を考えたらマニラより大きな商売ができそうなものだが、流通量は少なく、物価は高く、活気も乏しい。
戦時下であることは考慮すべきだろう。娯楽の少ない日本では、それでも貴重な社交場だ。
我々は足繁く通い、情報を摂取し、友人をつくる努力を重ねる。仕事があれば手伝わせてもらい、余りものを恵んでもらう。
なにしろ、おカネがないからね。
一に愛嬌、二に愛嬌。
タイコーがミヤコへ戻ってくるという噂が流れる。
グランチナとの交渉を一旦まとめたら、出征中の部隊も順次帰国させるそうだ。治安維持も順調に進んでいるということか。だとするとSJの工作が相当に浸潤し効果を上げているということになるが。これまでの経緯を考えると、ありえない。
SJが日本の対外侵略にそこまで貢献し、タイコーを喜ばせているならば、追放令は解除されているはずだ。
オルガンティーノならずとも、日本SJでOFMの入国を歓迎する者はおるまい。タイコーからミヤコ知事へ命じさせて、速やかに我々を出国させる手段を講じるはず。
その動きはない。
グランチナがそう簡単に屈服するわけがない。これも大きな根拠だ。
フェリペナスはペヒンと何年も交渉を続けている。少なくとも日本人よりは、かれらの性格を知っている。
人間が蚊に刺されて、ごめんなさいと謝り家族の誰かを生贄に捧げたりするだろうか。それと同じくらい、ありえない。
天を覆うほどの大群に襲いかかられたとしても、逃げるだけだ。あれだけ広い大陸で追い詰められるわけはなく、日本の全人口が渡海したとしても、そんな大群にはなり得ない。
タイコーの下にもっと有能な戦略家がいて、そいつに指揮権を完全委譲して、タイコーだけ子供に会いに戻ってくる?
これならば理解はできる。それでも大陸の一部に橋頭堡を築いているのならば、それを維持するだけでも、日本兵を帰国させる余裕などないはずなのだ。
やはり、何かがおかしい。
9月19日。タイコー、オーサカへ凱旋。
地元では盛大な祝賀会が催されるが、タイコー自身は早々と城へ入って出てこなかった。
当然といえば当然すぎるか。そしてどうやら、大陸からの撤兵はかなり大規模に行われていることが確定情報となる。
SJに対して発せられた追放令に変化の兆しはない。
オルガンティーノはあいかわらずコソコソと潜伏を続けている。
以上のことから、ひとまず推論を下そう。
日本王タイコーは、きわめて甘い見通しのもとにエイジア全土侵略を目論み、出兵した。
92年春グランチナへ向けて軍勢数万を送りこみ、本人はシモ島ナゴヤで指揮を執る。
93年夏すなわち現在、息子が生まれたので、戦争をやめることにした。
世界は意外に広いのだとやっとわかってきていたところで、これ以上の軍事費は支出できないと、退き際を模索していたものと思われる。
グランチナが講和に応じたという噂は、大嘘だ。
そういうことにしないと格好がつかないと、側近の誰かが考えついたものだろう。
いまナゴヤでは、復員兵が大勢上陸して傷の手当を受けていると思われる。どれだけの犠牲を出したかが政権から発表されることはないだろう。
タイコーは二度とナゴヤへ行くことを欲しないと私は想像する。余生を、子供の成長だけを見守りながら過ごしたいとでも考えているんじゃないかと思う。
しかし、それは、ゆるされない。
日本は国際的大罪を犯した。グランチナはこれより報復を開始するだろう。かれらが海を渡ってくれば、日本などあっという間に呑みこまれる。武装化をとにかく嫌う人民だから軍事的解決は望まないかもしれないが、もし謝罪する機会を与えられたなら、感謝して全力で詫びることを薦めたい。
かれらも相当に怒っているはずだ。覚悟しておくべきだ。
それを、日本人の誰もが、心得ておく必要がある。
現政権は全国民にそれを周知する義務があり、その上で、謝罪をするべきだ。
今のところは第三国として、フェリペナスは両者の調停をすることが可能である。
日本とはまだ国交を開始していないけれどもその準備中だったし、ペヒンが了承してくれるなら、総督が裁判官をつとめる。
私たちはそこで証人として立つことになろう。私たちの見てきたままを報告し、この意見書を提出する。
なにが起きていたのか。
どこが間違っていたのか。
もちろん当事者双方の言い分を最初に聞くし、日本SJにも発言を求める。
量刑は、戦地で犠牲となった民間人が納得するだけのものを賠償させるのが原則だ。今回は一方的に日本が支払うことになるだろう。むごすぎない範囲の償いで納得してもらえればいいけどねえ。
諸君、どうだろうか。
まだ草稿ですらないが、思うところを述べてみた。
「二国間の戦後処理については、それでよいでしょう。日本SJに対しての制裁はどうなりますか」
それなんだよねえ。しっかり証拠を押さえておかないと、SJは我関セズを貫くだろう。
追放令を根拠に被害者面を振りかざす惧れさえある。我々の査察にすべてが懸かっていると強く意識せねばだ。
SJパードレはシモに固まっているから、主たる調査はフライ・バルトロメたちに期待することになるが、ミヤコでは元信徒からの証言を集めることでそれを補強したいね。
真偽はともかく、数を稼ごう。
各自、積極的に友人をつくって、SJへの愚痴を吐き出させてやってくれ。
数日後、ミヤコ知事より連絡を受け取る。
近日中にタイコーがミヤコ入りする。街道にて出迎えに加わること。王宮での謁見は、予約者が多すぎて捌ききれない状況だからしなくてよろしい。
はい、わかりました。
更に数日して、タイコーが大行列に伴われてやって来た。
我々の宿所前を通過すると聞いたので、頃合いを見て家の前まで出て、跪いて敬礼した。
タイコーは豪勢な輿の上から私に気付いて声をかけてきた。
あのときの乞食僧が、まだここに住んでいるのか、とか言っていたようである。
その翌々日だったか、役人が現れ、ミヤコの南部に邸を与えてやるから引っ越せという話になる。
遠慮すると反逆罪に問われる、などと脅されたので、お任せした。
ナゴヤでSJはOFMの悪評をさんざん振り撒いたようなのだが、ミヤコでの私たちの評判は、頗る良かった。
布教活動は一切しない。日本王に誓ったのだから。
と言い続けてきたことも過剰に伝わってしまったらしく、
SJへの追放令は継続するがOFMの布教は許可する。むしろSJの信徒たちを引き受け、かれらのやり場のない心の支えとなってやれ。
という、半ば命令のような形で免許状が発給される展開となった。
SJとの摩擦を増やしたくない我々としては有難迷惑でもあるのだが、断れない。
役人と一緒に南ミヤコまで行くと、ホーガン邸まるごとに匹敵する広さの邸宅が準備されていた。
もと寵臣の別荘だったが、敵前逃亡罪で処刑され、空き家となったものらしい。
ここを教会とせよ。との、これも半ば命令である。
とりあえずホーガン邸に別れを告げ、移り住む。
親しくなった日本人とも協議した結果、ここで病院を開設することにした。どこの信徒であろうがなかろうが問題にしない。体でも心でも、具合が悪いなと思った者は来たらよい。
薬草の処方に心得のあるゴンサーロ・ガルシーア先生を院長に、私が従僕をつとめる。
診療には実費をいただくが、寄付も大歓迎。
当面は人を雇う余裕がないので、ご近所さんたちの善意が頼りだ。
おかしな流れになったものだが、こうして私たちの諜報活動は、新たな段階へと進んだ。