戰國ぢあぼろす   作:ひねもす@HAMELN

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ニエッキは、日本語の習得に余念がない。

 

そのせいか、ポルトガル語への拒絶反応、ときによっては嫌悪感すら示すことが、ままある。

私がロレンソやトマスと話すときはポルトガル語がついつい出てしまうが、その瞬間、ニエッキの笑顔がひきつる。

すべて、カブラルのせいなのかな。

嫌な思い出が、しみついているのかな。

深く尋ねてみようとは、思わないけど。

 

そのぶん日本語への興味は尽きないようで、身振り手振りを交えながらでも、信徒と積極的に対話を試みる。

見よう見まねで、何でも、やってみようとする。

たちまち人気者になった。

コンヒサンをニエッキに求める信徒も多い。

ニエッキは、なんとか、応えようとする。

それでいいのだ。

コンヒサンなんて、信徒に愚痴を言いたいだけ言わせて、吐き出させてしまえば、解決するのがほとんどだから。

わかっちゃいるけど、私はついつい余計なお説教をしたがるクセがあるので、あまり、向いていない。

それをニエッキが引き受けてくれるなんて、最高なのだよね。

だから、甘えさせてもらおう。

 

 

そんな調子で平和な四旬節を迎え、復活祭もつつがなく終わった。

この間、多くの情報を集めることができた。

 

新しい信徒には、イコ宗のアシガルとして殺戮に手を染めた者が何人もいる。

かれらの切々たる悔悟と反省を、一言一句そのままに記述して、本にして出したいくらいだ。

今日はその実態を、語るとしよう。

 

信者は、自分たちの教団をイコ宗とは呼ばず、シン宗と呼ぶ。

シンとは真実・正当・唯一絶対の真理、などを意味する単語だ。

イコは、意地を張る・頑固者・一直線にしか進めない馬鹿、などを表す語意を含む。

シン宗信者を外側から見た蔑称だが、明らかにこちらの方が正鵠を得ている。

なのでここからも、私はイコ宗と呼ぶ。

 

フォトケの分派である。300年ほど前に独立した。

新しめの世代だ。なのでシャカではなくアミダを信奉する。どっちでもいいんだが。

特徴としては、反動的。

開祖シンランは、先輩たちのやることなすことを否定し、すべてにおいて真逆の生き方こそが正しい、と唱えたらしい。

肉を食ってよい。

結婚もしてよい。

伝統は葬り去れ。

単純であるほど良い。

テラに、坊主に、貢がずとも、人は極楽浄土へ辿りつくことができる。

ゴクラクジョードとは、私たちでいうパライゾに相当する。地上の生を終えたあとで迎えられる、安息の地だ。

残念ながら似ても似つかない紛いもので、天界までは上れないからテンジクあたりで落ちつこう、といったせせこましさに苦笑するしかないが。

それは日本人の限界というところで、見過ごしてあげよう。

 

シンランの反骨には、共感すべき点もなくはない。だが、所詮は反抗のための反抗をしているに過ぎない。

彼は、フォトケの根源的な誤謬に気付くまでには、至らなかった。

その上、300年も経つうちに、今度は彼ら自身が、旧態依然の硬直さから逃れられない邪魔者となり果てる。

妻帯が認められているから、代々、ダイリのような世襲の一族が頭領となる。世間知らずのお坊ちゃまが、いつまでもお山の大将で居続ける。

本物の王位継承者ならともかく、せいぜい300年ほどの歴史しか持たない、跳ねっ返りの末裔だ。

こいつらがカンガ国を乗っ取り、隣のエチュウ国まで手に入れて、すっかり自信をつけた。

これからは自分たちがダイリサマになろう、くらい考えているのじゃないか。

 

儀式を嫌うのも善し悪しだ。

まず行動。これが尊ばれる。

教練は軍隊式に行われ、無駄なく手際よく。いちいち考えていては叱責される。

そうして自分たちの王に号令をかけられるや、一心不乱で目的遂行に全力を尽くす。

イコ宗の本質は、ここにある。

直情的・盲信的な戦闘員をつくりあげることがただひとつの目的と化してしまったのだ。

 

かれらの中には、血まみれの手で掴んだ収穫を上官に差し出したあと、ふと我に返り、自分は何をしていたのだろうと冷静に考えることのできる者が、たまにいる。

もちろん監視の目は張り巡らされている。声は上げられない。

なんとかして逃げ出す。

ここで、他宗派のテラへ駆けこんでも、通報されるだけだ。

フォトケを崇める者同士は、結局つながり合っている。

有象無象の宗団は皆、末端信者の情報を交換し、取引に使うのだ。逃げ切れやしないのだよ。

だがこの蜘蛛の巣に属さない避難所が、1つだけある。

われら、デウスだ。

 

逃げこんできた彼らは、時間はかかるけれども、教えこまれていた正義に何一つ真実など含まれていなかったことを知る。

子供の頃から飼い殺し。命令ひとつで生命さえ投げ出させ、その富を根こそぎ奪いきる。そんな集団に属していたことを、思い知らされる。

かれらは、泣く。何日も、何週間も。

げっそりやつれながら悔い改め、全身全霊より、膿を絞り出す。

苦しい日々だ。だがイコの呪縛から抜け出すことができた者には、デウスの輝きが見える。

君は、もう、自由の身だ。

隣人を愛し、デウスに感謝し、これからはクリストに倣いて生きるのだ。

二度と道を踏み外しては、いけないよ。

 

 

ついでだからここで、全坊主に共通する、甚だしい悪習について触れよう。

 

イコ宗は、妻帯含め意外にも戒律は緩い方だが、それでも原則は女人禁制とされる。

それ以外の宗派も、形だけとはいえ自分たちは厳しい修練をしているのだからと禁欲を標榜し、表向きはあたかも聖職者であるかの如くに自分たちを飾り立てることを、常とする。

 

欲望に打ち克つ強さを顕示するなら、もっともわかりやすい対象は、性欲だ。

これとて、私たちにはごく当然のことなのだが。生来邪淫で欲望にまみれすぎている日本人にとって、性欲を抑えることは、相当に辛いことらしい。

そこで、これは色欲に属する、こちらは肉欲に該当する、などと細かな違いを制定し、こねくり回して抜け道を作り出す。

 

女を犯すことは罪である。しかし少年ならば、この限りではない。

触れなければ罪ではない。覗くだけにして、自分の手でしごくなら清廉である。

このような愚にもつかぬ修辞学を根拠として、自分たちは禁欲を貫徹したぞと胸を張り、免許を与えあって喜ぶ。

それでも我慢できなければ、尼僧を呼ぶ。あるいは、出向く。お互い秘密を共有することで利害は一致する間柄だ。

秩序は、維持される。

 

坊主どもの倫理観は、概ねこういった屁理屈に支えられて出来上がっている。

ばれてないと思っているようだが、市民は長年うんざりするほど見てきているので、自然に受け流す。

自分たちが育てられない子供を引き取ってもらうときには、邪な坊主たちの存在が、必要悪とされるからだ。

日本では、このようなしくみで社会が回っている。

 

 

ニエッキよ。

そんな日本人を好きになれるなんて、ありがたいよ。

私には、無理だ。

これからも、かれらの相手をしてやってくれ。

アーメン。

 

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