その記憶を思い出したのはいつだろうか。いや、思い出したというのは語弊がある。その記憶はいつの間にか気づいた時にはそこにあった。とある漫画の記憶。私の人格に何の影響も及ぼさずに、それはただ頭の中にあった。
暇だった幼い私は頭の中でページを捲り読んだものだ。何よりも衝撃だったのはその漫画の中でやられ役だった禪院直哉という、あっさりと夢を果たせず死んだ私と同じ名前のキャラ。
許せるはずもない話だ。私は憤った。なんでこの甚爾くんのニセモン女が勝って禪院直哉が負けるのだと。漫画を読んでいて禪院真希は嫌いだが、禪院直哉は嫌いじゃない。むしろ好きだ、好感を持っているとさえ言える。私は境遇も性格も自分と似ているこのキャラに感情移入していた。本当にあまりにも私に似ていたのだ。漫画の直哉とのたったひとつの違いは、漫画の直哉は男だったが私は女だったという点だ。男尊女卑の思想には渋い顔をしたがそれ以外は正直、名前も生まれも性格も全く同じように思えた。その夢も、強さへの執着も、全部全部見覚えがあった。どれもしっくりと馴染み腹の底で燻る。もう認めるしかなかった。頭の中にあったこの漫画は事実でこれから起こることなのだ。
そして、この男が本来私の立ち位置にいる、私が男だった場合の禪院直哉なのだ。
私はその記憶を誰にも言わずに私のためだけに利用することに決めた。私はあいにくだが人を救うことになど何の興味もない。原作キャラも名前の無い非術師達も、何人死のうが心底どうでもいい。私は私の人生好きなように生きる。好きなように強さを追い求め、そして強く、強く甚爾くんみたいに強くなってから死ぬ。間違っても漫画の直哉みたいに志し半ばで死に絶えるようなことにはならない。女は特別が好きで男は一番が好きだというが、私も女の身でありながら一番が好きだ。獲るなら絶対に一位だ。甚爾くんも五条悟もねじ伏せて私が頂点に立ってやる。女だからってなんだ、強さを追い求めないことなんて、私が私に生まれてきたからにはできない相談だ。何もしない上を目指さない人生なんて、ただ生きているだけの命なんて、穏やかな死と同じ。
────そんなくだらん人生はごめんや。
私は何と言おうと強者を目指してひた走る。漫画にのっていたキャラも主人公も最強も、蹴り飛ばして、踏み台にして、原作なんて気にせず好きなように生きる。そうと決めたら甚爾くんだ。かっこよくて強い甚爾くん。早く
そしてその日は来た。
のっそりと背中を丸めて歩くそのシルエット。ハッと息を呑む。目を見開いて、もうその姿しか目に入らない。淀んだ目をしたその男を一目見ただけで私はその圧倒的な存在感に痺れ切った。とても猿だなんて呼べる男じゃない。
背筋が痺れて、腹の底が熱くなり、心臓が凄まじい勢いで跳ね回る。涙も出てきた。
間違いないこの人だ。この人が甚爾くん。最強の天与呪縛。天与呪縛という概念の化身ですらある男。
────直哉の、私の目指す強さの象徴!!
その日、私は真の意味で理解したのだと思う。
この人生の意味を。捧げる情熱を。目指す先の人を。
立ちたいと思った。この人と同じ場所へ。立てるだろうか、たとえどんなに鍛錬を積み重ねたとしても、その域にたどり着けるかどうか分からない壁があの人と私の間には広がっている。でもこれだけはわかる。私は生涯追い続けるのだ、この背中を。
きっと私は禪院甚爾に魂を奪われた。
「甚爾くん、稽古つけてや!」
甚爾くんの足にしがみついた私は目一杯可愛こぶって叫んだ。甚爾くんを初めて見かけた運命のあの日から私は甚爾くんにウザいくらい纏わりついていた。まだこの時は着物姿の青年の甚爾くんが私を黙って見下ろす。今まで黙り込んで私を徹底的に無視していた甚爾くんだったが、初めて口を開いた。
「……お前何企んでる」
「企んでるってひどいやんか。私は甚爾くんが好きなだけやのにー!!」
第一声がそれって人間不信にもほどがあるが、私は初めて甚爾くんと会話が成立したことが嬉しくてニマニマした。甚爾くんは不可解なものを見たように瞬きした。
「何で俺なんだよ……いるだろもっと他に」
「おらん!!甚爾くんより強い奴なんてこの家におらんもん!」
私には至極当たり前のことだったが、甚爾くんには違うみたいだった。余計に不可解そうに眉を顰めてしまった。私は誰よりも甚爾くんの凄さを甚爾くんに知って欲しくて必死に言い募った。
「私は甚爾くんを初めて見た時から甚爾くんの強さに惚れ込んどる。この家でいっちゃん強くてかっこいいのは甚爾くんや!!この家の奴らは見る目のないボンクラどもや!何で甚爾くんがこんなに強いのがわからんのや!!一目見たら別格やってことくらい分かるやろ!!」
私は言ってるうちに悔しくなってその場で地団駄を踏んで叫ぶ。甚爾くんは驚いて目を大きくさせていた。
私は自分の審美眼を信頼している。この家の誰がなんと言おうとこの私自身が見つけた禪院甚爾がこの世界で一番価値があるのだ。一番美しくてかっこよくて誰にも手懐けられない獣のような男。漫画の直哉の気持ちが痛いほど分かった。私の憧れだ、いっそ恋の方がまともなほどに狂わされている。
「分かった、分かった。落ち着けよ」
悔しさのあまり涙まで出てきた。さらに私の頭をそっと慣れない手つきで撫でる甚爾くんに、また涙が溢れ出てくる。
「何で泣くんだよ」
私は慌てて涙をゴシゴシ拭う。涙は弱さの象徴だ、泣くこと自体が罪なのだ。それなのに感情が昂って泣いてしまうとは我ながら情けない。
私は引っ込めてしまった甚爾の手を掴んで自分の頭の上に押し付け、無言でもっと撫でろと催促した。甚爾くんは困ったようにまた私の頭をぐしゃぐしゃと撫で出した。
「だって、甚爾くんは私のことなんか嫌いやと」
「はあ?」
私はこれでもお嬢様だ。現禪院家当主の娘。甚爾くんを虐げている奴らのトップの娘だ。
しかも女だから術式の持ち腐れと言われているが一応相伝術式を持っている。パパと同じやつ。十分甚爾くんの嫌う恵まれた奴に入ると思う。
「別に嫌ってはねえよ」
無関心に近かったということか。まあそれは別に構わないのだ。甚爾くんが今の私を見てくれるのであれば。
地面を蹴り、一瞬で距離を詰め、回し蹴りを放つも足首を掴まれ投げられる。空中で体制を整え着地し、拳を構え、踏み込む。攻撃の威力は重さと速さ。女だから重さは足りないとはいえ、速さは私に敵うものはいない。まあ、甚爾くん以外は、やけど。急所を狙って振り抜くも、しかし簡単に見切られ、全て片手で抑えられている。息も切らしていない。流石やな。手首を掴まれ、また投げられて、今度こそ私は尻餅をついて甚爾くんを見上げた。無感動な瞳が私をじっと見ている。思わず私は破顔した。
「やっぱ、甚爾くん強いなぁ!」
何度ボコボコにされても、甚爾くんの強さをこうして実感できるのが心底嬉しくてニコニコしてしまう。そんな私を甚爾くんは呆れたような目で見ていた。
◇
甚爾くんは原作通り家の奴らをぶん殴って、武器庫の呪具を掻っ攫うとこの家を出て行った。驚きはなかった。いつかそうなるだろうとは思っていた。私程度なんの心残りにもならないだろうし、何より私は甚爾くんをここに縛りつける気がなかった。甚爾くんには自由が似合う。こんなところで燻っていていい人間じゃないのだ。
双子が生まれた。禪院真希。禪院を滅ぼし、直哉が心の底から憧れたフィジカルギフテッドになった女。直哉を倒す女。
正直殺すことも一瞬考えた。今のうちに殺しといたほうがいいんじゃないか、と。”私”はまだ一度も負けてないし、負けるつもりも毛頭ないが念の為ということもある。策を講じるのは、当たり前のことだって甚爾くんも言ってたしな。
しかし、考えに考え抜いた結果、赤子のうちに殺すのはやめとくことにした。そんな小細工をしなくても私は強者になると決めている。
見てろや。絶対に、実力で勝ったるわ。