直哉成り代わり♀が野望の果てを目指す   作:一夏 茜

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 寂れたアパートの錆びついた階段をカンカンと足音を響かせ登る。重たいビニール袋を握った左手が汗ばみ気持ち悪い。薄そうな扉が並ぶ中、空いた右手に握りしめた紙に書いてある目的の番号の扉の前にやってきて、立ち止まった。

 口の中が妙に渇き、唾を飲み込む。この扉の中に、私が憧れ焦がれ続けた甚爾くんがいる。あんなに甚爾くんと会うことが楽しみで仕方なかったのに、今はどんな顔をすればいいのか分からなかった。会えて心の底から嬉しいという顔は今の甚爾くんには見せられない。

 ────奥さんを失って絶望の淵にいるであろう甚爾くんには。

 

 ◇

 

 最後に甚爾くんを見たのは、私が東京に上がる前。甚爾くんが出奔した後も、私は甚爾くんの行方をあらゆる手を使って調べ尽くし、見守っていたのだが……ある情報を耳にした私はあり金全部かき集めて新幹線に飛び乗った。甚爾くんがパタリと裏の仕事を辞めたのだ。予想していたことだった。理由なんて一つしかない。頭の中の漫画を読む前ならいざ知らず、今の私には分かる。甚爾くんが変わった理由が。────恵の母親だ。それしかない。

 飛び乗った新幹線の中、頬杖をついて流星のように流れる景色を眺めた。動揺の中、考えていたのはもちろん甚爾くんのことだった。甚爾くんが非術師の女に肩入れすることぐらい漫画を読んだ私は知っていた。非術師なんて何がいいのかさっぱり分からないが、あんなに昏い目をしていた甚爾くんが幸せになったのだ。喜ばしいことだ。

 私は顔も知らない非術師の隣で甚爾くんが心の底から幸せそうに笑うところを想像して、私は自然と唇を噛んだ。

 

 ────は? 唇を噛む? んなアホな。なんで私はこんなモヤついた胸糞悪い感情に浸ってるんや。

 

 誰よりも喜ぶべきだ。誰よりも甚爾くんの幸せを私は祈っていたはずだ。それなのに、素直に喜べない自分が、いた。

 それに気づいて愕然とした。

 憧れだったはずだ。キラキラとしたこの世の何よりも尊い感情だったはずなのだ。ありふれたどこにでもあるような安っぽい恋慕なんかじゃない。私にとって、直哉にとって、何よりも鮮明に鮮烈に、脳裏に焼き付いた一等の尊い憧れ。これは純粋な、思慕だったのだ。それを私は……あの、美しく強い、誰よりも価値のある男を……よりによって自分のものにできるとでも思っていたのか。

 

 「ハハ、アホちゃうか……ほんま、我ながらなっさけな」

 

 愚かの極み。ただその一言に尽きる。

 私は目元に手をやり、込み上げる嘲笑を噛み殺した。最初は純粋な、憧れだったはずだ。真っ白なシーツに一点の染みができるように、自分が気づかないうちに、間違いなくそれは侵蝕していた。

 胸が焦がれるほど憧れていた人が異性で、絶世の色男。同じ立場ならそりゃ大抵の女は惚れるだろう。だって甚爾くんやで? どんな女だって、骨抜きになっても不思議じゃない。

 

 しかし、当然のように私は別だと思っていた。

 その他大勢の女と私は違う。私は、意志の弱い恋愛脳のバカ女なんかじゃない、はずだった。

 

 アホくさ。馬鹿馬鹿しくて、でも煮えたぎった憤りが腹の中を燻る。許せるはずもない。己だろうと、いや己だからこそ。誰にだろうと自信を持って私の憧れだと胸を張って言えていた私の原点が、他でもない私自身に汚されたのだ。自己嫌悪なんて直哉らしくもない。最悪の気分だ。

 

 私は生まれて初めてその時、己が女であることを呪った。

 大体、なぜ今更気づくのだ。どうせなら一生気付かないままでいさせてくれればいいものを。

 

 「グズが。私は速さが取り柄のはずやろうが…………遅すぎんねん」

 

 恋だ愛だのに、私は振り回される訳が無いと思っていた。そんな不純物は私が究極の強さを求める邪魔にしかならないのに。

 

 

 ……そうして、あの時も今と同じように住所が書かれた紙だけ持って私は甚爾くんのところを訪ねた。寂れたアパートだった。私はすっかり甚爾くんに会う勇気を無くして、行ったり来たりウロウロしながら遠目からそのアパートを見ていた。我ながら情けなくて涙が出てくる。

 その時だ、一組の男女がアパートにやってきたのは。その男の横顔を目にした私は思わず声を上げる。

 

 「甚爾く、」

 

 言葉の最後が萎んで立ち消える。私は瞠目してその場に立ち尽くした。

 何度も見た強者のシルエットだ。毎日のように追いかけたかつての日々。その男は私が心底憧れて胸を焦がした禪院甚爾だったはずだ。

 ────知らへん、そんな顔。

 私が憧れ追いかけていた彼には溢れるほどの野趣があった。懐いていない野生の猛獣を檻の中に無理やり押し込めたみたいな、そういう鬱屈とした野趣が彼にはあった。今の彼はすっかりとその野趣はなりを潜めている。いつも気だるげな目は伏せられ、ぶっきらぼうな声の中に滲み出る甘さ。その手にはスーパーの白いビニール袋があった。腹の膨れた女を何より大切そうに、眩しそうに見つめ、支えて階段を上がっている。その深い緑色の瞳は何より雄弁に心の内を語っている。

 かつて何度も追いかけたその背中を私は声も出せずに見つめることしかできなかった。

 

 知らへん、甚爾くんや。私には見せてくれないかった、甚爾くんの一面。私では引き出せない、いや引き出そうと思うことすら烏滸がましい。甚爾くんの心に触れることが許された人。甚爾くんの人生に関われる人。私が呆然としている間に二人はアパートの一室に入って行った。

 

 「……同じ土俵にすら立ててへん、か」

 

 完敗だ、勝負にすらならない。私は口端を歪めて不恰好に笑うと、背を向けて歩き出した。

 

 それから私はそれまで使う機会がなく貯まる一方だった金を使って、子飼いの術師を雇い遠くから甚爾くんと奥さんの護衛につけた。甚爾くんがまた術師殺しに復帰するのは、きっと奥さんが死んでから。なんで奥さんが死ぬのか分からないが、ずっと守っていれば防げる機会もあるかもしれない。それに、甚爾くんも四六時中監視の目があったら警戒するやろ。一石二鳥や。

 

 恵くんが生まれたと聞いた。私はすぐに大金を甚爾くんの口座に振り込んだ。

 高専に入学し、任務に明け暮れていてしばらくした頃、奥さんが倒れたと情報が入った。彼女は末期がんらしい。治療方法がもう残されていない、もしくは通常のがん治療では体力を奪って死期を近づけてしまう……のだと。私はそれを聞いた時、目を見開いて愕然とした。私の手が届かない彼女の死因は交通事故か病気ぐらいだろうと思っていたが、こんなにも非術師は弱いものなのか。これは……全てを救おうとすれば己が壊れるわけだ。

 

 そして三日前、彼女が死んだ。

 

 

 

 

 インターホンのチャイムを鳴らすがでない。しつこく何度も連打するが出てくる気配はなく、扉の向こうは静まり返っている。

 

 「居留守かいな……あ、」

 

 試しにドアノブに手をかけ回すと扉は簡単に開いた。

 

 「甚爾くーん? 入るで?」

 

 中は薄暗い。カーテンが閉めきられ、部屋には明かりが一切入っていない。その暗い居間で、呆然と立ち尽くしているその人。私は思わず声を溢した。

 

 「甚爾くん……」

 

 絶望。それがその瞳にまざまざと映る感情だった。……私が知っている甚爾くんだ。仄かに昏い。あの頃も、いつものっそりと背を丸めて、窮屈そうにつまんなそうに生きていた。甚爾くんはゆっくりとこちらに視線を流す。

 

 「お前……何しにきた」

 

 「何って、甚爾くんの顔が見たくて……久しぶりやね、覚えててくれたんや! あ、ほら見て、東京の高専に入ったんよ」

 

 どさりと持っていたビニール袋を床に置いて、制服を見せつけるようにくるりと回ってみせると、スカートがふわりとはためいた。甚爾くんは相変わらず温度のない目でこちらをじっと見ている。私はニコッと甚爾くんに笑いかけると、テキパキとビニール袋から食材を出し、勝手にキッチンに入ると備え付けられた小さな冷蔵庫に入れた。甚爾くんは止めようともせずにただ私の動向をじっと見ている。

 キッチンの流し場で手を洗った。料理なんてしたことないけど……まあレシピ本通りにやればうまくいくやろ。

 数十分後。テーブルの上には卵がぐちゃぐちゃになった、かろうじてオムライスと分かる食べ物が二人分置かれていた。

 

 「失敗してもた……無理して食べんくてもええで。あ、離乳食も作ってみたんよ」

 

 居間のベビーベットで横たわっていた赤ん坊の脇を持ってそっと抱き上げる。ツンツン頭で頬をつつくとフニフニしていた。勝手に知らない奴に抱き上げられて泣くかと思ったら、何が面白いのかきゃらきゃらと笑い出した。私は呆気に取られてまじまじと見つめる。将来私に命を狙われるかもしれんことも知らずに何がおもろいねん。ったく……。

 

 「名前なんていうん?」

 「……恵」

 「恵くんか……いい名前やね。甚爾くんの想いが伝わってくるわ」

 

 私が恵くんをベビー椅子に座らせると、離乳食を食べさせ始めた。それを甚爾くんは静かでいてそしてずっと薄昏い目でじっと見ていた。

 それから私は、毎日甚爾くんちに行った。どうせ甚爾くんは恵くんの面倒を見る人を必要としてる。そのために非術師の適当な女を引っ掛けるんやったら、私でもいいやろ。家事なんかしたことないしするつもりもなかった。家の女たちが家事を学んでいる間、直哉()は強さを求めた。ただ強くなるためにひた走ってきた。でも、甚爾くんのためなら飯炊き女の真似事だってやってみせる。それに、家の女たちに出来るんやったら私にだって出来るはずや。

 ◇

 

 「お邪魔するでー」

 

 私はうっすい扉を開けると食材が入ったビニール袋をどさりと置いて、汗を拭った。居間から恵くんの泣き声が聞こえてくる。

 

 「はいはい、恵くんも元気やなー」

 

 恵くんのおしめを変えるのも慣れたものだ。……正直恵くんに対して、忌々しい気持ちはある。漫画では直哉が必死こいて追ってきた禪院家当主の座を横から掻っ攫った男や。いい術式持ってるからって何やねん。本人が使いこなせてないんやったらなんの意味もないガラクタやろうが。いい術式持ってるのに当の本人が弱い奴って……見ててイラつくわ。

 

 ────誰が何と言おうと、当主は直哉()の席や。

 

 真希ちゃんでも恵くんのものでもない。でもま、そんな未来は私がいる限りやってこないんやから今はええわ。恵くんだって、甚爾くんが元気になるんやったらいくらでも面倒みたる。

 でもこの借りは絶対返してもらうで。そうやな……恵くんが大きくなったら、私がおしめ変えてあげたんやでっていじったろ。嫌な顔するやろなー楽しみやわ。私は棒立ちの甚爾くんを通り過ぎて食材を持ちながらキッチンに入った。腕まくりをして手を洗う。

 

 「今日はリベンジや。絶対完璧なオムライスを作ってみせるで」

 

 甚爾くんは物言いたげに私を見つめていた。

 

 「……お前、何だよ」 

 「何って……なんやの」

 

 私は首を傾げて甚爾くんの顔を見た。何をやっても無感情だった甚爾くんの顔に微かに何らかの感情が浮かんでいる。不可解そうに甚爾くんは吐き捨てる。

 

 「何年も遠回りに非術師なんて使って監視したり、かと思えば何をとち狂ったのか術師を護衛なんかにつけやがったり」

 「ハハ、やっぱバレてた?」

 

 まあ、別に甚爾くんに捕まっても絶対に目的は吐くなとは言ってなかったし別にかまへんけど。

 

 「……あいつが死んでから、このタイミングで姿を現したお前の目的は、なんだって聞いてんだよ」

 

 甚爾くんは鋭い切れ長の目を流すように、どうでもよさそうに……でも目を逸らさず私を見ていた。

 これは、何か疑われてるんか? 心外やな……。

 私は頬を掻くと、眉を下げて視線を逸らし言葉をこぼす。

 

 「私はな……甚爾くんが幸せならそれでよかったんよ」

 

 本当だった。私はあの家で唯一甚爾くんの幸せを一心に願っていたと思う。甚爾くんが幸せなら、甚爾くんが笑っていられるのなら、私はどんな理不尽も跳ね除けて笑ってみせる。────あの日みたように、甚爾くんが心の底から愛おしいという目をして……奥さんの隣で生きて行けるのなら。

 私はあの家で、一人ぼっちでも立っていられるだろう。甚爾くんの姿を胸の内にしまいながら、薄笑いを浮かべ、あの家の(ポンコツ)どもとも渡り合っていける。

 でも……甚爾くんはきっと一人では幸せになれん人や。

 

 甚爾くんは私が初めて出会った時から孤独な人だった。しかし幼い私には、甚爾くんの背中は誰より自由で、縛られるものなんて何もないように思えた。自由と孤独はまさしくコインの裏表だ。甚爾くんの生き方は何とも不器用で寂しいものだったが、凍えるような孤独の代わりに、そこには確かに自由があった。

 きっと直哉()は、甚爾くんのそんなところにも惹かれた。そうしてきらきらと輝く( くら)さ。仄かにうつくしい一等の星に、手を伸ばした。

 

 でもな、それじゃああかんのや。

 

 あの時、私は奥さんの隣にいる甚爾くんを見て初めて理解した。それじゃあダメなんや。孤独なままの甚爾くんじゃ、甚爾くんは楽しく生きられへん。そんなの絶対にあかんわ。

 

 

 「甚爾くんは、私の憧れや。心の底から尊敬してて、私の原点。それはこれから先、何が起こっても変わらん」

 「……」

 

 私に決して消えることのない火をつけた男。私に、この人生の道を示した人。私は、この男に骨の髄まで魅せられている。あえて趣味じゃないクサイ表現をするならば、甚爾くんを追い続けることが私にとっての幸せで、全てだ。この男を見た瞬間、一目で私は魂を奪われ、この人生を狂わされた。改めてとんでもない男や。

 

 

 「甚爾くんという男はな、あの家のポンコツどもが何を言おうと、私が大好きで、そして誰よりもこの世の中で一番幸せになってほしい人なんよ」

 

 

 私は甚爾くんをまっすぐ射抜いて言葉を紡ぐ。甚爾くんの瞳の中、頬を紅潮させ必死に言葉を募る私が写っていた。この熱はきっと甚爾くんに届かへん。それでもいい、今は。

 

 甚爾くんの力になりたい。私の心にあるのはそれだけだった。

 

 

 「でも私はきっと甚爾くんが生きるための光にはなれへん」

 

 

 ピクッと甚爾くんの片眉が動く。

 そうだ。それが現実。漫画の直哉だって甚爾くんへの感情はどこまでも一方的なものだった。甚爾くんはきっと直哉()のことなんてきっと今の今まで忘れていたんだろう。その程度の存在なのだ、甚爾くんにとって私は。私は甚爾くんが術師殺しとしての生き方を改めるきっかけにも、甚爾くんが人間らしい生き方をしようと思えるような心の支えにもなれない。 

 私が甚爾くんを幸せに……なんて、脳みそお花畑の奴が言うおとぎの国の話や。

 

 

 「だからな、」

 

 

 甚爾くんの瞳の中の私が頬を綻ばせて、何の曇りもない笑顔で笑う。甚爾くんの目がゆっくりと見開かれた。

 

 

 

 「甚爾くんの奥さん()がいない、甚爾くんにとっては等しく価値のないだろうこの世界を……でも、恵くんがいる、この世界を

 

 

 

 ────生きようと思えるまで、支えるぐらいはしたいんよ」

 

 

 

 そう、甚爾くんにとっての”全て”である奥さんが死んでしまった今。

 マトモな人間として生きる意味も無くなってしまった今。

 今の、赤ん坊である恵くんじゃ、まだ甚爾くんを引き止める重し()にはなれない。だから、せめて恵くんが成長して、今よりももっと情が湧くまで。私が、甚爾くんのストッパーになろうと思う。なれるか分からんけど……やるしかないんや。

 目標は甚爾くんが死ぬのが惜しいな、とちょっとでも思えるようになるまでや。そうして、人生を捨てようと思った時にふと思い出すくらいの重しが、増えたら……。

 

 この世界は残酷で、理不尽や。でも────それでも甚爾くんには生きてて欲しい。これは私のエゴや。

 

 

 

 私は甚爾くんを見上げるように笑いかけた。

 

 

 

 

 「それまで、甚爾くんの思うように利用してくれたら嬉しいわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ハ、お前……バカだろ」

 

 

 

 

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