「オイ」
唐突に肩を掴まれた直哉は振り向いた。そこにいたのはラウンド型の真っ黒いサングラスをかけ、棒付きの飴を口の中でカラコロと音を立てて転がす五条だ。長い足を広げて直哉の後ろに突っ立っている。思わず直哉は片眉をあげて尋ねた。
「何やの、悟くん」
五条は無言で飴の棒を長い指先で摘み上げると、少しの沈黙の後口を開いた。
「あのさ……お前どうせ今日も自主練だろ。あのマゾみてえに自分を痛めつけるだけのキショい鍛錬なんかやっても無駄なんだよ」
「悟くん、今は」
「でもま、今日は暇だから俺が相手してやるよ」
美しい青がジロリと直哉を睨め付ける。どうだ、嬉しいだろ。泣いて喜べとでも言いたげな顔だ。直哉は突然の流れるような罵倒からの鍛錬の誘いに目を丸くした。しかし確かに、それは直哉にとって喉から手が出るほど欲しい言葉だった。そう、本来であれば。
「堪忍な、今日用事あるんよ。また今度誘ってや」
ぽかんと口を開いて硬直した五条から背を向けると、直哉は時計を気にしながら早足で歩き出した。五条はその背中を呆然と眺める。
「直哉が鍛錬を断るなんて……明日の天気は槍が降るかもしれないね」
一部始終を眺めていた夏油は、五条に歩み寄った。まじまじと直哉の行った方向に視線を送りながら呟く。タバコを咥えた家入は壁に取り掛かったまま冷静な面持ちだ。
「まあ、最近毎日のように直哉はどこかに出かけてるみたいだな。……男でもできたんじゃないか?」
最後のセリフには半笑いでしっかり五条を煽るのも忘れない。その言葉に五条は咥えていた飴をガリっと噛み砕いた。
「……はあ? あの直哉だぞ? あんな性格悪い女に惚れるやつがいるかよ」
「わからないよ。現に一人いるし」
意味深に五条に視線を送る夏油。五条はくわっと目を見開くと怒鳴った。
「誰だよ!! そいつは!!」
「ふふ、さあ誰だろうね」
少し静かになり、じっと直哉が去った後を睨め付けていた五条はボソリと言葉を放った。
「……つけてみようぜ」
「マジで言ってる?」
家入はドン引きしたように言う。夏油も顔を歪め、首を横に振った。それに五条は不貞腐れたような声で言った。
「何だよ、お前らだって気になるだろ」
「私はパス」
「……じゃ、そこで待ってろよ。俺はクソ野郎の面を拝みに行く」
五条は吐き捨てると背を向け直哉の後を追いかける。
「ちょっと、悟! まだ決まったわけじゃ……私、ちょっと追いかけてくるよ。もし本当にデート中だったとして修羅場になったら流石に直哉に申し訳ない」
完全に頭に血が上った五条が相手の男に殴りかかるところを想像して、夏油は顔を青ざめさせ背を向けて走っていった。家入は気だるげにニコチンを吸い込むと、ゆっくりを煙を吐く。
「まあ、夏油が思うようなことにはならないと思うけど」
ポツリと誰に言うでもなく家入は言葉を漏らす。”あの直哉”が自分より弱い男に惚れるわけがないことを家入は知っていた。直哉が心酔している男といえば一人の名前しか思い浮かばない。
「トウジくん、ね……」
◇
「あいつこんなところで何やってんだよ……」
五条と夏油はどこにでもあるようなスーパーの入り口を凝視し、刑事さながら張り込みしていた。……そう、直哉が真っ先に入っていったのはスーパーだった。
夏油は言葉を溢す。
「……直哉って意外と庶民派なのかな」
「そんなわけねえだろ、あの直哉だぞ。しかも、あれでも箱入り娘だから下界からしっかり隔離されて育ったはずだ」
「下界って……」
「禪院からしたら下界なんだよ、非術師が暮らすような世界は」
五条は睨むようにスーパーの出口に視線を送りながら吐き捨てる。
その時。スーパーの自動扉が開いて、大量にモノが入ったビニール袋を下げた直哉が出てきた。
「出てきたね。普通に買い物してたみたいだ」
その時、幼児を腕に座らせるように抱えた筋骨隆々の大柄な男が直哉に近づくのが見えた。五条と夏油に緊張が走る。とてもじゃないがその男は堅気には見えない男だった。幼児を抱えているのもあまりにも彼の風貌にチグハグで、すわ誘拐かと考えそうになるが、その幼児の顔を見れば血縁関係にあるのがはっきりとわかる。その男が歩み寄るのを見て、直哉はパアッと顔を綻ばせて駆け寄った。男はいくつか直哉と言葉を返したあと、直哉のビニール袋を空いた手で持った。そうして直哉と男は並んで歩き出す。直哉は眉を下げて、弾けるような笑顔を浮かべている。
五条は額に皺を寄せると目を見開き唸るように怒鳴った。
「はあ!? ッ何だよあいつ!!」
怒りのあまり顔がうっすらと紅潮している。夏油は五条が取り乱すのも無理ないと思った。
側から見た限りではまるで、
……まるで家族のように見えたのだから。
◇
「直哉」
背後から声をかけられて、振り向くと恵くんを腕に座らせるように抱えた甚爾くんがいた。パッと顔を綻ばせて駆け寄ると、甚爾くんは耳をほじりながら言った。
「こいつが腹へったってさ」
「そうなんや。すぐ帰って作るわ」
恵くんはキョトりとした顔でこちらを見ている。そうして甚爾くんは「貸せよ」と自然とビニール袋を代わりに持ってくれた。流れるように荷物を奪われたことに私は、一瞬目を丸くしてしまったがすぐに理解が追いつき甚爾くんに抗議した。
「甚爾くん! 自分で持てるで、これくらい」
むしろこんなもんでへばっているようだったら、鍛え直さなきゃならないだろう。甚爾くんをも超える強者になるのにこんなんで泣き言なんて言えない。真剣に言葉を放つと甚爾くんは呆れたように目を細めて、息を吐いた。
「お前なあ、そのままお前に持たしてたら来た意味ねえだろうが。それにどうせ俺たちのだろ、入ってるもんは」
「そうやけど……」
「イイ女になりたきゃこう言うもんは黙って受け取っとっとけ」
「……分かったわ。おおきに甚爾くん」
「ん」
これは女扱いだったのか。と納得しつつもどこかこそばゆい気持ちだった。もちろん、私はそこらの弱者とは違う。強者を目指している一人の女として、守られるような女になるのは御免だと思っている。他のやつに女扱いされればきっと己のプライドから我慢ならないだろうが、甚爾くんが優しくしてくれるのは不思議と胸があったかくなる心地がした。今だけでも甚爾くんの隣を歩かしてくれるのを認めてくれたのだと思えば、自然とこの女扱いも誇らしい。きっと私が女じゃければ、漫画の直哉であれば、ここまで優しくしてもらえなかったのだろう。
アパートに戻り、さあ料理しようと腕を捲ると玄関のチャイムがなった。私は首を傾げて扉の方を見た。
「誰やろね」
チャイム音は段々激しくなってく。訪問者はチャイムを連打し、騒々しく扉を叩き、ガチャガチャとドアノブを回す。思わず私は白けた顔で甚爾くんの顔を見た。
「まさか……借金があるんやないやろな」
「ねーよ。俺よりお前の客だろ」
椅子に行儀悪く腰掛け、テーブルに肘をついて気だるく頭を支える甚爾くんは興味なさそうだったが、何か確信があるみたいだった。はて、と片眉をあげ考え込んだその時、聞き覚えのある声が響いた。
「直哉!! てめーふざけんな!! 今すぐ出てこい!!! オラ、クソ男もだよ!!! 直哉、聞こえてんだろ!! ッ今出てきたら許してやるから!!」
「直哉、君がその歳にして一児の母だったなんて……!! 打ち明けてくれても……いや今はいい。もちろん誰にも言うつもりはないから出てきてくれ!!」
思わず甚爾くんの顔を見る。甚爾くんは「ほらな」と言いたげにくいと眉を上げた。
「……アホくさ」
呆れて肩をすくめる。そうして玄関まで歩いていって、扉を開けた。