【下ネタ注意】
オリ主。ピクシブにも投稿しています。(過去作)
日菜が会長だったときの話です。


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羽沢つぐみの「喘ぎ声」

 

 羽沢先輩の喘ぎ声が聞こえたのは、生徒会室の扉を開け、身体を室内に滑り込ませようとしたまさにその時だった。私の入室を拒まんとばかりに、羽沢先輩の猥褻な音声が突然殴り掛かってきたのである。

 

 すんでのところで扉を開ける手を止め致命傷を避け得たのは、意志力というよりもむしろ脊髄反射に近かった。熱いものに触れたときにとっさに手を引いてしまうとか、目の前にボールが飛んできたときに思わず目をつぶってしまうとか、その手の類の、動物が生来持つ危機回避能力が咄嗟に私の身を守ったのである。

 

 そして、これもまた無意識が強いたことなのだが、私は、首を伸ばして周囲を警戒する草食動物のように、素早く左右に首を振って、今自分が立っている廊下をぐるりと見回した。

 

 ……幸いにも辺りに人の気配はなく、あの声を聞いたのはどうやら私だけのようである。

 

(ところで、今の羽沢先輩の声を他の誰かが聞いていたとして、何が問題なんだ?)

 

 冷静になった思考が現状を再計算すると、至極真っ当な疑問が口元までのぼってきた。何が何やら分らぬまま扉を開けるのを踏みとどまったが、はて、今何かやましいことがあっただろうか?

 

 つい先ほど聞いたはずの羽沢先輩の喘ぎ声は、記憶の中で、すでにどろどろとした曖昧模糊なものに変化していた。どんな感じの声だったっけ? 喘ぎ声と言うと何か仰々しい響きを持っているが、実際には「きゃっ」位だったような気もする。押すとビリビリするペンを、それと知りながら押す女子からよく聞かれる声だ。別になんてことはない。女子高なんぞでは聞かぬ日の方が珍しい。

 

 そもそも、私の記憶に反してよほどエロチックな声が室内から聞こえたのだとしても、ここはラブホテルではなく羽丘女子学園生徒会室なのである。声の主は、羽沢先輩なのである。そこに卑猥な影絵を見出すのは、いささか失礼な考えだと言わざるを得ない。

 

 そうだ。よくよく考えてみれば、やましいことなど何もなかった。生徒会室に入ろうとして二の足を踏んだのも、ただ驚いて硬直してしまっただけの話だ。他意はない。何をためらっているんだか、早く中に入ろう。気を取り直して、扉を開けるために再度取っ手に手をかける。

 

 だが、そんな私を嘲笑うかの如く、生徒会室から第二の魔の手が忍び寄っていたのだ。

 

「──ひゃっ!? 日菜先輩っ……、ダメです……!」

 

 扉を開けようとした私の手は再び固まった。その声は明らかに日常で耳にするような響きではなかった。今度は聞き間違いようもない。羽沢先輩の悩ましい吐息が、ハイレゾ音源さながらに肉薄していたのである。

 

(なんだ? 何が室内で行われているんだ?)

 

 混乱の中、私は必死に情報をかき集めた。なんとか現状を把握しようと、耳を澄まし、匂いを嗅ぎ、扉に触れ、空気を舐め、この壁が透明にならないかなと目を細めてみた。だが依然として、室内の状況のその手がかりすら掴めない。

 一つ明白なことがあるとすれば、それは、氷川先輩が羽沢先輩に嬌声をあげさせるような“何か”をしているという事実だけだった。

 

 ここで、どうして室内で発せられた声が、こうも明瞭に聞こえるのかと疑問に思った方もいよう。答えは簡単だ。私が初めに入室しようと扉を開けた際、咄嗟に中断することはできたものの、力を入れた余韻でほんの拳一個分、扉が隙間を持ってしまったのである。そのために、本来ならば世界に隠されていただろう羽沢先輩の声が、その隙間を通じて私にも露わになっているのだ。

 

 室内から漏れ出る声は微量である。私の胸の前で、すんと消えてしまうような声量である。しかし私は、その声が形を伴ってふわふわと廊下をたゆたい、どこか遠くへ逃げ出してしまうのではないか、そして誰かの耳に飛び込んでいってしまうのではないかという恐怖に襲われた。そんなはずはない。そんなはずはないが、そう思わせるほどの質感が、その声には秘められていたのである。

 

 止めねばならぬ、と私は思った。この喘ぎ声を誰にも聞かせてはならぬ。

 

 だがどうやって? 世界に放たれた音を、誰にも聞かせないように捕らえて閉じ込めておくことは難しい。対処療法には限界がある。

 

 ……ならば、必要な処置はより抜本的なものだろう。この場合の最も効果的な解決策は、根本を断ち切ること――そもそも音を発させないことである。

 

 私の目の前に、問題解決への筋道が燦然と浮かび上がった。成すべきことは一つだった。私は自らの使命をしかと心に刻み付ける。それは、羽沢先輩を陥れている邪知暴虐の王――氷川先輩を討つことである。生徒会長を打倒し、副会長の尊厳を守るのだ。

 

 この決意は、ほとんど怒りのようであった。

 

 ただ、怒りといっても、それは巷でよく見る、乾いた血の赤さびに塗れた剣のような、負の感情がべっとりと貼りついた怒りではなかった。

 このとき私を刺し貫いた稲妻のような怒りは、人を殺める道具であるはずが、天日の森厳な光を堂々と跳ね返して冴えわたる日本刀のような、全く健康的な怒りだったのである。

 

 ――健康的な怒り! 果たしてそんな清潔な怒りが、不浄な人間に宿るものなのだろうか。

 

 そう思ってしまうのも無理はない。しかし、私たちは誰しも、このような怒りを持つ者を一度は目にしたことがあるはずである。

 

 遠く記憶を辿って、国語の教科書を思い出してほしい。そう、かの有名な『走れメロス』の冒頭文だ。

 

「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」

 

 この小説を読んだとき私は、如何に残虐な王の悪行を聞いたとて、瞬時に己の身を憤怒の中に投げ入れることのできるこの若者に崇敬の念を抱いた。怒りという感情には莫大なエネルギーが必要である。自分以外のために、生命のエネルギーを即座にくべることのできる若者のなんと輝かしいことか! このように精悍で、正義の化身のような若者は、御伽噺にしか存在しまい。

 

 一方で、敬意とは裏腹に、私の心にはそんな若者を煙たがる思いもあった。太陽の光が私たちの目を焼くように、強すぎる光というものは何者をも近づけさせないような棘を無意識に纏っている。その棘が私たちの柔い肌に残す小さな擦過傷……。痛みによって私たちはその存在の偉大さと、自らの矮小さを思い知る。

 

 本当ならば、ここで不屈の精神を手に立ち上がらなければならないのだろう。純粋な善の強い光を真っすぐに見つめ返せるだけの強さを求めなければならないのだろう。光に慄くのではなく、光と立ち向かい、その光を受け止めることで自らも輝く存在になった月のようにならなければならないのだろう。

 

 だが、人はそう勤勉ではない。子供のころには夢見たヒーローも、現実を知るにつれて自分には到底無理だと端から諦めるようになってしまう。

 ましてや、さとり世代と揶揄されることもある現代の若者にとってみれば、この神話じみた正義の寓話は畏怖を通り越して、もはや冷笑の対象でしかないのだ。

 

 このように私とメロスには、地表と、天高く輝く太陽ほどの大きな隔たりがあった。それは質の違いというよりも、次元の違いというべきレベルにまで達していたはずである。私はメロスに敬意を抱いていたが、彼のようになろうとは思わなかったし、実際なれないはずだった。だが、先ほど私を焼き、未だ燃え広がる怒りは、まさにメロスが感じたような激怒だった。あの輝かしい正義の炎が、私の身にも宿っていたのである。

 

 何故私とメロスが、同じ怒りを宿すことができたのか。それは、二人が同じものを見ていたからに他ならない。

 

 メロスはその怒りをもって、邪知暴虐の王を除かんと決意した。他人のために、わが身を顧みず巨悪を討とうとした。では私もそうだったのだろうか? 私にとっての邪知暴虐の王とは何なのか。私は何に激怒しているのか。やや大きめの喘ぎ声をあげてしまった羽沢先輩にか? 違う。生徒会に入会して数週間ほどは、律儀に扉をノックし一拍おいて、失礼しますと宣言してから入室していたが、最近は扉を無遠慮に開き敷居をまたぎながら挨拶を投げるだけになってしまった私自身にか? 違う。(この習慣は改めようと思う) 今まさに羽沢先輩に不埒な手ほどきをしている、生徒会の王たる氷川先輩にか? 違う。

 

 私は誰に対してもキレていなかった。確かに、真昼間から副会長に卑猥な声をあげさせている氷川先輩の放埓さに多少思うところもあるし、彼女の行為を止めようとしていることも事実である。しかし主に私は、二人をこの状況に陥れた世界に、いわば運命のようなものに激怒していたのである。

 

 そしてそれは恐らくメロスも同じだった。彼が王に憎しみを持っているならば、彼の怒りが真に王に向けられているならば、物語結尾において、メロスが王を赦すことなどなかったはずだ。メロスは、王そのものではなくその背後に潜んでいる、王を悪行に走らせた運命――人ならざる大きなものに対して激怒したのである。なればこそ、あのような健康的な怒りを、負の感情が介在しない怒りを心に宿すことができたのだ。

 

 私はメロスと同じ怒りを抱き、その真価を見極めることで逆説的に彼を理解した。今まで「なんだこのむさくるしい正義マンは」と思っていたが、ともに同じ敵を打倒さんとする同志だったのだと、ようやくわかった。メロス、お前の旅路に私も加えてくれ。

 

 

「ぅ……ッッ゛!」

 

 羽沢先輩が発するまあまあの声量のくぐもった声が、たちまち私を現実へと引き戻した。

 

 夢のように急速に褪せてゆく、シチリアの美しい森や気高い丘。美しい汗を額に浮かべながらメロスと共に駆けていたはずが、あえかな美女の声にふらふらと引き寄せられ、それと知らぬ間に、現実行きの道を走ってしまっていたのだ。

 

 ギリシア神話に登場する、可憐な歌声で船乗りを惑わし破滅させたというセイレーンを私は思い浮かべていた。羽沢先輩のピチカートじみた澄明な調べが、私を混迷の渦へと引きずり込む。

 

 この喘ぎ声を、誰にも聞かれてはならない。どうにかして止めねばならない。氷川先輩の悪行を取り除かなければならない。決意はある。怒りはある。

 

 ――でも、どうやって?

 

 ガラガラと扉を開けて、すいません先輩、そこそこ迫力のある声が廊下にまで響いてるんでもう少し静か目でお願いします、とでも言うのか? そんなことできるはずもない。第一、”誰にも”聞かれてはならないのだ。当然その中には私自身も含まれている。

 

 今私が嬌声飛びまわる室内に入れば、私が聞いていたという事実を二人が認識してしまう。確かな事実が世界に刻まれてしまう。それでは駄目なのだ。水面下で二人に気づかれないよう事を終わらせた後、机に頭を打ちつけて自らの記憶を抹消し、私が聞いていたという事実そのものを世界から消し去ることでしか、誰にも聞かれてはならないという任務を完遂することはできないのだ。

 

 この行き詰った現状をどうにか打破する必要がある。タイムリミットもじりじりと迫ってきている。このあたりの廊下は人の往来も少ないが、全く人が通らないわけじゃない。いつ人が来てもおかしくない。

 

 だが、どれだけ考えても、良いアイデアは浮かんでこなかった。というより、焦りで思考が空転するばかりで、そもそも思考を進めることができてない。

 

 初夏の廊下がいやに暑く感じる。私の顔は恐らく真っ赤だろう。それは、廊下の窓から斜めに差し込む太陽光のせいだけではあるまい。だが、焦るなと念じれば念じるほど、こうした状況はかえって抑えがきかなくなるもので、気づけば私は負のスパイラルに陥っていた。

 

 もはやこれまでか。とうとう観念して白旗をあげようとした私の手を、何かがギュッと掴んだ。刹那、その何かに、すごい力で混迷の渦の外へと引っぱり出される。

 

 ――何が起こった? 私は、自分を蟻地獄から救い出してくれた何かを見た。今も私の手を力強く引っ張るその何かは、たくましい腕だった。腕には当然人間が付随していて、たくましい腕にふさわしい健康的な青年が私の隣に立っていた。

 

 初めはメロスが助けに来てくれたのだと思ったが、また別の青年だった。……誰だ、こいつ。

 よく見ると、どこかで見たような気がしなくもない。そいつは、にこっと人懐こい笑みを浮かべてこう言った。

 

「まず大切なのは、落ち着くことだよ」

 

 その言葉は私に、長らく眠っていた記憶を呼び起こさせた。気が付けば私は、三年前の中学校の体育館にいた。その日も今日と同じく初夏の、まるで夏の予行演習でもしているかのような煮え切らない暑さが不快な日だった。

 

 うだるような熱気の中行われていたのは、消防団員による救命講習だった。学校が地元の消防署と連携して、救命の心構えや心肺蘇生法、AEDの取り扱いなどを生徒に学ばせていた。ほとんどの生徒は聞く耳など持たず、長時間堅い床の上に座らされていることにうんざりしていた。生徒の前に立つ若い消防団員は人前で喋ることに不慣れなのか、口を開くたびに輝くその白い歯とは対照的に、要領を得ず聞き取りづらい説明を続けていた。

 

 講習の終盤、まとめとして生徒が誰かひとり、講習で教わった内容を実演することになった。消防団員が「誰か挑戦してくれる人はいませんか」と声をかけた。当然誰もいなかった。体育館の中を奇妙な沈黙が支配する。こういう時に頼りになる、クラスの中心人物の、空気が読めるお調子者も、あまりの暑さにしぼんでいた。

 

 消防団員の目が、生徒達の間をあてどなくうろつく。ちょうどその目が、私の目を捉えた。視線が交差した。私が目をそらすよりも早く生贄は決まってしまった。私の右隣に担任が立っていたことも大きいだろう。担任にほら行けと背中を押されて、おぼつかない足取りで断頭台へと歩いてゆく。

 思えば講習中、幾度かその団員と視線がぶつかることがあった。真面目に講習を受けていたわけではない。太陽のせいだった。初夏のまぶしい太陽の光が、体育館の右の窓から差し込み生徒集団の右端に座る私の目をつんざくために、仕方がなく私は左の方向――団員の立つ中央に視線を遊ばせていたにすぎない。しかし彼目線では、よく話を聞いている生徒だと映ったのだろう。

 

 若い消防団員と同じく、私も人前で何かをすることに不慣れだった。クラスメイトの幾人かが「頑張れー」と半笑いで投げかけた。ろくに講習を聞いていないばかりか、今、隣にいる消防団員の説明さえも耳に入らない。顔が火照るのが自分でも分かった。強烈なめまいが襲ってきて、視界がぶれる。私は何を心配しているんだ? 私がこれからどのように失敗するかなんて、誰も見てやしないんだ。クラスメイトの様子をちらと窺う。誰とも目が合うことは無い。それを確認してもなお、拭い難い視線の刃を私は感じていた。何に追われているわけでもないのに、ひどい焦燥感が心臓の鼓動を急き立てる。私は、恋に恋するように、焦ることに焦っていた。ここにきて私の目標が、少なくとも泣かないという方向へ下方修正された。

 

 消防団員に導かれて、なんとか横たわる人形の前に跪く。『死せるキリスト』という絵画が脳裏をよぎった。私がなにもしなくても、この人形が勝手に生き返ってくれないかなと思った。「周囲の確認と、傷病者への呼びかけをお願いします」と消防団員が言った。申し訳程度に左右を見て、人形に呼びかけようとした。だが、声がどうしても出ない。私の口からは何の音も出ず、かすれた呼気がいったりきたりするばかりだった。私がパニックになっているのは誰の目からも明らかだった。

 

 その時、天から降り注ぐ福音のように、私のもとに声が届いた。「まず大切なのは、落ち着くことだよ」私は声のする方を向いた。消防団員のあの白い歯が見えた。近くで見ると、右の前歯の先が欠けているのが分かった。稚拙な慰めだと思った。溺れている人に、ちゃんと泳げと言っているようなものだ。しかしその純朴さが、かえって私の心に染み入った。私は落ち着きを取り戻した。

 

 指示に従って、私は自分の仕事を何とかやり遂げた。まばらな拍手が私を迎える。元いた場所に戻ると、講習は本日の総括に入った。にわかに太陽が翳り、体育館が暗くなる。太陽の光になずんだ目には、蛍光灯の光は頼りなく見えた。

 

 「緊急事態に陥った時に大切なことは、落ち着くことです」と消防団員が言った。「実は、消防署に入ってくる通報の内、年間に何件か110番経由でかかってくる通報があるんです。いざ消防車、救急車を呼ぼうと思っても、間違えて110番にかけちゃうんですね。緊急通報の情報は警察と消防で共有するので、かけ間違えても大きな問題にはならないのですが、皆さんが当たり前だと思っている110番と119番の通報も、いざ直面するとすごい大変なことなんです。もし皆さんがこうした緊急事態にあった時、この講習を頭の片隅にでも覚えていてくれたら、一旦深呼吸をして、自分自身に落ち着ける余裕をあげてください。」

 

 彼は、今日の生徒たちの態度について「とてもよかった」と謝辞を述べた後、深々とお辞儀をした。空虚な拍手が体育館に響いた。誰もが虚空に向かって、形式に向かって拍手をしていた。

 

 もう一度、彼の笑顔を、そしてその口元に光る白い歯を見た。彼の前歯は恐らく、初めから欠けて生えてきたのだと私は思った。

 

 

 生徒会室からやって来た涼しい風が、羽沢先輩の吐息とともに私の頬を撫でた。生徒会室でのチョメチョメはまだ続いているらしい。羽沢先輩の艶やかな吐息が、私を惑乱の沼に沈ませようと襲い掛かってくる。しかし今私の胸には、あの消防団員が与えてくれた金言が北極星(ポラリス)のごとく輝いていた。緊急事態に出くわしたときどうするべきなのか――。

 私は静かに深呼吸する。蒸し暑い廊下の蟠りを引き裂いて、新鮮な空気が肺を満たした。オーバーヒートした機械が巨大なファンで冷やされるように、段々と火照りが収まり冷静な思考がよみがえってくる。ありがとう消防団員のお兄さん。

 

 そうだ。どれほど足掻こうが嘆こうが、私たちにできることは常に”私たちにできること”だけなのだ。時限爆弾の前で、新しい選択肢が湧いて出てくるのをのんびりと待つ時間はない。きっとどこかに冴えたやり方があるはずだ、なんて幻想を抱き続けても、事態は何も進展しない。

 

 こういう緊急事態においては、目的に向かって適切にプロセスを組み立てていくというような問題解決法はかえって悪手である。手にある選択肢の中で最も適切なものを選び取り続け、強引に歩を進めることが最も肝要なのだ。

 

 今の私にできること――それを、もう一度真正面から見つめ直す。

 

 動かせる人員は私一人。できれば中にいる二人に気づかれず事を進めたいので、室内へ入ることや派手に音の出る行為は禁止だとすれば……私に取り得る行動、それは――。

 

 ……。

 ……いや、無理では? 

 

 よく考えてみてほしい。手にある選択肢がどうとかの次元じゃない。中にいる二人に気づかれないように二人の行動を変えるって、ほぼ不可能でしょ。なんだ? サブリミナル・メッセージでも送ればいいのか? 卑猥な声が学園中に響いているので今すぐ止めてください、というメッセージは、どこにどう挿入すればいいんだろう。怪しげな催眠術師を呼んできて、計四人の今日の記憶を消してもらった方がまだ成功率は高そうだ。

 

 結局のところ、冷静になって見えてきたのは、自分が如何に詰んでいるのかという事実だけだったのである。

 

 ところで、今までの私の思考をもし第三者が観測しているとすれば、どことなく違和感を抱いていることだろう。いや、さっきから散々もう詰んだ、もう無理、もう対処法がないって騒いでるけど、そんなことないでしょ。なんで”アレ”について言及しないんだ? という違和感である。

 

 きっとあなた方はこう言いたいはずだ。「よくわからないけど、とりあえずその半開きの扉をそっと閉めれば?」と。

 

 事が起こった直後の僅かな間、気が動転して、半開きの扉を前に立ち尽くしてしまうのは分かる。しかし、落ち着きを取り戻した後になっても、扉を放置したまま頑なに動かないのはどう考えてもおかしい。対処療法に限界があるのは分かるが、とりあえず廊下に響く声をシャットアウトすればいいんじゃないの? この女生徒は何をしてるんだ?

 

 このことは、実は私が出羽亀のむっつり助平で――というわけでは勿論ない。あらぬ疑いをかけられても面倒であるので、詳しく説明しよう。

 

 数日前の話である。放課後、生徒会の定例会議に出席すべく生徒会室に向かった私をまず出迎えたのは、扉の前にぽつんと佇む鍵開け当番の会員だった。事情を聞けば、正規の鍵を正しい手順で回したはずなのに、どうにも扉が開かないということらしい。念のため、私が鍵を差しなおして扉を引いてみても結果は変わらず。鍵開け当番の少女の祈りも徒に、途方に暮れるぽんこつが一人増えただけであった。

 

 時間が経つにつれ、生徒会室にやって来る会員が増えていくが、誰が試そうと生徒会室の扉は押そうが引こうがうんともすんとも言わず(引き戸なので押したとて元より意味は無い)、古代の遺跡を守るガーディアンのような厳粛さで生徒の侵入を拒んでいた。スチール製の引き戸は簡単に外せるようなタイプではなく、直す手立ても見当たらない。万事休す。休日明けの憂鬱な月曜日にもかかわらず、生徒会の職務へ邁進しようとしていた者たちの気勢が時間とともに削がれてゆく。

 

 これはどうにもならなそうだな、職員室に誰か行く? と半ば諦めムードになっていた生徒会員達の後ろから、にょきりと生えてきたのはしなやかな首。不思議そうな顔で覗き込んできたのは、他でもない我らが生徒会長であった。

 扉が開かないので中に入れない、鍵は回ったので建付けが悪くなったのかもと、かいつまんだ説明をうんうんと聞いた彼女はそのまま扉の前へ。鍵を差し直し取っ手を掴んで引いてみる、扉は身じろぎもせず、いっかな開きそうもない。それはそうだった。もう数えきれないくらい試している。しかし本当に開かないのかと試したくなる気持ちは、誰しもが了解するところだろう。

 

 「うーん」と氷川先輩が唸った。顎に手を当てる。芝居じみたポーズも様になっている。逡巡はわずかの間だった。もう一度取っ手を掴む。氷川先輩がぐっと力を込めたように見えた。まさかの力業!? と観客一同が驚くのもつかの間、不気味な館の正面玄関が開くときに鳴り響くような――何かがこすれる不快な音を引きずらせながら、扉がずるずるとその身を動かし始めたのである。

 

 人が通れるくらいの隙間を開けてから、氷川先輩はくるりと振り返り、むふんとドヤ顔をきめた。おぉ~と控えめな拍手が場をつつむ。彼女の仕事を軽んじたわけではない。むしろ、狐につままれたかのような、熟達した手品を見せられた際の、“私達は一体何を見逃したのだろう?“と訝しむ感じに似ていた。観客の一人が、どうやって開けたんですか? と、ある意味無粋な問いかけをする。「それはねー」と言いながら、氷川先輩が取っ手を掴んで、扉自体を持ち上げるようにして少し浮かせた。どうやらその状態だと、かろうじて開閉可能らしい。一同に、なんだそんなことかという空気が広がる。コロンブスの卵とはまさにこのことだろう。

 

 とまれ、氷川先輩のこの手法は瞬く間に共有され、業者が来て扉を修理するまでの応急措置として採用されることになった。要は、奥に何か詰まってるのか、下のレールが歪んでいるのかはわからないが、取っ手をもってガッと押し上げてからだと動くアレである。同じようなタイプの引き戸が設置されている学校に通っていた学生ならば、一度くらいは遭遇したこともあろう。

 

 つまり、扉を開閉するという作業は、建付けの悪さに伴う不協和音によって、中にいる人物に気づかれてしまうことが必至なのである。

 ここまで懇切丁寧に説明すれば、半開きの扉を前に動かない私の行動を、誰もが理解してくれるだろう。そして、私に残された選択肢が何もないという事実も。

 

 このまま黙ってXデーを待つほかないのだろうか。どこの馬の骨とも知れぬ女生徒が、通りすがりに生徒会室に鳴り響く嬌声を聞いて、今夜の長電話の話題にするのを黙って見てるほかないのだろうか。もう私にこの喘ぎ声を止めることは不可能なのか。

 

 

 ――その時である。

 

「もう御託はいいから、そんなに止めたいなら早く中に入れよ」

 

 脳内から飛んできた一本の冷徹な矢が私の胸に突き刺さった。

 

「どうせマッサージしてるだけとか、そんなオチだろ」

 

 続けざまに、強烈な死体蹴りも入った。

 

 如何に頑固な私とて、認めざるを得なかった。それは、数多の可能性の中で、最も確からしい推論だった。

 氷川先輩が、昨日読んだ雑誌で見かけた『みるみる健康になるマッサージ特集』の記事のことを卒然と思い出す。彼女はその記事に書かれていた良く効くツボを、寸分たがわず頭の中に思い描けるはずだ。「ねぇねぇつぐちゃん、マッサージしてあげる」と、いやにしなを作った声で羽沢先輩に呼びかける。何かよからぬ企みを隠し持っていることは明らかだが、好意を無下にするわけにもいかないと、羽沢先輩の体が、あわれ生贄の子羊のように氷川先輩の前に捧げられる。あとは御察しの通りである。

 

 私は生徒会室と己を分かつ壁を見つめた。すると、羽沢先輩の背中のツボをこれでもかとぐりぐりする氷川先輩の姿が、ぼんやりと浮かび上がってきた。当然ながら私は超能力者でもなんでもない。確固たる解答が現状の認識に影響を及ばしたことで、私の視認する世界までをも変えてしまったのである。

 

 

 だが――。

 

 そんなこと……そんなことは、七千年前から分かってんだよボケが。

 

 私は屈しなかった。

 

 そりゃそうだよ、いくら私が人の機微に疎いとはいえ、二人がそういう関係じゃないことは分かる。二人が生徒会室でいかがわしいことをするような人物でないことも知ってる。この話の最終落下地点がつまんねぇオチだってことは、はじめから決まり切ってる。だけど……だけどもし、万が一“そうなってなかったら?”

 

 扉を開けて生徒会室に入る。机に座る羽沢先輩の姿が目に飛び込んでくる。その制服がはだけているのが見える。露わになった肌の上気した赤と氷川先輩の白い手が、綺麗なコントラストを描いている。こちらを向いた羽沢先輩と目が合う。静寂が場を包む。彼女の目が徐々に潤んでくる。私には、それ以上耐えられなかった。無我夢中で走り出す。私を呼ぶ氷川先輩の声が背中越しにぐんぐん遠くなる。どうして扉を無遠慮に開けてしまったのだろう? 私は自らの愚かさを呪いながら、おめおめと逃げ出していた。

 羽沢先輩はあの性格だから、翌日の生徒会活動にもちゃんと出席するだろう。氷川先輩だって、責任を軽々しく投げ出すタイプじゃない。私は明日二人から謝罪を受けることになる。私のことはいい。何ともない。だけど、羽沢先輩はどうなるのだろう。氷川先輩はどうなるのだろう。二人の関係は、どうなってしまうのだろう。

 

 その陰惨な未来図は私を戦慄させた。効きすぎた冷房の風が首筋を撫でたときのような、ぞわっとした感覚が体中に広がる。こうなってからでは、もう取り返しがつかないんだぞ。

 

 とはいえ、交通事故にあう危険があるからと言って、家の外から出ない人はいまい。飛行機事故にあうのが怖いからといって、沖縄への修学旅行を拒否する学生もいまい。それは確率の問題であり、リスクとリターンの話でもあった。ごくごく低い確率のために有効な選択肢を捨て去ってしまうことの、如何に惜しいことか。石橋をどれだけ叩いても渡れない人間が住める世界は、石橋のこちら側しかない。

 

 問題なのは、”それ”がどの程度起こり得るのかということである。私が今ここでうだうだと管を巻いているのは、“それ”の可能性が、なきにしもあらずだと心のどこかで感じているからだ。いくら心配症の私でも、”それ”の発生率は0.000034%ですよと示されれば、心おきなく扉を開けることが出来る。(これは忘れていた記憶であるが、私は小学生のころ、北海道旅行の前日に飛行機事故のドキュメンタリー番組を見たせいで、搭乗前のラウンジで大号泣したことがあった)

 

 はたして”それ”の発生率とは、どれほどあるのだろう? 恐怖心から、私が事態を重く見積もりすぎている可能性だってある。

 

 冷静になれ、私。”それ”が起こる確率を、キチンと計算してみようじゃないか。

 

 私は深く集中して、自身の脳内にもう一つの世界を創造した。私がやるべき作業は一つだけだった。ボトルシップを作るときのように、私は世界の器の中で()を組み立てた。お手軽な栽培キットと同じく、種をまいたらあとは見守るだけである。じっと待っていると、やがて世界の中に宇宙が誕生した。そこからは一瞬で、まばたきの間に天の川ができ、太陽ができ、地球ができた。私は『火の鳥』に登場する、永遠の命を得てしまったがために、人類の滅亡と再誕を見るはめになった男を思い出していた。

 

 歴史をなぞるように、人類が生まれ、日本が生まれ、羽丘女子学園が設立され、氷川先輩と羽沢先輩がこの世に生まれ落ちた。二人は大きくなり、出会い、生徒会に入る。

 

 永い旅の末、ついに世界は今日という日に至った。私は同じ時刻に同じようにやってきて、建付けの悪い扉を、羽沢先輩の嬌声に逆らうように今度はいっせいに開けた。部屋に入ると、当の二人は、ぽかんとした顔でこちらを見ている。椅子に座る羽沢先輩と、その真正面に立っている氷川先輩。着衣には一切の乱れもない。氷川先輩の手が羽沢先輩の両肩に置かれていることからも自明であるが、大方の予想通りマッサージだった。肩の荷がおりて、ほっと一息つく。現実でないとはいえ、いざその場面に出くわしたらという恐怖がないわけではなかった。

 

 「部屋に入るときにすっごい声が聞こえて、何かいかがわしいことをしてたんじゃないかと心配しましたよー」と、二人に軽いジョークをとばす。顔を赤らめ弁明しようとした羽沢先輩を、氷川先輩が「だってつぐちゃん弱すぎるんだもん」とからかった。その日の生徒会活動も無事に終わり、まだ残業をするらしい先輩二人をおいて私は生徒会室を出る。拍子抜けするほど平穏な日常の1ページだった。

 

 しかし、安心するのはまだ早い。数回の試行では、あまりにもデータが足りなすぎる。あなたが普段乗っている車のモデルの製造元が、「わが社では約二、三回ほどの簡易な耐久試験を突破した車のみを製品化しています」と言い出したら嫌だろう。何万回と繰り返し、安全性に問題がないことを確かめてから私たちの手元に届いてほしいはずだ。

 

 初めに作った世界をわきにおいて、もう一度世界をイチから創り始める。今日このときに到達し、扉を開けることの安全性を確認してから、また創り直す。

 

 私は、星の数ほどの世界を創り、銀河の数ほどの二人に会った。興味深いことだが、どんなに同じ工程を正確に繰り返しても、一つとして同じ世界はなかった。氷川先輩が会長にならない世界があった、2人が出会わない世界があった、羽丘女子学園が無い世界もあった。それでもなお、2人が“そういう関係”になった世界にだけは、不思議と出会うことは無かった。

 

 どれだけの世界を見ただろう。そこら中に散らばる、役目を終えた世界達の残骸を見る。私は疲れていた。その事象が存在しないことを確定させるためには、可能性という無限の海を隈なく暴き出す必要がある。どこまでいっても、可能性が0になるわけじゃない。どこかで諦めなければならなかった。

 

 確率の問題でいえば、仮に次創った世界が“当たり”だったとしても、朝起きて隕石とおはようの挨拶を交わす確率を優に超えている。どんな臆病者でも、この石橋は渡れるにちがいなかった。現実に戻って扉を開けることの有効性は白日の下に晒されている。

 

 『蛍の光』が流れだした。残念ながらもう帰る時間だ。そこら中に散らばった世界達を、私は一つ一つ片づけ始める。スノードームの電池を切るように、きらきらと蠢く世界の活動を次々と停止させ、おもちゃ箱に戻していく。

 

 そうして最後の一つに、私が初めに創った世界が残った。扉を開けたら、氷川先輩が羽沢先輩にマッサージしているところに出くわした、あの世界線だ。その世界を手に取ると、心の中に甘酸っぱい寂寥感が広がる。そういえばこんなこともあったな。物置で埃をかぶっている、幼稚園の頃に描いた両親の似顔絵を見つけたときのような懐かしさを感じ、別れを惜しむようにその世界の中を覗いてみた。

 

「あ……っ♡ 日菜せんぱ……い♡」

 

 不意に空間をつんざいたその官能的な声に、私がまず自分の耳の不調法を疑ったのも無理からぬ話であろう。どうせなら決定的瞬間を見たかったなぁという邪な心が、私の耳と共謀して羽沢先輩の普段の声色を合成し、このような卑猥な幻聴を私に聞かせたのかと疑ったのである。しかし、ここまで完璧に声の波形を模倣することが私にできただろうか? 幻聴と断ずるには、その声はいささか肉感がこもってやしなかったか? 何かが起こっている。この生徒会室では何かが起こっている!

 

 

 ………………

 ………

 ………………

 

 放課後という時間もとうに過ぎ、帰宅する生徒もまばらな通学路を私は逆走していた。帰宅途中で、明朝提出のプリントが入ったクリアファイルを生徒会室に置き忘れたことに気が付いたのである。(定例会議の時に机に出したまま放置してしまったのだ)

 

 正門を抜けると、目の前にしんと静まり返った校舎が現れた。夜の学校というものは、何故こうも人間の本能をちくちくと刺すような、嫌な雰囲気を纏っているのだろう。背後にひやりと悪寒を感じ思わず振り返る。もちろんそこには、暗闇と、蛍光灯に不自然に照り映える花壇しかない。私は大層ビビりだった。幸か不幸か、校舎のいくつかの窓からは明かりが見え、夜の学校は完全に肝試し会場だというわけでもないらしい。私はため息をこぼしてから、校舎へと歩を進めた。

 

 校内は薄暗く、蛍光灯が爛々と廊下を照らすその奥に、人の気配もない暗い教室が立ち並んでいるのが不気味である。早くこんなところ立ち去ってしまいたい。靴を履き替えたところで、ふと、職員室と生徒会室どちらを目指すべきだろうという疑問が芽生えた。

 

 私が生徒会室から立ち去った後、まだ仕事があると言って残った氷川先輩と羽沢先輩がまだいるなら、間違いなく生徒会室に向かった方が効率的である。だが、二人が鍵を閉めて帰ってしまったなら、鍵を借りるため先に職員室へと向かうべきである。

 

 残業をしていた二人はまだいるだろうか。職員室はここからではやや遠く、生徒会室とこことの往復で済むならそれが一番最短経路だった。面倒くさがりな私の心が、生徒会室でまだ仕事をしている羽沢先輩の幻影を見せた。(氷川先輩はその横でサボっている) 私は羽沢先輩の勤勉さにかけて生徒会室へ向かった。

 

 生徒会室に近づくと、遠目にも明かりが点いていないのが分かった。二人はもう帰ってしまったらしい。流石にこの時間まで残業をしていたら、どこのブラック企業だという話だったか。どうやら、職員室に行って鍵を借りなければならないようである。私は肩を落として、くるりと来た道を引き返そうとした。振り返る寸前、偶然、私の目が生徒会室の扉の違和感を捉えた。

 

 違和感――それは生徒会室の扉が持っていた、拳一個分ほどの隙間である。生徒会室の中は暗く、誰もいないはずなのに扉が閉まり切っていない。

 

 建付けに加え、鍵すらも壊れてしまったのだろうか?

 二人はまだ帰っておらず、一時的に席を外しているだけだろうか?

 

 遠目に眺めているだけでは、そのどちらとも判別できなかった。それに、考えにくいことだが、羽沢先輩が鍵をかけ忘れたということもありうる。

 もし鍵のかけ忘れをフォローできたとすれば、私の忘れ物にも意味があったというものだ。

 

 私は中の様子を確認しようとして、扉に手をかけた。 

 

 生徒会室の扉は音もなく、ひとりでにするりと開いた。まず私を出迎えたのは、炎天下に放置された車に乗り込むときに浴びる、あのむわっとした熱気である。じっとりと湿った空気に顔をしかめながら、私は生徒会室を見渡した。

 明かりが点いていない室内は当然薄暗い。しかし、窓から入ってくる街の人工的な光によって、薄闇の中にぽつりぽつりとほのかな明かりが浮かんでいた。そのほのかな明かりを頼りに、私の視線が室内を飛びまわり、中の様子を検分する。

 

 ――何だろう、あれ。

 

 ふと、暁闇のようなぼんやりとした明るさに包まれたその誕生日席のあたりに、黒い塊のような何かが見えた。もぞもぞと忙しなく蠢く、人の背丈ほどの黒い塊――。

 目が暗闇に慣れるにつれ、粗い画像が読み込まれて鮮明になるように、その謎の物体も明確に彫り直されてゆく。

 

 私の目が、ついに“それ”を映した。そう、映ったのである。このとき私の目はその蠢くものを、薄闇の中で余すところなく映したのである。窓の外からやって来た光が、その蠢くものに反射し、私の瞳に確かに飛び込んだのである。

 

 だが奇妙なことに、私はその蠢くものを、その存在を認識することができていなかった。私の視界のある一点のピースが不自然に欠けて、そこだけが黒く塗りつぶされていた。

 

 何か私の本能的な部分が理解を拒んでいた。視神経からの信号を素直に受け取ることをよしとしなかった。視界の中の欠けた部分が、像を結んで、何かを作り上げようとする。闇の中で組み立てられる”それ”は、美術の教科書で見たシュールレアリスムの絵画のようにも、或いはキュビズムの絵画のようにも見えた。それらの名だたる絵画たちも、美術に興味がない不勉強な学生にとってみれば、ただの不気味な、奇態な絵でしかなかった。

 

 私は叫んだ。そして絶叫が空気を振るわせるよりも早くその場を逃げ出していた。なりふり構わない遁走である。すべてを振り切るための全力疾走である。

 私は生徒会室を飛び出し、廊下を走り抜け、校門をぶっちぎり、日本を抜け出し、地球を置き去りにし、太陽に別れを告げ、天の川を飛び越え、宇宙の果ての果てに突っ込んだ。

 

 

 おそるおそる目を開ける。大丈夫。ここは現実だ。

 

 私の首筋を冷汗がつたう。脳裏には、道端に捨てられたガムのように先ほどの景色がへばりついていた。あれは何だったんだ? 答えは分からない。私が何を見たのかは定かではない。しかし、何か私の理解できないものがあそこにはあった。その事実だけで十分だった。

 

 今まで私は、室内で何が行われているのか”分からない”と言いながら、私の考え得る事象のいずれかに答えがあると思っていた。考え得る可能性の総和で、室内の全事象を包括することができると思い込んでいた。だが違った。目の前の伏魔殿には想像だにしないような怪物が潜んでいるやもしれないのだ。認識の甘さ、危機感の欠如。私はたった今、分からないということが分かったのである。

 

 

 終末を告げるラッパは、そんな悟りと共に鳴り響いた。

 廊下の端から、コツコツと足音が近づいてくる。足音は楽し気な談笑を引き連れて、徐々に、しかし確実に生徒会室との距離を縮めてくる。

 

 早めにやって来た生徒会員か、通りすがりの生徒か、はたまた教員か――なんにせよ、ついにタイムリミットを迎えてしまったのだ。

 

 だが悲しむなかれ、慌てるなかれ。間一髪のところで私は自分の使命を、私のやるべきことを真に理解したのである。

 

 私のやるべきこと、それは二人を止めることだ。嬌声を誰にも聞かせないとか、痕跡を世界から消し去るとか、そんな綺麗な決着に固執せず最悪の事態を避けることだ。何者かが生徒会室の扉を開け、怪物と対面するのを防ぐことだ。

 

 やるべきことが定まれば後は簡単である。二人の行動を止める。この一点だけに注力すれば、道はいともたやすく切り開かれた。

 

 どういう時に人は行動を止めるか――それは、ショックを受けた時だ。私が生徒会室の扉を開けようとして中から聞こえた嬌声に反射的に手が止まったように、予想外の出来事に出くわした人間は、意図せず動きが止まってしまうものだ。中にいる二人に大きなショックを与えればその動きは停止する。

 

 脳内で、いくつかの案が浮かんでは立ち消えて行った。私は自身の記憶の引き出しを片っ端からひっくり返して、最善の策を探す。引き出しの奥の奥、古い記憶の奥底に答えはあった。

 

 

 結論――コケ芸。

 

 落ち着いて聞いてほしい。石を投げるのも待ってほしい。概要はこうである。扉を開ける。部屋に入ろうとする。そしてその一歩目でコケる。入って左側にある壁の方を向いてコケる。コケた衝撃で二人の動きは止まるだろう。そして、もし怪物がいたとしても、私は痛みに地面をのたうち回っているので怪物と目が合うことは無い。恐らくは、数十秒のうちに氷川先輩と羽沢先輩が怪物をなだめ、窓の外に追いやってくれるはずだ。頃合いを見計らって、たんこぶをさすりながら私は顔をあげる。そこにはいつも通りの生徒会室と、いつも通りの二人がいる。

 

 何と瑕疵のない作戦だろう。壁越しに声をかけるとか、物音を鳴らすではなく、直接二人に働きかける確実性。そして大きくコケることによって、室内で何が起こっていたのか見えてないし、聞こえていませんというすっとぼけ性能にも秀でている。

 

 思わず私はこの作戦に惚れ惚れとした。できれば遂行せず宝箱の中に大切にしまっておきたいほどである。だが、もう危機は目前に迫ってきている。

 

 

(――よし)

 

 私はついに覚悟をきめて、自らの任務を果たそうと生徒会室の扉に手をかけた。

 できるだけ派手な音が鳴るよう豪快に扉を開け放つ。扉のレールを跨ぎながら、「失礼しま……」と体育会系もびっくりな声量で挨拶を口にして――

 

 ――紫電一閃。私はコケた。これほど見事なコケ芸は、未だ地球上のどこにもなかった。足元には勿論障害物など皆無である。しかし私の決意が、私をコケさせる何かを足元に現出させていた。

 私は床に頭から倒れこむ。手をつこうとして中途半端に広げられた腕を巻き込みながら、右肩が地面に不時着する。純粋に痛い。中学の武道の授業で、もう少し真面目に受け身を練習するべきだった。

 

 ドスン、と大きな音が生徒会室にこだまする。続いてやってきたのは静寂。状況が呑み込めず唖然とした二人の様子が、背中越しにひしひしと伝わってきた。

 

 やや間をおいて「だ、大丈夫!?」と羽沢先輩が焦ったような声を発した。そのまま、とたとたとこちらに近づいてくる。

 私の直感がけたたましく警報を鳴らした。まずい。あれから五秒も経っていない。如何に早着替えが得意でも、制服を五秒で着ることができるだろうか、いや不可能である。

 

 すでにこの時点で、最悪の事態への対処が不完全だったことが露呈されたのだ!

 

 こちらに駆け寄る羽沢先輩を、痛みに悶えながら盗み見る。地面に横たわっている状態では、彼女の足先しかみえない。

 

 瞬間、私は衝撃に目を見開いた。そんな馬鹿な。羽沢先輩は裸足だった。文字通りの裸足である。靴を脱いでいるし、ソックスもはいていない。まさか、そんな。

 ここにきて私は自らの過ちを知った。羽沢先輩の優しさを計算に入れ忘れていたのだ。普通なら、室内にやってきた闖入者があたふたともんどり打つうちに、自らの体裁を――外部の人間につつがなく応対できるよう支度を整えようというのが人情である。しかし彼女の場合は違った。彼女は自分の衣服よりも、コケ芸へのファースト・エイドを選択したのである。

 

 羽沢先輩は、私の様子を確認するために屈みこもうとする。そのまま腰を下ろせば、下半身が見えてしまうだろう。せめて下着は……と私は思った。下着ならまだ野球拳で済みますから……。

 

 羽沢先輩の屈む動作が、私の目にスローモーションで映る。裸足が見え、すねが見える。ふくらはぎなどはその白さを、惜しげもなく世界に晒してある。そしてとうとう膝から上が視界に収まろうとして……、青チェックのスカートが見えた。

 

 ……あれ?

 

 視線を上にずらす。制服をきちんと着こなした羽沢先輩が見える。

 

 ……あれ?

 

 視線を下にずらす。彼女が確かに裸足なのが見える。

 

 ……あれ?

 

 ふいに、私は自らの足首のあたりに、なにかぐにぐにとした感触の平べったい物体があることに気が付いた。明らかに生徒会室の床の感触ではない。なにかを下敷きにしている。

 

 私は足元を見た。無数の突起物がついたゴム製のマットが、私の足元からレッドカーペットのように室内の中央へと敷かれていた。遠くの端に、靴が一足分置かれているのも見えた。これは……、

 

 って、足つぼマットやないかーーーーい!!

 

 私は心の中で、もう一度コケた。

 

 

 まず私が心を痛めたのは「本当にごめんね」と、しきりに謝る羽沢先輩の姿にだった。彼女はどうやら、私が盛大にコケた原因を扉の前まで敷いていた足つぼマットだと考えているらしく、いくら「自分で勝手にコケただけですよ」と事実をお伝えしても、どうにも納得しない様子で、申し訳なさそうに眉を顰めるばかりだった。しかし実際にそうなのだから私にもこれ以上説明のしようがない。

 

 一方で、私に怪我がないと分かるやいなや、こらえきれず笑い始めたのが氷川先輩だった。こんな綺麗にコケた人を久々に見たらしい。人には無意識の防衛本能があるし、頭から倒れるのは分かっていても怖いものだ、中々コケようとしてコケれるものではない。将来は芸人にでもなろうかな、もう。

 

 その後、経緯を聞けば、誰しもが予想できるだろうが、この足つぼマットを持ってきたのも彼女であり、羽沢先輩を言いくるめ定例会議の前に少しだけという条件でやり始めたそうだ。

 

「もーつぐちゃんが面白くって! ちょっと背中を押しただけでもう……」

「――ひ、日菜先輩!」

 

 にやにやと解説する氷川先輩を、羽沢先輩が遮った。バカでかい喘ぎ声が漏れてましたよ、という言葉を私は喉元で押しとどめる。扉を半開きにした私にも、半分くらい責任はあるのだ。

 

 二人の話を苦笑いで聞いているうちに、そういえばと、ある疑問が浮かんだ。

 

「ちなみに、氷川先輩は足つぼマットやったんですか?」

「んー。家でちょっと踏んでみたんだけど、あたしこういうの効かないんだよねー」

 

 どこか残念そうに答えた氷川先輩は、あーあ面白かったとばかりに、この場をしめようとする。

 

 その時、私の中でくすぶっていた使命が今一度熱を帯びた。それはあの稲妻のような怒りと共に舞い戻って来た。

 

 私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。

 

 それは、眼前に鎮座する邪悪なる王への反逆だった。それは、背後で震える民の仇を討つための蜂起だった。

 

 他人にやらせておいて自分はパス? 冗談じゃない。目には目を歯には歯を、だ。

 

「まだ定例会議まで時間ありますよね? 氷川先輩もやりませんか?」

 

 私は眉一つ動かさず、何気ない風で彼女を誘った。

 

 氷川先輩は、むむむと思案してから、「そうだ! 書記ちゃんがやるならいいよ!」と顔を輝かせた。(私は彼女に書記ちゃんと呼ばれていた) その嬉々とした表情には、また面白いものが見れそうといった彼女の期待がありありと映し出されている。

 

 だが不幸にも彼女はまだ知らない、足つぼマットの本当の恐ろしさというものを。

 

 あなたは誰かにくすぐられたことがあるだろうか? あの何とも言えないむずむずする感じに悶絶したことがある人も少なくないだろう。しかし、あなたが今ここで自分のわきをくすぐってみても、さほどくすぐったさを感じないはずだ。それは、自分で自分をくすぐる場合、その刺激は予測可能なものだからである。予測が、刺激に対する人の反応を和らげてしまうのだ。他人にくすぐられた際にはその予測がつかないので、刺激に対して敏感に反応してしまうというわけなのである。

 

 もうお分かりだろう。氷川先輩は自らの意思で足つぼマットを踏み、自らの思うままに体重を乗せて、足つぼマットを制覇した気になっているのである。先ほどまでの羽沢先輩のように、他人に背中を押されて慮外に刺激を受けるのとでは、その感じ方は全く違うはずだ。 

 

 氷川先輩が油断しているここが唯一の好機である。それに加え、私が入室した際のゴタゴタで、実は扉はまだ半開きのままだった。氷川先輩の喘ぎ声を学園中に響かせるなら、今しかない。

 

 だが問題は、私も足つぼマットを踏まなければならないということである。

 

 私はさっと足つぼマットを見た、突起物の高さ、数、それらを刹那のうちに計算する。

 

「いいでしょう」

 

 氷川先輩の挑発にひるむことなく、私は決然と言い放った。副会長の仇を取るために、勇気を手に立ち上がった。

 

 私の答えを聞いた氷川先輩が、満面の笑みを浮かべる。悲しいかな、彼女は自分がまんまと罠にかけられていることに気づきもしない。そもそもいま生徒会室に敷かれている足つぼマットはゴム製であるからして刺激が少なく、幼少期から祖母の家の堅い足つぼマットで研鑽を積んできた私の反射区をもってすれば――。

 

 この勝負がどういう決着を迎えたのかについては、もはや言うまでもないし言いたくもない。

 

 


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