なぜだか、ふいに海を見たくなった。小銭と鍵をポケットに入れ、サンダルを突っかけて玄関から出た。
「行ってきます」
誰に言うでなく口をついて出た言葉だった。
夏の夕刻らしくまだ空は明るい、自宅からは歩いて小一時間もせずに海に着く。ちょっとした散歩だからと勢い足を進めてく。
すれ違う人達は買い物帰りの主婦や仕事帰りのサラリーマン、部活上がりの学生達がいてそれを遠くに近くに眺めながら海へと向かう。
少しずつ風の香りが磯混じりに変わっていく、まだ緩やかな日差しのせいなのか、湿った風が原因なのか、少し汗ばんでいくのを感じながら、歩いていく。
遠くに防波堤が見えてきた。鈍色な都会の海が見えてきた。それは望んだ海ではないけれど、ゆったりとした周期で揺れる波間が見えてきた。
防波堤が海を覆うところに来るとコンクリートの壁が遥か彼方まで続いているのが見えた。誰かが掛けた梯子に足をかけ、ひとつひとつ上がっていく。
壁の頂点に手が届き、壁の向こうを覗きやると海の香りが鼻腔に広がっていく。海から来る風と揺れる鈍色があった。
防波堤に腰を掛けて、薄暗くなり始めた空を見る。遠くに沈んでく夕日が妙に眩しくて、なぜだか懐かしさを感じた。
もう少し早ければきっと泳ぐだろうし、釣り竿があれ針を垂らして魚を待つだろう。
けれども何もないから、ただ海を眺める事にした。
手持ち無沙汰になった手がポケットの小銭に鳴らして、夕日の映える海を見る。
波の音が揺れる度に光を返していた。潮風が髪を撫でていた。
いつの間にか腕を放り出して仰向けに空を眺めてた。頼りない月が青と灰色の空に浮かんでいる。
胸いっぱいに吸い込む風が心地良くて、しばらくは目を閉じた。
風と波の音が聞こえくる。早くもなければ、遅くもない。
どれだけの時間が経ったのか、空はすっかり星を写して月がしっかり浮かんでいた。
腕や脚を掻きながら、黒い波を眺めていた。
おもむろに立ち上がり、防波堤を降りていく。
夜を含んだ潮風が防波堤の向こうへと遮られていく。海を背にして家へと歩く。
振り返ると暗い海があった。少しその光景を眺めでから再び歩く。日常に帰ってきた。日常が帰ってきた。
煌々と灯りを放つ自動販売機にポケットの小銭を流し込んで、代わりとなる飲料を手にした。
蚊に刺されたところをかきむしり、玄関を開ける。
サンダルを脱いで玄関を上がる。見慣れた部屋があった。
「ただいま」
いつもの場所へと腰を下ろした。