スリザリンの面汚し   作:減らず口

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賢者の石編
プロローグ ―八月に旅立つ―


 がらんとした部屋を最後にもう一度見渡した。もともと広くないアパートは物が無くてもやはり狭かった。既に電気も水道もガスも止めてある。薄暗く、生活の音のしないこの空間に、今まで自分が住んでいた形跡は全く残っていなかった。

 

 この部屋の主、フィニアス・ペティボーンは足許に置いてあったトランクを持ち上げた。

 

 今日彼はこの部屋を引き払う。新しい住まいは何もかも備え付けだと聞いていたから家具の類いは全て売り払った。持っていくものと言えば身の回りの品だけだった。

 

 荷物を手に持ってからもしばらくフィニアスは立ちすくんでいたが、ついにアパートを後にした。外に出ると八月の太陽が目に染みた。車道を黒い排気ガスを撒き散らしながら車が一台通りすぎていく。フィニアスは立ち止まって車が去っていった方をじっと見つめた。

 

 ――車か、はじめは驚いたものだがな。

 

 はじめ、と言うのは、彼がいわゆる魔法界を出てマグルとして生活を始めた時のことである。高速で移動するもののと言えば箒しか知らなかったフィニアスは、地上を物凄いスピードで行き交う無数の自動車に圧倒され、恐怖を抱いたものだった。

 

 しかし、マグル界で暮らしはじめて一年もすると驚くことも稀になり、十年以上経つ今では全く日常の風景として気にも留めなくなった。それが今日また、見慣れたありふれたものがフィニアスの意識に敏感に引っ掛かってくるのだった。

 

 ――これで見納めになるかもしれない

 

 彼は今日マグル界を去り、魔法界に戻ることになっていた。仕事も住まいも既に決まっている。もうここに帰ることはないかもしれないのだ。

 

 フィニアスは名残惜しそうに何時までも通りすぎただけの車を見送っていた。

 

 

 

 フィニアスは元々魔法界の生まれである。それはすなわち彼が魔法使いであることを意味する。当然魔法使いとして育てられ、魔法使いの常識を身につけ、ついでに(これはペティボーン家が魔法界の名門であったことと深い関係があるのだが)魔法力を持たない人々、すなわちマグルと呼ばれる人々に対する強い軽蔑を育んだ。

 

 そんな彼が何故魔法界を追われるようにして去り、マグル界の雑踏に紛れ込んだのかをここで詳しく述べることはしない。ただ、今の彼が魔法使いとしては完全に失格であるということは確かである。

 

 まだ魔法学校の優秀な学生だった頃、突然彼は魔法力を失った。何の呪いなのかあるいは未知の病なのか、徹底的に検査をしたが何も分からなかった。ありとあらゆる手が尽くされたが、魔法力が回復することはなかった。それ以来、杖を振っても呪文を唱えても鳥の羽一枚動かすことは出来ない。

 

 結局、出来損ないのレッテルを貼られたフィニアスは魔法界で白眼視されること(これもまた彼が良家の出身であることが関係していた)に耐えられず、かつての恩師に勧められるままマグルとして暮らすことを決めたのである。

 

 劣等種として見下していたマグルの生活を送ることに当初は惨めな思いを禁じ得なかった。だが、住めば都とは誰が言ったものか、いつの間にかそれなりに快適な居場所を見つけることに成功していた。少なくとも、周りにマグルしかいなければ魔法が使えないことに引け目を感じることはなかった。

 

 とは言え、子供の頃に味わった大きな屈辱感は今でも消えてはいない。事実、今、魔法界に戻ることが決まって、明日にも杖を振り呪文を唱える人々を目の当たりにするのだと思うと、胃の辺りがずしりと重くなるような憂鬱な気分に襲われるのだ。

 

 再び歩き出して少ししてフィニアスは通りかかったタクシーを拾った。「駅まで」と伝えてから、背をシートに凭せ、シャツの襟を寛げた。窓から吹き込む風が涼しく、かいた汗がたちまち乾いていく。

 

 しばらくすると車道の右手に背の高いビルが迫ってきた。入り口にグランニングズ社と書かれたこの建物の九階にフィニアスは先週まで毎日通っていた。そして、この会社は彼がマグル界に居心地の良さを感じる理由の一つでもあった。

 

 一般的に会社の社長というものは社員からあまり好かれるものではないが、グランニングズ社の社長もこの例に漏れなかった。もっとも、社長は社長で自分の社員を皆役立たずだと思っていたからお互い様かも知れない。このたいして大きくない会社の社長室では怒鳴り声が絶えなかった。

 

 そんな癇癪持ちの社長に唯一気に入られていたのが秘書を務めていたフィニアスだった。

 

 最初にこの若い社員の名前を社長が耳にしたのは、オフィスの廊下だった。若い女子社員たちが、新しく入った若い男がカッコいいだの、紳士だのと騒いでいたのだ。その時は黄色い声を撒き散らす彼女らを一喝しただけだったが、一ヶ月後、会議で再び同じ名前を聞くことになる。

 

 庶務課の課長――この人物も気むずかし屋で有名だった――が珍しく新人社員を有能だとべた褒めしたのだ。それがフィニアス・ペティボーンだった。

 

 社長は怪しいと思った。若くてハンサムで紳士的な男に限って有能な訳がない。ちょっと難癖をつけてやろう。その新人を社長室に呼び出してみた。一時間後フィニアスが部屋から出てきた時、それまで長年社長の罵声に耐え、地位を築いてきた秘書は庶務課に異動になった。その秘書としての最後の仕事は、入って一ヶ月の若僧を後任とする辞令の手配をすることだった。

 

 それ以降、社内でのフィニアスの地位は揺るがなかった。彼は元々要領も良かったし、誰かにつけ入られるような隙も見せなかった。人当たりの良さと抜け目の無さを兼ね備えていた秘書を社長は信頼した。フィニアスもその期待に応えるように、あるいは思い出したくない過去を忙殺されることで忘れようとするように、黙々と仕事をこなした。

 

 そうなると今度は他の社員に妬まれたりしそうなものだが、その辺りの抜かりはなかった。威張り散らすこともなく、卑屈になることもなく、控えめながらも社長を上手くあしらうこの秘書に皆一目置いた。

 

 社長とフィニアスの良好な関係は、フィニアスが辞意を伝え、会社を去るその日まで続いた。フィニアスが怒鳴られたのは十年ほど前に一回だけ、しかもその時社長は何故か気が動転していたから、数には入らないかもしれない。

 

 盛大に催された送別会で、フィニアスがとある学校の管理人兼庭師になると聞いて、社長は心底残念がり、フィニアスは「そんなつまらん仕事で君は満足できるのかね」と、お開きになるまで三十回は聞かされる羽目になった。そしていよいよ最後の出勤日、社長に抱擁され、花束もろともそのでっぷりした腹に押し潰されそうになったのだった――タクシーが駅に到着した。ドアを開けると再び熱気に襲われた。

 

 もうマグル界での生活の回想はやめよう。フィニアスは心ひそかに誓った。魔法界に戻るのは既に決まったことだ。いくら名残惜しんだ所で変わりはしない。甘んじてこの状況を受け入れなければ。魔法界に帰れば、再び自分自身の劣等感と周囲からの蔑みの目に耐えなければならないとしても。

 

 これからフィニアスはロンドンへ向かう。そしてそこで列車を乗り替え、今度は北へ――彼が最も幸せな時と最も辛い時を過ごした思い出の場所、そしてこれからの職場であり家でもある場所――ホグワーツ魔法魔術学校へ、重い一歩を踏み出したのであった。

 

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