クリスマス休暇も残り少なくなったある晩、寝静まった城をフィニアスは足早に歩いていた。欠伸をしながら向かっているのは四階の空き教室である。十二月のホグワーツは城全体が凍りついたように寒い。フィニアスは足許から這い上がってくる底冷えに思わずローブを掻き合わせた。本来ならとっくに夜の見回りは終わっている時間に、極寒のホグワーツ城を歩かねばならないことにフィニアスはため息をついた。その息さえ白く凍りつく。
「校長も一体何の思い付きでこんな夜中に」
十分ほど前、寒さをこらえて夜の見回りを終えたフィニアスをアルバス・ダンブルドアが事務室の前で待ち構えていたのだった。そしていつも通りのニコニコ顔で、こう言ったのだ。
「フィニアス、こんな時間に申し訳ないんじゃが、四階の空き教室に置いてあるシャケをくわえたクマの置物を至急取ってきて欲しいんじゃ。明日の朝までに入り用になっての」
申し訳なく思っているようには到底見えないダンブルドアの表情を思い出してフィニアスは舌打ちした。いくら恩のある相手とはいえ、この気紛れには向かっ腹が立つのを押さえられなかった。
目的の部屋の扉を開けると、ありきたりな空き教室にそぐわない大きな姿見が闇の中に立っていた。想像していなかった風景に一瞬ドキリとした。その鏡が例の鏡であることに気付くと、フィニアスはますます困惑した。
みぞの鏡。その前に立つ人の心の奥深くの最も強い望みを映す鏡。賢者の石を守る仕掛けに使うからと、最近必要の部屋から出したばかりだった。てっきり既に三階の例の部屋にあるものだと思っていた。ダンブルドアはこれを私に見せようと、こんな夜中に理不尽なお使いを頼んだのか。私の望み――そんなものは分かりきっているのに。そして、二度と叶わない幸せな自分の姿を目の当たりにしてしまえば、あっという間にこの鏡の虜になってしまうに違いない。自分は弱いのだ。
「ペティボーンさん」
フィニアスは突然声をかけられてビクリと肩を震わせた。鏡の方に気をとられていて、その前に座った小さな人影がこちらを振り向いていることに気づいていなかったのだ。その人影はハリー・ポッターだった。フィニアスは苛立ちを隠せなかった。みぞの鏡とハリー・ポッター。ダンブルドアはポッターがここにいることも知っていたに違いない。あのタヌキ爺、一体何を考えているんだ。
みぞの鏡に近づくのを恐れて教室の戸口から動けないでいるフィニアスの袖をいつの間に近づいたのかハリー・ポッターが引っ張った。そしてあろうことかフィニアスを姿見の方へ連れていこうとする。
「ペティボーンさん!この鏡、ペティボーンさんには何が見えますか?」
フィニアスは生徒の手を無理に振り払うことも出来ずに、鏡の前に出ることになってしまった。
「僕、家族が見えるんです。パパとママが笑ってる――でも、ロンには見えなかった」
ポッターは取り憑かれたようにまた鏡に吸い寄せられながら、熱を帯びた声音で訴えた。しかし、フィニアスの耳にその声は届いていなかった。彼もまた、みぞの鏡の魔手に捕らわれかけていたからだ。見たくない、でも見たい。フィニアスの頭の中で二つの相反する衝動がせめぎあっていた。しかし、鏡の誘惑には勝てなかった。伏せていた目を上げて鏡を見ると、そこには上等のローブを着ている自分の姿があった。みすぼらしい本物より血色も肉付きもよく、もちろん右手には杖を持っている。ホグワーツを退学するとき目の前で折られた、あの黒檀の杖が傷ひとつない元のまま手に握られている。時おり杖を振りながら何か呪文をとなえているその口許には、社会的地位に相応しい気品と威厳があるように見えた。
そして、その自分の傍らには、相応に年老いた両親の姿があった。手を取り合い、微笑ましげにフィニアスを見ている。二人とももうこの世で会うことの叶わない人たちである。鏡の中のフィニアスが両親の方を振り向く。すると、母ウィニフレッドは夫の手を離し、皺の寄った自分の手で息子の手を握った。
その時フィニアスは、冷えきった自分の手に暖かさを感じた気がした。
フィニアスの目から涙が溢れだした。幸せそうに笑っている鏡の虚像が妬ましかった。絶対に手に入れることのできないものを全て持っている自分自身の影。その無防備な首を締めてやりたいとさえ思った。拳に力が入り、爪が掌に食い込んだ。本物の私は、こんな惨めな人生を送っているというのに――
しかし、その時鏡の毒は既にフィニアスの全身に回りかけていたのだろう。もう鏡から目を逸らせなくなっていた。そして何時しか、現実の自分と鏡に映った幻の自分が融け合い、嘘と真の境界があやふやになっていくのだった。気付けば心の苦痛も妬みも雲散霧消していた。最早、鏡の中の影も自分自身も区別できなくなっていた。己に嫉妬する者がいるだろうか?フィニアスはほとんど二十年ぶりに味わう幸福感を夢中になって貪った。
相変わらず母はフィニアスの手を優しく握っていた。ふと両手を見てみると、握りしめていたはずの両拳は知らない間にほどけていた。誰にも邪魔されない自分だけの時間が過ぎていった。
「また来たのかね?ハリー」
背後からの声が突如静寂を破った。フィニアスとハリーは振り返った。そこにはダンブルドアが机に腰かけて微笑んでいた。
「校長先生、いらっしゃったんですか」
「随分熱心に鏡を見ておるようじゃったからの、声をかけるかためらっとったんじゃ」
「僕、気付きませんでした――」
夢から覚めたばかりの朦朧とした頭で、驚くことさえままならないフィニアスは、ぼんやりと二人のやり取りを聞いていた。どうやらこの鏡の正体について話しているらしかったが、その間も鏡が気になって仕方がなかった。
「この鏡は明日よそに移す。もうこの鏡を探してはいけないよ」
ダンブルドアの声が耳に入ってきた。そうか、もうこれでこの鏡も見納めなのか。未練がましく鏡を盗み見ていると、頬の辺りに視線がちくりと刺さるのを感じた。ダンブルドアの輝く目がこちらを見ていたかと思うと、直ぐにそらされた。
「夢に耽ったり、生きることを忘れてしまうのはよくない。それをよく覚えておきなさい」
ハリー・ポッターに向かって語りかけているはずの言葉がフィニアスのぼんやりとした頭に響いた。老魔法使いの言葉は力強かったが、フィニアスの心には響かなかった。どちらかと言えば反発しか覚えなかった。
自分の力では変えようのない辛い現実からの逃げ道を用意して何が悪いのか――それがたとえ夢だとしても。生きることを忘れてしまうのはよくない?そもそも自分は死にたかったのだ。死にたくて湖に身を投げたのに、意志に反して死の淵から救い出され、結果当てもなくただ息をしているだけに過ぎないのだ。生きることなどとっくに忘れている。
「さて、ペティボーンさん、」
心を見透かされたかのようにダンブルドアに名前を呼ばれて、フィニアスは慌てて頬の涙を拭った。フィニアスが泣いていることにはじめて気付いたらしいポッターがぎくりとしたようだった。
「何か?」
ダンブルドアは先程とはまるで違う軽い調子で言った。
「頼んでおったクマの置物じゃが、大分前に校長室の戸棚に移しておったのを忘れておっての。それを伝えなければとここに来たんじゃよ。この夜中に無駄足を踏ませて申し訳ないことをしたのう」
「いえ、お気になさらず」
怒る気にもなれなかった。クマの置物など、はなからフィニアスをこの部屋へ導くための方便に過ぎなかったのだろう。
「ハリー、この夜中に薄着で長い間火の気のない所にいたのじゃ、体が冷えきっているじゃろう?ペティボーンさん、この子に事務室で温かいお茶でも飲ませてやってくれんかの?」
「――ええ、是非」
いつもダンブルドアは勝手に話を決めてしまう。いや、これも最初から計算ずくだったのかもしれない。二人きりになった事務室で、ハリー・ポッターは両親の思い出話をせがむに違いない。フィニアスとしては気が進まないが、仕方がない。彼はそろそろ両親の事を知るときなのかもしれないのだ。そして、その話をするには自分が適任なのだ。少なくとも校長はそう考えているのだろう。
ハリー・ポッターを連れて教室を出るとき、フィニアスは後ろ髪を引かれる思いで鏡の方を振り返った。すると、微動だにせず鏡を見つめているダンブルドアがこちらに背中を向けて立っていた。人には見るなと言っておきながら――少々恨みがましい気持ちでフィニアスは扉を閉じた。