まだ始まってもいないのに
夏休みも終わりに近づいたダイアゴン横丁は大にぎわいだった。
フィニアス・ペティボーンは走り回る子供達や、大荷物を抱える大人達の間を縫ってフローリッシュ&ブロッツ書店へと向かっていた。
必要な本はホグワーツの図書館で大抵手に入るのだが、緊急に入り用の薬草学の本が修復中で借り出せなかったのだ。マダム・ピンスが言うには、ウィーズリーの双子がフィリバスターの花火で焦がしたらしい。それで、こんな混雑する時期に特に混み合う本屋に足を運ぶ羽目になったのだ。
走ってくる子供をかわしながら辺りを見回すと、フローリッシュ&ブロッツが近づいてくるにつれて、なぜだか中年の女性客が増えてくるのにフィニアスは気付いた。浮かれているような顔や、少々緊張した面持ちなど様々だが、皆一様に妙齢のご婦人なのだ。
いささか不審に思いながらも、フィニアスはフローリッシュ&ブロッツの敷居をくぐった。そこは想像以上の人の海だった。フィニアスはちょっと後悔した。店に入ったが最後、四方を人に取り囲まれ身動きが取れなくなってしまったのだ。どうも薬草学の棚にはたどり着けそうにない。
一体何が行われるのかと覗こうとした途端、周囲から黄色い悲鳴が沸きあがった。店の奥から登場したのは、風もないのに金髪を靡かせ、瞳の色に合わせた忘れな草色のローブを纏った、それはそれはハンサムな魔法使いだった。その時になってやっとフィニアスは、壁に掲げられた「ギルデロイ・ロックハート サイン会」のポスターに気が付いた。
笑顔で手を振り、白い歯を輝かすロックハート。本を手に殺到しようとする客を店員が必死になって押し戻している。フィニアスはそのなかで人混みに揉まれながら、こっそり舌打ちをした。回りのご婦人たちとは違って、ロックハートの魅力が全く理解できなかったからだ。魔法界を離れている間にとんでもないのが出てきたものだ――フィニアスは半ば呆れてそう考えた。
店内があわやパニックに陥ろうとしたその時、ロックハートが声を上げた。
「紳士淑女の皆さん!」
群衆がピタリと動きを止めた。ロックハートの次の言葉を待ち受けるための静寂が用意された。たった今まで騒いでいた人々のこの変わりよう。フィニアスからすれば不気味にしか思えない。
「慌てなくても、私は最後のお一人に喜んで頂けるまでここを去りは致しませんよ!」
だから何だ、とフィニアスは心の中で毒づいたが、皆うっとりした顔でロックハートの言葉に聞き入っていた。
サイン会が始まっても、店内の人は減るどころか益々増えていった。サインを貰って出ていく人よりも、押し掛けて来る人の方が多いのだ。フィニアスは身動きが取れないので、ボンヤリ様子を眺めていて原因に気付いた。ロックハートは馬鹿でかい孔雀の羽ペンでサインをしながらも、しきりに手を止めてはやたらと周囲に愛嬌を振りまいていたのだ。これでは、行列が遅々として進まないのも無理はない。
状況は改善されないまま、さらに報道陣が訪れるに至って、店内はほとんどカオスに陥っていた。人混みに流れ流されて、フィニアスはいつの間にかロックハートが座るテーブルのすぐ近くまでたどり着いていた。しかも、何故だか最前列だ。後ろに立っている小柄だが横幅は半巨人程もあるおばちゃんが、時々フィニアスの背中を小突いてくる。長身のフィニアスが邪魔なのだろう。場所を変わって差し上げようとフィニアスが振り返ったその時。
突然、ロックハートが立ち上がった。
「まさか、ハリー・ポッターではないでしょうね?」
ロックハートの視線の先には間違いなくハリー・ポッターが面食らった様子で立ちすくんでいた。カメラのシャッター音が立て続けに景気よく響いた。人々は期待の籠った声でひそひそ話を交わしている。
ロックハートがハリーの腕を引っ張って正面に出てきた。その際、フィニアスは少年と目が合ったが、すがるようなその視線に応えることは出来そうもなかった。
拍手が爆発した。その途端、何が起こっているのか分からない後ろの群衆が店内を一目見ようと中へ中へと押し寄せた。その津波がフィニアスの所まで到達するのにものの十秒もかからなかった。背中を圧迫された後ろのおばちゃんが、鼻息荒くフィニアスに体当たりを喰らわせてきた。幸か不幸か、フィニアスの前にロープなどは張られていなかった。フィニアスは勢いのままよろめいて、前方に倒れ膝をついた。
ギルデロイ・ロックハートの目の前に。
「おや!お怪我はありませんか?」
ロックハートが手を差し出した。フィニアスは一瞬迷ったが、結局その手を取って立ち上がった。後から考えると、その時ロックハートの手を掴んだ事がこの一年の不運の始まりだったのかもしれない。
回りを取り囲む淑女たちは、皆同じような表情をしていた。「私のロックハート様、何て心優しいの!」と「あの男、ロックハート様の手を握りやがって、悔しい羨ましい!」が混じった顔だ。
フィニアスは軽く礼を言って元の場所に戻ろうとした。しかし、何故かロックハートは掴んだ手を離してくれない。しかも、ジロジロとその青い瞳で此方を見つめてくる。その熱心さが尋常ではないようにフィニアスには思われた。寒気を感じたフィニアスは戸惑いと嫌悪を眉根の辺りにハッキリと表したつもりだったが、相手は全く気付かないようだった。
突然ロックハートが大袈裟なため息をついた。フィニアスの手は離さないままだ。
「ああ、私が皆さんに愛されているばっかりに、また一人不運な怪我人が出るところでした!」
ロックハートがフローリッシュ&ブロッツの店員に向かって手を振ると、その店員はいそいそと「私はマジックだ」を一冊差し出した。
「ですが、この紳士はたった今、自分がこの上ない幸運の持ち主であることに気付くことになるのです!何故なら、彼は私の新刊を他ならぬ私の手から贈呈されるのです!勿論サイン入りですよ――お名前は?」
「はい?」
あれよあれよという間に進んでいく話についていけていないフィニアスの口から間抜けな声が漏れた。ロックハートの肩越しに、完全に置いてきぼりのハリーが同じく戸惑った顔で突っ立っている。
「ちょっとォ、ロックハート様がお聞きなんだから答えなさいよ」
後ろからかかったダミ声にフィニアスが振り向くと、その声の主は先程彼を突き飛ばしたおばちゃんだった。顔を戻すと、本と羽ペンをスタンバイさせたロックハートの期待に満ちた目とぶつかった。
「ああ、ええと、フィニアス・ペティボーンです――」
「フィニアス!素晴らしい名前だ!」
サインされた本を受け取っても、フィニアスはまだ解放されなかった。それから、ハリー・ポッターを含めた三人で予言者新聞のカメラマンにしこたま写真を撮られたのだ。もう沢山だ。フィニアスは早く帰りたくて仕方がなかった。
だが、一番の衝撃はこれからだった。
「この九月から、私はホグワーツ魔法魔術学校にて、『闇の魔術に対する防衛術』担当教授職をお引き受けすることになりました!」
フィニアスの胸にとてもとても不吉な予感がよぎった。この男と一つ屋根の下で――ホグワーツの屋根は大きいとはいえ――これから過ごすのか。去年に引き続き、あまり平穏な日常は望めないかもしれない。
ようやく自由の身になったフィニアスは、ハリー達と別れると、当初の目的だった本を買うのも忘れて、すごすごと漏れ鍋へ引き返していった。婦人連中の刺々しい視線や、ひそひそ声にこれ以上晒されたくなかったし、何より始めて経験する種類の強烈な疲労感に襲われたからだった。
だから、フィニアスはその後フローリッシュ&ブロッツで起きた乱闘騒ぎのことも、そこで旧知のルシウス・マルフォイが目のまわりに青あざを作ったことも当分は知らないままだった。