新学期が始まって一月が過ぎた。フィニアスとロックハートとの鬼ごっこも、繰り返すうちに最早ルーティンワークの一つとなってしまった。フィニアスの身辺もようやく落ち着く兆しが見えてきたが、安心したのも束の間、十月の底冷えがフィニアスの体力を知らぬ間に奪ってしまったようだった。
折しもハロウィンが近付き、生徒は浮き足立つ季節である。何だかんだと仕事が増え(主にウィーズリーの双子が原因だが)、一旦ひいた風邪がぐずぐずと治りきらないのであった。今日こそは元気爆発薬の世話になろうか、と思いながらも先伸ばしにしているうちに、とうとう十月三十一日になってしまった。
ハロウィンの午後、フィニアスは熱っぽい体をおして城の見回りをしていた。そろそろ生徒たちが大広間での宴会を終える頃だからである。事務室を出るとき一緒に着いてきたミセス・ノリスは、だらだら歩くフィニアスに愛想を尽かしたのか、いつの間にか姿を消していた。
遠くの方から子供たちの笑いさざめく声が聞こえてきた。面倒を起こしてくれなければいいが、とフィニアスはぼんやり願いながら歩き続けた。
フィニアスが廊下の角を曲がって大広間へと通じる廊下に出た時、段々近付いてきていた生徒たちの声がはたと止んだ。一体どうしたのだろうと熱で鈍った頭が働き出す間もなく、こんな叫びが耳に飛び込んできた。
「継承者の敵よ、気をつけよ!次はお前たちだ、穢れた血め!」
フィニアスは体が許す限りの速度で声のした方へ急いだ。そこには人だかりが出来上がっていた。その奥で何かが起こっているらしかった。人垣の外側にいる者たちはフィニアスと同じように状況が分かっていないようで、少しでも様子を知ろうと徒に右往左往していた。そこに、フィニアスとは反対の方から人混みを掻き分けてやって来たフィルチの顔がさっと恐怖に染まるのが見えた。
「私の猫!私の猫が!ミセス・ノリスに何があったんだ!」
フィルチの血走った目は壁に向いていた。人垣を作っている生徒たちの視線も同じ方を見ていた。フィニアスは熱で涙っぽい目を凝らして、何が皆の目を釘付けにしているのかを探した。
それは直ぐに見つかった。廊下の壁一杯にダイナミックに書き殴られた文字、そして、尻尾を松明の腕木に絡ませてぶら下がっているミセス・ノリス。
そこにダンブルドアを先頭に教授達が現れた。そして、石のように固まってしまった猫と、わめき散らすフィルチ、そして生徒を数人連れて、厳しい表情を変えることなく去っていった。
フィニアスは、書かれた文字を読もうと壁に一歩近づいた。上手く働かない頭で何度も書かれた文章を読み返し、言葉の意味を理解した瞬間、その背を風邪が原因ではない悪寒が走った。
「秘密の部屋は開かれたり。継承者の敵よ、気をつけよ」
「秘密の部屋」という言葉には心当たりがあった。「継承者」にも聞き覚えがあった。どちらも学生時代、「面汚し」となったフィニアスの背後でスリザリン生が囁いていた言葉だ。曰く――
『スリザリンの継承者があんな恥さらしを黙って置いておく訳ないだろ。見てろ、今に襲われるぜ』
『――ペティボーン、背後に気を付けろよ!秘密の部屋の怪物がお前を狙ってるぞ!』
真実かどうかも分からない伝説を下敷きにした質の悪い冗談だった。フィニアスは数多くの嫌がらせのバリエーションの一つに過ぎないと思っていた。
――今目にしているこれも、スリザリン生たちの私への嫌がらせなのだろうか。しかし、ただのイタズラにしては、ダンブルドアたちの表情は真剣だった。それに、ミセス・ノリスは石のように固くなっていた――まさか殺されたのだろうか?
これが冗談でなかったとしたら、もし本当に秘密の部屋とその怪物は存在していて、この学校に相応しくない者を襲うのであれば――
悪寒は中々引かなかった。それどころか、気持ちの悪い冷たい汗がじっとりとシャツを濡らし、一方で心臓の鼓動はますます激しくなっていった。頭の血管がドクドクと脈打ち、脳を締め付けた。俄に熱が上がったようだった。フィニアスは足の力が抜けて、文字の書かれていない方の壁に寄りかかった。
生徒たちはそんなフィニアスの様子には気付かず、不思議な顔で語り合いながら三々五々寮に戻っていった。
ほとんど無人になった廊下にフィニアスは座り込んだ。熱でほてった体は溶けたように力が入らず、だらしなく足を放り出したまま正面の壁の文字を目で繰り返しなぞった。秘密の部屋――継承者――穢れた血――スクイブ――襲われる――
恐怖を感じる前に高熱がフィニアスの意識を奪った。
***
フィニアスが目を覚ますと、ぼうっとした意識のなかで、耳元で擦れ合う布の音を聞いた。目を左右に動かすと、自分が医務室のベッドに横たわり、枕元に誰かが此方に背を向けているのが分かった。マダム・ポンフリーだろうか。
「気が付きましたか?」
頭の上で声がした。マダムではなかった。それは声変わりしたばかりの少年の声だった。起き上がろうとするフィニアスの体を慌てて少年が支えた。フィニアスの額からぬるくなったタオルが滑り落ちた。
「無理しないで。寝ていてください」
その声が驚くほど親身だったので、フィニアスは思わず相手の顔を見つめた。少年はとてもハンサムだった。知的な整った眉を少ししかめることで、横になろうとしない病人を控え目にたしなめていた。
「君が私をここまで――?」
フィニアスがもう一度横になると、額の濡れタオルを交換しながら少年が答えた。その時見えた少年のネクタイは黄色だった。
「はい。ペティボーンさん、あの廊下で倒れてたんですよ。酷い熱で。それでここまで運んで来たけど、マダムはいないし――取り敢えず、このくらいなら出来ると思って」
フィニアスは感謝よりも不信感が先に立った。
「一体どうして――?」
少年は不思議そうな顔をした。
「だって、あんな場所で寝てたら風邪をこじらせてしまいますよ?」
「いや、そういうことではなくて、管理人なんてわざわざ助けなくても――」
ますます困惑した表情で少年は言った。
「誰でも関係ないと思いますけど。ああでもスネイプ先生だったら、助けたらかえって減点されそうだなあ」
あはは、と笑った少年の顔を見て、フィニアスはこの生徒はたとえ減点されてもスネイプを助けるのだろうな、と思った。
その時、マダム・ポンフリーが帰ってきた。せっかちに少年に礼を言ったかと思ったら、逆に説教をし、一分もたたないうちに医務室から追い出してしまった。ベッドに横になっているフィニアスにお小言を垂れながら、マダムは早速元気爆発薬を持ってきた。
「全く、早目に医務室に来ないからこんなことになるんですよ!」
まる一日の安静を命じられ、耳から煙を噴き出しながらフィニアスはもう一度横になった。マダムはまたせかせかと何処かへ行ってしまった。一人になったフィニアスは先程の少年に思いを巡らせた。一体自分を助けるなんて、どういうつもりだったのだろう。医務室に引っ張って来るだけでも十分なのに、その上濡れタオルまで――。
魔法の使えない管理人なんて、規則違反を試みる生徒以外は、ほとんど誰も顧みない存在だ。たとえ助けたところで何の益もないし、一言の礼と引き換えに、かえって目をつけられることになるかもしれないのだ。それだけじゃない、はっきり言って、スクイブの管理人は見下されているのだ、だから誰も気を留めないのだ。
変わった生徒もいるものだな――
考えながらそのままフィニアスは眠りに落ちてしまったので、少年に礼を言うのを忘れてしまったことにも気付かないままだった。