風邪が治り、普段の明晰な頭脳がフィニアスに戻ってくると、ミセス・ノリス襲撃の恐怖がじわじわとぶり返してきた。フィニアスとしては、スクイブ嫌いの誰かが仕掛けたただのイタズラだと思いたかった。しかし、秘密の部屋の噂は城中の廊下の隅々に澱のように漂って消えなかった。この襲撃が「本物」であるということは誰も疑っていないようだった。その何とも言えない不気味な緊張感はフィニアスの身辺にもつきまとって離れなかった。
ことに夜中の見回りの時など、闇の中でたった一人なのが恐ろしいような、うそ寒いような気がして、我にもあらず後ろを振り返ってみたりするのだった。というのも、スリザリンの継承者がこの学校に相応しくない者を駆逐するのであれば、他ならぬスリザリンの「面汚し」である自分が「穢れた血」より必ずしも優先順位が低いとは思えなかったからだ。
しかし、フィルチは――継承者に嫌われそうだ、という点ではフィニアスと大して変わらないはずだが――飼い猫を襲われた怒りが先に立って、自分が襲われるかもしれないという恐怖はあまり感じていないようだった。
事務室で漠然とした不安を漏らしたフィニアスに、フィルチはせせら笑いながらこう言った。
「一度は自殺までやらかした癖に、今更何が怖いってんだ」
確かにそうだ。しかし、フィニアスが真冬の湖に飛び込んでからもう十五年が経っている。その間、フィニアスは人生と自分の心の間で折り合いをつけることを学んだ。そしてマグル界でのぬるま湯の生活を通して、それなりに失いたくないものを手にしていた。絶望したからといって直ぐさま死を望むような過激な若さはもうフィニアスには残っていなかったのだ。
フィニアスは苦笑いで誤魔化した。
「いずれにせよ、ただの言い伝えですしね。ミセス・ノリスは気の毒でしたが」
あくまで伝説である、と思い込んだところでそれほど気が休まりはしなかったが、といってフィニアスにいつまでも怯えている暇はなかった。管理人の日々の仕事は待ってはくれないのだ。それにマンドレイク薬が完成すればミセス・ノリスも元に戻ると分かっているし、そもそも教授たちは「秘密の部屋」は存在しないというスタンスなのだ。管理人としてあまりこの事件のことに拘っている訳にはいかなかった。
ホグワーツに日常が戻り、仕事に忙殺されてくると、フィニアスの不安も段々と薄れてくるようだった。
ただ、フィニアスの頭から恐怖の怪物の存在を追い出したのは何もウィーズリーの双子のイタズラだけではなかった。例のあの人――といっても今のフィニアスにとってはヴォルデモート卿ではない――との鬼ごっこがフィニアスに日常の回復を強く意識させたのだった。
***
「フィニアス、貴方は一体どういうつもりなのです?」
誰もいない夕暮れの防衛術の教室に、男の声が響いた。それは思い詰めたような、とても悲しい声だった。人によったら何も事情を知らなくても、思わず同情してしまいなくなるような真剣な苦悩が浮かび上がっている。
しかし、語りかけられた当の本人であるフィニアス・ペティボーンは思いっきり不快そうに顔を歪めた。
「私というものがありながら、よりにもよって生徒に手を出すなんて――」
フィニアスは声の主の息が頬にかかるのを感じた。その悲しげに吐き出される吐息から逃げようとしたが、後ろには壁、腕はガッチリと捉えられて、とても逃げ出せそうになかった。フィニアスの額を一筋の冷たい汗が伝った。
――まずった。防衛術の教室でロックハートと二人きりになってしまうとは。フィニアスはいくら後悔してもしきれなかった。
十五分前、授業で必要なロックハート印のオーデコロンの試作品二百オンス(どう使うのかは知りたくもない)が届いたから、ふくろう小屋から運んできて欲しい、と言われてフィニアスはげっそりした顔を隠しもしなかった。死ぬほど面倒なのはまちがいないが、この二ヶ月の経験で、ともかく授業前で生徒が教室にいる時間を狙えば、ロックハートと二人きりだけは避けられると高を括っていた。
しかし、恐るべきことに、フィニアスの知らぬうちにロックハートのフィニアスに対する情熱は、彼を手に入れるためなら職権濫用も厭わない程まで燃え上がっていたのだ。
十キロ近くもある大きな箱を抱えて防衛術の教室に入ったフィニアスは驚きのあまり声も出なかった。本当なら、レイブンクローの四年生が授業が始まるのを待ってあるはずの時間である。なのに、目の前の教室はきれいサッパリ無人だったのだ。
研究室からやおら現れたロックハートは、舞台の上の役者のように気取った身振りを交えてこう言ったのだった。
「――いつもは生徒たちがいてゆっくり出来ませんからねぇ。今日は思いきって休講にしたのですよ!」
要はロックハートの小賢しい奸計にまんまと引っ掛かった訳である。壁に押さえつけられたフィニアスは貞操の危機に身震いした。しかも、ロックハートは何やら思い詰めた様子。いつも以上にギラギラ燃えるその瞳は至近距離で見るにはあまりにグロテスクだった。
「ミスター・ディゴリーとは一体どういう関係なのです?あんな――あんな可愛らしいプレゼントなんかを渡して」
フィニアスは、自分の失策にようやく気付いて真っ青になった。大広間でディゴリーにクッキーを渡したところを見られていたのだ。今思い返せば、あの時の自分の行動は、躊躇いながら恋の告白をしていたように見えても無理はなかった。
「いや、あれはただの礼で――」
「礼ですって?下手な誤魔化しはおよしなさい。あんなピンク色のプレゼントを、照れ臭そうに渡して――私を差し置いて、生徒と良い関係になろうとするなんて――」
ロックハートはフィニアスとディゴリーとの仲をすっかり決めつけているようだった。
「フィニアス、貴方は私を裏切るのですか?」
裏切るもなにも端から何も無いのだが。しかし、ロックハートには何を言っても無駄であることは分かっていた。フィニアスはロックハートのいつになく真剣な眼差しに身の毛がよだった。この男、追い詰められて決定的な行為に及ばないとも限らない――
フィニアスの予想に狂いはなかった。ロックハートは身動きの取れないフィニアスに遠慮なく身体を擦り寄せてきた。
フィニアスは、最後の手段を考えた。
両腕は、グールを茶漉しで引っ掛けた握力で押さえられて動かせない。ならば、使うのは足だ。狙うべき急所は――同じ男として気は進まないが、この際致し方がない。口を近づけてくるロックハートから顔を背けながら、フィニアスは膝でロックハートの急所を強襲すべく準備を整えた。この攻撃に出れば、ロックハートも今後二度とこんな不埒な真似は出来るまい。
「愛していますよ、フィニアス!」
ロックハートが、感情の昂ぶりとともに心底気持ち悪い叫びをフィニアスの耳許で上げた時。
「――一体何をしているのですかな?」
フィニアスの膝が炸裂する、という瞬間、フィニアスとロックハートは弾かれたように第三者の声がした方へ振り向いた。二人の視線の先にいたのは、教室の扉の横で呆れとも怒りとも、はたまた軽蔑ともつかない表情で此方を睨んでいるセブルス・スネイプだった。