生徒ならば皆身を縮めてしまうようなスネイプの冷たい顔面も、その時のフィニアスにとっては天の救いに思えた。何はともあれロックハートに破廉恥な目に遭わされるとう最悪の事態だけは避けられた訳である。
狼狽えたロックハートが緩めた手を振り払い、スネイプの横をすり抜け寒い廊下に出る。なんて爽やかな風だろう!教室に充満していた、ねっとりと湿度を帯びた淫靡な空気を追い払うようにフィニアスは深呼吸した。しかし、気分が良かったのもここまでだった。フィニアスの解放感に水をさしたのはスネイプのあざけるような声だった。
「あそこまでやるとはいっそ感心ですな。魔法使いに媚びを売らねば生きていけぬスクイブとはいえ、流石に恥を知るべきだと思うが?」
フィニアスはバカバカしさに怒る気にもなれなかった。
「あれが私が望んだ状況かどうかも分からないようじゃ、君の人を見る目は当てにならないな。よく教師が務まるものだ」
スネイプは一つ鼻を鳴らすと、そのままローブの裾を翻して去っていった。少々気分を害されたフィニアスは小さく舌打ちしたが、その時ふと、スネイプの口がどれ程まで固いものか不安になった。自分の事については鉛のように重い口を持つスネイプも、憎んでいるフィニアスのスキャンダルならば――
しかし、フィニアスは学内でのロックハートの評判が就任当初よりは落ちていることを知っていた。信用のならない口先だけの人物、人の迷惑を顧みない自己中心的な男――スネイプがおかしな噂をばらまいたところでどれだけの人が信じるだろうか。
それに、そもそもだ――自分が「スリザリンの面汚し」であり、これ以上無いほど泥々に汚れきった看板を背負っていることを思い出した。今更どんな醜聞を恐れることがある?
でも。一部の、ほんの一握りだが、自分を好いてくれている生徒たちはどう思うだろうか。例えば、誰にでも分け隔ての無いという、あのセドリック・ディゴリーは?
嫌われることには慣れていた筈なのにな――
ロックハートから逃れて気分の良かったはずのフィニアスは、事務室に戻った時には、フィルチが訝しく思うほど深く物思いに耽っていた。
「何を考え込んでいるのか知らないが、そんな暇があるなら猫を襲った犯人を捜す手伝いをして欲しいもんだね」
今日も今日とて不機嫌なフィルチにフィニアスはおざなりに謝罪の言葉を呟いた。フィルチが見回りに出ていくドアの音を聞きながら、それもこれも全部スネイプのせいだ、と思った。理不尽だとは分かっていたが、そう思う気持ちを抑えられなかった。
***
フィニアスの予想した通り、フィニアスとロックハートの噂は秘密の部屋の噂に混じってホグワーツ城内に薄っすらと広がった。
男子生徒の殆どはフィニアスに同情的な視線を送ってきたが、ロックハートのファンの女子生徒からは、廊下ですれ違う度に、まるで汚い物を見るような目で睨まれるのだった。ことにスリザリンの生徒たちは男女問わず、フィニアスを見かける度にヒソヒソと陰口をきいては愉快そうに笑っていた。
とはいえ、低学年の生徒の多くはこの噂話の正確な意味を分かりかねているようだったし、完全に四面楚歌というわけでもなかったことがせめてもの救いだった。
セドリック・ディゴリーがこの噂をどう思っているかをフィニアスが知ることはなかったが、これまで庭仕事をしばしば手伝いに来ていたハーマイオニー・グレンジャーは庭園に顔を出さなくなり、廊下で会っても目を逸らすようになった。ハリー・ポッターとロン・ウィーズリーは彼女の側で申し訳なさそうな顔をしていた。
しかし、この噂がホグワーツ城を占拠していたのはほんの一週間ばかりに過ぎなかった。まず、クィディッチシーズン開幕の熱狂が生徒たちを下らない噂話から遠ざけた。だが、これだけならまだ不十分だっただろう。クィディッチよりロックハートが大切な生徒も多いのだ。
クィディッチ開幕戦、ハリー・ポッターの獅子奮迅の活躍によってグリフィンドールがスリザリンに勝利すると、その興奮は「秘密の部屋」の怪物がもたらした不安と、管理人に関する噂を一気に払拭したかに思えた。しかし一夜が明けて、最高の気分で朝食を取りに大広間に集まった生徒たちの間に、にわかに戦慄が走った。ゴシップ好きのある生徒がこんなことを口にしたからである。
「マグル生まれの生徒が襲われた。ミセス・ノリスと同じく石にされているらしい。医務室で見たから間違いない」
カチンカチンになって医務室に横たわるコリン・クリービーとかいう一年生の話題は、瞬く間に他の話題のニュースバリューをうばってしまった。しかし、フィニアスを不名誉なゴシップから救った事件は皮肉にも、フィニアスをも不安に突き落としたのだった。
サラザール・スリザリンが子飼いの怪物を試験官として、遅ればせながら入学審査を始めたことは最早疑いようがなかった。その対象となっているのが生徒だけではないことはフィルチの猫が襲われたことで明らかだった。誇り高きスリザリンが、その名を冠する寮の顔に泥を塗った者を許しておくだろうか?
二つの事件が起きたあとも、フィニアスは個人的な不安を隠しつつ、公の仕事を粛々とこなす日々を変わらず送り続けた。変わらないといえば、生徒が危険に晒されているこのような時でもロックハートは性懲りもなくフィニアスを追いかけていた。この間抜けな男の周りだけは憎らしいほどに日常が保たれていたのだ。といって、そこに安息があった訳ではないが。
***
そんなある日の晩の事であった。生徒たちが皆大広間で夕食に舌鼓を打っている頃、暗く長い廊下をフィニアスはロン・ウィーズリーと校長室に向かっていた。
「ダンブルドア先生が僕に一体何の用だろう。ねぇ、ペティボーンさん?」
フィニアスの隣を歩くロン・ウィーズリーが腕を頭の上で組みながらぼやいた。長い腕が三角形になった影が、暗い廊下に落ちた。もしかしたらその辺に怪物がいるのではないかと、フィニアスは床に落ちる影の一つ一つが不気味に思えた。
「さあ、私もただ君を連れてこいと言われただけだから、何とも」
ロンは不満そうに唇を尖らせた。その途端、大きな腹の虫が鳴るのが廊下に響いてロンは顔を赤くした。五分前、夕食のキドニーパイを口に入れる直前にフィニアスに声を掛けられたのだ。
腹の音を誤魔化すようにロンが口を開いた。
「ハリーが呼び出されるなら分かるけど。何かと目立つしさ」
「君だって中々だと思うけどね。空飛ぶ車でロンドンから飛んで来るなんて」
「べ、別にあれは目立ちたかった訳じゃ――あ、着いたんじゃない?」
少年は慌てて話題を打ち切った。母親からの吠えメールが余程こたえたらしい。フィニアスは笑いながら、校長室の合言葉を唱えた。
校長室に入ると、薄暗がりの中、巨大な机を挟んでダンブルドアともう一人小柄な老人が何やら熱心に話し込んでいた。わざわざ呼びつけた癖にフィニアスたちが入って来たのにも気づいていない様子である。少々カチンときたフィニアスは、一つ咳払いをしてから、隣のロンがギョッとして息を飲んだほど大きな声で叫んだ。
「校長、ウィーズリーを連れてきました」
さして驚いた様子でもなく老人二人はゆっくりと此方を向いた。ダンブルドアの相手はフィニアスの記憶に間違いがなければ、あのオリバンダー老人だった。ダンブルドアは、いつも通りのニコニコ顔を崩さないままこう言った。
「ああ、ミスター・ウィーズリー、よく来たね。君を呼んだのは他でもない。オリバンダーさんを覚えているかな――?ちょっとした用事でホグワーツに来ていただいたのじゃが、ついでに、君の壊れた杖を見てくださると言うのじゃ」
そう言って校長は、ドギマギしている少年に向かって手招きをした。ロン・ウィーズリーはぎこちない足取りで机に向かい、覚束ない手つきでローブから杖を取り出した。オリバンダーがぐるぐる巻きのスペロテープを剥がしている間に、もう自分は用無しだと判断したフィニアスはそっと部屋を出ようとした。だが、ドアノブに触れた途端にダンブルドアから声が掛かった。
「ペティボーンさん、少し待ってくれんか。この後ミスター・ウィーズリーを寮まで送って欲しいのじゃ。もう時間も遅いし、近頃は物騒じゃからの」
フィニアスは「分かりました」と一言言うと、黙ってドアに寄りかかった。その間もオリバンダーはロンの杖をためつすがめつ検分していたが、やがてため息をつくと、杖を持ち主に返した。
「ウィーズリーさん。残念ですがあなたの杖は修理できる範囲を越えているようです。もし直せるのなら、アルバスたっての頼みですのでな、安く承るつもりでしたが――」
オリバンダーは申し訳なさそうに眼鏡を外して胸ポケットに仕舞った。ロンはうらめしげに自分の杖をチラと見ると、そのままローブのポケットに突っ込んだ。項垂れたロンの為に重い扉を開けてやりながら、フィニアスは老人二人に目礼して、自分も踵を返した。その時フィニアスとロンの背後からオリバンダーのしわがれ声が追いかけてきた。
「ペティボーンさん――“あれ”は、肌身離さず持ってらっしゃるでしょうね?」
オリバンダー老人の言葉が妙に謎めいていたので、フィニアスもロンも思わず振り向いた。ロンは首を傾げたが、フィニアスの方は一瞬遅れたものの老人の言葉の意味をすぐに悟った。
「え、ええ。勿論です」
これを聞いてオリバンダーはニッコリ顔をして言った。
「なら良いのです。今ホグワーツはあなたにとって安全とは言い切れないようです。万一の時、“あれ”があなたを守ってくれるかもしれない」
「本当に、その通りかもしれません――では」
フィニアスがドアを閉めるとき盗み見たダンブルドアの顔には、ただ謎のような微笑みが浮かんでいるだけだった。