グリフィンドール塔に戻る道すがら、暗い道を急ぎ足で歩きながらロン・ウィーズリーが興味津々といった体でフィニアスに聞いた。
「ねぇ、ペティボーンさん、オリバンダーさんが言ってた『あれ』って何のことなの?」
オリバンダーの残した謎をウィーズリーは見逃さなかったようだ。フィニアスはためらい勝ちに答えた。
「うん、まあ、何て言うかな、お守りみたいな物で――昔オリバンダーさんに作ってもらった物なんだ。最近の事件の話を聞いて、心配してくれたんだろうね」
フィニアスの答えは十二歳の少年の心を捉えるものではなかったらしく、ロンはすっかり拍子抜けしたようだった。
「なーんだ、ただのお守りかぁ。でも、オリバンダーさんが作ったものならフレッドとジョージが売り捌いてるのなんかと違って効くんだろうな――あっ!」
ロンは慌てて両手で口を押さえたが、既にフィニアスの耳はしっかりと彼の言葉を捉えていた。意図せず兄たちを売る羽目になってしまったロンは、そっと目の端で管理人の表情をうかがったが、フィニアスは苦笑いするだけだった。
「君が口を滑らせなくても、もう知ってるよ」
ロンは、安堵の面持ちで大きく息を吐いた。その時、廊下の曲がり角を二人の前を横切るように、ハーマイオニー・グレンジャーが両腕に一杯本を抱えて、よろよろと寮に向かっていた。図書室からの帰りらしい。隣のロンがボソッと「まーた、図書室かよ」と呟いたのを聞き流して、フィニアスはハーマイオニーに駆け寄った。
「ミス・グレンジャー、今晩は。手伝おうか?」
それまで、フィニアスとロンの存在に気付いていなかったらしいハーマイオニーが、驚いてビクッと体を震わせたとたん、山と積まれた本が音を立てて廊下に崩れ落ちた。
「ああ、すまない」
フィニアスと散らばった本を拾い集めている時も、フィニアスがお詫びにグリフィンドール塔まで本を運ぼうと言った時も、ハーマイオニーは気まずそうにして、フィニアスと目を合わせようとしなかった。後からやって来て、床に落ちた最後の一冊を、恩着せがましく本の山の上に置いたロンが呆れたように口を開いた。
「ハーマイオニー、君は――」
「ロン、半分手伝って。ペティボーンさん、ありがとうございました」
ロンの言葉を遮ったハーマイオニーは、本を半分取り上げると、そのまま寮の方へ去って行った。ロンは弁解するようにフィニアスに目を遣った。
「あいつ、例の噂を気にしてるんだよ、ロックハートのファンなんだ。ああ、僕はホントだとは思ってないよ――有り得ないよね、ペティボーンさんは命の恩人なのにさ」
「ロン、早くして!」というハーマイオニーの声が遠くから聞こえてきた。ロンは慌てて本を持って走って行った。
フィニアスは、暗い廊下に取り残されたまましばらく立ち尽くしていた。
フィニアスがロックハートに取り入るために体を代償としているという噂。皆が信じているわけではない。しかし、今まで自分に笑顔を見せてくれていた人が、目も合わせてくれないのは思った以上の打撃だった。別に、去年のハロウィンの事件を盾にとって、ハーマイオニー・グレンジャーを恩知らずと責めるつもりはなかった。そんな資格が自分などにあるとも思っていない。ただ、無性に寂しかったのだ。
スネイプのささやかな攻撃は、なかなか的確にフィニアスの痛いところを突いていたのだった。
***
それからというもの、なんとなく気分の晴れないフィニアスは、管理人の仕事に精を出すことでせめてもの鬱憤ばらしをしようとしていた。その甲斐あってか、数日後にはフレッドとジョージ・ウィーズリーが怪しげなお守りを密売する現場を押さえる事に成功した。
驚いたことに、お守りを買おうとしていたのは、スリザリンの生徒だった。数少ないマグル生まれのスリザリン生であった彼は、毎日夜も眠れない程に怯え、基本的に継承者の活動に肯定的な寮内で周りに相談することも出来ず、結局いかがわしいお守りにすがることになってしまったようだった。
泣きじゃくりながら恐怖を訴える生徒を見ていると、強く叱る気になれないどころか、困った事があったら何時でもここに来て構わないという約束までしてしまった。涙の半分は同情を誘うための演技だったような気がしなくもないが、それでも自分を頼ってくれる生徒がいるということはフィニアスにわずかな満足感を与えた。
大量に押収した密売品の処理は後回しにしておいて、自室でブランデーをチビチビとやっていると、近頃溜まった疲れが急に押し寄せてきた。ミセス・ノリスとコリン・クリービーの襲撃事件は、間違いなくこの学校全体を見えない手で締め上げていた。双子のウィーズリーのいい加減なお守りに殺到するほど、生徒たちは追い込まれていた。
フィニアスはベッドに身を投げ出した。絶えず強いられる緊張で体はぐったりしていた。疲れのためか、いつもよりアルコールの回りが早いようだった。目蓋を閉じると、ふわふわと体が浮くような感覚とともに、急激に眠気が襲ってきた。
フィニアスは大きく伸びをすると、もう自分の体が弛緩しきっていることが分かった。もぞもぞと体を動かしてローブを脱ぎ捨てると、布団を頭から被った。シャワーは諦めよう。
眠りに落ちる直前の、意識と無意識、過去と現在の狭間で、不思議にも『あれ』――数日前オリバンダーがフィニアスに決して手元から離してはならないと注意した「お守り」のようなもの――にまつわる記憶が次々と泡のようにフィニアスの脳裡に浮かんでは消えていった――
***
『あれ』――それはフィニアスがホグワーツを退学し、マグル界に移住したとき唯一魔法界から持ち込んだ物だった。それは、黒檀で出来た四枚の花弁を持つ花の形をしたペンダントだった。それはフィニアスの目の前で折られたフィニアス自身の杖からオリバンダーの手で掘り出された物だった。
そして、それは今、フィニアスの首には下がっておらず、この狭い部屋のどの引き出しにも入ってはいなかった――それは、最早フィニアスの預かり知らぬ場所にあるのだ――
***
フィニアスがはじめてそれを手にしたのは十数年前、ホグワーツを追われて、ロンドン行きの特急をホグズミード駅で待っていた時のことだ。列車に乗ってしまえば、もう二度と魔法界に戻ることはない、そんな感傷に浸っている最中に、見送りに来ていたダンブルドアが小さなビロード張りの箱を取り出したのだった。中にあったのは、見覚えのある黒く艶のある木で出来た小さな花のペンダントだった。
――これはきっと君の身を護ってくれるだろう。たとえ魔法力を失ったとしても、君を選んだ杖から作られたのだから。
そう言ってダンブルドアはフィニアスの首にペンダントを掛けたのだった。しかし、その時のフィニアスはそんな忠告はほとんど聞いていなかった。魔法のような忌々しいもののことは早く忘れてしまいたかったからだ。ましてや折られた自分の杖の残骸なんて!列車に乗り込むとすぐにむしり取るように外し、箱ごとトランクに突っ込んでしまうと、それきりフィニアスがそれを身につけることは一度もなかった。
***
次にフィニアスがそのペンダントを手に取ったのはそれから数年後のことだった。マグルの町のアパートで独り暮らしをはじめてしばらくが経ち、ようやく生活が上手く行き始めた頃のことである。そして、その日がフィニアスがペンダントを見た最後の日でもあった。
それは九月のある土砂降りの夜のことだった。フィニアスは珍しく客の訪問を受けていた。それも、魔法使いの客である。
フィニアスが茶を出すと、客は借りたバスタオルを頭から被ったまま、震える手でカップを取り上げて一気に飲み干した。かなり熱く淹れたはずだったが、その男の真っ青な顔に変化は起きなかった。言葉を発さないまま、整わぬ息をおさめようと浅い呼吸を繰り返す相手を見かねてフィニアスが口を開いた。
「何故今になって私なんかを訪ねてきたんだ――レギュラス?」
今フィニアスの前に座っているレギュラス・ブラックにかつての面影はなかった。頬はこけ、いつも綺麗に整えられていた黒い髪は崩れて鼻の上まで落ちかかっていた。落ち窪んだ眼窩の中で、灰色の瞳だけが爛々と光っていた。
安アパートの窓に容赦なく打ち付ける雨の音に紛れて、レギュラスが呟いた。
「フィニアス、最後にあなたに会いに来たんです」
レギュラスの声は淡々としていて、フィニアスは一瞬その意味する重大さが理解できなかったが、言葉を咀嚼し終わると、やっとその恐ろしい意味に気付いた。
「最後に、ってどういう事だ――」
せき込むような慌てたフィニアスの声に、レギュラスは、ハッとしたように目を見開いた。自分の言葉が相手に重く響いたことに気付いたようだった。
「そのままの意味です。きっとあなたに会うのはこれが最後だ、ということです」
「君は一体何をしようとしているんだ。何か危険な仕事でもあるのか?」
レギュラスがヴォルデモート卿のために働いていることは風の噂でフィニアスも知っていた。
「それは言えません。あなたにだけじゃない。家族にも、誰にも。迷惑をかけることになるから、教えることが出来ない。でも、そうです、危険な仕事です。命を落とすかもしれない」
ほぼ間違いなく落とすのだろう、なんとなくフィニアスはそう感じた。
「ああ、安心してください。確かに危険ですが、あなたに害は及びません。僕がここに来たことは誰にも知られていないはずです。この町に入る大分前から杖は使ってないから追跡することはできません」
死の可能性を語っているとは思えないほど落ち着いているレギュラスに、かえってフィニアスの方が取り乱しそうだった。
「追われてるのか――誰に?何をやらかしたんだ?品行方正だった君に、何の後ろ暗い事が――」
それには答えずに、レギュラスはローブの内ポケットから一枚写真を取り出して、テーブルに置いた。
「これを預かってもらいたいんです」
それは、ブラック家の家族写真だった。レギュラスと兄のシリウス――二人ともまだホグワーツに入る前のようだ――それにブラック夫妻が、フィニアスも訪ねたことのある、グリモールド・プレイスの居間で仲睦まじく笑っていた。
「どうして、これを私に」
戸惑うフィニアスに対して、レギュラスは穏やかに微笑んだ。
「これが今の僕の全財産なんです。僕に残されたものはこの写真が全てです。でも家族に渡すわけにはいかないでしょう。で、これを誰に託そうかと考えた時、あなたしか思いつかなかった」
「バカな、君にはあれだけ友人がいたのに」
レギュラスは小さく鼻で笑い、頬に皮肉なしわが浮かんだ。それは学生時代によくフィニアスが目にした表情だった。
「冗談は止めてください。あの連中が友人なんて――あなたは今でもマルシベールやエイブリーが友人だと言えますか?それと同じことです」
そしてすぐに冷笑を引っ込めると、レギュラスは真っ直ぐにフィニアスを見つめた。
「あなたが苦しんでいるとき、僕はただ見ていることしかしなかった。そのことは本当に申し訳なく思っています。自分の身の可愛さに手を差しのべるのを躊躇ってしまった」
「あの寮の中ではそうするしかなかった。別にその事で恨みに思ってなどいないよ」
フィニアスは、今さら昔の事を清算しようとするレギュラスに不気味さを感じた。いかにもこれから死に向かう人のやりそうなことに思えたからだ。
「あなたは僕にとって兄のような人でした。シリウスが少しも兄らしくなかったから」
レギュラスはタオルを綺麗にたたんでテーブルに置くと、おもむろに立ち上がった。
「この写真を、お願いします。僕はひっそりと消えて、誰の記憶にも残らない。そういう人間です。そういう生き方しかしてこなかった。兄とは違って――でも、あなたにだけは忘れて欲しくない」
レギュラスは踵をかえして、戸口に向かった。フィニアスは引き留めなければと、言葉を放った。
「レギュラス、それは絶対に避けられない仕事なのか?止めることは出来ないのか?」
「ええ、出来ません」
その断固とした答えを聞いたフィニアスは寝室に飛んで行くと、小さな箱を持って戻ってきた。
「どうしてもやらなければならないのなら、これを持っていってくれ」
「これは――」
レギュラスは箱の中に無造作に納められた黒い花のペンダントを取り上げた。
「私の杖の成れの果てだ。ダンブルドアがお守りだとかなんとか言っていた。気休めだろうけど」
「そんな大切な物は貰えません!」
渋るレギュラスにフィニアスはペンダントを無理矢理握らせた。
「私には必要がない物だ。こっちは平和過ぎて欠伸がでるくらいだからね」
フィニアスはさっさと空になった箱を閉じてそばの戸棚にしまい込んでしまった。レギュラスはため息をついて、金色の鎖を首にかけた。
「分かりました。僕もあなたに写真を押し付けたんです。お互い様ですね」
「そういうことだ」
レギュラスがドアを開けた。雨の音が静けさを破って部屋に広がった。レギュラスは黙って再び雨の中に出ていった。
フィニアスはレギュラスの背中を見えなくなるまで窓からじっと見送っていた。白く霞んだ街灯の向こうにその姿が消えた後、カーテンを閉め、ふとテーブルの上を見ると、古くなって縁の柔らかくなった写真の中でブラック家の面々が談笑していた。
フィニアスは棚からペンダントの入っていたビロードの箱を取り出すと、丸めた写真をその中に入れた。
それ以来、レギュラス・ブラックからは何の音沙汰もなかった。誰からも彼の名前を聞くことはなく、ホグワーツへの引越しの時、写真をしまった箱をトランクに移した時を除いて、フィニアス自身もほとんど忘れてしまっていた――