「お客さん、もうやめといた方がいいんじゃないのかい?」
バーテンがグラスを磨きながらカウンターの隅を占拠している客に声をかけた。まだ夜は浅く、薄暗い漏れ鍋の店内には他に客はまばらにしかいなかった。その客はすっかり出来上がっているらしく、潤んだ目で腕時計を睨んだ。
「どうして?まだ、えーっと、七時になったばかりじゃないか。今日は早くに戻るとまずいんだよ。あの変態のおかしなクラブが終ってからじゃないと――あー、お代わり頼む」
客――フィニアス・ペティボーンは残っていたウィスキーを一気に飲み干し、空になったグラスをカウンター越しに突き出した。その手が力を失ってグラスを落としそうになるのを慌ててバーテンが受け止めた。
「ほら、グラスもまともに持てないのに飲んじゃいかん。もう四時間も飲みっぱなしじゃないか。しかも強いのばかり」
フィニアスはカウンターに突っ伏して、腕の中でモゴモゴと呻いた。
「やってられないんだよ、飲まなきゃ。別にいいだろう?誰に迷惑かけている訳でもないし――それとも私の酒癖が悪いとでも?」
漏れ鍋のバーテン、トムはため息をついた。昼でも酒を出しているから仕方ないとはいえ、午後三時から店にやって来て、あたかも午後十時であるかのようなのような飲み方をしては管を巻く客が迷惑でないとは言えなかった。
フィニアスはのっそりと体を起こすと、頭をかきむしった。
「きゃあきゃあ騒ぎ回る子どもの中で仕事してると、こういう大人の時間が欲しくなるんだよ。酒くらい好きなだけ飲んだってバチが当たるもんか」
「ああ、あんたホグワーツの管理人だったっけ。だったら余計酒臭い息で帰るわけにはいかんだろうに」
フィニアスは不満げにテーブルを指で叩いた。
「今のホグワーツがどれだけ辛気臭いか知らないからそんなことが言えるんだ。変態が教師ってだけでも最悪なのに、もう生徒が何人も襲われて石にされてる。フィルチさんの猫も。スリザリンの継承者が秘密の部屋の怪物を解き放ったって専らの噂だ。教授陣は否定してるけどね――なあ、まだウィスキーは出ないのか?――私だって明日は我が身かもしれないんだ。今晩飲み足りないまま明日襲われてみろ、ここに化けて出るからな」
酔っ払いのたちの悪い冗談は聞き流して、トムは眉を寄せて昔を思い出すような顔をした。
「そういや、五十年ほど前にも同じようなことがあったな」
「――は?何だって?」
アルコールで骨抜きになっていたフィニアスの知性がほんの少し戻ってきたようだった。トムは、何気ない一言に酔っ払いが食いついたのをちょっと意外に思いながら、話を続けた。
「いや、私も詳しい話は知らんがね。何か危険な怪物が生徒を襲う事件があったのさ。その時は死人が出たってんで大騒ぎになった」
「ホグワーツで死者が?まさか――聞いたことないな。あんた、私が酔っ払いだからって、担ごうっていうんじゃないだろうな?」
トムはフィニアスの前にグラスを置きながら不服そうに言い返した。
「嘘なんて言うもんか。ただ、今回とは違ってあれはただの事故だった。生徒が隠れて危険な生物を城の中で飼っていたんだ。それが逃げ出して運悪く――」
フィニアスはグラスの水面をためつすがめつしながら、トムの言葉を遮った。
「ちょっと待て、じゃあ犯人は捕まったのか?その、怪物を飼っていた生徒は――ってこれ、水じゃないか!」
一口飲んだグラスを音をたてて置いて、フィニアスは恨みがましい目でバーテンを見た。トムは「私の奢りだ」とうそぶいてから、声を落としてフィニアスの耳に口を近づけた。
「今となっちゃ、あまり大きな声では言えないがね。当時は大分噂になったことだし、まあ、いいだろう――その時捕まったのはな、あのルビウス・ハグリッドなのさ」
「何だって?」
フィニアスの頬から赤みが引いてきたのは、何も奢りの水のお陰だけではないようだった。もう文句も言わずに手元のグラスを一気に空にしたフィニアスの目にはいつもの考え深そうな光が戻っていた。
「それが原因で退学になったハグリッドをダンブルドアが森番にしたんだ。かなりの反対を押しきってね。どうしてダンブルドアが奴の肩を持ったのかは知らんがな。分かってると思うが、言い触らすなよ?私もアイツは嫌いじゃないんだ。お得意だし――」
「分かってる、分かってるよ――」
考えがまとまらないのかフィニアスはグラスを弄びながら、うるさげに呟いた。ところが、暫くしてふと気付いたように言った。
「その、ハグリッドが飼っていた怪物っていうのは一体どんな動物だったんだ?」
トムは肩をすくめた。
「さあ、忘れちまったよ。ご期待に添えなくて悪いね。いずれにせよ、もう半世紀も前のことだし、詮索は無用だ」
「はいはい」
フィニアスはようやく立ち上がった。まだ少し足元がふらついていたが、意識ははっきりしていた。店にはもう随分客が増えている。大きな暖炉は明々と燃え、暖かな空気に寛いだ旅人たちのお喋りがしみじみと広がっていた。時折緑色に燃え上がる炎が客の出入りを知らせる以外は静かな夜であった。
フィニアスは勘定を済ませると、ぼんやりとしたままフルーパウダーを掴んだ。いつもの癖で目的地を言い間違えないように何度か練習してから、炎の中に飛び込んだ。
ホグワーツの事務室に戻ってきても、フィニアスはまだ五十年前の出来事について考えを巡らせていた。どことなく気になる話だったのだ。いや、妙に引っ掛かるのはアルコールのせいかもしれない――フィニアスはシャワーを浴びてすっきりしようと服を脱ぎ始めたが、そこでお使いの品を漏れ鍋に忘れてきたことに気付いた。
やっぱりアルコールは駄目だな、といささか反省しながらフィニアスは再びローブを引っかけた。漏れ鍋へ引き返すと、バーテンが呆れ顔で出迎えたのだった。