翌朝、フィニアスは割れそうに痛い頭を押さえながらベッドを這いずり出た。熱いシャワーを浴び、どうにか着替えをすますと、眉間に皺を寄せたまま事務室へと向かった。ここが街中ならば、出勤ついでに宿酔いの薬でも買うのだが、生憎ここはホグワーツ。薬が調達できるのは医務室かスネイプの研究室だけで、とても頼れそうにはなかった。
フィルチは見回りに出かけていて不在だった。フィニアスは机に向かってダラダラと事務仕事を片付け始めた。午前中は庭園で仕事のはずだったのが、猛烈な吹雪のせいで諦めたのだ。城中どこを歩いても、雪の混じった強風が吹き抜ける地鳴りのような音が途切れることなく続いている。しかし、この窓のない部屋では、暖炉の炎のはぜる音以外はカタリともしなかった。
二時間ほどかけてようよう書類を一枚書き上げ、ふとマグカップを傾けたが、茶は一滴も口に入って来なかった。いつの間にか飲み干していたようだ。しかし宿酔のせいか、口はカラカラに乾いている。仕方がない淹れなおそう、と茶棚を漁るがティーバッグが一つも出てこない。ちょうど切らしていたようだ。
キッチンまでティーバッグをもらいにいくか、このままお茶を我慢するか。フィニアスはちょっと迷ったが、結局重い腰を上げた。このまま机に向かっているのも大儀だったのである。
マフラーで首をぐるぐる巻きにして一歩廊下に出ると、途端にその寒さに震え上がった。授業中の廊下は人通りもなく、余計に冷え冷えとして見えた。
道すがら、寒さとは無縁のほとんど首なしニックが陽気に話しかけてくるのを適当にあしらっていると、ちらりと廊下の先に制服のローブが翻るのが目に入った。ニックを置いてその姿を追いかけると、それはまだ小さな女子生徒が足早に歩み去ろうとしていた。長い、燃えるような赤毛を揺らしている。こんな時間に校内をうろつくなど、サボりかしらん。
「ちょっと君!」
フィニアスがガンガンする頭を押さえながら叫んだが、少女は振り向きもせず歩き続けている。何度目かに呼び掛けた時、ようやくハッとしたように立ち止まった。ネクタイはグリフィンドールのものだった。
「君、授業は?」
少女は今まさに眠りから目を覚ました、というような、必死で自分の置かれた状況を確認しているような顔をしていた。フィニアスは不審に思ったのと、走ったせいで胃の辺りがムカムカするのとで顔をしかめた。管理人の不機嫌な顔を見てようやく少女は覚醒したのか、慌てて弁解し始めた。
「えっと――吹雪で飛行訓練が休みになったの、それで――」
サボりではなかったらしい。それなら長々とかかずらう必要はない。フィニアスは相手の言葉を遮った。
「ああ、分かった、ならいいんだ。一応名前と学年を聞かせて――」
「ジニー・ウィーズリー、一年よ――」
***
フィニアスは事務室に戻ると、ようやく手にした新しい一杯で体を暖めることが出来た。ほっと一息つきながら壁に貼ってある各学年の時間割りを見ると、確かにこの時間、グリフィンドールの一年は飛行訓練だった。
休講とは言えこんな寒い日に寮の外をほっつき歩かなくてもよいだろうに、ウィーズリーということはあの双子の妹か、やはり物好きだな、などと呆れながら茶を啜っていると、突如荒々しく扉が開き、フィルチが転がり込んできた。その大きな物音が宿酔いの頭に響いて、フィニアスは呻き声を洩らした。思わずフィルチに抗議しようとしたが、相手のいつも以上に血の気の引いた顔を見て咄嗟に口をつぐんだ。フィルチは何か強い衝撃に打ちのめされていて、喋ることもままならない様子だった。
相手の顔を見れば何かあったことは間違いなかった。しかも、恐ろしい何かが。フィニアスは震えるばかりで一向に口を開こうとしないフィルチにしびれを切らした。
「一体どうしたんです、フィルチさん」
フィルチは引き攣った唇をブルブルと戦慄かせたと思うと、かすれた声を絞り出した。
「まただ――また生徒が襲われた――今度はゴーストまで一緒に」
その震え声は囁くように小さかったが、フィニアスに与えたショックは大きかった。いつかまた誰かが襲われるのではないかという漠然とした不安が、やはり起こってしまったという恐怖に取ってかわった。瞬間的なパニックから回復すると、次に先程のジニー・ウィーズリーに思い到った。まさか、襲われたのは彼女では――
「やっぱり狙われたのはマグル生まれだ」
ということは、襲われたのは彼女ではない――ウィーズリー家はれっきとした純血である。フィルチは定まらない視線をあちこちに泳がせながら続けた。
「それに石にされている。ミセスと同じだ。しかも、」
ここで、フィルチは一度唇を噛み締めた。相変わらず声は震えていたが、それは最早恐慌のためではなく、怒りのためだった。フィルチは血走った目を見開き、激情の余りフィニアスにつかみかかった。
「最初に見つけたのはあのポッターだったんだ!ハロウィンの時と同じじゃないか!どうしてダンブルドアは奴を放校にせん?何故アズカバンへ引っ張っていかん?奴がやったに決まっとるのに!」
フィニアスはフィルチの手をゆっくり自分のローブから引き剥がした。心臓は激しく脈打ち、まるで自分のものではないようだった。それでも、カラカラに渇いた喉に鞭を打って、平静を装った声でフィルチを諭すように言った。
「第一発見者が犯人なのは推理小説の中だけです。それに校長もおっしゃっていたでしょう、たかが学生に、しかも二年生に生き物を石にするような高度な闇の魔術はとても無理だと――」
「ポッターの肩を持つのか!」
激昂したフィルチの骨ばった手がフィニアスの胸ぐらを掴んだ。
「常々思っていた、ガキどもと馴れ合いやがって――連中は私らをバカにしてるんだぞ、愛想よくしてたって、腹ん中じゃ嘲笑ってるんだ、出来損ないのスクイブってな!それなのに、あんたは魔法使いが憎くないのか?」
「それは――」
フィニアスは言い淀んだ。憎いのはいつも自分だった。唾棄すべきなのは不甲斐ない自分、弱い自分だった。
魔法使いがスクイブを蔑むのは当然のことだ。フィニアス自身も、こうなる前は杖を持たない人々を軽蔑し、無関心とほぼ同義の憐れみを感じていた。だから、自分を冷たい目で見る魔法使いに憎悪を覚えたことはなかった。駄目なのは自分なのだから。そのかわり我慢がならないほど嫌いなのは自分自身だった。それこそ、死を望むくらいに――
フィルチはフィニアスのローブをついと離すと、侮蔑の眼差しでフィニアスを射抜いた。
「あんた、まだ自分が魔法使いのお仲間だと思ってやしないか?いいか、あんたはどう足掻いたって魔法使いには戻れない。いい加減認めた方が身のためだ。このままじゃスクイブとしても出来損ないだぞ」
そのままフィルチはまた何処かへ去っていった。
フィニアスは黙ったまま再び机に戻った。ペンをとって二枚目の書類に向かったが、やはり仕事は進まなかった。ペンを手の中で弄びながら、フィルチの言った言葉を反芻していた。
確かに、私はまだ世界を見る目が魔法使いのままなのだろう。
生まれた時から理不尽な扱いを受けてきた本物のスクイブは、フィルチのように、自分ではなく世界を責める。周りを憎み、自分は何も悪くないと自らに言い聞かせる。
でも、私は違う。スクイブは魔法族の恥だと今でも思っているし、それが間違っているとも思わない。だから、許せないのは世間ではなく自分なのだ。生徒からバカにされても、結局腹立たしいのは自分の無力さに他ならなかった。
学校もまともに卒業出来ず、家門の面子を潰し、最愛の母も死に追いやった。今だってそうだ。役立たず。自分のやっている仕事なんて、本来魔法を使えばあっという間に片付くものばかりだ。憐れみとか同情――哀れなスクイブに職を――以外に、魔法を使えない管理人を雇う理由などないのだ。
――こんな私は、フィルチからすれば、スクイブにすらなりきれないように見えるのももっともかもしれない。やっぱり私は駄目だな――
宿酔いの頭痛はもうとっくに消えていて、フィニアスの思考を阻むものは何もなかった。妙に明瞭になった頭は、次々と後ろ向きな考えを産み出していって止まるところを知らなかった。
***
終わりの見えない連続襲撃事件は、ホグワーツ中を戦慄させた。ただ、学校を本格的なパニックから救った理由があるとすれば、それはクリスマス休暇が間近だったことであった。
各寮の居残り者リストは例年よりはるかに短かった。スリザリン生でさえ、休暇を学校で過ごす者は少なかった。ある日、フィニアスはリストを纏めながら、ふとグリフィンドールのリストの中に見慣れた名前があるのに気付いた。
ハリー・ポッター
ロン・ウィーズリー
ハーマイオニー・グレンジャー
フィニアスは首を傾げた。ポッターとウィーズリーはともかく、グレンジャーまで?マグル生まれの彼女は少しでもこの城から離れたいのではないのか?何だかまたトラブルの臭いがする――フィニアスは三人の名前を羊皮紙に書き写しながら、去年からひっきりなしに続く、この三人組がらみのゴタゴタを思い出していた。
今年に限っては、何かあったらゴタゴタどころではすまないのだが。
とはいえ、彼らがまた何か企んでいる確証はなかったし、フィニアスも生徒のお守りが仕事ではない。三人組が校則破りの常習犯だとしても、実行しないうちから気をもんでも仕方がない。
それにフィニアスは忙しかった。たとえ、お情けで雇われているのであっても、やらなければならないことはしっかりこなすのが大人だ。そうそう、休暇中に済ませなければならない仕事もある。たとえば、使われていないトイレの点検とか――