クリスマス休暇が明けてしばらくが経った頃、フィニアスはすっかり憔悴しきっていた。フィニアスを追い詰めたのは、自分が襲われるかもしれないという恐怖だけではなかった。
継承者の活躍に気を良くしたスリザリン生は「面汚しの管理人も襲われればいいのに」とフィニアスの姿を見るたび聞こえよがしにのたまった。また、この男が犯人ではないのか、と疑いをもったままハグリッドと仕事をするのも一方ならぬストレスだった。ハグリッド本人の人柄も、ダンブルドアの対応も彼が無実であることを示している、と自分に言い聞かせても不安は拭い去れなかったのだ。
さらにフィニアスに追い打ちをかけたのが、ギルデロイ・ロックハートの存在だった。
この男は日頃誰彼構わず捕まえては「自分とサシでやりあおうとしない怪物は腰抜けだ」とか「秘密の部屋の入口を見つけることなど朝飯前」だの盛んに吹聴していたが、それだけでなく、城のどこにいてもフィニアスの姿を見かけるやわざわざ飛んできて、同じ自慢を繰り返した後で、必ずや犯人を捕らえて見せると確約するのであった。なお悪いことに、そこに必ず「貴方のために」と恍惚とした表情で付け加えるから、フィニアスとしては命のみならず、うっかり貞操まで危険にさらしているような恐怖を禁じ得なかった。
ただ、ロックハートは口ぶりの華やかさとは裏腹に、目に見える成果は何一つ上げていないようだった。そのせいか、この防衛術教授の信頼は揺らぎ始めていた。かつては彼の一挙手一投足に目を輝かせていたファンですら、最近では冷ややかな視線を隠そうとしない者もいた。ロックハートの人気に凋落の兆しが見え隠れしていることだけが、近頃のフィニアスの唯一の慰めであった。
***
「ジニー・ウィーズリー、一年、グリフィンドール、罪状は夜間徘徊――と」
フィニアスは羽ペンを置き、机を挟んでうつ向いて座っている少女を見た。彼女は普段は規則違反には縁遠いはずなのに、何故か今晩は就寝時間も大分過ぎた夜更け、嘆きのマートルのトイレの近くでうろうろしているのを捕まったのだった。
ただでさえ薄暗い事務室で、長い赤毛がその顔を隠していてその表情はうかがえなかった。
「ミス・ウィーズリー?」
ジニーはギクリと肩を震わせたが、顔は伏せたままだった。フィニアスはうんざりした。一年生が一人で管理人事務室に連れ込まれてどぎまぎするのは分かるが、態度ははっきりさせてもらわなければ困る。仕事は早く終わらせたい。管理人だって疲れていることもあるのだ。特に、スリザリンの継承者に命を狙われているかもしれないという日常では尚更である。
「どうしてベッドを抜け出してあんなところをほっつき歩いていたんだい?もしかして、お兄さんたちに何か唆されたんじゃ――」
「違う、兄さんたちは関係無いわ」
少女は力無く首を振った。長い髪が揺れる。元は美しかったと思われる、ウィーズリー家独特の赤毛は艶を失ってもつれ放題だった。顔もどことなく生気がないようだった。そう言えば、先日自習になった授業中に廊下で声をかけたときも、ぼんやりとしていたな。体調でも悪いのだろうか。
「ならどうして、こんな夜遅くにうろついていたんだい?」
ジニーの唇が動いたが声は出てこなかった。フィニアスは頭をかきむしった。知らず知らずの内に大きなため息が出ていた。苛立った管理人の様子にジニーは少なからず怯えたようだった。
「――あの、医務室のコリンの様子を見に行こうとしてたの」
嘘をついていることは明らかだった。フィニアスはもう嘘でもいいから報告書に書いてしまおうかと思った。しかし、ふと見るとジニーが落ち着かなさげに、ローブの胸の辺りを仕切りに触っている。
「ローブの中に何か隠しているのかい?」
ジニーはハッとしたように顔を上げた。その顔はフィニアスが驚くほど青ざめていて、目の下には黒々とした隈ができていた。彼女はせき込むように否定した。
「な、何も持ってないわ!」
もしかしたら、イタズラグッズの類いを忍ばせているのではないか――そう思って何気なく聞いただけなのに、ジニーのうろたえようは過剰に思えた。いくら入学したばかりの一年生で、叱られ慣れていないといってもである。
「何か隠しているのは分かっているんだ。出して見せなさい」
「お、おかしなものじゃないわ、見てもつまらないものよ――」
そう言いながらも、ジニーの手はずっと胸の辺りを押さえていた。
「それなら出しても大丈夫だろう?持ち込み禁止の物でなければすぐに返してあげるから」
それでもジニーは動かなかった。管理人には見られてはよっぽど不味い物なのだろうか。フィニアスは最後の手段に出ることにした。
「君がそのつもりなら、私の手には負えないな。マクゴナガル先生をお呼びしなければ――」
「おねがい、それは止めて!」
ジニーは懇願するように叫んだ。そして渋々――いや、まるでこの世の終わりであるかのような追い詰められた表情で、ローブの中に手を突っ込んだ。出てきたのは、黒い革で装丁された一冊の本だった。フィニアスは受け取ろうと手を伸ばしたが、ジニーは渡そうとはせず、今にも泣き出しそうな目で訴えた。
「これ、わ、私の日記なの。絶対に中を見ないって約束してくれる?」
年頃の女の子の日記を覗き見るなど、いくら仕事であっても許されないだろう。そう考えたフィニアスはすぐに頷いた。
「約束しよう」
ようやく安心したのか、ジニーは日記帳を差し出した。
受け取ってみると、それは非常に古い品だった。といっても、骨董品の類いでないことは一瞥して明らかだった。装丁に使われている革が安物であることは一目で分かるし、角にあしらわれた金の細工もメッキが剥がれ落ちていた。
裏表紙には日記帳が売られていた店のものと思われるロンドンの住所が印字されている。フィニアスはそれが直ぐにマグルの住所であることがわかった。ジニーは早く日記を返してほしいのか、不安の面持ちでこちらを伺っている。
「これ、随分古いもののようだけど、マグル製だね?わざわざマグルの街で買ったのかい?」
「そ、そうなの。パパがマグルの古本屋で買ったのをくれたの」
フィニアスは首をかしげた。普通日記帳を古本屋で買うだろうか。いくらウィーズリー家が裕福でないとはいっても奇妙な話である。やはり、持ち込むと罰則を食らう類いの品なのではないだろうか。
「でも、もう書き込まれた日記帳じゃ使えないだろう?」
中々日記帳を返してくれないフィニアスにジリジリしてきたのか、ジニーは何でそんなことを聞くのかと言いたげに眉をしかめた。
「日記帳を買ったけど、結局何も書かなかったのよ。それで古本屋に売ったんだわ、トムは――」
言いかけて、ジニーはハッと口をつぐんだ。
「トムって?」
フィニアスは当然の好奇心で聞き返した。しかし相手の顔を見て、追及したことを後悔した。青白かったジニーの顔はこの一瞬でさらに血の気が引いていたのだ。
「トムは――この日記帳のもとの持ち主よ。最初のページにサインがあったの」
フィニアスは自分でも無意識の内に、思わず表紙を開いていた。中を見ないという約束のことはすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。そして、最初のページを見たフィニアスの目は、そのまま釘付けになってしまった。
確かにサインはあった。ご丁寧に年号まで書き添えられている。こんな場合、その名前や年が見る者にとって意味を成すものである可能性は如何ほどだろうか。万に一つも無いに違いない。しかし、フィニアスはこの汚く黄ばんだ紙に走り書きされた文字を何度も繰り返し目で追ったが、どう見ても、その名前にも年にも心当たりがあったのだ。
「T. M. リドル 1943」
トム・M・リドル。1943年。フィニアスは胸が痛むほどに鼓動が速まっているのを感じた。
五十年前、このイギリスにトム・M・リドルという名前の人物は何人いただろう。ホグワーツでスリザリンの継承者を捕らえて功労賞を受けたトム・リドルと、この日記帳をロンドンで買ったトム・リドルは同一人物なのだろうか。
「ペティボーンさん!中は見ないって約束したじゃない!おねがい、もう返して!」
ジニーの金切り声でフィニアスは我にかえった。激情のあまり椅子を蹴って立ち上がったジニーの頬には涙が流れていた。フィニアスは慌てて日記帳を閉じた。
「すまない、つい――これはもう返すよ」
ジニーは奪い取るように日記帳を取り返すと、再びローブの中に隠してしまった。フィニアスの頭に一つの可能性が浮かんだ。もしこの日記帳の持ち主がハグリッドを捕まえた本人なら、何か日記に記録しているかもしれない。そしてそれを読んだジニーはハグリッドがスリザリンの継承者だと知り、彼を庇う気持ちから中身を見られることを恐れているのではないのか――?
本当にハグリッドが継承者なのか、それともトム・リドルが間違った犯人を挙げてしまったのか。この日記にはその謎を解決する手がかりが書かれているかもしれない――
しかし、ジニーのただならぬ取り乱し方や、フィニアス自身の約束を破ってしまった後ろめたさは、これ以上彼女を責め立てることを躊躇わせた。フィニアスは咳払いを繰り返しながら、手元の書類を徒に整えて、気まずさを誤魔化すことしか出来なかった。