九月一日はあっという間にやって来た。
フィニアスは落ち着かなげに部屋をぐるぐる歩き回っていた。組分けが終わり次第生徒たちの前で紹介があるからと次の間に待たされてそろそろ三十分。隣の大広間から時おり微かに聞こえる歓声もそろそろ終わる頃だろうか。
フィニアスは明々と燃える暖炉の前でもう一度ネクタイとローブを整えた。髪を梳こうとローブのポケットから櫛を取りだしたところで広間へと通じるドアからノックの音がした。ミネルバ・マクゴナガルが顔を出す。
「ペティボーンさん。そろそろです。準備はよろしいですか」
「ええ」
フィニアスが大広間へと出た刹那、「スリザリン!」という帽子の叫び声とともに目の前のテーブルからどっと歓声が沸き起こった。これが最後の組分けだったらしい。生徒たちは興奮していて、ひっそりと大広間に入ってきたフィニアスに気付いた者はいなかった。
教員席からアルバス・ダンブルドアが立ち上がった。ごく短い挨拶のあと、ご馳走に手をつけたくてウズウズしている生徒たちをなだめてフィニアスの紹介を始めた。
「今年からフィルチさんに加えて一人新しい管理人をお迎えしておる。フィニアス・ペティボーンさんじゃ」
教員席の真下にいたフィニアスに一斉に視線が集まる。フィニアスは口許に当たり障りのない微笑を浮かべて一礼した。生徒からはパラパラと投げやりな拍手が起こった。皆ご馳走が待ち遠しいのだろうし、元来管理人なんて嫌われ者なのだ。一人いるだけで煩わしいのに(フィニアスも学生時代はフィルチが嫌いだった)それが二人に増えるのだから生徒として嬉しくはあるまい。
「ペティボーンさんには見回りなどのフィルチさんの手伝いと庭園の世話を頼んでおる。皆くれぐれも困らせるような事が無いようにの」
校長の言葉を聞いて、グリフィンドールのテーブルに座っている赤毛の少年二人がわざとらしく肩をすくめたのが目に入った。
フィニアスが気まずさを感じるより先に宴が始まった。たちまち料理に夢中になった生徒たちの頭からは新しい管理人のことなどもう消えてしまっているようだった。フィニアスはそっと広間を辞して管理人の事務室に戻った。扉を開けるとフィルチの飼い猫、ミセス・ノリスに出迎えられた。痩せた猫を抱き上げながらフィニアスが部屋の奥を覗くと、書類棚の陰で飼い主様は書き仕事が忙しく、猫を構ってはいられないようだった。
フィニアスは表の擦りきれたソファに体を投げ出した。窓のない薄暗い部屋に、フィルチが羊皮紙にペンを走らせる小気味良い音だけが響いている。膝の上のミセス・ノリスを無心に撫でながら、フィニアスは明日からの我が身を思いやった。
自分が在学中「スリザリンの面汚し」と蔑まれていたことが生徒たちに知れるのは時間の問題だろう。自分と同じ頃に在学していた生徒の子供たちが今、この城に学んでいるのはほとんど疑いがないのだ。学生時代の自分は有名だった。名家の一人息子、成績優秀でクィディッチ選手、スリザリンのトップ――順風満帆な中、突然魔法力を失ってしまった不憫な生徒――はじめは治療のために、後には絶望を紛らわせるためにアルコールに溺れた恥さらし――
皆が自分を見ていたのだ。授業でたくさん挙手し、クィディッチで華麗にピッチを舞い、スリザリン寮のために数知れない功績をあげた自分も、魔法力を失い、浮遊呪文すらままならず、来る日も来る日も酒に溺れ、廊下の真ん中で泥酔していた自分も。頂点から真っ逆さまに谷底へ落ちていく様を。
ダンブルドアは全てわかった上で自分を雇ったのだろうから、過去が生徒に知れたところでクビになることは無いのかもしれない。いや、ここを解雇されることは何も怖くない。むしろ、惨めな自分の転落人生のクライマックスを知っている人たちと共に暮らす方がよっぽど――
カリカリというペンの音が止まった。撫でていたフィニアスの手を弾いてミセス・ノリスが膝の上から飛び下りた。
「何をボンヤリしている」
顔を上げると、仕事が一段落したらしいフィルチが猫を抱えてこちらを睨んでいた。
「私たちも夕飯に行くぞ。そろそろガキどもが食い終わる頃だからな」
フィニアスは慌てて立ち上がった。二人並んで廊下に出ると、遠くから大勢の生徒が騒ぎなから行列を組んで寮に向かう音が聞こえてくる。その微かに空気を伝わる喧騒にフィルチが毒づいた。
「あの連中ときたら、口を閉じて歩くことも出来んのかね」
それにフィニアスは苦笑で返した。
「まあ、何を見ても面白いお年頃ですから」
フィルチは鼻で笑ったが、その響きは憎しみと苦渋に満ちていた。
「そんな風に寛容でいられるのも今だけだ。一週間もここで暮らしてみろ、連中が憎くて仕方なくなる」
「そうでしょうか」
「間違いないね。とくに、あんたがスクイブならな」
そう言えば、この人はスクイブだったな。フィニアスは学生時代を思い出した。必要以上に生徒に辛くあたり、反面教授たちには決して逆らわない。それは全て自分が出来損ないであるという鬱屈した思いから来ていたのだろう。自分の出来ない事を全てできる生徒たち。無邪気に城を駆け回るその姿をフィルチがどう思って見ていたのか――
「あのガキどもめは私たちのようなもんのことなんか屁とも思っちゃいない。人とも思ってないんだ」
「ええ」
それはよく分かっている。自分がまだ普通の魔法使いだったころはスクイブとはなんと惨めなものなのだろうと哀れに思ったものだったが、それも所詮は物語の話のように遠い他人事だと思っていた。
「にしても、あんた、どうして今更こっちに舞い戻ってきた?マグルの中で暮らす方がよっぽど気楽だろうに」
「ダンブルドアの頼みじゃ断れないでしょう。大体マグル界での就職先もダンブルドアの紹介でしたし」
つい先月、フィニアスの住むマグルだらけの町にダンブルドアが突然訪ねてきたのだ。そしてとんがり帽子とローブに身を固めた魔法使いを久しぶりに目にした驚きの覚めないうちに、ホグワーツの新しい管理人になることを承諾させられたのだった。出来れば断りたかった。マグル界に紛れ、過去の心の傷には触れないままで一生を終えたかった。だが、多大な恩を受けているダンブルドアに頼み込まれたのでは断りようがなかったのだ。
「まあ、そうだな。校長くらいだろう、あんたみたいなのの退学後の面倒まで見るなんて――あれだけ荒れ放題に荒れてたあんたを」
「覚えているんですか、私のこと」
フィルチはまた鼻で笑ったが、今度はそれほどの悪意は感じられなかった。
「毎晩のように廊下で泥酔して眠り込んだあんたを誰が医務室まで引きずっていったと思ってるんだ。真冬にまでローブ一枚で寝てるんだからな。私が運んでやらなかったら何度凍死してたかわからん」
「ああ、そんなにお世話になっていたとは」
しかし、実はフィニアスの記憶の中にフィルチの姿はほとんどない。生徒の不品行を責めることにかけては邪悪なまでに執拗なフィルチである。しかし、フィニアスは真っ昼間から授業をサボり、酒瓶片手に城を徘徊していたというのに、何故か一度もフィルチに捕まったことはなかった。それに、酔い潰れた自分を医務室まで連れていってくれていたとは。
もしかして、同情されていたのだろうか?
フィニアスが言葉を探しているうちに、フィルチがその皺の多い顔を歪めて言った。
「まあ、あんたがどう思っているかは知らんが、スクイブがここで暮らすってのは並大抵のことじゃない。覚悟しとくんだな」
「ええ」
もうフィニアスもフィルチも喋らなかった。この話題は打ちきりにしたい、どちらが口にしたわけではないが互いが互いのその気持ちに気付いたようだった。
静まり返った城に響くのは二人の靴が廊下を打つ音だけだ。明日になれば同じ場所を無数の生徒たちの足が踏みつける。しばしの静寂をフィニアスは有り難く思った。