バレンタインデーにロックハートをやり込めてからというもの、フィニアスは随分とスッキリした気分で毎日の管理人業務に勤しんでいた。
三月に入ったが、今のところロックハートはフィニアスの姿を見るとそっとウィンクとキッスを遠くから投げるだけで退散してくれている。それだけでも十分げっそりさせられるが、ところ構わず追いかけ回されないだけ事態は好転しているのだろう。それに、あまり期待はしていないが、もしロックハートがスリザリンの継承者を捕らえてくれれば万々歳である。
とはいえ、あの程度の牽制でロックハートの我慢がどれだけ続くものか疑わしいが、まあ、何かあればその時はその時である――と、今のフィニアスは少し前向きに考えることができた。
今やスリザリンの継承者の気配はホグワーツからほとんど消えてしまっていた。襲撃の危険が遠退くに連れて、ジニー・ウィーズリーの日記帳のことも日々の雑務に紛れてフィニアスの頭から追い出されていった。といって、まだ犯人は捕まっていないのだ。安全であると言い切れる訳ではない。だから、庭園のバラの木についた肉食ナメクジの駆除剤を貰いにハグリッドの小屋を訪ねなければならないとなった時、フィニアスは相変わらず二の足を踏んでしまった。しかし、このバラは学年末パーティーで大広間を飾るためのものだった。ここで枯らしてしまう訳にはいかない。
フィニアスは仕方なく足を禁じられた森の方へ向けた。授業中の城の回りには生徒の姿は無く、冬が過ぎたばかりでまだくすんだ色をした芝生が寒々しく広がっていた。
ハグリッドの小屋の前まで来たときのことである。なんの前触れもなく、ドーンという腹に響く爆音が辺りに轟いた。
雷でも落ちたのか、とフィニアスは咄嗟に空を見上げた。が、雲ひとつない青空がひろがっている。それがハグリッドの怒鳴り声だと気付いたのは、もう一度同じ轟音が響き、そこに意味のある言葉を聞き取ったからである。
「――あいつじゃねえ!」
どうやら小屋の中でハグリッドと誰かが口論しているらしい。ハグリッドの大声に続いて、ボソボソと反論するような漏れ聞こえたが、その内容までは聞き取れなかった。フィニアスは引き返すべきが瞬時躊躇ったが、次に耳を襲った声ではたと足を止めた。
「アラゴグは無実だ!犯人じゃあねえ!」
アラゴグ?確かどこかで聞いたことがある――いや、見たことがある――そうだ、文書庫で見た五十年前の事件の記録。そこで犯人とされていた化け蜘蛛。それをハグリッドはアラゴグと呼んでいた、そうトム・リドルが証言していたと記録されていた。
これはひょっとして継承者がらみの話かもしれない――フィニアスはそっと小屋に近づき、壁に耳を近づけた。自分の中の下世話な好奇心は見てみぬふりをし、盗み聞きの罪悪感の方は襲撃犯特定のために致し方ないのだと無理矢理ねじ伏せた。
壁を通してハグリッドではないもう一人の男の声が、今度ははっきりと聞こえた。
「何も君が襲わせたとは言っていない。ただ、五十年前のことがある。何か知っていることがないかと訊ねているだけだよ」
「アラゴグは人を襲わねえ、そう教えとるからな!そもそもなんで俺がマグル生まれを襲うなんてバカなこと考えなきゃいけねえんだ!」
「ああ、そうだ、その通りだ。君がそんな奴じゃないことは分かっているさ」
なだめるように言い聞かせるこの声の持ち主にフィニアスは心当たりはなかった。再びハグリッドの怒声がビリビリと伝わってくる。
「なら俺んところに来るのはお門違いだ!魔法省は間違っとる、五十年前も今回も――」
なるほど、もう一人の男は魔法省から来たのか。そう言われれば、こののらりくらりとしたしゃべり方は役人独特のトーンのような気もする。
「だが、そのアクロマンチュラは今も禁じられた森に住んでいるのだろう――落ち着きたまえ、何も君が指図したとは言わない――ただアラゴグが本能のまま行動したということも考えられる」
「有り得ねえ!」
フィニアスは壁に張り付き息を詰めて聞き入った。まだ寒い季節なのに額を汗が伝った。誰かにジャパニーズ・ニンジャのような姿を見られてしまうのではないかという心配はある。人の話を勝手に聞いている良心の咎めもある。しかし、その場を離れる決心がつかなかった。
興奮しているハグリッドとは対照的に、役人の方は嫌味なほど落ち着いていた。
「何故そう言い切れる?他に『スリザリンの怪物』の心当たりでもあるのかね?」
「はっきりとは分からん。が、アラゴグもその怪物に怯えとった。俺がそれが何者なのか聞いても決して答えようとはせなんだ――心から怖れとった。名を口にするのも恐ろしいと――」
予想外に明確な受け答えだった。嘘をついているようには思えない。何といっても咄嗟に嘘をでっち上げて話を誤魔化すなんて芸当はハグリッドには土台無理な話だ。そんなことをさせれば、目は泳ぎ、言葉はしどろもどろで余計に怪しまれるに決まっている。
だが、成長すれば象ほどの大きさにもなる肉食蜘蛛に怖れる生物など果たして存在するのだろうか?フィニアスの頭に浮かんだ疑問は、アクロマンチュラを犯人だと決めてしまいたい役人にとっても、当然見逃すはずのないものだった。疑わしげな、いやむしろ嘲るような声が聞こえた。
「アクロマンチュラが怖れる怪物ねぇ――」
その時、授業の終わりを告げる鐘が鳴り、城から吐き出されるように生徒たちがバラバラと姿を現し始めた。――やれやれ、そろそろ盗み聞きなど品の悪い行いは止める潮時かもしれない。
フィニアスもいい加減好奇心と良心との戦いに疲れてきていた。握った手には汗が滲んでいて、口はカラカラに渇いていた。フィニアスはほっと息をついて、そ知らぬふりで小屋を後にしたのだった。