フィニアス・ペティボーンは椅子の背にドッと身を投げ、手にした長いピンセットを武骨な木机の上に放り出した。
「なんだって私がこんなことを!」
まだ朝だというのに自然光のほとんど差し込まない暗い地下室に叫び声がこだました。フィニアスの目の前には大きなガラスのケースと、数えきれないほどのビンが並んでいる。ガラスケースの中には無数の黒い小さな蜘蛛がところ狭しと動き回っている。どろどろと燃える暖炉の炎の揺らめきに合わせて、その影も不気味に震えていた。
フィニアスは舌打ちをしてから、再びピンセットを取り上げるとガラスケースに向きあった。蓋をそっとずらして一インチほどの蜘蛛をつまみ上げる。すかさず蓋を元に戻す。同時に既に数匹の蜘蛛の入っているビンの中に蜘蛛を移す。しかし、蓋を開けた途端、先客が一匹逃げ出し、慌てて捕まえようとすると、ピンセットの手が緩み、ここぞとばかりに掴んでいた一匹も逃走を試みる――あっという間に部屋の角に消えていった蜘蛛を追いかけもせず、フィニアスはもう一度ピンセットを放り投げた。
「ああもう、やってられるか!」
その虚しい叫びに答える者はいない。ただケースの中で蠢く蜘蛛たちが一層せわしなく足をばたつかせるだけだった。
***
朝食を終え、事務室に戻ろうとしていたフィニアスがセブルス・スネイプに呼び止められ、地下室に連れていかれたのは一時間ほど前のことだった。
朝っぱらから気に食わない人物の顔を拝む羽目になったフィニアスは、ポーカーフェイスは何とか留めたものの心の中では思いっきり悪態をついた。それを知ってか知らでか、スネイプはいつも通りの仏頂面で、フィニアスに頼みたい仕事があると言う。
そして連れていかれた地下室に、無数の蜘蛛が這い回るガラスケースが鎮座しているのを見ると、フィニアスは思わず胸が悪くなるのを感じた。そして頼まれた仕事の内容を聞いて、ついに顔が歪むのを禁じ得なかった。
「生きている蜘蛛をビンに小分けにしろと?どうして既に死んだものを買わないんだ」
「魔法薬の質には材料の鮮度が関わる。これは学年末試験用だ。既に死んだ蜘蛛を放っておけば、只でさえ不出来な提出物が劇薬になりかねん」
事も無げに答えるスネイプにフィニアスは向かっ腹を抑えることが出来なかった。
「なら、試験直前に死んだものを買えばいいだろう」
「問屋もそう都合よく大量の材料は揃えられん」
と、スネイプは取りつく島もない。しかし、フィニアスもただでは引き受けたくはない。言える限りの文句は吐き出さねば落ち着かない。
「そもそもこの手の蜘蛛はホグワーツの周辺で簡単に見つかる種類だ。いつもは生徒の罰則で集めさせているのに、今年はどうしてわざわざ問屋から買ったんだ」
スネイプは答えるのも億劫だというようにドアの方に体を向けた。
「何故か今年は城の周辺の蜘蛛が激減したのだ。ともかく頼みますぞ。我輩はクィディッチの観戦に行かねばならんのでね」
「私だって急に仕事を割り込ませられるほど暇ではないのだがね」
スネイプの唇の端がつり上がった。
「しかし、相変わらずクィディッチの観戦には行かないのだろう?なら少なくとも我輩よりは時間に余裕があるものと拝察するが。それとも今になってクィディッチ熱がぶり返しでもしたのか?」
フィニアスのクィディッチに対する愛憎をスネイプは知っている。確かに、大好きだったクィディッチを二度とプレー出来なくなった悔しさと悲しさは、いつしか競技そのものへの憎しみに変わり、ホグワーツへ戻ってきてからも一度も観戦には行っていない。フィニアスが言葉に窮した隙にスネイプは地下室を出ていってしまった。
一人取り残されたフィニアスはガラスケースの置かれた机の前に座ったが、折り重なって動く蜘蛛たちを見るや、さらに胃の辺りがむかついてくるわ、スネイプに腹は立ってくるわで、はらわたがどうにかなってしまいそうだった。
***
それから蜘蛛と格闘すること一時間。
「動き回るなったら!」
逃げ回る蜘蛛に何度罵声を浴びせたことか。いくら声を荒げても、言葉の通じない虫が言うことを聞くはずがない。ましてや彼らからすればここで逃走に成功すれば、粉々にすり潰される運命から逃れられるのだ。
またも一匹ガラスケースの蓋の隙間から逃げ出した。瞬く間に机の足を伝って、本棚の影に消えていった。十六匹目の新天地へ旅立った蜘蛛を見送った瞬間、フィニアスはフラストレーションを爆発させた。
「ああもう!止めだ!」
やけくそで叫んでから背もたれにだらしなくもたれ掛かり、蜘蛛の巣だらけの天井を眺める。あんなにたくさん巣が張っているのに、何で一匹も見付からなかったのだろう?やはりスネイプの嫌がらせか。またムラムラと怒りが沸き起こってくる。
「蜘蛛なんか蛇に喰われてしまえ!」
ああ、もしかしたら、ホグワーツで蛇が大量発生したのかもしれない。蜘蛛は蛇の格好の餌だ。それで蜘蛛が見つからないのかも――ぼんやりと自分の声の反響に耳を傾けながら考えていると、どことなく引っ掛かるものを感じる。蛇は蜘蛛の天敵――蜘蛛は蛇を怖れる――アラゴグも何かに怯えていた――もしかして――!
フィニアスは椅子から跳ね起きた。頭を貫いた一つの閃きが、体をも突き動かした。確かめなければならない――図書館へ行かなければ――
立ち上がった拍子にガラスケースの蓋がずれて蜘蛛が続々と逃げ出していたことにも気付かなかった。もう、スネイプのなどすっかり頭から抜け落ちていた。
***
もう生徒はみなクィディッチ観戦に出掛けた後なのか、城はがらんとしている。これ幸いと、普段は廊下を走る生徒を叱る立場であることを棚に上げて、フィニアスは図書館まで全力で駆け抜けた。
図書館の扉は開けっ放しになっていた。そばには「休館」の札が落ちていたのだが、フィニアスは気付かないまま館内に駆け込んだ。
照明が落とされ、窓からの光も背の高い書棚に遮られて館内は夜のように暗い。しかし、目当ての棚は分かっている。巨大な事典類が並んでいる棚に辿り着くと、顔を近付け、目を凝らして端から背表紙を見ていく。
「魔法生物大全――爬虫類の巻は――これだ」
フィニアスは縦七十センチ、厚さ十センチはある一冊に手を伸ばした。本を引き出す前に、その手の上に誰かの手が重なった。それまで息を切らせ無我夢中だったフィニアスは、突然手に感じた汗ばんだ掌独特の生々しい感触に、急に現実に引き戻された。
ドキドキと胸を内から叩く心臓を押さえて隣を見ると、フィニアスと同じ「魔法生物大全 第十二巻 爬虫類(一)」に手を掛けているフワフワの髪をした少女が、微かな明かりに額の汗を光らせ、目を丸くして此方を見詰めていた。
「ペティボーンさん?」
「ミス・グレンジャー?」