数日後、無事医務室を退院したフィニアスは、二ヶ月仕事から完全に切り離されると、一体自分のデスクの上がどんな事態に陥るのか、身をもって経験することとなった。
「えっと、フィルチさん」
フィルチはほぼ半年ぶりに帰ってきたミセス・ノリスを膝に乗せ、仕事そっちのけで構い倒している。時々耳を覆いたくなるような幼児語まで聞こえてくる。
「ああ?」
飼い猫との時間を邪魔されたフィルチは不機嫌な声を上げた。ミセスも主人に倣ってにゃあと抗議した。
「この机の上の書類は、全部私の物なんですよね?」
フィニアスが指差す先には、うず高く積まれた羊皮紙の山が今にも崩れそうにしている。フィルチは面倒臭そうに答えた。
「それはあんたの机だろうが。あんたの机の上にあるもんはあんたのもんに決まっとろうが。私は人のもんを盗ったりはせんよ。そうだろう、ミセス・ノリス?」
フィニアスはやれやれと首を振った。まさかフィルチが自分がいない間の仕事を肩代わりしてくれているとは期待していなかったが、二ヶ月でここまで滞っていたとは。果たして学年末までにさばき切ることができるだろうか――私がホグワーツを去るまでに。
それに、庭園だ。唯でさえ繊細な手入れを必要とされる仕事なのに、二ヶ月もほったらかしにするなんてどんな状態になっているか想像するだけでゾッとした。過去の記憶という己の内なる楽園をひそかに再現するという望みは絶たれたに等しいのだ。
とは言っても、どうせ辞めるのだからといい加減に済ませるのも気分が悪い。ともかく取りかからねばと、フィニアスは書類の山の一番上に絶妙なバランスで乗っかっているファイルを取り上げた。
やがてフィルチはミセス・ノリスを大事に抱えながら部屋を出ていき、フィニアスは静かに羽ペンを動かし続けた。
五分ほどしてノックの音がした。何だ邪魔しやがって、と思いつつ「どうぞ」と返した。来たのが誰だろうと、仕事の手は止めるものか。教授なら私が忙しいことは察するだろうし、生徒相手に遠慮することはない。
ドアをギシギシ言わせながら恐る恐る入ってきたのはハーマイオニー・グレンジャーだった。彼女は火の入っていない暖炉の前の椅子にかけてモジモジしながら、何か言いだそうと口を開け閉めしていた。中々話を切り出そうとしないハーマイオニーに、暫くはペンを動かし続けていたフィニアスも、さすがに手を止めて向き合わざるを得なくなった。
「元気そうで良かったよ」
「ええ、ペティボーンさんも」
「それで、何か用かな?」
促されてハーマイオニーはようやく話始めた。
「あの、あの時、バジリスクに襲われる直前、言いかけていた事なんだけど、覚えてる?」
そう言えば、あの時廊下を急ぎながらハーマイオニーが何か言いかけていたような覚えがある。だがジニー・ウィーズリーを見掛けたことで、それっきりになってしまったのだった。
「ああ、覚えてるよ」
ハーマイオニーは意を決したようにフィニアスの目を見つめた。
「私ね、その、ペティボーンさんに謝りたかったの――」
「謝る?」
面食らったフィニアスは心当たりを探してみたが、ロックハートとの妙な噂が流れてからというもの、彼女とほとんど言葉を交わしていなかったことを思い出した。
「私、つまらない噂を信じてしまったわ。ほら、ロックハート先生と貴方がどうとかいう――ほんとバカだったわ。どうしてあんなこと信じたのかしら。だってペティボーンさんはいつも私を助けてくれたひとなのに。去年のハロウィンなんて、命懸けでトロールから庇ってくれたのに――下らない噂話を信じて貴方を避けてしまったわ。本当にごめんなさい――」
フィニアスは目の前でポロポロ泣き出したハーマイオニーをどう扱ったらよいものか分からずに、ただひたすら彼女の頭をなで続けた。
「あまり気にしないで――あんな噂を聞いたら誰だって不快になるさ。それに誤解も解けたことだし」
「でも、許されることじゃないわ。ペティボーンさんは命の恩人なのに。私、何でもするわ」
ハーマイオニーはどうにも自分が許せないようだった。どうすれば、この真面目な少女の罪悪感を取り除いてやれるだろうか?
「なら、また庭の手入れを手伝ってくれるかい?」
ハーマイオニーはびっくりした様子で顔を上げた。
「また手伝わせてくれるの?」
「勿論だよ。特に二ヶ月分の仕事が溜まっている今は手伝ってくれるととても助かる」
「他に何か出来ることはない?」
勢い込んだハーマイオニーにフィニアスは微笑んだ。
「今のところはそれで十分だよ。君と一緒にまた庭仕事出来るだけで嬉しいからね」
軽くウィンクして見せると、ハーマイオニーは顔を真っ赤にして、口をパクパクさせている。
フィニアスの言葉は強ち嘘でもなかった。しかし、顔にこそ出さなかったが、実は困惑が頭の大部分を占めていた。まさかこうしてまたハーマイオニーと話すことがあるとは思っていなかったのだ。一度離れた人の心が再び戻ってくるなんて。これは素直に喜ぶべきなんだろうか――
***
「ここ、本当に二ヶ月もほったらかしだったの?」
ハーマイオニーが思わずそう漏らしたほど、二ヶ月ぶりの庭園は見事なものだった。色とりどりに咲き乱れる初夏の花々には、伸び伸びとした自然の美しさを失わせない絶妙な加減で、人の手がかけられていることが明らかだった。足許を見ても雑草はきれいに摘み取られ、害虫の類いもいないようだ。
「一体誰がここまで面倒を見たんだろう、ハグリッドはアズカバンだったし」
はち切れんばかりにみずみずしい空色のバラを調べているフィニアスの袖をハーマイオニーが引っ張った。
「ペティボーンさん、あそこに誰かいるわ」
木陰から覗くと、黒髪の少年が一人しゃがみこんで雑草を引き抜いている姿が目に入った。足許にはむしった草が山を作っている。鹿爪らしい顔で熱心に作業に励んでいるその顔には見覚えがあった。
「ミスター・ディゴリー?」
こちらに気付いたセドリック・ディゴリーは驚きに灰色の瞳をパチパチさせていたが、俄に頬を緩めて微笑み返した。
「退院されたんですね、ペティボーンさん!それにグレンジャーも」
ディゴリーは汚れた手で触ったのだろうと思われる泥だらけの顔を綻ばせてニコニコとしている。
「君が、この庭の面倒を見てくれていたのか?」
「僕が、というか、元々はスプラウト先生が引き受けられたんです。でも、マンドレイクの方が手を離せなくなったから、代わりに有志のハッフルパフの生徒が当番を決めて世話を――ただ、試験をやるって発表されてからは僕しか残りませんでしたけど。結局試験が無しになってホッとしました」
皆が試験を優先しても、彼は一人で庭園に通い続けたのだ。彼だけ試験を免除されていたわけでもあるまいに。それに、聞いた限りではクィディッチチームにも所属しているはずだ。
ディゴリーは相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべている。
「ペティボーンさんが帰ってきてくれて安心です。正直ちょっと心配だったんです。庭仕事の知識はほとんどなかったから、図書館で調べて――」
確かに、彼の足許の抜かれた雑草の山の中には育てている花の芽も混じっていた。それでも、ここまで庭を維持するのは並大抵の根気と努力では無かったはずだ。フィニアスはこの少年の理解しがたい好意の出所を確認せずにはいられなかった。
「でも、どうしてここまでしてくれたんだい?いや、その本当に有りがたいことだけれど――」
ハロウィンの晩と同じだ。感謝しなければならない立場なのに、それを忘れて、ともすれば相手を責める方に傾いてしまう。それほどセドリック・ディゴリーの行動はフィニアスを混乱させた。
しかし、ディゴリーはそんなフィニアスの心には気付いていないのだろう。照れ臭そうに笑いながら頬をかいた。そのせいでまた顔がどろどろになっていく。
「この庭、ペティボーンさんが来る前は荒れ果てていたのに、二年でこんなに綺麗になりました。それをこのまま駄目にしてしまいたくなかった――僕、この庭が大好きなんです」
ああ、それだけか――本当にそれだけの理由でこれだけのことが出来るものなのか。
「それは、どうもありがとう――」
絞り出した言葉はどうにも嘘臭い響きがした。少年の不可解な行動に対する戸惑いのせいだけではなかった。自分の記憶にある母との思い出の場所を再現してきたフィニアスにとっては、神聖な空間に土足で踏み入られたような不愉快な感覚を禁じえなかったのだ。
しかし、ディゴリーは汗と泥にまみれた顔を初夏の太陽にも負けないくらい輝かせて、フィニアスをさらに困惑させる反応を見せた。
「どういたしまして!」