みすぼらしい改装中のデパートから一歩聖マンゴ病院の院内に入ると、行き交う癒師や患者のざわめきや、あらゆる魔法薬の混じったツンと鼻をつく匂いがフィニアスの古い記憶を呼び覚ました。五年生の冬の魔法力を失ったその日から、まだ回復の望みがあると信じていた頃は、ほとんど毎週のように診察に訪れていたのだ。この病院はその頃から、ほとんど変化していない。
「ミリアム・ストラウト癒師に取り次いで頂けますか。フィニアス・ペティボーンです」
忙しさは仏頂面の言い訳になると考えているらしい受付の魔女は、手元のグリップボードを睨み付けるとフィニアスの方も見ず素っ気なく答えた。
「ペティボーンさんね。直接五階にいらっしゃって下さい」
案内板も見ないままフィニアスは階段へ向かった。五階で呪文性損傷を扱っているのも変わらないらしい。そういえば魔法力を失った時自分が最初にかかったのもそこだった。といっても何一つ謎の症状の原因は解明されず、それから何ヵ月にも渡って全科をたらい回しにされたのだが。
フィニアスを待ち構えていたミリアム・ストラウトはマダム・ポンフリー以上に癒療について妥協のない人物だった。
「ペティボーンさん、何度もお呼び立てして申し訳ありません。でも患者がどうしても貴方に会いたいと聞かないので仕方なかったんですのよ。会えないなら自分から会いに行くと、逃げ出そうとさえするし――」
彼女は非常に申し訳なさそうに、しかし全く遠慮のない強引さでフィニアスを隔離病棟に引きずり込んだ。そして、ベッド脇の肘掛け椅子の中で何か必死に羽根ペンを動かしている男に向かって優しい声で語りかけた。
「さあ、ペティボーンさんが来てくださいましたよ。ギルデロイ、ご挨拶して」
顔を上げた男と目があった瞬間、フィニアスはどうにか笑顔と呼べそうな表情を作り出した。いわゆる愛想笑いというやつの出来損ないのような顔だったが、この男――ギルデロイ・ロックハート――を感激させるのには余りあるようだった。
「ああ、フィニアス!来てくれたんですね!」
「どうも、調子はいかがですか――ギ、ギルデロイ?」
昨年度末、不幸にも記憶を失い、聖マンゴに搬送される直前のロックハートにフィニアスは二度目の一目惚れをされたのである。あの時は大変だった。ギルデロイと呼べと駄々をこねるし、付き添ってくれなければ病院には行かないと泣き出すし――
フィニアスのぎこちない挨拶にも、ロックハートはかつて世の女性を虜にしていた頃と何ら変わらない輝かしい笑みを浮かべてうなずいた。
「最高ですよ!なんといっても貴方がきてくれたんですから!ほら、貴方に見せようと思ってたくさんサインを練習したんですよ。どうです、続け字も中々上手くなったでしょう!」
そういってミミズののたくったようなサインが入った写真をフィニアスの鼻先に突き出した。
「ええ、とてもお上手ですね」
受け取ってやると、ロックハートは安心したようにまた写真にサインをするのに熱中しはじめた。いつの間にかストラウト癒師の姿は消えていた。手持ちぶさたになったフィニアスはベッドの頭の上の壁にベタベタと貼られた写真をぼんやり眺めた。写っているのはほとんどがロックハートだったが、一枚だけ、新聞の切り抜きが混じっていることに気付いた。今朝の日刊予言者新聞、英国魔法使いの庭十選に載せられたフィニアスの写真であった。
「貴方は庭を造っているんですね?」
サインに夢中だったはずのロックハートは、いつの間にかフィニアスと同じ切り抜きを見つめていた。
「ホグワーツってあの暗くて怖いお城でしょう?あそこにこんな綺麗な庭があるんですねぇ、見てみたいなぁ――」
ロックハートの曇りのない憧憬が白い壁に虚ろに響いた。そうか、この人は自分が通っていた学校の記憶も無いのか――ロックハートへの同情なのか哀れみなのか――いや、それよりも肋骨の内側のもっと深いところをざわつかせるような、どちらかというと恐怖に近い感覚が広がった。
病室の扉が開いた。ストラウト癒師だった。その足取りには有無を言わせぬ快活さがある。
「あら、ギルデロイ、ペティボーンさんにサインは差し上げたの?」
「ええ、フィニアスも上手くなったって誉めてくれましたよ!」
そう嬉しそうに言うと、ロックハートはまた写真の山にサインの練習を始めた。背中を丸めて、夢中でペンを動かしている。ストラウト癒師の目配せを受けて、フィニアスはそっと病室を後にした。
憮然としたまま、フィニアスは聖マンゴ病院を後にした。信号が点滅する横断歩道を渡り、大通りから一筋外れた路地に入った。地下鉄の駅までの近道なのだ。道の入り口には一軒の安食堂が店を構えている。今は消えているネオンサインには、モリソンズ・カフェと書かれている。
フィニアスは食堂のドアを押した。ドアベルの小気味よい音が響く。聖マンゴ病院からの呼び出しがかかるたびに、この食堂に寄るのが習慣になっていたのだ。すっかり顔なじみになったウェイトレスが明るい声を掛けてくる。
「いらっしゃい、今日もいつものでいいかしら?」
「いつもの」を頼みながら、フィニアスは店内を見渡した。安っぽいビニールのテーブルクロスも、ひび割れた合皮がちくちくする椅子も、フィニアスの感性に合うものではなかったはずなのに、このパッとしない店のどこに惹かれたのだろうか。
初めてこの店を訪れたのは、初めて聖マンゴからの呼び出しがあった日のことだった。ロックハートのお守りをどうにかやり遂げて病院を出ると、ちょうど時刻は昼過ぎのことで、フィニアスは空腹だった。病院から目と鼻の先のこの食堂はあまり気持ちの良い店には見えなかった。昼間なのに薄暗く、日の当たらない店は、不潔なうえに不健康に思えたのだ。しかし、辺りを見渡しても、他に食事のできそうな店は無く、渋々この店の客になることを決めたのだった。その時は、まさか自分がこの店の常連になろうとは予想だにしていなかった。
程なくして乱暴にテーブルに置かれたサンドイッチの切り口は大雑把で、チーズとハムが無秩序にはみ出している。ふと周りを見渡すと、店内にほかに客はいなかった。手持ち無沙汰なのか、ウェイトレスが皿を下げるのを口実に話しかけてくる。
「今日もお見舞いだったの?随分と甲斐甲斐しいじゃない。きっと大切な人なのね」
フィニアスは苦笑いを返した。こうやって定期的に会ってやらないと、ロックハートは何をしでかすかわからない。万が一にも病院を抜け出し、マグルの街を徘徊するなんてことがあってはならないのだ。奴をおとなしくさせておくには、自分が犠牲となるほかはない。甲斐甲斐しいと言われればまさにその通りだ。ただし、ロックハートのことを思ってのことではなく、ひとえに魔法界の平和のためであった。
「あの人も、もう少し優しかったらよかったのに」
「あの人?」
ウェイトレスが呟いた一言を何気なく拾い上げたつもりだったのが、思いもよらず相手の心に火をつけたらしかった。
「うちの常連さん。とても素敵な人で――よくお話ししてるんだけど、なんだか冷たいのよね」
身を乗りだしてまくしたてる女に少々面食らったフィニアスは、唇の端に戸惑いを控えめに表しながら、そういえば初めてこの店に入った時、このウェイトレスがしきりに話しかけている客がいたことを思い出した。顔は見えなかったが、しわがれた声から判断するにそれなりの年配であるようだった。
まだ若くて美人なのに変わった趣味なんだな、などと柄にもなく下世話なことを考えているうちに、目の前の皿の上にあったサンドイッチはきれいさっぱりなくなってしまっていた。お世辞にも美味いとは言い難かったが、ロックハートの面会という気の重い仕事を終えたばかりの解放感というスパイスのおかげで、フィニアスは満足してくちくなった腹をさすったのだった。