スリザリンの面汚し   作:減らず口

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As Black as Black could be -I-

 薄暗く、微かにゴミの臭いの漂うロンドンの裏通りの入り口に一軒の安食堂が店を構えている。

 

 軒先から埃を被ったようなみすぼらしい店構えは、太陽の明るい間はまるで周囲の壁に擬態しているかのように人の目に留まらない。しかし夜も更けた頃、「モリソンズ・カフェ」と黒ずんだ赤いネオンサインが点ると、ようやく客がチラホラ席を埋め始めるのだ。一日の仕事を終えた者、これから仕事に向かう者――たいていはこの世の闇に隠された病巣の周縁に生きる者たちだ。

 

この晩もモリソンズ・カフェの扉はうろんな客たちを吸い込んでは吐き出しを繰り返していた。この食堂唯一のウェイトレスであるアナベル・シムズの仕事は、テーブルの間を流れるように動きまわっては、ぬるくなったビールや、伸びきったパスタ、湿気たピザを客の前に置いていくことだった。アナベルがこの店で働き始めた頃、店長のモリソンは彼女に愛想を振りまけだとか、皿を置くときに音を立てるなだとかうるさいことは何も言わなかったので、アナベルにとって最もつらい仕事は、客からしばしば投げかけられる卑猥な冗談をいなすことだった。実際彼女はまだ若く、豊かなブルネットの髪とすらりとした肢体が魅力的な、多くの客がいうところの「ちょっといい女」だった。しかし最初はずいぶん傷ついた冷やかしも働き始めて一年も経った頃には、顔の周りを飛び回るハエも同然の、ただうるさいだけの雑音にすぎなくなった。働き始めて五年目を迎えた時、アナベルはこの単調な毎日が変わるはずもないとあきらめを覚えたのであったが、思いもよらぬことに最近少しだけその毎日が色づき始めていた。

 

アナベルはグラスを洗っていた手を止めて壁に掛けられた時計を見上げた。七時五十分を指している。そろそろ彼が来る頃ね、と考えて胸が高鳴った。窓に映った自分の姿を見て、ちょっと髪を直してみる。週に二回、水曜日と金曜日の八時頃に決まってやってくる人。いつもは言葉を交わすだけでうれしかったが、今日は少し違った。八月二日はアナベルの誕生日なのだ。それとなく相手には伝えてある。期待せずにはいられないのは当然だ。

 

 ちょうど時計の針八時を指したとき、扉が開く音がした。アナベルが待ちわびていた客がそこに立っていた。

 

「あらいらっしゃい、フィニー」

 

 ちょっと声が上擦ったのを咳払いでごまかしながら、アナベルはカウンターから出て行った。フィニーと呼ばれた男は、やせた長身を曲げるようにして店に入ってきた。この男が、永遠の凪のようなアナベルの日常に一陣の風を吹き込んだ人物であった。

 

「やあ、アナベル、いつものを頼めるかな」

 

 男は微笑んだ。魅力的な笑顔だ。整った顔には人好きのする皴が寄り、愛嬌のある口元から白い歯をのぞかせていた。灰色の瞳は無邪気な中にほんのり毒をはらんでいるような、刺激的な輝きを持っていた。一方、年の頃はアナベルと変わらないようにも見えたが、黒い髪には白いものが混じっており、顔色もあまりよくないようだった。

 

アナベルは店の奥のほうのテーブルに向かう男の様子を上から下まで観察した。いつもと同じ使い古されたバックパックを背負っている。フィニーの仕事はオフィスビルの夜間清掃で、ここで軽食を済ませてから出勤するのだ。普段は少しでもたくさん話したくて、モリソンの目を盗み、ほかの客への給仕を三十秒ずつ遅らせて時間を捻出するのが常だったが、今晩はおあつらえ向きに、他に客はいなかった。

 

「もちろんよ、ちょっと待ってて――ジミー!」

 

アナベルは大声で呼びかけた。ここの店主であり料理人でもあるジミー・モリソンは、いつもヘッドホンで大音量のロックを聞きながら仕事をしている。何度か呼びかけて、ようやく厨房でこちらに背を向けているモリソンが右手を挙げるのが見えた。

 

「まったく、仕事中くらいヘッドホン外せばいいのに」

 

「サワー・ピクルスズの新曲が出たんだよ。ジミーはずっと楽しみにしていたからな。大目に見てやれよ」

 

フィニーはそう言いながら、バックパックの口を開けて中身をまさぐった。アナベルは思わずその手元をじっと見つめたが、出てきたのは一枚のCDだった。数日前発売されたばかりのサワー・ピクルスズのものだった。

 

「ジミーに勧められて聞いてみたら、案外良くて。君も聞いてみろよ」

 

 少しく落胆したアナベルとは対照的に、フィニーは楽しげだった。

 

「なんだ、あんたもファンだったの?」

 

「おっ、もう聞いたのか?よかっただろう」

 

 いつの間にか、片手に焼き立てのパンケーキの皿を乗せたモリソンが後ろに立っていた。音楽談義がひとしきり始まりそうな気配を察して、アナベルはパンケーキを奪うように受け取ると、モリソンを厨房へ追い払った。

 

 フィニーはナイフとフォークでパンケーキを丁寧に切り分けてはゆっくりと口に運んだ。優雅にもその見える仕草は、これから夜勤に向かうビル清掃員のそれとはとても見えなかった。アナベルはそんなフィニーの食事姿を見るのが好きだった。しばらくは食器の触れ合うかすかな音だけが響く時間が続いた。

 

 フィニーの姿を眺め続けるのに気まずさを感じ始めたアナベルは、カウンターの隅に置いてある古ぼけたテレビのスイッチを入れた。ニュースを読む女性アナウンサーの声が流れ始めた。最近巷を賑わせている脱獄囚の動向を伝えていた。その内容は今朝聞いた内容とまったく変化はなかった。刑務所から脱走したシリウス・ブラックの捜査がいかに進んでいないか、テレビ局が脱獄囚の逮捕を報道出来ないのをどれ程遺憾に思っているかを頻りに繰り返していた。

 

 世間のほとんどの人たちは自分がこの脱獄囚と出くわすことなどないと考えているのだろう。忘れ去られた頃に、役立たずの警察がようよう捕まえるというのが落ちだ。アナウンサーの声もどこか面白がっているような調子を帯びていた。しかし、これから夜も深まる時間に活動を始めようという者にとっては事情が違う。

 

「早く捕まらないかしらね。」

 

「帰りはジミーに送ってもらえよ」

 

パンケーキを食べ終わったフィニーが答えた。

 

「脱獄囚とかち合っても新曲に夢中で気づかなさそう」

 

 アナベルの皮肉は再びヘッドホンを装着したモリソンの耳には届かなかったようだ。

 

「あたしは大丈夫よ。家はすぐそこだもの。それより心配なのはあんたの方よ。ブラックがビルに潜り込んでるかも」

 

「まさか、」

 

 と言った途端、突然フィニーは激しく咳き込み始めた。アナベルは慌てて近寄ると、苦し気に上下するフィニーの背中を優しく撫でた。一分もすると咳は収まったが、しばらくの間フィニーは青ざめた顔をして、肩で息をしていた。この発作は何度かアナベルも目にしていたが、ゴボゴボと嫌な音のする咳はただ事ではないように思われた。

 

「やっぱり夜の仕事は辞めたほうがいいんじゃない?それにちゃんと医者に見せてる?」

 

 店で発作が起きるたびにアナベルは同じことを言っているが、それに対するフィニーの答えもまた同じだった。

 

「大丈夫さ。医者も問題ないと言っているし。アレルギーみたいなもんだよ」

 

「だけど――」

 

「どうってことないさ」

 

 脂汗のにじむフィニーの額を見ると、とてもそうは信じられなかった。これまでももっと強くいうべきかアナベルは何度も迷っていたが、フィニーの穏やかな口調にはいつも有無を言わさない響きがあり、今日もアナベルは口を閉じるしかなかったのだった。

 

アナベルがふとテレビに目をやると、いつの間にかニュースは終わり、歌番組が流れていた。そろそろフィニーは仕事に向かわなければならない時間だ。

 

「そろそろ行くよ」

 

フィニーはよろよろと覚束ない足取りで立ち上がった。咳の発作に体力を奪われているのは一目瞭然だった。それでもパンケーキ代を一セントたがわずきっちり机に置いたのは、几帳面だからか習慣がそうさせるのかはわからなかった。

 

「休まなくて大丈夫なの?」

 

 相手を苛つかせることは承知していたが、アナベルはそう言わずにはいられなかった。フィニーは心配するな、と言うような微笑みを、色の失せた唇にのせて、扉から出て行った。

 

 時計の針は十時十五分を指しており、八月二日も終わりが近づいてきていた。どうやら期待したような誕生日は実現しなかったようだ。失望というよりフィニーの体の状態を忘れて自分の誕生日にうつつを抜かしていたことに対する自己嫌悪が強かった。

 

アナベルはため息を盛大につきながら、フィニーが使った後のテーブルを片付けていると、椅子の上に例のサワー・ピクルスズのCDが残されているのを見つけた。

 

「せっかくだから一度聞いてみるのもいいかもね」

 

 フィニーと後々話す口実ができたと思えば、案外悪くなかったのかもしれない。誕生日の戦果としては物足りないと言わざるを得ないが。

 

「アナベル、今日はそろそろ閉めるぞ」

 

 ジミーに見つかると、またとめどないおしゃべりの雨を浴びることになる。アナベルはCDをそっとエプロンのポケットにしまった。




第三章は、主人公とは別視点のエピソードをところどころはさむ形式になります。
いずれ主人公のお話とも合流しますので、お付き合いいただけると幸いです。
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