一週間もすれば生徒たちを憎むことになるだろうというフィルチの予言に反して、一週間が経っても、フィニアスが子供たちに対して悪感情を持つことはなかった。というのも、フィニアスはなるべく生徒たちと関わらないように心掛けていたからだ。関わらなければ、好意も悪意も持ちようがない。
校則を破る生徒を見つけても、余程悪質か常習的でもない限り注意を与えるだけで済ましたのもそのためだ。管理人といえばあからさまな害意をむき出しにするものと思い込んでいた生徒たちはいささか拍子抜けしたようだった。やがてほとんどの生徒にとって、新しい管理人は無害な空気のような存在になっていった。恐らく半分以上の生徒はその名前すら忘れてしまっていただろう。
それでいい、とフィニアスは思っていた。魔法使いとして当たり前に育ったホグワーツの生徒たちは、スクイブの胸中を知るには無邪気すぎるのだ。
彼らは自分でも気づかぬ間に私たちを傷つけている。いや、私たちが勝手に傷ついているだけか――いずれにせよ別にその事に物申すつもりはない。ただ、なるべくなら心を掻き乱されることなく、平穏に暮らしたいと思っていたのだ。
しかし、新学期が始まって一ヶ月がたった頃、新しい管理人に関わるはじめての事件が起こった。それによってフィニアス・ペティボーンの名前は再び城中の耳目を集めることとなった。
***
それは、フィニアスが収穫した薬草を満載した木箱を薬学の教室に届けるため地下に向かっていたときのことだった。木箱はフィニアスの視界を遮るほどに大きく、また重量もかなりのものだった。十年以上に及ぶマグル暮らしで随分腕力がついたとはいえ、休み休み進まなければならなかった。
ようやく地下へ降りる階段の近くに差し掛かったとき、自分の前で子供たちが騒々しくお喋りする声がした。授業が終わったのだろう。その中から、少年の甲高い声が聞こえてきた。
「一体どうやったらああもキレイに鍋を融かすことが出来るんだろうね?」
抱えている箱に邪魔されて、声の主の表情は見えなかったが、揶揄というには悪意が強く出ている口ぶりだった。誰が聞いてもすぐそれとわかる程あからさまな嘲笑。案の定、すぐに媚びるような複数の笑い声がそれに同調した。
大荷物を抱えたままふらふら歩いていってぶつかりたくはない。道を譲ろうと、フィニアスは廊下の端に木箱を下ろした。
箱を置いてようやく視界の開けたところに、魔法薬学の教室から上がってきた生徒の一団が目に入った。一年生だろうか、スリザリンのグループとその後に続くようにグリフィンドール生が続いて姿を現した。
ニヤニヤと嫌味な笑いを浮かべていたのはスリザリン生の方で、先程と同じ少年がまた聞こえよがしに言った。
「全く、ロングボトム様々だな。放っておいても勝手にグリフィンドールの点を減らしてくれるんだから」
緑のネクタイの集団からまた笑いが起きる。グリフィンドールの生徒たちは、俯いている一人の小柄な生徒を守るように取り囲み、スリザリン生たちを忌々しげに睨み付けていた。その中の一人、栗色のふわふわした髪の少女が鋭く言った。
「ネビル、こんな人たちの言うこと気にする必要ないわ」
「なあに、グレンジャー、あんたもロングボトムに気があったの?」
スリザリンの女子生徒がからかう。グレンジャーと呼ばれた生徒は何か言い返そうと口を大きく開けて息を吸い込んだ。しかし、言い返せばより相手を調子づかせることに気付いたのか、ただ相手を睨みつけただけだった。
廊下の脇で生徒たちが通りすぎるのを待っていたフィニアスは、スリザリンとグリフィンドールの相変わらずのいさかいを見て、錆の浮いた学生時代の記憶がにわかに色を取り戻していくのを苦々しく思った。
早く通りすぎてしまえ、と思っていたとき、生徒の集団から声が上がった。
「あ、ペティボーンさん!」
まさか自分に声を掛ける者がいるとは思っていなかったフィニアスは、声の主は誰かと視線をさ迷わせた。自分の許に駆けてきたのは、あのハリー・ポッターだった。知り合いに出会って嬉しいのか、少し頬を上気させている。グリフィンドールの赤いネクタイを締めたその姿は、瞳の色を除けばその父親に生き写しだった。
「やあ、ミスター・ポッター。もう生活には慣れたかい?」
「はい。あの、今度よければ、父さんの話を――」
どうやら、ハリー少年はダイアゴン横丁で交わした約束をしっかりと覚えていたようだった。面倒なことになった、とフィニアスが内心舌打ちをしていたその時、先程のスリザリンの少年が歩み寄ってきた。グリフィンドールの同級生の悪口を言っていた時の数倍も悪どい笑いを浮かべている。
「これはこれは、慣れない仕事は大変でしょうねぇ、ペティボーンさん」
あたかも新任の職員を気遣うかのような台詞は実際レースより薄く、その下には徹底的に相手を見下す姿勢がはっきりと透けていた。
「――そうでもないさ」
フィニアスはこの少年が自分の過去を知っていることを直感的に悟った。我知らず心臓の鼓動が速く激しくなっていくのを感じた。
「それは良かったです。いえね、ペティボーン家のような立派な家に生まれた人が、こんな召使いの仕事をするのはきっと大変だろうと思いまして」
二人の様子を見守っていた辺りの生徒たちの表情はバラバラで、無言のうちに様々に心中を物語っていた。スリザリン生の顔の大半には「やっぱりあのペティボーンだったのか」と書いてあり、その他は「一体何の事だろうと」いった様子。フィニアスの顔だけははっきりと青ざめていた。フィニアスは何も言い返す事が出来なかった。
少年は相手が黙っているので益々調子づいたようだった。
「校長もどうして今さら新しい管理人なんて雇ったんでしょうね――学生時代に『面汚し』なんて呼ばれていたような人を」
今やフィニアスと少年の回りには何事かと集まった人々で人だかりが出来あがっていた。少年はそのぐるりを見渡した。本人はすっかり演説しているつもりなのだろう、尖った顎を持ち上げて、甲高い声を張り上げた。
「君たちも家のご両親にふくろうを飛ばせばいい、きっと教えてくれるだろうよ。魔力を失くした挙げ句に酒に溺れた『スリザリンの面汚し』の話をさ」
興味深げに少年の話に聞き入っていた生徒たちは、話が途切れたのを待ち構えたように口々に囁きあった。ひそひそ話も大勢が集まれば、やがてうねるような大きな波となってフィニアスの耳に襲いかかった。
物見高い周囲の視線にも、陰口にも慣れている――学生時代、何年にも渡って経験してきたのだ、きっと耐えられる――フィニアスは自分に言い聞かせた。
スリザリンの少年はハリー・ポッターに矛先を変えた。
「ポッター、列車の中でも忠告したが、やはり君は付き合う相手を選ぶべきだと思うね」
ハリー・ポッターが少年の言葉をさえぎった。
「僕が誰と友達になろうと君に指図される筋合いはない。たしか列車でそう言ったはずだけど、もう忘れたの?」
その声にはどこか有無を言わせない頑固さがあった。フィニアスは過去のジェームズ・ポッターを頭の片隅で思い出しながらも、どうにかしてこの事態を収拾させようといていた。しかし混乱した頭は思ったようには動いてくれなかった。
野次馬連中のひそひそ声の波をバックに口論は続いている。
「魔法の使えない魔法使いがどれだけ惨めなものなのか君はまだよくわからないから言えるのさ」
「マルフォイ、君は――」
マルフォイ――ああ、ルシウス先輩の――道理で――フィニアスがマルフォイと呼ばれた少年の淡い金髪や尖った顎を学生時代の上級生と重ね合わせていたその時、生徒たちが作る垣根の向こうから低く抑揚のない声が響いた。
「諸君、まさか我輩の教室の目と鼻の先で喧嘩をしているわけではないでしょうな?」
低く唸るようなざわめきがピタリと止んだ。