新学期が始まってからの一週間、フィニアスとリーマス・ルーピンの関係は、模範的な管理人と教授の関係だった。二人の間にあったのは事務的な会話だけで、スネイプが危惧しているような「同窓会」の企画会議は勿論のこと、学生時代のちょっとした思い出話さえ、どちらも口にしようとはしなかった。
フィニアスが過去の話を避けたがった理由は、はっきりしている。それは、自分のリーマスへの執着というものが十五年前の後悔の化身に他ならず、その後悔に向き合うだけの度胸が無かったからだ。あの時、騎士団へと去り行く彼を手をこまねいて、ただ見送った。もし無理にでも自分のもとに引き留めていたら。
フィニアスはリーマスの十五年間を知らない。最後にキスした時は未来を夢見る少年だった彼も、今ではセストラルを見て驚きもしない大人だ。過酷な戦いの日々のうち、奪われた仲間の命よりも多くの敵の命を奪ったに違いない。禁じられた呪文、拷問、スパイ、裏切り、そして諦念を、私は知らない。
私はその間マグル界でぬるま湯の毎日を漫然と繰り返していた。劣等感から逃げ出せたことに、ただただ安堵していた。両目と両耳をふさいで、ただ足踏みをして過ごしただけだ。リーマスが生き抜いた激動の時間を、血と泥と汗にまみれた日々を、私は知らない。
知りたいと思うだろうか?
知ったところで何になる?もうとっくにリーマスは遠い存在になってしまっている。再会してすぐに悟った。彼の顔に刻まれた皺の一本一本や、鳶色の髪に混じる白髪を見ただけでも分かる。私にはまだ白髪は生えていない。リーマスは戦ったのだ。誰と?ヴォルデモートか?いや違う。ありきたりな言い方をすれば、運命だ。彼に、人狼として課された運命だ。高潔な魔法使いとしての名誉ある生――と、死――を手に入れようともがいたのだろう。
それに引き換え私は――私は自分の空疎な十五年を恥じた。敗北を恐れてマグル界に逃げた自分を恥じた。そして恥じれば恥じるほど、リーマスが手の届かない所に行ってしまったことを痛感した。
リーマスはどう思っているのだろう?戦いを経て再び私を目の前にして。十五年間の足踏みで無闇に踏みかためられた地面の上で、間抜けに突っ立っている私を振り返って。
***
「バタービールか」
「ハニーデュークスにひとっ走り行ってきたんだ。懐かしいでしょ。それに君、禁酒してるって聞いたから」
「まあ、そうだな」
フィニアスは後ろめたさを誤魔化すように、わざと大きな音をたててバタービールの栓を抜いた。機嫌の良さそうなリーマスの笑顔を見ていると、実は昨晩もブランデーを一瓶空けたばかり、とはとても言えなかった。
二人はソファに向かい合って腰を下ろした。リーマス・ルーピンの私室は広々としていた。大きな本棚の横に、中庭に向かって大きく開いた窓がある。今は開け放たれていて、夜の風が心地よく吹き込んできていた。
他愛もない話をしながらバタービールを一瓶飲み干す頃には、強い甘みでフィニアスの喉はすっかりヒリヒリしてしまっていた。フィニアスが顔をしかめて水を汲みに立った横で、リーマスは平気な顔で二本目の瓶に手を伸ばす。そして、突然くすくす忍び笑いを始めて、背後のフィニアスに語りかけた。
「そうそう、今日三年生の初授業だったんだけど、これが傑作でさ」
最初は訝しく思って首を傾げたフィニアスも、話を最後まで聞くと、こみ上げてくる笑いの発作で、飲んでいた水を吹き出す羽目になった。
「つ、つまり、ボガートのスネイプが女装して、ハゲタカを頭に乗せてたわけか――!相変わらず君はいい性格してるな――ロングボトムを見本に選んだのはわざとだろう?」
リーマスはニコニコともニヤニヤともつかない笑みを浮かべている。
「人聞きが悪いなぁ。まあ、ネビルの噂は耳に入っていたけど」
やっぱり知ってたんじゃないか。ネビル・ロングボトムのスネイプ恐怖症は職員室でも有名である。それを承知の上で、ボガート退治の見本にロングボトムを指名したとすれば、元・悪戯仕掛人の面目躍如である。
「でも、昔みたいにはいかないよね。セブルスには薬を作ってもらってる身だし」
不意にリーマスの明るい声に陰が落ちた。フィニアスは咄嗟に開け放された窓の外に目を遣った。夜空に月の姿は無く、無数の星が思い思いに瞬いているだけだった。
「世話になってなかったら徹底的にやるつもりだったって口振りだな」
リーマスは、精一杯冗談めかしたフィニアスの言葉に乾いた笑いを投げかけた。もうさっきまでの浮かれた気分は消えてしまったようだった。代わりにその顔に浮かんだ表情は、取り戻せない過去を懐かしむ時の寂しさである。そのまま思い出という千尋の海に沈んだようにリーマスは黙りこんでしまった。どうも、この好ましくない流れからは逃れられないようだ。フィニアスは自棄になって二本目のバタービールの栓を抜いた。
しばらくして、ぽつりとリーマスが呟いた。
「フィニアスはさ、シリウスが無罪だってまだ信じてるの?」
過去を巡るうちに、リーマスの思考は逃亡中の、そして今朝ほどホグワーツの近くで目撃されたというシリウス・ブラックに辿り着いたらしい。
正直なところ、フィニアスはシリウスがポッター夫妻を裏切ったとは今でも信じられなかった。しかし、それをリーマスの前で口にするのは憚られた。何せ自分は命を懸けた戦いも駆け引きも知らないのだ。過酷な状況下で、天真爛漫だった少年たちがどんな成長を遂げるのかも見当がつかない。学生時代には友情に厚く、正義を愛したシリウス・ブラックが友を敵に売るような卑劣漢に変貌しなかったと断言する資格は無い。
「君はどうなんだ」
逆に問われてリーマスの顔には、十二年前、シリウスの裁判で見せたのと同じ表情が浮かんだ。
「信じたかったよ。でもね、あの戦いで誰かを――たとえ仲間でも――無条件に信用するなんてできなかった。もちろん僕も疑われてた。疑わなきゃ、自分がやられる」
言葉が弁解じみてくるにつれて、酔ってもいないのに段々とリーマスの語気は荒くなっていった。
「――だから、ジェームズたちは死んだんだ」
「おい、」
リーマスはほっと息を吐いた。
「ちょっと言い過ぎたね。だけど、正直分からないよ。生き延びた自分が正しかったのか、節を曲げずに死んでいった彼らが正しかったのか」
リーマスの言葉は諦めの鎧を纏っていたが、その隙間からは本物の苦悩が滲み出ていた。何を言っても虚しいだけのような気がして、フィニアスは黙りこんだ。
「今じゃ後悔してるよ。あの戦いに身を投じたことをさ。自分みたいな者でも何か役に立てるんじゃないかと期待してたし、親友と共に戦えるんなら本望だと思ってた。でも、その親友を疑ったり、裏切ったりすることになるんなら――」
「リーマス」
「甘かったんだよ。人狼でも何かできると思ってしまった。真っ当な魔法使いになれると思ってしまった。その結果がこれだよ。シリウスを信じきることもできなかった。自分だけ無様に生き延びて――本当はジェームズたちが生きるべきだった――」
「リーマス!」
フィニアスがリーマスの言葉を遮ったのは、ただ自分が聞くに耐えなかったからだった。戦わなかったことを後悔している自分の前で、戦ったことを後悔しないでほしい。これでは自分が人の不幸を羨んでいるみたいではないか。
「ごめん、こんな話をするつもりじゃなかったのに――ああ、もう良い時間だね」
暖炉の上の置き時計を見ると、十二時を回っていた。フィニアスはバタービールの空き瓶を片付けようと立ち上がったが、リーマスの杖の一振りで瓶は跡形もなく消えてしまった。早く帰れということか。リーマスも気まずさに弱いのは昔から変わっていない。そしてフィニアスも、その意向に逆らうほど度胸のある質ではない。
「お休み、リーマス」