「フィニー、今日はこれから仕事なの?」
キッチンに戻りながらアナベルは声を投げ掛けた。いつもは夜勤の前に立ち寄ることの多いフィニーだったが、最近は毎日のように昼間からお茶をしに来ていた。どうやら身体の調子もよいらしく、アナベルは最初こそ喜んだが、当のフィニーはおしゃべりを楽しむ気は毛頭ないようだった。何かを探すかのように窓の外をじっと眺めてばかりで、お茶の杯だけが進み、手元のペーパーバックは前日と同じページが開かれていた。
アナベルの問いかけに対する返事はなかった。なぜならフィニーの耳はイヤホンで塞がれていたからだ。漏れてくるかすかな音から察するに、例のサワー・ピクルスズの新曲が流れているらしい。しかし、眉間には深いしわが寄り、体は微動だしていないところを見ると、お気に入りのロックバンドの名曲も、今のフィニーにとっては外界を拒絶するための壁としてしか機能していないようだった。偶然なのか、キッチンのジミー・モリソンが同じ曲を調子はずれの鼻歌で歌っている。
モリソンズ・カフェはロンドンの中でも最もパッとしない通りに面している。当然窓の外を忙しなく行き交っているのも、見るところなど全くない無個性な人々だった。何が面白くて、フィニーは窓の外に釘付けになっているのか。私とおしゃべりすることよりよほど楽しいらしい。意中の男がそうやって数時間を潰しているさまをなすすべもなく見ているだけという状態は、アナベルのプライドをいたく傷つけた。
今日もこの不毛な時間が続くと思われたが、キッチンでグラスを拭いていたアナベルは、テーブルの上で跳ねる小銭の荒っぽい音を聞き付けてカウンターから顔を出した。フィニーはごぼごぼと喉の奥で絡むような咳をしながら、長身を丸めてバックパックを背負っている。
「あら、今日はもう仕事なの?」
「え、ああ、そうなんだ」
ぼそりと愛想なく呟くと、フィニーはくたびれたシャツの襟を正したり、白髪混じりの髪を整えたり落ち着かない様子で扉に向かった。もうすでに意識は外に向いているようだった。アナベルは急いで駆け寄った。
「また明日も来るわよね?」
既にドアノブに手をかけていた男が振り返った。呼び止められたのに少し苛ついているのか、片眉がぴくりと動いた。しかし、すぐに人当たりのよい微笑みを顔の上に塗り広げた。綺麗にあたった顎に残った剃刀の傷跡を長い指でかいている。
「そうだな、また来るよ」
「明日来るよ」と聞けなかったのが不満だったアナベルは口を開きかけたが、フィニーはそのまま足早に出ていってしまった。男の目が無くなったのをいいことに、アナベルは不貞腐れたままダラダラとテーブルを片付け始めた。素っ頓狂な鼻歌がいつの間にか止んでいると思ったら、ジミー・モリソンがカウンターから顔を覗かせた。
「なんだ、フィニーは帰ったのか」
何気ないジミーの口ぶりにかすかに咎めるような響きを感じたのはアナベル自身のいら立ちがなせる業だったのだろう。つい、返す言葉もとげとげしくなる。
「たった今ね。ドアベルが聞こえなかった?」
「ああ、ヘッドホンしてたからな」
折しも再びドアベルが鳴ったので、アナベルはジミーへ苛立ちをぶつけずにすんだ。入ってきた風采の上がらない中年男は、店内の剣呑な空気を感じ取ったのか、入り口でちょっと立ち止まった。アナベルは咄嗟に表情を取り繕ったが、新たな客は席についてからもウェイトレスと店主の様子が気になるようだった。正直ほっとしながら新しい注文に甲斐甲斐しく応えながらも、アナベルは未練がましく窓の外に目を遣った。
何の変哲もない雨に濡れた裏通りの何にフィニーは気を取られていたのだろう。いやこの際それが何でも構わない。これだけ私をないがしろにしたのだから、ちょっとしたお願いくらいは聞いてもらわないと――そうね、映画がいいかもしれないわね。その後パブで軽く一杯もつけてもらおう。そのくらいは妥当な要求だろう。