スリザリンの面汚し   作:減らず口

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As Black as Black could be -III-

 自分が魔法使いであること。それは彼が彼自身について確信を持っているほとんど唯一の事柄であった。「フィニー・ペティボーン」という名前さえ、彼にとっては身にまとっただけの仮初めのものであった。

 

「フィニアス・ペティボーン」は記憶を失ったことを自覚したばかりの彼が唯一思い出せた名前だった。十数年前、小さな田舎町の雨に濡れた路地のごみ箱の陰で目を覚ました時、いったいどんな経緯でこんな場所で眠っていたのか思い出せないだけでなく、大抵の人間が自我そのものだと考えているものが欠落していることに気が付いた。物心ついて以降、五感が脳にもたらした全ての集積、双子を差別化するもの、すなわち記憶が。

 

失くしたのか捨てたのか、身分が分かるようなものは一切見つからなかった。自分の手をまじまじと見て、どうやら若者といって差し支えない年齢であるということは分かったが、他に手がかりになりそうなものといえば、身に着けていた特徴のない普段着とは不釣り合いな凝った意匠のペンダントだけだった。それは磨きこまれた木片でできていた。元は四枚の花弁を持つ花をあしらっていたようだが、そのうちの一枚は根元から欠けてしまっていた。そのペンダントの存在に気づき、指で触れたとき、靄に包まれたような彼の頭の中で突如像を結んだのが「フィニアス・ペティボーン」という男の名前だったのだ。とはいっても、その人物像については何一つ思い出せず、ただアルファベットの羅列だけがくっきりと浮かび上がっていた。空が白み始めるまで考え込んだが、結局そのほかには何一つ思い出すことができなかった。

 

意識を取り戻してから数日後、激しい空腹を抱えたまま公園のベンチに寝そべっていると、ホームレスの支援をしているという中年の女性に声をかけられた。名前を聞かれたが、とっさに答えることができなかった。女性は特に不審がるでもなく、名乗りたくなければそれでいいのよ、と笑った。様々な事情を抱えたホームレスたちを相手にしている彼女でも、まさか相手が名乗る名前を知らないとは想像していなかっただろう。

 

この時すでに「フィニアス・ペティボーン」が自分自身の名前ではなさそうだ、ということは本能的に感じていた。何度口に出してみても、しっくりこないし、公園の地面の上に木の枝で綴ってみようと思っても、手がうまく動かなかった。ただ、他人の名前を名乗る後ろめたさから、こう名乗ることにした。

 

「フィニーです。俺の名前」

 

ホームレスの支援センターへ向かうために先を歩いていた女性が振り向いた。男の顔をまじまじと眺めて、垢と無精ひげの下にある品のよいハンサムな面立ちに気づいたようだった。そこからフィニーの新しい生が始まった。

 

 それからの十数年間、誰のものともわからない他人の名を拝借して、ロンドンの片隅でどうにかこうにか生き延びてきた。清掃員の仕事も板についてきたし、モリソンズ・カフェの奥まった窓際の席という、空白の過去を弄ぶのにおあつらえ向きの場所も見つけることができた。そのうち、記憶を取り戻そうという熱意も失われていった。闇に塗りつぶされた過去から目を背けさえすれば、まずまず居心地の良い毎日を過ごすことができたのだ。ただ一つの気がかり、たまに起きる咳の発作を除いては。

 

しかし、つい数か月前、モリソンズ・カフェからの帰り道、不意に名前――この頃は既に体に馴染み、もう自分は「フィニアス」本人ではないかとさえ思うようになっていた――を呼ばれたと思って振り返ったその時、仮初の名前はいとも簡単に体から剥がれ落ち始めたのだった。

 

フィニーに呼びかけたのは、自分と同じ年頃の男だった。フィニアス・ペティボーンは僕ですが、と答えようとして口を開いた瞬間、名前を呼んだ男はフィニーの目の前に小さな紙片を突き付けた。それはどうやら新聞の切り抜きのようだった。

 

「ねえ、あなた!フィニアスを、この人を見かけませんでしたか?」

 

どうやら自分はこの男にとっての「フィニアス・ペティボーン」ではないらしい。フィニーはしわくちゃになりかけている目の前の紙片に目を凝らした。まず目に入ったのは片隅の小さな写真だった。どこか田舎の広い庭園を背景にして若い男がこちらに向かって何か話している。慣れない取材に照れているのか、控えめな身振り手振りを交えて――身振り?フィニーは男の手から紙片をひったくった。間違いない、写真の中の人物は動いている。

 

紙片を取り戻そうとする男から身をかわしつつ、フィニーは食い入るように書かれた文字を読んだ。「英国魔法使いの庭10選」「ホグワーツ魔法魔術学校」「管理人兼庭師のフィニアス・ペティボーン氏」。

 

 写真の人物が「本物のフィニアス・ペティボーン」であること、すなわち自分が記憶というみずみずしい生命が失われた後に残された砂漠の砂の中から唯一掬い上げた名前の持ち主であることは間違いなかった。そして、それは自分がフィニアス・ペティボーンではない別の名前を持っていた誰かであるということを意味していた。

 

 この男に会わねばならない。この男こそが、自分の記憶を取り戻すのに必要な人物だ。フィニーは本能的に確信した。ホグワーツ魔法魔術学校。ともかくここに行けばよいのだ。何故か魔法が存在することへの疑いが頭をもたげることはなかった。問題はこの学校がどこにあり、どうやってたどり着くかだ。

 

「フィニアスを見かけてないなら、返してください!」

 

フィニーが記事を読み終わるや否や、切り抜きは思わぬ力強さで奪い返されてしまった。男の姿を改めて見ると、ライラック色のパジャマの上に同じ色のセーターを羽織り、足元はピンク色のスリッパだった。フィニーがその奇妙な風体にあっけにとられているうちに、男は身を翻し、運悪く通りがかったスーツ姿の若い女性の顔の前に同じように切り抜きを突き付けていた。怯えた様子の女性の目が紙片を凝視する。にわかに上がる悲鳴。

 

方々から人が集まってきた。昼下がりの裏通りはあっという間にちょっとした騒ぎになっていた。もっと話を聞きたい、フィニーはライラック色のパジャマ男を探したが、すでに手遅れだった。悲鳴を上げて座り込んだ女性を解放する人たちの向こうで、男が何者かに引き摺られるようにして建物の中に姿を消すのを見送ることしかできなかった。

 

 それからというもの、夜勤のない昼間は、モリソンズ・カフェの窓際の席に陣取り、パジャマ男が姿を消した建物を監視することに費やされた。いつか本物のフィニアス・ペティボーンが姿を現すことを願って。ふた月ほどのむなしい時間を経て、ついに写真によく似た男がカフェの窓の外に現れたのだ。うだうだと引き留めにかかるアナベルを振り切り、追いかけたその男は「漏れ鍋」という看板を掲げたパブらしき店に入っていった。ところが、もしかしたら話しかけるチャンスかもしれない、そう勢い込んでフィニーが店にと飛び込んだ時には、すでに姿を消してしまったのだった。

 

 しかし、この「漏れ鍋」という冴えないパブが、魔法界との唯一の接点であることは間違いなかった。どうやら魔法使いではない者には店の存在すら認識できないのは、たまたま同僚を連れてきた時にわかったことだった。つまり、魔法使いが普通の人間の目を掠めてその世界へと出入りするための入り口であることは明らかだった。フィニーは怪しまれずにこの店のなじみ客となるのに苦心惨憺した。

 

 人の好さそうな魔法使いを見つけてはあたかも十年来の知己であるかの如く振る舞い、ウィスキーをしこたま飲ませ、二週間をかけてようやく聞き出せたのが、ホグワーツへはキングズクロス駅――九番線と十番線の間、九と四分の三番線――から列車が出ているということだった。

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