「クルックシャンクス、出ておいで!」
ホグワーツの広大な校庭をフィニアスは、生徒の飼い猫を探してかれこれ一時間は歩き回っていた。
慌てた様子で庭園に駆け込んできたハーマイオニーに「クルックシャンクスを探すのを手伝ってほしい」と頼まれたのは放課後になってすぐのことだ。晩秋のおり、日はもう傾きかけていて、薄い闇が瞳を覆うようにまとわりつく時刻であった。
「おいしいおやつがあるよー」
餌で釣っても猫は姿を現そうとはしなかった。フィニアスはちょっとため息をついたが、それほど疲れた様子でもないのは、やはり彼が猫好きだからだ。ウィーズリーの双子の始末におえないイタズラに振り回されるのは金輪際御免こうむりたいフィニアスも、この我が儘な毛玉にならいくら玩ばれてもそうそう参ることはないのだった。
新学期が始まってから暇さえあれば庭園の手伝いに来ていたセドリック・ディゴリーは、十一月に入るとぱったり姿を見せなくなった。クィディッチの第一戦の対戦カードが変更され、スリザリンの代わりにハッフルパフが出ることになったことが原因らしい。
確か彼はシーカーで、今年からはキャプテンも務めるはずだった。なるほど、庭園で油を売る暇が無くなったのも頷ける。フィニアスは、やれやれというような、それでいて少し物足りないような、身勝手な気分を不本意ながら、もて余すことになった。
そして、ディゴリーと会うことが減った分、フィニアスの元へよく訪れるようになったのがハグリッドとハーマイオニーだった。念願の教授になって初めての授業で大失態を犯した森番の泣き言と、思春期の友人関係の悩み相談と、どちらも普段のフィニアスなら面倒臭さにどうにか回避しようとしていただろう。しかし、今回フィニアスはハーマイオニーの来訪はむしろ歓迎していた。何故なら、彼女が庭園にくるときはもれなくその愛猫、クルックシャンクスが付いてくるからであった。
「この子を可愛がってくれるのはペティボーンさんくらいよ。ロンなんて酷いのよ――そりゃあ、クルックシャンクスがスキャバーズを襲ったのは悪いと思うけど、自分のペットの面倒をちゃんと見てないロンにも問題があるわ」
「気にすることないさ、だいたいネズミみたいな動物をペットにする方がどうかしている」
ネズミは食べ物を食い荒らすだけでなく、様々な病気を媒介する――マグル暮らしでこのことを知ってから、フィニアスはネズミに対してはかなり否定的な立場をとっている。それにネズミと言えば、あの男を思い出すのだ。あの臆病な変節漢、親友を裏切った男。
ふと顔を上げると、フィニアスは自分がクィディッチ競技場のほど近くまで来ていることに気付いた。ホグワーツに勤めはじめて以来、決して近付かないようにしていた場所だ。それが藍色の夕闇の中で、目の前をふさぐように黒々と聳えている。
かつて、ホグワーツに入学した頃はあれほど心を躍らせたこの場所は、今、フィニアスの網膜には光を吸い込む暗黒の巣窟として映った。フィニアスの記憶の中では、この広く大きな器は、何条もの箒の風に乗った軽快な閃きと、熱狂する観客のエネルギーを懐に抱いていた。それが、今は地にめり込んだ巨大な岩のようにフィニアスを圧倒している。
まるで、落ちかかってくるこの巨岩をたった一人で支えているようだ――ああ、練習を終えたどこかの寮の選手たちの楽しげな笑い声が聞こえてくる――
その時、フィニアスの目の端を、二つの黄色い光がかすめた。目を凝らすと、それが大柄な猫の両眼であることが分かった。十歩ほど先でじっと警戒するようにうずくまっているのは、クルックシャンクスだった。
我に返ったフィニアスは、生徒の飼い猫を連れ戻すという目下の仕事を思い出した。
「さあ、クルックシャンクス、ご主人のところへ帰ろう」
しかし、こちらをじっと見つめていた猫は何を思ったのか、急に踵を返して競技場の入り口、それも選手用の方へ駆け込んでいった。猫らしい電光石火の身のこなしに、フィニアスはあっと叫ぶ暇もなくその姿を見失ってしまった。
仕方なくフィニアスは競技場に足を踏み入れた。天井の低い廊下を進み、狭い階段を上ると、長らく忘れていた匂いがつんと鼻をついた。
汗の染み込んだ古びた革の匂い。廊下に並べられたトロフィーを覆う埃の匂い――試合に臨んで感じる緊張と誇らしさ、厳しい練習の後に飲んだ水の味――懐かしく、フィニアスをもっとも苦しめる思い出が甦ってきた。
まだ選手が残って何か話し合っているのか、複数の話し声、それと時々笑い声が聞こえてくる。さっさと猫を見つけて引き返そう。そうは思ったものの、一本道の廊下を目を凝らして見渡してもクルックシャンクスの姿は見えなかった。
猫は見つからないまま、フィニアスは突き当たりの部屋の入り口にたどり着いた。今では中にいる生徒達の声がはっきりと聞こえてくる。クルックシャンクスはこの中にいるはずだ。開きっぱなしのドアをノックし、部屋を覗き込むや否や、どっと少年たちの歓声が上がった。なにやら熱気が漂ってくる。見てみると部屋の真ん中で、堂々たる威厳をもって、取り巻きたちに愛嬌を下賜していたのは紛れもなくクルックシャンクスだった。
フィニアスの存在を認めたクルックシャンクスは、巨体に似合わぬ敏捷さで、フィニアスの顔めがけて飛び込んできた。視界をふわふわの毛皮で埋め尽くされて狼狽する耳に聞き慣れた声が入ってきた。
「あれ?ペティボーンさん?」
フィニアスがどうにかこうにかクルックシャンクスの大柄な体を腕の中におさめて辺りを見回すと、壁に掲げられたカナリアイエローの大きな旗が松明のぼんやりとした明かりに照らされているのが目に入った。
そして驚いた顔でこちらを見つめているのは、セドリック・ディゴリーだった。
練習後の着替えの途中だったらしく、セドリックは半裸のままだった。シャツを着るのも忘れて、クルックシャンクスに夢中になっていたらしい。ずっと笑っていたのだろうか、まだ唇の端に笑みが微かに残っている。
そのセドリックの姿に焦点があったとき、フィニアスは思わず顔を背けた。眩しかったのだ。夕闇の迫るこの部屋に若々しい身体が輝いていた。顔立ちを裏切らない美しく引き締まった身体だった。箒の上で躍動していた筋肉が、今もその肌の下で有り余るエネルギーを熱に変えようと震えている。
自分が遥か過去に置いてきたもの、努めて忘れようとしてきたものが目の前につきつけられている。胸が締めつけられた。
「ペティボーンさんが猫を飼ってるなんて知らなかったなあ」
そんなフィニアスの様子に気付いていないのか、セドリックは弾むように歩み寄って、クルックシャンクスの喉を目を細めて撫で始めた。フィニアスは半歩後ずさった。少年のむき出しの上半身が纏う汗の甘い匂いがフィニアスの鼻をくすぐった。
「いや、この子は私が飼っているんじゃなくて、逃げ出したのを探してほしいと頼まれているんだ。だからそろそろ連れて帰らないと」
セドリックは名残惜しそうな顔で離れようとしながらも、手だけは中々クルックシャンクスの喉から離さなかった。他のチームメイトたちはもう着替え終わって談笑している。
フィニアスはどぎまぎする心を誤魔化すように、クルックシャンクスを乱暴に抱え直した。その勢いでセドリックの手が弾かれた。
「さあ、そろそろ行かないと。みんな着替え終わっているよ。君も早く着替えなさい」
「ああ、本当だ――」
ようやく周りの様子に気づいたセドリックは、慌ててシャツを羽織りながら思い出したように付け加えた。
「そうだ、ペティボーンさん、試合、見に来て下さいね」
「――ああ、行くよ」
嘘だった。クィディッチなんて二度と見たくない。その気持ちは変わらなかった。しかし、前ほどの強い嫌悪は消えていた。この清々しい少年の肢体を目にしてからは――
未だに視線がセドリックの方に引き寄せられているのにはたと気づいて、フィニアスは慌てて他の生徒たちに向かって付け加えた。
「――みんなも夕食に遅れないように」
はーい、というおざなりな返事を後ろに、フィニアスは逃げるように部屋を去った。