十一月も一週間が過ぎ、日増しに鋭さを増す冷たい風が庭園を吹き抜け、リンゴの木を揺らしている。午後四時、ホグワーツは最後の素晴らしい秋晴れを西の空に見送っていた。
寒さにもかかわらず、フィニアスは額に汗の玉を浮かべて固い土に挑んでいた。足で押し込んでも中々シャベルは土に入っていかない。その側ではセドリック・ディゴリーが鬱々とした面持ちで苗木を弄んでいる。
セドリックは普段から口数の多い方ではないが、この日は「こんにちは、ペティボーンさん」と挨拶してから、一時間ばかり一言も口を聞いていない。フィニアスはちらりとセドリックの様子をうかがった。何かを話したそうな、しかし上下の唇を縫い付けている糸を中々切れないでいるらしい。
「こないだの試合は大変だったようだね。私は見に行けなかったけど」
見かねたフィニアスが仕方なく水を向けると、セドリックはようやくポツリポツリと語り出した。
「見に来なくてよかったですよ。天候は最悪だったし、吸魂鬼は乱入するし――」
「でもハッフルパフが勝ったんだろう?」
セドリックは憮然として首を振って、つかんだ土くれを放り投げた。
「そうですけど――あんな勝ち方ってないと思うんですよね」
「納得いかない?」
「ポッターが箒から落ちたのは彼の腕のせいじゃない。誰だってあれだけの数の吸魂鬼に囲まれたらああなりますよ――ああ、どうぞ」
セドリックが差し出した苗を受け取り、掘った地面に埋めながら、フィニアスはいつになく良い聞き手になっていた。
「自分の力で勝ちたかった?」
「正々堂々と勝負したかったのは勿論です。勝っても負けても。だけど一番納得できないのは、」
セドリックのため息がフィニアスの髪を揺らした。
「ラッキーだって、みんな喜んでるんです。チームメイトも寮のみんなも」
誠実な者の集まるというハッフルパフでもか。そう言えば、あのお堅いマクゴナガルでさえ規則を曲げて一年生のポッターをシーカーにと校長に捩じ込んでいた。いやはやクィディッチとは恐ろしいものだ。
「別に僕たちがズルした訳ではないですけど、やっぱりちゃんと決着を着けたかったです。相手がポッターならなおさら。シーカーって純粋に箒の技量を競える唯一のポジションですから」
「決着を着けるチャンスはまたあるさ」
しかし、自分にもセドリックの気持ちは分かるのだ。自分自身、シーカーとして活躍していた時――フィニアスの意識は流れるように過去を遡った――チームメイトの小狡い戦略やラフプレーに密かに眉をひそめたものだった。戦術や戦略以前に、相手のシーカーと一対一で箒の技量を競いあいたい。それを邪魔されたくないという頑固な職人気質があるのだ。
もしかすると、シーカーとは元来そういうものかもしれない。
「君も、本当にシーカーだねえ。」
思わず口をついた言葉にセドリックはきょとんとして目をしばたいた。
「どういうことですか?」
フィニアスははっとして、自分は何故クィディッチの話題をわざわざ引き伸ばすようなことをしたのだろうと、内心舌打ちした。
「それは――なんというか、昔、同級生がスリザリンチームでシーカーをやっていて、同じようなことを言っていたんだよ。シーカー対シーカーの戦いの醍醐味について――」
「へえ、スリザリンでも同じように考えるんですね」
ざわついていたのはフィニアスの心中だけではなかった。不意に背後の茂みがガサガサと音を立てたと思ったら、そこからひょっこり姿を現したのはリーマス・ルーピンだった。満月が過ぎてまだ間もないせいか、目の下の隈が濃い。
「クィディッチの話かい?」
「リ、ルーピン先生」
フィニアスはどくどくと脈打つ心臓のあたりを泥だらけの手で押さえた。原因不明の気まずさを感じながら。と、そこへルーピンが思いもかけない言葉を吐いた。
「シーカー同士盛り上がっているようだね」
フィニアスは愕然として、ニコニコしているルーピンを睨み付けた。フィニアスのクィディッチへの呪詛は、学生時代から今にいたるまで、二人きりの酒の席では定番の肴だった。クィディッチがフィニアスの心の傷であること、それも治りきらずに、自分自身で引っ掻いては膿み続けている生傷であることをリーマスは知っているはずなのだ。
「え、シーカー同士って――ペティボーンさんシーカーだったんですか?」
ほら、そうきた。先程までの憂鬱な表情から一変して、セドリックは輝く瞳でフィニアスとルーピンを交互に見つめている。
「おや、聞いてなかったのかい?ペティボーンさんは学生時代スリザリンのシーカーだったんだよ」
フィニアスの一にらみもどこふく風とリーマスはうそぶく。
「聞いてないですよ!ペティボーンさん、どうして教えてくれなかったんですか?」
「それは――」
それは、二度と取り戻せない大切な物のことを穏やかな心で思い出すことが出来ないからだ。二十年近く経ってもまだ心の整理はついていない。いや、数多の感情が取り散らかされたまま、臆して手を着けようとすらしていないのだ。しかしそのようなフィニアスの事情などつゆ知らぬセドリックは、心のままに、当然と言える言葉を発した。
「そうだ、次のレイブンクロー戦、ぜひ見に来てください!」
そのあまりにも無邪気な様子にフィニアスが答えに窮していると、ルーピンがお節介にも口を出してくる。
「いいじゃないか。元シーカーとして教えてあげられることもあるんじゃないかい?」
いかにも助け舟を出してやったかのような口ぶりであるが、じっとりと染み出す悪意を隠しきれていない。一体何のつもりでリーマスはこんな態度を取るのだろうか――怒りに飲まれそうになったが、ふと、思い直した――ひょっとして私はリーマスの不興を買うようなことをやらかしてしまったのか?
リーマスが、ふと思い出したかのようにフィニアスに声をかける。
「そうそう、血止め薬に使うヨモギを取りにきたんだよね。スプラウト先生がフィニアスに薬草庫の鍵借りろって」
夕暮れの空に網目のような木々の黒い影が揺らぐ。
「血止め薬なら医務室にあるんじゃないか?」
「それが、切らしちゃったんだって。クィディッチの試合の後はいつもそうさ」
怒りと不安の入り混じったフィニアスの声と、妙に明るいリーマスの声がすれ違いざまに耳障りな音を立てた。フィニアスが非難を込めて投げ寄越した鍵束を軽く受け止めると、リーマスはそそくさとその場を去り、後には目を輝かせたセドリックとフィニアスだけが残された。思った通り、セドリックは普段の寡黙ぶりに反して、堰を切ったようにまくしたて始めた。
実は、レイブンクローのシーカーが手強くて――そうなのかい――僕とは正反対の小回りの利くタイプで――それはやりづらいだろうね――セドリックはしゃべるのに夢中で、フィニアスの返事がおざなりであることに気付いていなかった。それに自分に背を向けているフィニアスの顔が、しかめ面を押し隠そうとして奇妙な無表情になっていることにも。
「いい作戦ないでしょうか?ペティボーンさん、シーカーだったなら何か思いつきませんか――」
惨めというのはこのことを言うのだ。フィニアスは久しぶりにこの感覚を思い出した。自分が失って二度と取り戻せないものを当たり前に享受している者を前にして、何も感じていないふりをすること。マグル界での生活で得た仮初の平安の中でつかの間忘れ、ホグワーツに戻ってきた時によみがえった感情。とはいえ、このところは管理人としての多忙な日常に紛れて、うまく受け流せていると思っていたのだが、どうやらそうでもなかったらしい。腹の奥底で一度は息をひそめていたそれは、嘔吐感にも似た感覚を伴ってフィニアスの口から吐き出された。
「すまないけど、スクイブに言えることは何もないな」
その声音はセドリックがぎょっとして凍りつくくらい冷たい皮肉に満ちていた。しかし、この時のフィニアスは、自分が冷静さを保てていると思っていたし、声を荒らげなかっただけ褒めてもらいたい、とさえ思っていた。何もクィディッチに夢中な少年に不愉快な思いをさせたいわけではない。だが、己の胸を傷つくがままにしておくことに耐えられなかったのだ。自分の心を自分で守って何が悪い。
「あ――ああ、ごめんなさい。僕、気づかなくて――」
ようやく気づいたのかい、君らしくもない――とは、どうにか口にするのを踏みとどまったが、飲み込んだ言葉が喉に引っかかって、代わる言葉――あるいはこの場を取り成すうまい言葉――を発することができなかった。いや、その必要もないと思っていた。
折しも夕食の時間を告げる鐘が聞こえてきた。セドリックは良い口実を見つけたとばかりに、別れの挨拶もそこそこに城に戻っていった。道すがら、セドリックが夕闇に紛れて気遣わしげにこちらを振り返っている姿は、背を向けているフィニアスには見えていなかった。
一人になったフィニアスは仕事を続けようと努めたが、ひとたび冷静になると、先ほどのセドリックへ投げつけた恨みがましい物言いが後悔されて落ち着かなかった。もう今日は切り上げよう。部屋でウィスキーでも飲まねばやっていられない。一度は絶ったはずの過去の悪癖は、すっかり元通りになってしまっていた。
片づけを始めたところに、ヨモギの入った袋を片手にルーピンがふらりとやってきた。
「あれ、もう仕事は終わり?」
自分の言葉が相手にどんな影響をもたらしたか、まったく気付いていないかのようだった。フィニアスはふつふつとわいてくる怒りを抑えて、何事もなかったかのように答えた。
「ああ。ヨモギは手に入ったようだな」
ルーピンは手に持った袋を掲げて見せ、薬草庫の鍵をフィニアスに返した。どうやら一緒に城まで戻るつもりらしく、去る気配がない。フィニアスは無言で片づけを続けた。
ルーピンが思いついたように口を開いた。
「ねえ、彼、いつも来るの?」
「彼?」
「ディゴリーだよ」
何故ルーピンがセドリック・ディゴリーのことにかかずらうのか。フィニアスは不審に思ったが、当の本人は場違いとも見える笑顔を浮かべているだけだ。
「ああ、そうだな。ちょくちょく手伝いにね。それが?」
「別に。二人とも楽しそうだったなぁって」
「ディゴリーは、な」
「そう?君も楽しそうだったけど?」
ルーピンが自分に対して何か含むところがあるのは間違いないようだった。気づかない間に彼を傷つけるようなことをしてしまったのかもしれない。だとしても、ルーピンのこの物言いが許せなかった。
「そんなわけあるか、クィディッチなんて思い出したくもないんだ。私はもう二度と箒に乗れないのに――君はそれを分かってくれていると思っていた」
フィニアスはそう言い放つとそのまま大股で立ち去った。自分自身の怒りにかまけすぎていたためだろう、ルーピンの声から作られた明るさは消えていたことには全く気づいていなかった。
残されたルーピンはその姿が闇に消えるまでじっと見つめていた。
に垂れ下がったスイカズラの香りをいつまでもかいでいる。ホグワーツ城の窓の灯りが遠くにきらめき始めた。