興味津々で様子を見守っていた野次馬連中は不意打ちを喰らって、動きを止めた。皆、口をだらしなく開けて、階段の前で仁王立ちしている闖入者、セブルス・スネイプ教授を見つめていた。スネイプの脂っぽい黒い髪に囲まれた顔に表情は乏しかったが、眉間の皺だけは否が応にも目についた。
突然の驚きからいち早く立ち直ったのはマルフォイ少年だった。
「スネイプ先生、僕はポッターにペティボーンさんについて小耳にはさんだことを教えていただけなんです。きっとスクイブのことも知らないだろうと思って。親切心で。なのに、余計なお世話だと、急に怒りだしたんです――」
「よろしい、よろしい、ミスター・マルフォイ。ポッター、君は友人の好意を素直に受け取ることもできんのかね。グリフィンドール五点減点」
ハリー・ポッターとグリフィンドールの面々が文句を言おうとするより先に、スネイプの視線はフィニアスを捉えていた。
「ところでペティボーンさん、あなたは目の前で生徒がもめているというのにただ見ていただけですかな?生徒に罰を与える資格が管理人に無いとしても、せめて仲裁くらいはできるでしょうに」
「すまな――みません、スネイプ教授」
「全く、早くホグワーツ職員としての自覚を持って頂かなければ困りますな」
二人は目を合わせないまましばらく沈黙が続いた。やがてスネイプの視線が動き、床に置かれたままの木箱の上で止まった。
「で、君はこれを我輩の部屋へ届けに来たのですかな?」
「え、ええ」
フィニアスが箱を持ち上げようと腰をかがめた瞬間、箱はその手をすり抜けてふわりと宙に浮かんだ。ふわふわとフィニアスの胸辺りで漂うその様子は、重さをまるで感じさせなかった。スネイプを見ると、杖先を箱に向けていた。
「これは我輩が運んでおこう。このような重い荷物を杖無しで運んで頂くのは忍びない」
フィニアスは羞恥で頭がカッと熱くなるのを感じた。間違いなくスネイプは自分に恥をかかせるためにこの親切を言い出したのだ。スネイプは相変わらず眉間の皺以外は無表情だったが、頭から爪先まで真っ黒なこの男の意図はよく読めた。
突如スネイプが吼えた。
「――諸君!何をボーッとしている?休憩時間は永久ではないのですぞ」
その場にいたネクタイの色もとりどりの生徒たちは、スネイプの一喝で蜘蛛の子を散らすように各々の教室へ飛んでいった。ハリー・ポッターは振り返りながら心配そうにこちらを見遣った。マルフォイ少年はフィニアスの方へちらりと一瞥を投げ掛け、ニヤリと笑って見せながら去っていった。スネイプも杖で浮かぶ木箱を操りながらきびすを返した。
たちまちその場にはフィニアスが立ち尽くすのみとなった。
辺りに人がいなくなっても、フィニアスの羞恥の炎が消えることはなかった。頬には熱がたまり、こめかみがドクドクと脈打つのがわかった。
あのスネイプに、陰気で根暗でみすぼらしくて、魔法薬いじりだけが取り柄のスネイプにこの私が馬鹿にされるなんて――
フィニアスは思わず頭をかきむしった。自尊心などとうの昔に破壊されたと思っていた。魔法力を失い、ペティボーン家を追われた時から、かつて友人だった人達はフィニアスの矜持――魔法使いとしての、ペティボーン家の嫡男としての、スリザリン生としての――に向けて容赦なく斧を振り下ろした。
十代の少年の水晶のように純粋な誇りは粉々に打ち砕かれた。そして、破壊され蹂躙された後の破片の山はホグワーツの城に取り残された。マグル界に逃げ込んだフィニアスはその無惨な様に背を向け、忘れようと努めた。そして本当に忘れてしまったと思っていた。
それなのに、今ホグワーツに戻ってきてみると、自分の砕かれた誇りの欠片は、かつてのように輝こうと未だにくすぶり続けていた。スネイプに恥をかかされたことで、それははっきりと自覚された。
スネイプなんかが――いじめられっ子で――魔法力があった頃には歯牙にもかけなかった。そんな奴がホグワーツの教授になり、スリザリンの守護者のごとく振る舞っている――それに引き換え自分は――
フィニアスは一日の仕事を終えて自室に帰った後も、気分が晴れないままだった。ベッドに入っても眠気が訪れない。何度も寝返りを繰り返していたが、やがてむくりと起き上がると、もしゃもしゃの髪もそのままにガウンを羽織るとスリッパだけを突っ掛けて部屋を出た。どこに行けば今自分に必要なものが手に入るかはよく分かっていた。
地下へ続く長い階段を降りた。ハッフルパフ寮に近い廊下にかけられた果物の盛り合わせの絵。その中の梨を擽る。するとドアノブが現れるのだ。扉を開けた先にあるのはホグワーツの食事を一手に担っているキッチンだ。
中に入ると、夕食の片付けは既に一段落したのか、明かりは落とされ、いつもはひしめいている屋敷しもべ妖精の姿もなかった。フィニアスはがらんとしたキッチンを見渡した。これは好都合だ。フィニアスは足音をしのばせてキッチンを横切り、奥にある木の扉を開けた。そこは酒の貯蔵庫である。背の高い棚が規則正しく並び、その上から下までびっしりと、ありとあらゆる酒が並んでいる。調理用から教授の個人の物まで揃っていた。
フィニアスは学生時代、よくここから酒をくすねていた。どこに何が置いてあるかはよく覚えている。生前にビンズ先生が飲み損ねたとっておきのコニャック――あまりに高価だったので飲む決意をするより前に死んでしまったのだ――が昔のままの場所で埃をかぶっていた。
フィニアスは手頃なブランデーの瓶を手に取ると、そのままキッチンを後にした。瓶をガウンの下に隠し、姿を見られないよう辺りに気を使いながら部屋への道を戻った。一度ミセス・ノリスとすれ違ったが、さすがの彼女も栓を抜いていない酒の匂いまではかぎ分けられなかったようだ。
キョロキョロと周囲の様子を伺い、滑り込むように部屋に入ったフィニアスはそっとドアを閉めて、ほっと息をついた。あたかも泥棒を働いているかのような気の張り詰め方だった。職員がキッチンの酒を持ち出すことは禁じられてはいない。しかし、フィニアスはアルコールに関しては前科がある。そしてその不名誉な経歴にも関わらずダンブルドアは彼を雇うことを決めたのだ。
ホグワーツを去ってから、フィニアスは一滴もアルコールを口にしていない。魔法薬の力を借りながらも禁酒に成功していた。それにマグル界での仕事はアルコールからフィニアスの気をそらす位のやりがいはあったのだ。ダンブルドアはマグル界のフィニアスの家を訪れたとき、かつての飲んだくれが今は完全に酒断ちしていることをとても喜んでくれたのだった。
再び酒に手を出したことを知られたくないと思うのは自分だけではあるまい。しかし、早速一杯目のグラスで一気に喉を焼いてしまうと、罪悪感は背徳感に変わり、それはむしろ甘美な味さえするようだった。抱えきれなくなりそうな劣等感や、やりきれない思いも酔いが回るにつれて、ふわふわと何処か遠くに飛んでいくようだった。
フィニアスは無心に飲み続け、二時間程で瓶を一本すっかり空にしてしまった。アルコールが引き摺って連れてきた不機嫌な睡魔に頭を乱暴に殴り付けられて、フィニアスは崩れるようにベッドに倒れこんだ。そして、なかば失神するような形で眠りに落ちたのだった。