フィニアスがホグワーツに来て三年目、生徒たちにも庭園の存在は次第に知られるようになっていた。特に周囲に関係を知られたくない上級生カップルの、ささやかな逃避行の先として重宝がられていた。寒くなる前は、思い思いに過ごす男女の姿がちらほら見られたものだったが、十二月に入って雪の降る日が増えてくると、だんだんと人気は減ってゆき、クリスマスが近づく頃にもなると、たくさんの色にあふれていた庭園もあまねく白の勝利を許していた。
それまで頻繁に庭園に顔を出していた人たちでさえ、このところは姿を見かけなくなった。ハーマイオニー・グレンジャーは勉強が忙しいと、ハロウィンを過ぎた頃からほとんど顔を見せることがなかった。彼女が特別な計らいで通常以上の数の授業を受けているということは、職員会議の場で周知されていたが、具体的にどのような手段を取っているのかまではフィニアスは知らされていなかった。
セドリック・ディゴリーも気まずさを克服できないのか、顔を合わせるのを避けているようだった。フィニアスの方でも関係を改善するきっかけをつかめないまま、クリスマスを過ぎてしまった。降り続く雪は庭園のすべてを白紙に戻してしまったが、一度ぎくしゃくした人間関係を清算することまではできないようだった。
一方で、リーマス・ルーピンは不自然なほどフィニアスの前に姿を現していた。他愛もない世間話のために廊下で呼び止め、バタービールの瓶を片手に管理人事務室を訪れては、フィルチに嫌味を言われるまで居座り続けた。実際いつ自分の仕事をしているのだろうとフィニアスは訝しんだほどだった。そうしているうちに、いつの間にかルーピンに対して腹を立てていたことも忘れてしまっていた。
ある日の夕方、注文していたふくろうの餌が間違いなく倉庫に搬入されたのを見届けた後、夕食前に一仕事片付けようとフィニアスが事務室に戻ると、ルーピンがこちらに背を向けてフィルチの書類棚をあさっているのが目に入った。足元には抜き出されたファイルが散乱している。一体何事かと聞くと、ボガートを探しているという返事が返ってきた。ハリー・ポッターに守護霊の呪文を教えるために使うのだという。
一番上の段は探し尽くしたのか、ルーピンは一息つくと、今度は下段のファイルを抜き出し始めた。
「ありふれた妖怪のはずなんだけど、いざ探すと中々見つからないんだよね」
ぶつぶつと呟きながらボガート探しを続けるルーピンを放っておいて、フィニアスは自分の仕事に取り掛かることにした。文句を言ったところで、気のすむまで部屋中をひっくり返さなければ出ていきそうになかったからだ。ボガートを無事捕獲し、ファイルをすべて元通りにするまでフィルチが戻ってこないことをフィニアスは祈った。
十分ほどたった時、不意にルーピンが声を上げた。
「あっ、見つけた!」
ボガートは書類棚の一番下の段に潜んでいるようだった。同時にパチンという何かが弾けるような音が響いた。確かボガートが目の前にいる人間の最も恐れるものに姿を変える時に立てる音だ。ふとボガートは何に変身したのだろうと興味を起こして顔を上げたが、フィニアスの座っている場所からはその姿を見ることはできなかった。そしてすぐに、他人の恐れるものを無遠慮に知ろうとした自分を一人恥じ入った。
「リディクラス!」
ややあって呪文が聞こえた。これでルーピンも目的を達するだろう、やっと自分もゆっくり仕事ができる、そう思ってフィニアスが書類に目を戻したその時、ルーピンの切羽詰まった金切り声が響いた。
「しまった!」
前後して右の耳元で例の弾ける音がした。ボガートはルーピンの手をすり抜け、フィニアスを獲物と決めたに違いない。ボガートが化けた何者かが背後にいる。冷や汗が頬を伝う。その何者かが自分の両肩に手を置くのを感じた。その手は優しくフィニアスの肩を掴んでいる。そしてその何者か――気配から察するにおそらく大人の男だ――はそっと顔を耳元に寄せ、囁いた――ほかならぬフィニアス自身の声で。
「お前は何故のうのうと生きている?皆“面汚し”のお前を嘲笑っているというのに――」
「こっちだ!」
ルーピンが割って入ってフィニアスに化けたボガートの腕を掴み、無理やりフィニアスから引き離した。目の端で、ボガートが値の張りそうな緑色のベルベットのローブを着ているのをとらえた。またもやパチンという音が響き、ボガートの姿はたちどころに消えてしまった。一瞬ボガートが完全に消滅してしまったのかとフィニアスは見誤った。しかし、よく見ると、ちょうどルーピンの顔の前あたりに光り輝く銀色の球体が浮かんでいた。
「リディクラス!」
ルーピンの呪文とともに、最後はものの数十秒でボガートは捕獲され、ルーピンの持ち込んだ大きな袋の中に詰め込まれた。部屋に静寂が戻った後も、フィニアスの手は震え、心臓は早鐘のように打ち続けていた。恐怖の残滓を振り払おうと、フィニアスはよろよろと立ち上がり、来客用のソファに体を沈めた。
ボガートが化けたのは自分自身だった。だが、それは魔力を失わなかった「もしも」の自分だ。もし当たり前の魔法使いとして成長し、スリザリンの面汚しと呼ばれることもなく、両親の期待に応え、由緒あるペティボーン家の長男として栄えある人生を送っていたとしたら――きっと、美しいベルベットのローブをまとって、出来損ないのスクイブを嘲笑ったに違いない。「何故お前はいつまでも生き恥をさらしているのだ?」と。自分が最も恐れているのは他の誰でもない、魔力を失って二十年以上経てなお、スクイブを見下さずにはいられない自分自身だった。
「この歳になると、ボガートは致命傷になりかねないよね」
いつの間にかルーピンが隣に座っていた。
「子どもたちの怖いものって、たかが知れていたけど」
その通りだ。歳を重ね世の中を知れば無知の闇は晴れる。だが、一度知った苦しみが落とす影はより深く濃いものだ。その影を振り払うことは難しく、知らないうちに心が蝕まれていく。そうすると眼前に現れたボガートを直視することはもとより、その姿を他人に知られることも、時に命取りとなるのだ。
少し落ち着きを取り戻したフィニアスは、図らずも見てしまったルーピンの前で変身したボガートの姿を思い出した。満月。
「まさか、君、授業でボガートの前に立ったりしていないだろうな?」
ルーピンは微笑み、黙って目をそらした。
「知られたらまずいというのは分かっているだろう、なのに何故そんな不注意な真似を!」
無意識のうちに激昂しかけているのは、自分自身の不安から逃れようとしているのかもしれない。対照的にルーピンは異様なほど落ち着いていた。満月が来るたびに獣に変身し人心を失う恐怖をすでに飼い馴らしているというのか。いやそんなはずはない。それならばボガートは他の何かに姿を変えたはずだ。
「隠し続けるというのも、疲れるものなんだよ」
ああ、そうか。隣に座っている男は怯えることにも疲れきり、心に痛覚があることすら忘れてしまっているのだ。
「結局僕たちはあの頃から何も変わっていないんだよ」
ルーピンがポツリと口にしたその言葉は、フィニアスの心を深くえぐった。しかし同時にその傷口から安堵が麻薬のように全身に広がるのも感じた――ああ、ようやく自分の元へリーマスが戻ってきた。
フィニアスが魔力を失ったのは五年生の冬だった。それから一年、あらゆる手を尽くしたにもかかわらず、失った魔力を取り戻すことはできなかった。もう一生このままなのだと悟ってからというもの、「あったりなかったり部屋」でルーピンと二人きりでお互いにしか理解できない苦しみを分かち合うのが習慣になっていた。しかしグリフィンドールの友人たちが動物もどきを習得してからは、ルーピンはフィニアスより彼らと過ごす時間がだんだんと長くなっていった。そして最後は、友人ともども闇の帝王を倒す戦いに身を投じ、一方でフィニアスはマグルとして別々の道を歩き始めたのだ。
ルーピンには裏切られたと思っていた。たった一人の心を許せる人を奪っていったジェームズ・ポッターやシリウス・ブラックには、理不尽だとは自覚していたが、怒りを覚えていた。しかし何よりも、身に降りかかった不幸を乗り越え、前に向かって一歩を踏み出したルーピンが妬ましかった。それが今日、ボガートのいたずらによって、二十年の時を経ても、いまだに抱えた傷が癒えていないことを互いに確認しあうことができたのだ。
リーマス・ルーピンが隣にいる。ソファの上で肩が触れ合った。互いの顔に息がかかるほどの距離だ。これもあの頃のままだ。安心して過ごせる唯一の場所だった「あったりなかったり部屋」でもこんな風に二人で寄り添っていた。だんだん記憶は鮮明になっていって、傍らで燃えていた暖炉のほのあたたかさすら思い出せるほどだった。
「ねえフィニアス、校長から聞いたんだけど、今年でここを辞めるつもりなんだって?」
ルーピンの唐突な質問に、フィニアスは我に返った。去年の夏休み前、ダンブルドアに辞意を伝えたものの受け入れられず、押し問答した挙句、後一年で決心が変わらなければ認めようということになったのだった。そう答えると、ルーピンの声がにわかに明るくなった。
「それなら、ホグワーツなんか今年で辞めて二人で一緒に暮らそう、どこか人里離れたところでさ」
予想していなかった提案だった。
「悪くないが、君はせっかく教授になったのに」
「僕の正体が保護者にバレるのも時間の問題さ。そうすればみんな止めるどころか、一刻も早く追い出したがるだろうね」
ルーピンの冷笑まじりの自嘲も、浮足立った気分を隠しきれていなかった。つり込まれたフィニアスも心が躍り始めていた。
「どこか深い森の中にコテージを立てて、マグルにも魔法使いにも見つからないように魔法をかけよう。煙突のネットワークに加入していれば生活は問題ない」
「人里離れた森の中なら満月の晩も心配ないな」
「猫を飼おう。長毛の大きな子がいいな」
他愛もない計画を熱心に語り合った。未来を思い描くという喜び――多くの人々が当たり前に享受しているものだ――を二人ともいかに久しく忘れていたことか。アイデアは尽きることなく湧いてきた。一時間もたった頃には、将来の住処の計画は、応接間に敷くラグの模様から寝室のカーテンの色までかなり詳細に描きこまれていた。
夕食を済ませて事務室に戻ってきたフィルチが、興奮しながら妙な話をしている教授と同僚を見て怪訝な顔をしたが、当の二人はそのことに気づきもしなかった。しかし、管理人が空っぽの書類棚と床に散乱したままのファイルに気付いて怒鳴り散らし始めると、二人は逃げるようにして事務室から廊下へ飛び出し、顔を見合わせて噴き出したのだった。