冬が深まり、いよいよ降り積もる雪に身動きが取れなくなると、フィニアスは管理人室に閉じこもることが多くなった。そしていつの間にやら、そんなフィニアスには雑用を押し付けてよいという暗黙の了解が校内で出来上がっていた。フィルチがミセス・ノリスに構う時間を確保したいがために、フィニアスが暇であると言いふらしたのが発端であった。教授たちの中でも特にこの権利を濫用していたのがスネイプだった。どうやらフィニアスを凍死させる目論見があるらしく、頻繁に呼び出しては底冷えのする地下の保管庫での厄介な作業を言いつけるのだった。
だから、この晩、薄笑いを浮かべながらアルマジロの胆汁の計量を命じようとしたスネイプに堂々とノーを叩きつけることができたフィニアスは、久しぶりに夏の朝の空気のように清々しい気分になったのだった。
「実に申し訳ない。マクゴナガル先生の先約が入っているのでね」
この時の憎々しげに引き攣ったスネイプの顔と言ったら!嘘をついてはいない。本当にマクゴナガルから仕事を仰せつかっていたのだ。一時間前、管理人室にせわしなく入ってきた彼女は珍しく緊張した面持ちであった。
スネイプの舌打ちという何物にも代えがたい報酬を得るために課せられたフィニアスの仕事とは、急遽ホグワーツ城に泊まることになった気まぐれな来客のために寝室を整えることであった。
「屋敷しもべ妖精にでもやらせればよいのでは」
ささやかな反抗も込めて、魔法使いとしてごく自然な感想を述べてみたが、マクゴナガルは取り付く島がなかった。
「博士は滞在される部屋に屋敷しもべ妖精の手が入ることを望んでいらっしゃいません」
なるほどそういう魔法使いがいることは間違いない。フィニアスの母親もそうであった。さらにその母親である祖母が筋金入りの屋敷しもべ妖精嫌いだったのだ。自分の私室に頑として入れようとせず、特に口にするものには指一本たりとも触れさせなかった。そのために人間の使用人を雇うという不経済をペティボーン家は長らく強いられていたのであった。
「私は研究室に戻ります。博士をお待たせするわけにはいきません。よろしく頼みましたよ、フィニアス」
いつになくピリピリとした様子のマクゴナガルは、フィニアスの方も見ずに言い残すと、足早に去っていった。博士と言っていたが、彼女をここまで恐縮させる相手とはどれ程のお偉方なのか。少しく興味が湧いてきたフィニアスは、さっさと仕事をすませてその顔を拝んでやろうと、長らく放置されていた客室に急いだ。
***
まずは窓を開け放すところから始め、ランプの傘から窓のさんまで積もりに積もった埃を丁寧に払いのけた。糊のきいたシーツのしわの一本までを駆逐する。根雪のごとき客室の空気が暖炉の炎でようやく溶け出した頃、スコットランドの荒野を描いた風景画の中で吹き荒れていた嵐がやみ、穏やかな日差しが差し始めたことを確認し、フィニアスはマクゴナガルの研究室に向かった。
暗い廊下で重い木箱を大儀そうに運ぶスネイプとすれ違っただけで、静かな夜だった。あまりの寒さに生徒たちもわざわざ規則を破ってまで寮の外に出たいと思わないのだろう。変身術の研究室の扉をノックする音がむなしく廊下にこだましたが、返事はなかった。しかし、フィニアスがマクゴナガルの研究室のドアを開けると同時に静寂は打ち破られた。
「――博士!一体何をなさるのですか!まさか、まさか――」
研究室の中は毒々しい紫色をした煙がなぜか充満していて、フィニアスは咳き込んだ。部屋の主もその客も煙に紛れて姿がよく見えない。何か薬草の類が染みこませてあるのか、蟻を潰したような臭いが鼻をついた。
「――ご心配召されるな、マクゴナガル先生!この検査が済みましたらば、枝の一本まで元通りにしてお返しいたしますからな。このわたくしが保証するのですから、間違いなどあるはずがないでしょう!」
マクゴナガルの悲痛な叫びに答えたのは、甲高い――羽をむしられた小鳥の断末魔のような――しかし、間違いなく男のものとわかる声だった。鷹揚な言葉遣いとは不釣り合いに不安定な抑揚を持つこの声の主をフィニアスは知っていた。同時に、どうして屋敷しもべ妖精ではなく、自分がこの客の部屋の支度を仰せつかったのかも知ったのである。
フィニアスの記憶が正しければ、この客は六十歳に手が届くか届かないかくらいの年齢になるころで、母親から受け継いだ屋敷しもべ妖精嫌いと、誰からの遺伝なのか全く不明の天才的な頭脳とそれ故の無軌道に揺れ動く精神を持て余して、一族の中でも腫れもの扱いされていた人物であった。
「伯父上、ですか?」
呼びかけられた声で部屋の中の人々はようやくフィニアスの存在に気付いた気配だった。誰かが杖を振ったらしい。徐々に煙が晴れてゆき室内の様子が明らかになった。ローブの袖で口と鼻を押さえ、不審げに眉を寄せているマクゴナガル、そしてウィラード・ウィルビー博士――左手にいまだもうもうと煙を上げる松明を掲げている――の姿が、机越しに見えた。
ウィルビー博士の容姿はフィニアスの記憶にあるものとほとんど変わりがなかった。最後に会ったのはフィニアスが十六歳の時のこと、その母、つまり博士の妹の葬儀の日のことであった。黒い喪服と対照的な銀色の頭髪は、涙雨に濡れそぼってなお炎のように逆立っていた。度の強い眼鏡の奥で揺れ動く小さな青い目、寒い日に雪遊びに没頭する子どものような――まさに子どものように無垢でつやつやした――紅い頬。その肉を痙攣させるように笑う癖は妹の葬儀の最中にさえ度々現れた。
少ししわが増えたかな。十五年以上がたった今、フィニアスが気付く違いはそれだけだった。当の伯父は煙の刺激のせいか潤んだ目を瞬かせていたが、急に唇を震わせると、素っ頓狂な声で叫んだ。
「フィ、フィニアスなのかい」
「ええ、ご無沙汰しております、伯父上。今晩はどういったご用件でまた――ああ、もしお伺いしてもよければ」
先ほどまでの自信にあふれた様子とは打って変わって、博士の目はフィニアスと部屋の隅々とを忙しく行き来し始め、薄い唇が震え始めた。途切れがちのかすれた笑いが歯の隙間から漏れた。博士がいつまでたっても答えようとしないので、戸惑い気味に二人を見ていたマクゴナガルが代わりに答えた。
「ハリー・ポッターがクリスマスに受け取った箒を見て頂いていたのです。誰からの贈り物なのか分からない箒に生徒を乗せるわけにはいきませんからね。特にポッターのような特殊な事情のある生徒を――フリットウィック先生がうっちゃりの呪いがかけられている可能性を否定できないとおっしゃって、一流の専門家である博士をご紹介くださったのです」
確かに、きれいに片づけられた机の上には学生が乗るには不似合いな新品の箒が乗っている。一瞥してプロ選手用の高価な品物であることがわかった。この箒にあのポッターが乗れば、グリフィンドールに大いに有利に働くに違いない。
「ですが、博士がペティボーンさんのご親戚だったとは」
一度は晴れた松明の煙が、再び我慢ならないくらいに濃くなってきた。
「で、この松明はいったい何なんです?」
フィニアスが咳き込みながら聞くと、マクゴナガルが思い出したように鋭い悲鳴を上げた。
「ああ、そうです、博士!まさかその火でファイアボルトを燃やそうだなんて!」
マクゴナガルの言葉に、博士の落ち着きのなかった目がはたと箒に据えられ、厚い煙ごしでもわかるほどに輝きを帯び始めた。フィニアスは伯父のこの瞳に見覚えがあった。頼んでもいないのに、自分の研究について滔々と語り続け、家族を辟易させていた時の瞳。大抵その背景には、その妹が手塩にかけて育てたペティボーン家の庭園があった。
「もし呪いがかかっているのならば、この箒は赤く燃え上がり、その呪いは雲散霧消しましょう。もしこの箒が赤子のごとく無垢ならば、空色の炎に包まれるでしょう!もちろん箒には傷一つつきませんよ」
マクゴナガルの抗議もむなしく、博士の手によって無慈悲にも松明の炎はファイアボルトに点火された。ジリジリと唸り声のような音が箒からして、煙が一段と激しく上がり始めた。煙はフィニアスの目と鼻に容赦なく襲い掛った。たまらずローブの袖で顔を覆ったので、結局哀れな箒から何色の炎が上がったのかは確認できなかった。
煙が収まった後、ウィルビー博士が言うにはファイアボルトからは六月の空のような輝かしい青色の炎が上がり、無事その身の潔白を証明したということであった。マクゴナガルは博士を客室に案内するようフィニアスに一言指示を与えると、箒を抱えていそいそと研究室を出て行った。早速ポッターに返しに行くのだろう。これで誰にも文句は言わせないと肩をそびやかせて。
フィニアスが我に返った時、ウィルビー博士は、火の消えた松明を古びた巨大なトランクに仕舞おうとしているところだった。詰め込まれた雑多な物で閉まらなくなったトランクは杖の一振りでは言うことを聞かず、どうにかして掛け金をかけようと博士自らが全体重をかけて格闘していた。とはいえ蜘蛛のように細長い博士の腕では、頑として閉まろうとしないトランクにはほとんど歯が立たないようだった。見かねたフィニアスが右腕一本で蓋を閉めてみせると、博士は驚嘆のため息を漏らした。
「マグル暮らしを経験するとこういう芸当ができるようになるんですよ」
フィニアスがそう言いながら肩をすくめて見せると、博士は気まずそうに咳ばらいを繰り返した。フィニアスは少しく苛立ちを覚えて、トランクを乱暴に持ち上げた。もちろん相手に気づかれない程度にだ。
「では、お部屋にご案内します」
返事はない。分厚い眼鏡越しの小さな目がハエでも追っているかのようにせわしなく動いている。視線は定まらないが、思考はどこか一点に集中しているに違いない。伯父が変わり者と呼ばれていた所以をフィニアスは思い出した。片手でトランクを抱えると、もう片手でドアを開けて、博士を促した。ようやく我に返った博士は、奇妙なビブラートのかかった素っ頓狂な声で、
「あ、ありがとう」
と叫んだ。フィニアスは目礼を返すと、先に立って客室へと向かった。後ろからコソコソと虫の這うような伯父の足音を聞いているうちに、自分が魔法界を離れていた十年以上の時間を、天才と呼ばれたこの人が何に費やしてきたのか、にわかに興味が湧いてきた。
「ファイアボルトの呪いの調査のためにいらっしゃったということですが、最近は箒の研究をなさっているのですか」
「え、あ、ああ。プロの世界じゃあ、足の引っ張り合いで箒に呪いをかける例が後を絶たないから。必要なんだよ、そういう研究がね」
確かにそう言う噂はしばしばタブロイド紙を賑わせているようだ。試合中に箒に異常が起きれば、大抵誰かが呪いをかけたのではないかと探偵気取りの記者が面白おかしく書き立てるのだ。フィニアスが魔力を失ったのもクィディッチの試合中、箒の上でのことだった。当初はグリフィンドールチームかフィニアスの活躍に嫉妬したスリザリンチーム内の誰かが箒にかけた一時的な呪いのせいだろうと、誰もが思っていた。だが、イギリス一の腕を持つ聖マンゴの癒師たちをもってしても、その原因は判然としなかったのだ。
「私が魔法力を失った時も箒の上でしたが、あれは伯父上が下さったものでしたからね。呪いであったはずはないでしょうね」
客室に着き、トランクを下したフィニアスが何気なくつぶやいた言葉にウィルビー博士がはっと息を飲んで立ち止まったのが分かった。おや、と思ったフィニアスが振り返ると、博士は自分が飲み込んだ息を詰まらせたように目を白黒させ、小刻みに身を震わせていた。
「どうされました、伯父上」
「い、いや大丈夫だよ。あ、あれは、そう、大変気の毒だった」
ウィラード・ウィルビーという人物について知らなければ、甥の身に降りかかった残酷な運命に対して淡泊に過ぎやしないかと憤る人もあるかもしれない。しかし、この天才博士は自分の研究について以外は、思っていることの十分の一も伝えることができない程の不器用なのだ。少しの刺激に対してもおどおどとびくつく異常な繊細さが、素直な感情の発露を邪魔してしまうのだろう。フィニアスにはそのことが分かっていたから、この時の伯父の態度にも、特に腹を立てることはなかった。自分が贈った箒に乗っている最中にフィニアスが魔法力を失ったことに、感じる必要のない負い目を感じているに違いなかった。
「恐れ入ります」
フィニアスはそうひと言返して、部屋を辞したが、去り際に見たのは、机にもたれ掛かるようにして体を支え、胸を押さえて肩を上下させる伯父の姿だった。