二月も半ばを過ぎた土曜日の午前遅く、フィニアスは自室の肘掛椅子に収まり、暖炉の炎で足をあぶりながらゆったりと読書を楽しんでいた。そろそろ昼が近づき小腹が減ってきたなと思い始めたころ、いかにも徒然に立ち寄ったといった様子でルーピンが訪ねてきた。ここのところ週末になると、フィニアスの部屋を訪ねて読書の邪魔をするのがすっかり習慣となっていたのだ。
いつもは部屋で例の将来の計画について話に花を咲かせるのが常なのだが、今日は様子が少し違った。ルーピンはフィニアスの肩に後ろからもたれかかり、わざとらしく甘えるような声で、クィディッチの試合を見に行かないかと誘ってきたのだ。
「暇だし構わないが、今日の対戦はどこ対どこなんだ?」
「グリフィンドール対レイブンクロー」
フィニアスがさっさと本を閉じて立ち上がったので、ルーピンは拍子抜けしたようだった。きっと断られるものと思っていたらしい。事実、長年にわたってクィディッチの思い出は、二度と戻らない魔法使いとしての日々の象徴としてフィニアスを苦しめてきた。しかし、十一月のハッフルパフ対レイブンクロー戦の興奮は、ほんの少しだが、フィニアスの心境に変化をもたらしたのだった。それは、かろうじて吸魂鬼を追い払うことが精いっぱいの、形にならない守護霊のようなものではあったが、それでもフィニアスにとっては十分頼みになるものであった。
「そうか。で、私はどちらを応援すればいいのかな」
コートとマフラーを身に着けながらフィニアスが聞くと、ルーピンが我に返ったように答えた。
「僕としてはグリフィンドールを応援してほしいけど。今日はハリーのファイアボルトのお披露目があるからね。それだけで観戦する価値はあるよ」
送り主不明の高級競技用箒の安全性は、フィニアスの伯父であるウィルビー博士がお墨付きを与えている。マクゴナガルの手でハリー・ポッターに返されたはずだ。そうか、今日が公式戦でのデビューだったのか。当代随一の箒はどのような動きを見せてくれるのだろうか。ポッターは父親に似て素晴らしい乗り手であると聞いているが――。
「そうか、それは楽しみだな」
フィニアスの口ぶりがいたって自然な調子だったので、ルーピンは驚いたようだった。ぽかんと口を開けて目を丸くしている。フィニアス自身でさえ衝撃を受けていた。何のわだかまりもなく、ハリー・ポッターとファイアボルトが見せてくれるであろう妙技を心から楽しみだと思っていたのだ。
「よかった。断られるんじゃないかって心配してたんだよ」
ルーピンの声色には、言葉の内容に反して礫のような硬さがあった。フィニアスはおやと思ったが、折しも興奮気味の急ぎ足で競技場に向かうフリットウィックが通りかかり、にぎやかな道連れとなったことで、感じた違和感もどこかに消えてしまったのだった。
***
三人が競技場に着いた時には、客席はもうほとんど埋まっていた。凍り付く厳寒の二月、この競技場だけは雪をも解かす熱気に包まれていた。試合には出場しないスリザリンやハッフルパフの生徒も目に付いた。やはり天下のファイアボルトを直に見たいという者は多いのだろう。いつの間にかフリットウィックは姿を消しており、教員席の最前列、マクゴナガルの隣に陣取って火花を散らせていた。
その時、背後の入り口からセドリック・ディゴリーが入ってくるのが見えた。よく一緒に見かけるクィディッチチームの友人たちはいないようだ。空いている席が見つからないのか、キョロキョロあたりを見回している。その様子に気付いたルーピンが手招きした。
「ディゴリー、ここ空いているよ」
「ありがとうございます。ルーピン先生」
ディゴリーはルーピンの隣の席に腰を下ろした。ルーピンを挟んでフィニアスとディゴリーが座る形だ。こうして顔を合わせるのは、昨年クィディッチの話題で気まずい思いをして以来のことだ。ディゴリーはいつもの涼しげな笑顔がわずかに曇っている。やはりわだかまりを感じているのだろうか。フィニアスがどう話しかけようか言葉を選んでいるうちに、ルーピンが機先を制した。
「今日はハッフルパフのチームメイトは一緒じゃないのかい」
ディゴリーはこの話を続けていいものか迷うらしく、フィニアスの顔をそっと伺った。
「ええ、そうなんです」
ディゴリーの視線の動きとためらいがちな短い返答で、聡いルーピンは二人の間にわだかまりがあることを嗅ぎ取ったに違いない。しかし、まるで何も気付いていないかのように話を進めていく。
「せっかくファイアボルトの動きを間近で見られるチャンスなのに、もったいないことをするね」
「今年はもうハッフルパフの優勝の可能性は消えてしまいましたから。みんな見に行かないってそっぽ向いてしまって」
ディゴリーの口ぶりは軽くなかったが、ファイアボルトと聞いて頬に少し赤みが差したようだった。シーカーにとって、クィディッチは勝敗だけを追求するものではない。選手が飛び交う広いフィールドで、ただ一人スニッチを追いかけるシーカーは独特の職人気質の者が多い。箒へのこだわり、飛行技術への飽くなき探求心。ディゴリーはシーカーだ――自分が同じ立場でもきっとこの試合を見に来ただろう。
突如観客席を包んでいたざわめきが消えたかと思うと、ひときわ大きな歓声のうねりが爆発的に広がった。グリフィンドールの選手の入場である。観衆の目はほとんど同じ一点に向けられていた。最後に現れたハリー・ポッターの手に握られたファイアボルト。観客の期待がこの一本の箒に注がれていた。数多の食い入るような視線は熱線のごとくその持ち主を焦がしていた。その中には、有名な「生き残った男の子」といえども最高級の箒を乗りこなすことはできるまい、という意地の悪い期待も相当に混じっていた。
ホイッスルの鋭い音とともに両チームの選手が飛び立った。宙を舞う姿はみな軽やかだ。しかし、ハリー・ポッターの乗るファイアボルトは格別だった。あっという間に多くの選手から遠く離れた高度まで上昇している。恐るべき加速力だ。レイブンクローのシーカー、チョウ・チャンは早くもポッターの動きに後れを取り始めている。それでも食らいついているのを見るに、彼女もまた優れた乗り手なのだろう。
ポッターはさっそくスニッチを見つけたのか、降下の態勢に入った――と思った次の瞬間にはもう観衆の目の前を通過していた。箒をほぼ垂直に立てての急降下だ。赤いローブも相まってまさに炎の雷そのものだった。フィニアスは手が汗ばむのを感じた。あれほど思い切りよく地面に向かってスピードを出せるとは。自分には到底できなかった芸当だ。
「あっ」
ルーピンが短く声を上げた。レイブンクローのビーターが打ったブラッジャーがポッターめがけて突っ込んでいく。それを紙一重のところでかわす。急降下直後の方向転換にもかかわらずスムーズな動きだ。視界のブレも最小限だろう。小さなスニッチから目を離すことのできないシーカーは急な箒さばきにも滑らかさが求められる。ファイアボルトはまさにうってつけだ。乗り手のほうの技量も十分に見えた。だが、ポッターはスニッチを見失ったらしい。
「らしくないな」
ディゴリーがつぶやいた。フィニアスも、ポッターが飛ぶところを見たのはこれが初めてだったが、同様の印象を持った。これまでの飛びっぷりを見れば、ブラッジャーが掠めたくらいでスニッチを見失うなどありえなさそうだった。
「ポッターは相手シーカーの動きに気を取られたのかもしれないな」
「ペティボーンさんもそう思いますか?」
何の気なしにひとりごちたつもりが、ディゴリーの関心を引いてしまったようだった。
「見たところの印象に過ぎないけどね」
「チョウの作戦だと思います。ファイアボルトと正面から競り合っても勝てないですから、後にぴったりつけることで隙を狙うんです。チョウの得意なスタイルです。僕もよく仕掛けられます」
「さすがレイブンクローのシーカーだ。頭脳派だな」
「ええ。手ごわい選手ですよ」
フィニアスとディゴリーの間に挟まって聞いていたルーピンが「さっぱり分からないよ」と呻った。そういえば、この男は学生時代からスポーツには興味が薄く、クィディッチを観戦していても、わかりやすいスピードと迫力ある身体のぶつかり合いが見られればよい、というたちだった。今日も二人の連れに置いてきぼりにされて不機嫌になり始めているらしい。
ルーピンのご機嫌を取っておいたほうが後々のためになることはわかっていたが、刻一刻と戦況が変わる試合から目が離せなかった。ましてやルーピンの内心など知る由もないディゴリーは、遠慮なくフィニアスと議論を戦わせようと、試合が一ミリでも動くたびに声を張り上げた。ルーピンの横顔をのぞき見しながらも、ディゴリーの挑戦をついつい受けてしまうのだった。
レイブンクローチームの得点が続いた。ルーピンはますますいらだってきていた。ディゴリーは相変わらず試合にくぎ付けになっている。さすがのフィニアスもひやひやしてきたところ、ディゴリーが興奮した短い叫び声をあげた。一拍おいてグリフィンドールの応援席からも歓声が上がった。ルーピンも腰を浮かせてピッチをのぞき込んでいる。
ピッチではポッターがファイアボルトを急浮上させていた。迷いのない加速だ。その視線の先にはきっとスニッチがあるに違いない。まったく惚れ惚れする。箒と乗り手のどちらが欠けてもなし得ない妙技だ。もしファイアボルトに乗っているのが自分だったら――最高に違いない!
熱狂してポッターとファイアボルトを凝視していたフィニアスの視界を、急に立ち上がったルーピンのローブが遮った。抗議の声を上げる間もなく、ルーピンは応援席をピッチのほうへ駆け下りていった。
「ペティボーンさん、あれ見てください!」
いつの間にかルーピンがいなくなった間を詰めてすぐ隣にいたディゴリーがフィニアスのローブの袖を引っ張った。指さすほうを見ると、黒いフードを被った人のような姿がすぐそこのピッチの上で蠢いている。その姿には見覚えがあった。
「まさか吸魂鬼か?」
そういったものの、ふとフィニアスは首を傾げた。確かに見た目は吸魂鬼そっくりだ。しかし、ホグワーツの警備のために配置された吸魂鬼はダンブルドアの命で学校の敷地内には入れないはずだ。それに彼らは目に見えずともはるか彼方にその気配を感じただけで、体の内側から凍り付くような恐怖をもたらす。それが奇妙なことにこれだけ近くにいるにもかかわらず、まったくと言っていいほど何も感じないのだ。
ひょっとして、クィディッチがもたらした昂揚が、吸魂鬼の魔手をはねのけたのだろうか。しかしフィニアスは辺りを見回して、その考えが間違いであることに気づいた。周りの観客も多くはまだその存在に気づいていないようなのだ。
「ルーピン先生はあれに気づいたんですね」
ディゴリーの口ぶりも戸惑い気味ではあったが、恐怖に駆られているようには聞こえなかった。その時、レイブンクローのシーカーが上空から黒い姿を認めて声を上げたことで、ようやく異変を悟った観客たちはざわつき始めた。みな身を乗り出し、口々に囁きあいながら蠢く黒い影を指さしている。試合は完全に中断していた。
教授たちが杖を片手にピッチの入り口に集まってきた。しかし彼らが呪文を唱える前に、上空を飛んでいたハリー・ポッターが先手を打った。ローブの中から杖を取り出し、黒い影に向けた。唱えた呪文はフィニアスの耳には届かなったが、白いもやが杖の先から噴き出した。その真珠のような輝きをフィニアスが目にするのは初めてだった。しかし形こそ成してないものの、優雅にひらめくそれが守護霊であることは間違いなかった。遠くにいてもなお感じる暖かな脈動は、吸魂鬼に唯一対抗しうる手段であることを十分に納得させるものだった。
ピッチの風が動いた。薄れつつある守護霊のもやの向こうで、杖を手にしたままのハリー・ポッターがスニッチを今まさにつかもうとしていた。あっという間の顛末に、ほとんどの観客は自分たちの見ていることが理解できていない様子だった。試合終了のホイッスルが鳴り響いて初めて、歓喜と落胆の波が競技場に押し寄せた。
「大丈夫ですか、ペティボーンさん」
うるさいほどの歓声の渦の中で、ポッターとファイアボルトが見せた興奮と守護霊の残した余韻との間でぼんやりとしていたフィニアスの腕をディゴリーの手がそっとつかんだ。庭園で吸魂鬼に遭遇した時にフィニアスが気を失ったことを思い出して心配してくれているのだろう。ハッとして思わず見つめたディゴリーの静かにきらめくあたたかい瞳の灰色が、守護霊の色によく似ていることに気づいた。
「ああ、大丈夫だよ。不思議とね」
「ならよかったです――あっ」
ディゴリーの視線の先は、ピッチの隅に向いていた。そこでもみくちゃになっていたのは、吸魂鬼の扮装をした数人の生徒だった。どうやらスリザリンの生徒らしい。大方ハリー・ポッターを脅かしてプレーを妨害してやるつもりだったのだろう。吸魂鬼は偽物だったのだから、何も感じないのは当たり前だったのだ。種が明かされてみたらなんてことはない笑い話だった。まだ黒いマントが絡まってじたばたもがいている吸魂鬼もどきたちは怒り心頭のマクゴナガルに雷を落とされている。
その滑稽な様子を見ていたディゴリーが忍び笑いを漏らした。たしなめようとしたフィニアスも我慢できずに噴き出してしまった。結局ピッチから戻ってきたルーピンが怪訝な顔をして止めるまで、二人してひとしきり笑い続けたのだった。