スリザリンの面汚し   作:減らず口

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As Black as Black could be -IV-

 このところひっきりなしに降り続いた雪は、魔法使いの世界にも等しく積もっていた。ホグズミードとかいう小さすぎて雪に埋もれそうになっているこの村も例外ではなかった。

 

 ごった返す朝のキングズクロス駅で、旅行者のキャリーケースに蹴躓きながら、ようやくたどり着いた九番線と十番線の間の壁に突進する、という信じられないような方法でホグワーツ行きの列車のホームにたどり着いたフィニーは、その後も通貨の両替やらで半日を費やし、ようやく夕方の最終列車に飛び乗ることができた。

 

 乗り込んだ列車はガラガラだった。そもそも魔法使いは地べたを這って移動することなどほとんどないのだろう。そのことに気づいたのは、同じコンパートメントに乗り合わせた老婦人と言葉を交わした時のことだ。

 

「息子がね、魔法使いなのよ。初めて向こうに会いに行くんだけど、勝手がわからなくてねえ」

 

「あなたもマグル、なんですね」

 

 空いているコンパートメントはいくらでもあるのに、わざわざ先客のいるところに入ってきたのは、慣れない魔法使いの世界に不安を感じてのことだったのだろう。マグルという言葉は「漏れ鍋」の飲んだくれから学んだ言葉である。魔法使いでない人間のことを指すのだという。

 

「そういう風に言うんですってね。向こうの人たちは箒とか、暖炉だとかで行き来するらしいのよ」

 

 箒はともかく、暖炉で移動するとはどういうことなのか。失われた記憶がよみがえることもなく、また一つ新しい謎が加わっただけだった。不可解な魔法使いの生態。自分も魔法使いであるという自認だけが宙に浮いて居心地が悪い。

 

 だから、終着駅でありホグワーツの最寄りであるホグズミード駅に降り立った時は、ごく普通の田舎町の風景に軽く驚いたのであった。大通りは小ぢんまりとしていながらも活気がある。とはいえ、ひとたび短い日が暮れると、家々は固く戸を閉ざして、通りには人っ子一人の姿も見当たらなくなった。

 

「シリウス・ブラックはここでもスターだね」

 

 凶悪な脱獄囚シリウス・ブラックは、マグルの新聞では社会面とゴシップ記事との間を行き来しており、恐怖よりむしろ下世話な好奇心をもって語られていた。ところが、この村ではみな本気で脅威であると考えているようであった。フィニーは「三本の箒」なるパブで、ブラックの名が本物の恐怖をもって語られるのを聞いて、意外に思ったのだった。

 

 まさか自分が逃亡中の大量殺人鬼の餌食になるなどとは微塵も心配していなかったが、シリウス・ブラックは思いもよらぬ形でフィニーを邪魔しにかかってきた。まだ見ぬフィニアス・ペティボーン氏を訪ねて、いざホグワーツ魔法魔術学校へと乗り込もうとした日のことである。ホグワーツの敷地に近づくや、石垣の石がにわかに動き出し、醜いゴブリンに姿を変え、慇懃な調子で尋ねたのである。「ホグワーツをお訪ねの方。どなたとお約束でしょうか」

 

 「漏れ鍋」から九と四分の三番線、ホグズミードに至る旅の中で、モノが生き物に(想像上のものであったとしても)姿を変えること自体には慣れてきていたフィニーは驚くよりは困惑した。当然ホグワーツの誰かのアポイントを取っているわけではない。言葉に窮しているフィニーに対してゴブリンは変わらず慇懃な、しかし一切の妥協はあり得ないという態度を崩さなかった。これ以上粘れば人を呼ばれるかもしれない。フィニーは引き返さざるを得なかった。

 

 

***

 

 

 フィニーは名残惜し気に「三本の矢」の看板を見上げた。

 

 村で一番居心地がよさそうなこの宿に腰を据えて一週間、フィニーはホグワーツの敷地の周辺を何度もぐるぐる歩き回ってはどこか侵入する隙が無いものか探し回っていた。しかし、ほとんど何らの成果も得られないまま、ついにロンドンを出るときに両替してきた金が尽きてしまったのだ。

 

 ただ一つ分かったことは、ホグワーツの周辺をうろついている警備のせいで、容易には近づけないということであった。脱獄囚シリウス・ブラックから学校を守るために配置されたのだという。「三本の矢」の饒舌な酔っ払いによれば、吸魂鬼と呼ばれる生き物であるという。彼らは人の幸せな感情を奪い取り、ついには廃人にしてしまう恐ろしい性質を持っていた。

 

 フィニーははじめて吸魂鬼を遠くに見つけた時のことを思い出した。それは人ではなかった。人のような形をした何かが、水に落とした黒インクのような跡を引きながら空を舞っているのだ。遠目に眺めているだけなのに、季節がもたらすものとは全く別物の寒気に襲われたことを思い出し、身震いした。体だけでなく、脳髄まで凍らせるような冷気。本能的に近づいてはならないと分かった。しかし、そうするとホグワーツに侵入する術はなさそうに見えた。

 

 暖かな暖炉が燃える店から一歩外に出るなり、雪混じりの強風が頬を打った。いったんロンドンに帰るしかあるまい。仕事だってこれ以上休むことはできなかった。だが、今晩もう一度だけ、最後にホグワーツに行ってみよう。それで駄目なら明日の列車で帰ればいい。焦ることはない。これまで十年以上、記憶を失った空っぽの体と付き合ってきたのだ。気長にやろう。そう自分に言い聞かせて、フィニーは歩き出した。

 

 どこかこの雪をしのげる場所はないか、と考えて、ふと「三本の矢」で聞いた噂話を思い出した。「叫びの屋敷」と呼ばれる廃墟がこの村の外れにあり、そこには凶悪な幽霊が取り付いていて、夜な夜な恐ろしい叫び声をあげるのだそうだ。当然そんな屋敷に近づく者はおらず、昼間でも周辺は閑散としているのだとか。よし、日が暮れるまでは「叫びの屋敷」に腰を据えるとしよう。フィニーは歩き出した。

 

 「叫びの屋敷」は噂通りのひどい有様だった。長年にわたって住む人がいなかったためか、屋敷の中にも雪が降り積もったように分厚い埃があらゆる家具調度を白く覆っていた。それだけでなく、机やら椅子やらベッドやら、何から何まで粉々になっている部屋もあった。時の流れに抗えず朽ちてしまったのではなく、明らかに凶暴な何かが破壊の限りを尽くしたように思われた。相当の警戒心を持って屋敷中を探索したものの、怪物や幽霊に出くわすこともなく、フィニーはどうにか完全な形を保っているソファを見つけると、身を深く沈めた。

 

 その晩。すっかり雪は止み、澄んだ夜空に瞬く星明りをたよりに、フィニーはそっと叫びの屋敷を後にした。黒い木立の向こうに見える城の様子をうかがった。夜が深くなるにつれ、明かりのついた窓が増えていく。あの窓のどれがフィニアス・ペティボーンの部屋のものなのか、今晩こそ明らかにしたいものだ。

 

 不意に背中に氷をあてられたかのような不気味な気配を感じた。そばを吸魂鬼が徘徊しているからだろう。思わずフィニーはコートの襟を掻き合わせた。すぐにこの場を離れるべきだろうか。そう思ったとき、鳩尾に差し込むような鋭い痛みが走り、その痛みに突かれたかのように、激しい咳の連鎖が始まった。こんな時にいつもの発作だ。

 

 積もった雪の上に膝をつき、背中を丸めて痛みと咳が去るのを待つことしかできなかった。吸魂鬼の気配はだんだんと近づいてくる。まるで獲物の苦しみに呼応するかのようだ。それでもフィニーは一歩も動くことができなかった。

 

 澄んだ夜気とは全く違う、淀んだ沼底の水のような冷気に包まれた。心臓を邪悪な冷たい手で嬲られるかのようだ。フィニーは四肢の先まで麻痺したようにくずおれ、雪の上に頭から突っ込んだ。奴らはこれまで目撃した時よりずっと間近に迫ってきていた。

 

 浅い呼吸を繰り返すたびに、半分雪に埋まった口に雪のかたまりが入り込んだが、そんなものは問題ではないくらい、吸魂鬼のもたらす恐怖がフィニーの体温を奪っていった。どうにかこうにか目だけを動かしてあたりを見ると、例の水に落としたインクのようなしっぽがそこかしこで翻っていた。いつの間にかすっかり取り囲まれていたのだ。

 

 フィニーの体を芯まで硬直させた吸魂鬼は、今度は肉体に秘められた精神にまで触手を伸ばし始めた。吸魂鬼は幸せな記憶を奪い去るのさ、という「三本の箒」の客の言葉を思い出した。それを聞いたときは、できるものならやってみろ、と思ったものだった。俺は記憶喪失なんだ、奪える記憶などないぞ、と。しかし今、フィニーは吹雪く極地に裸で放り出されたような絶望を感じていた。きっと幸せな記憶は自分にもあったのだろう。そしてそれはしっかりと自分の心を守ってくれていたに違いない。

 

 一体の吸魂鬼が動かないフィニーの顔を覗き込んだ。その瞬間、幸せという衣服を脱がされ丸裸にされた心に、冷たい激流がなだれ込んだ。制御不能な津波に飲まれ、上も下もわからなくなるほど滅茶苦茶に弄ばれる。最初フィニーは自分が何に巻き込まれたのか分からなかった。それはあらゆる負の感情がないまぜになって出来上がった黒い濁流だった。恐怖、怒り、憎しみ、嫉妬がフィニーの頬を打ち、顎を蹴り上げ、鳩尾を突いた。しかしそれらの根源が何かは判然としなかった。きっと失った記憶の中にある体験なのだろう。記憶から切り離された純粋な感情の混沌の中で、フィニーはあがくことすらできなかった。

 

 とりわけ酷くフィニーを打擲した感情は恐怖だった。過去の自分が一体何におびえていたのかは全く思い出せなかったが、逆らえぬ存在、命を脅かす存在であったことは間違いなかった。しかし、少し違和感もあった。その恐怖に打ち据えられると、開いた傷口から膿のように染み出る感情があったのだ。何だろう、これは――ああ、そうだこれは後悔だ。あるいは己自身への恐怖といってもよいかもしれない。本来最も信頼に足る存在であるはずの自分自身が恐怖の対象であることが、フィニーをさらなる混乱の渦へと突き落とした。

 

 吸魂鬼は獲物を逃すまいと、包囲網をじわじわと狭めていた。フィニーはいよいよ追い詰められた。ぐちゃぐちゃにかき乱された意識の底から、狂気すら頭をもたげ始めた。だが同時に、何が自分を追い詰める恐怖の原因なのかを知りたいという強い意志が湧いてきた。自分の過去を、何を得、何を失ったのかを知りたかった。たとえ失ったものの方が大きかったのだとしても。そして何よりも自分の本当の名前が知りたかった。

 

 どうにかしてここから逃れなければ!その強い思いに本能が共鳴した。吸魂鬼がフィニーに向かって手を伸ばした瞬間、意識が揺らぎ、すんでのところでその魔手を逃れた。それからも、なぜだかフィニーの意識は近づいたり遠のいたりを繰り返し、吸魂鬼に尻尾を掴ませなかった。相手が近づこうとするとするりと身をかわし、翻弄する。それはまるで野生の獣のようなしなやかさだった。向こうが自分を捕まえられないこと分かるや否や、無我夢中で走り出した。

 

 ふと我に返ると、ホグズミード村の方へだいぶ戻ってきていた。吸魂鬼の姿はもうなかった。安心したのも束の間、自分の体に強い違和感を覚えた。周囲を見渡す視点が妙に低い。頭を少し下げるだけで雪の中に突っ込んでしまいそうだ。それに、手の先を地面につけている。四つん這いの状態だ。なのにぎこちなさは全くなく、四本の脚は至ってなめらかに動いた。二本の脚で歩いている時よりも軽やかなくらいだ。新たな混乱がフィニーを襲った。恐る恐るそばを流れる小川に姿を映してみた。

 

 星明りがきらめく水面に映ったのは、黒っぽい毛むくじゃらの獣だった。フィニーが首を傾げると、水面の像も首を傾げた。前脚を上げると、同じく脚を上げて見せた。犬、あるいは狼か?何であれ、俺は動物に変身してしまったらしい。吸魂鬼に呪いでもかけられたのだろうか。それとも動物に変身する能力を元々持っていたのかもしれない。いや、それとも――

 

 吸魂鬼から逃れたばかりの疲弊した頭に、これ以上の負荷は耐えられなかった。フィニーはそのまま意識を完全に失った。

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