またの名を、最終章で先生を見続けて脳を焼かれた生徒の記録。
美しいとしか形容できない精神性の先生を見て、推すという概念をようやく理解できたような気がします。
キヴォトス全土を揺るがした虚妄のサンクトゥム攻略戦、およびアトラ・ハシースの箱舟占領戦を終えてしばらく。連邦生徒会とシャーレはその事後処理に駆けずり回っていた。
その多忙さはあのモモカですら手伝いを申し出るレベルといえば推して知るべしである。
しかし、中にはその多忙さをチャンスと捉える卑し……貪よ……積極的な生徒が居た。
(ふふ、今日で三日連続シャーレの当番ね……! 久々に“頼られてる”って感じがする……!)
時が経つごとに業務へ慣れてきた先生、増えていくシャーレの当番、少なくなっていく自分の出番。先生がキヴォトスへ来た当初が懐かしくなるほどに先生との接点が減っていることへユウカは焦っていた。
そこへ降って湧いた自分の能力を見せつけるチャンス。
「先生、ここの会計処理は一通り終わりました。先程運ばれてきた方はまだ手付かずでしょうから、今日のうちに仕分けだけしておきますね」
「ありがとう。……毎回、付き合わせちゃってごめんね。その仕分けが終わったら夕飯にしようか」
「〜っ、はい!」
先生の前ではデキる女の澄まし顔──褒められたり感謝される度ににへらと顔が緩んでいる自覚はない──を保っているユウカの内心は小躍りするほど喜びに満ちていた。
昼過ぎから晩まで連日付き合わせることに罪悪感でもあるのか、この三日間は毎食先生が少しお高めの外食に連れて行ってくれるのである。一昨日は中華、昨日は寿司だった。
仕事終わりに夕食を食べ、ミレニアムまで送ってもらう流れは最近流行りのドラマでやっていたオフィスラブのようで。普段は先生の無駄遣いに文句を言うユウカも、自分への出費にはゲロ甘でスルーしてしまうほど浮かれる日々だった。
「今夜なんだけど、ここのフレンチでいいかな?」
「わ、かなり良いところですね……! でも、予約とか大丈夫ですか?」
「大丈夫。実は、予約済みなんだ」
「えっ…………わ、私がこう返すことまで計算通りとでも……!? じ、じゃあ平気ですね……!」
夕食をご一緒できることは察していたが、まさか良いお店の予約までされているとは、このユウカの目をもってしても見抜けなかった。全くもう。勘違いしちゃうようなムーブが得意なんですから。
動揺、照れ、喜び、緊張、etc……。髪先を指でくるくるしたり、口をもにょもにょさせるユウカは仕事が全然進まなくなった。先生を意識しすぎて集中できないのである。この感情、計算できません。
「……よし、ユウカも一旦ここまでにしよう。キリがいいところまでってやってたら終わらなさそうだしね」
「……あ、はいっ! 準備してきますね!」
ちらちらと先生を眺めること数分。先にひと段落させたらしい先生の言葉に慌てて返事をして立ち上がる。先生ばかり見ていたせいで割と残ってしまった仕事に後悔が募るが、デートの誘惑には勝てない。明日も来るから……と内心で言い訳をして、準備に向かう。
(制服で浮かないかだけ心配だけれど……私服に着替える時間もないものね。次はいっそ用意して来ようかしら……って、何考えてるの私! また誘われる前提じゃない……!)
良いお店に行くなら少しは良く見せたいという乙女心に従って、シャーレ備え付けの洗面所で百面相をしながら軽く化粧を整えるユウカ。内心はちょっと掛かっているようです。
そして前髪を弄ること数分、深呼吸をいくつかした後に上着を羽織って執務室に戻ると、厚手のチェスターコートを着込んだ先生が待っていた。いつものワイシャツにネクタイじゃなくなるだけで新鮮で、ユウカは高鳴る鼓動を抑えるのに苦労した。
「件のお店はどれくらいの距離ですか?」
「そこまで遠くはないよ。確かあの駅ビルの隣だったはずだから……歩いて10分くらいかな?」
「む、曖昧ですね。ちょっと待ってください……この距離で……私と先生の歩幅を考えると……およそ、510秒というところです!」
「当たらずとも遠からず。でも、一分半のズレはユウカからすると看過できなかったかな?」
「ふふ、当然です! 先生も私の理解が進んでるようで何よりですね」
今まで築いた関係値が深いことを証明できそうな雑談を交わしながらシャーレのビルを出て、通りを歩いていく。
話すたびに二人の口から白い息が漏れ、暗闇から街灯の灯りへ溶けていく。
陽が落ちるのも早い季節のせいか、まだ夜になったばかりだというのに人通りは少ない。もちろん、他の
「……ユウカ、寒い?」
「へっ? いえ、別にそんなことは……」
「でもほら、手を擦り合わせてるから。その薄手のグローブじゃ寒いのかなって」
「えっと、これは別にそういうのじゃなくてですね……」
ユウカの
「ぅえっ!? 先生、いきなり何を……っ」
「手袋をしてた分、私の手は温かいだろうから。こうすれば、少しは寒くないかなって」
「せ、先生の手が冷えちゃいますよ……! ぜんぜん、合理的じゃありません……!」
自分よりも一回り大きな手にきゅっと握りしめられて、ユウカはドキドキのあまり手どころか全身が熱くなってきた。先生ったら大胆……! などと目をぐるぐるさせているが、たかが手を繋いだだけである。
「でも、無いよりマシでしょ? ……さ、もう片方の手が冷え切っちゃう前に店に行こうか」
そんなユウカとは違って、特に気にした様子もない先生。その様子にちょっとだけ平常心を取り戻したユウカだったが、そうすると今度は繋がれた手に意識が集中していく。大きいのはもちろん、節々がゴツゴツしていて、ほんのり温かくて、思ったよりすべすべしていて、安心感があって──。
「……っふ、そんなに弄られるとくすぐったいって」
「ぁ、ご、ごめんなさい……」
無意識に絡めていた指をパッと離す。顔中が熱くなってくる感覚に、嫌でも赤面しているのがわかって恥ずかしかった。最近、どうも理性が飛んできている気がする。出会った頃はまだ自省できていたのに。
21.4cm高い顔を見上げるたびに「格好良いな……」だなんてぽーっとしてしまう。サンクトゥム攻略戦を初めとしたキヴォトスの危機に立ち向かう先生の様々な表情が脳裏を過って、まともに思考が働かなくなっているのだ。
もう完全に恋愛に浮かれきっている症状だが、本人は特に気付いていない。
「──ほら、着いたよ」
「う、やっぱりお洒落ですね。制服も正装といえば正装なんですけど……浮きそうで……」
扉を潜っただけで分かる高級感に、ジャンパーの下を思い出して微妙な表情になるユウカ。サプライズは嬉しいけど、事前に言ってくれたらもっと……でもこういう予約を先にしてくれてるシチュエーションは嬉しい……。
二つある心にまた百面相をしていたユウカだったが、ふと前を歩く先生がホールを抜けたことに気付く。
「あれ、先生? 席は……」
「……立場上、シャーレに私服で来てとも言えないからね。だから、周りと合わせなくていい場所を選ぼうと思ったんだ」
廊下を抜けて、ウエイターに促されるままドアを開けて。その先は、ユウカが心のどこかでちょっとだけ期待していた特別な空間。
二人っきりの個室に、ユウカはぱくぱくと口を開閉させることしかできなかった。
「ぁ……えっと……せ、先生っ! こんな、こ、個室なんて……!」
「……嫌だった?」
「嫌じゃ、ないですけどっ! …………ほ、ほら! こんなお店の個室なんて、一体いくらの出費になるか……!」
「アトラハシースが終わってから随分働き詰めだったから、ここ最近は食事以外にあんまり使ってなくてさ。先月から変な出費をしてないのはユウカが一番知ってるでしょ?」
「ぅ…………い、いいんですか? 私のために使っちゃって……月課金とか、したいんじゃ……」
「いや、流石にスマホゲームよりはユウカの方が大事かな……」
ずるい。そんな事を言われたら何も言えなくなってしまう。
真っ赤になった顔を隠すように俯いたまま席に座る。対面の先生が心配げな視線を送っているが、そんなことを気にする余裕はユウカにはなかった。
「す、すぐにそういうことを……嬉しいですけどっ……!」
先生が生徒を第一とするのはよく分かっている。分かっているが、こうやって言葉にされるのはすごく嬉しいのだ。
──ただ一つ、チクリと痛むのは、これが公平な所。その諦観にも似た考えが顔を出した瞬間、針で刺したような痛みがユウカの逆上せた頭を冷やした。
「……今度、ノアとかも誘ってあげてくださいね。あの子も最近先生と会えなくて、少し寂しそうでしたから」
「うん、そうだね。仕事がひと段落したら、一度各学園に顔を出しておこうかな」
二人きりをあれだけ願っていたのに、こんなことを溢してしまう。
先生のスタンスを再確認して、つい出してしまった心の予防線だった。
(先生を助けてくれる人、随分増えたのよね。お金関連なら負けない自信はあるけど、他の側面で優れてる人はいるから……良いこと、なのにな)
先生がシャーレに来た頃を懐かしむことが増えたのは、好きな人に頼られるあの日々があまりにも甘美だったから。
だから、この三日間は最高の日々だった。
あの頃に戻ったようで、二人の距離を再認識できて。どう計算したって、あの関係値は変わっていないんだと分かったから。
前と違うのは、同じ距離に立っている人数。
パイを奪い合う人数が増えれば、一人当たりの取り分が少なくなるのと同じ。自分と先生の時間は、かつてよりもずっと少ない。
……絶対的な距離は変わっていないのに、相対的な距離は遠ざかっているような心地だった。
(……いけない。せっかく素敵な時間を貰ったんだから、楽しまないと損なのに)
それでも、一度浮かんだ考えは振り払えない。
同じような時間を他の生徒が別日に過ごすのだと考えただけで、なんだか色褪せてしまったような気すらしてしまう。
そうした気持ちから出た言葉は、ひどく意地の悪いものだった。
「……先生にとって、一番頼りになる生徒って誰なんですか?」
言ってからすぐ、しまったと思った。
こんな重くて面倒な質問をしたいわけじゃなかった。
おずおずと見上げた先生の表情は不思議そうで、“どうしてそんな質問を? ”とでも言いたげな顔に見えて、より苦しくなる。全く、負の連鎖だ。
「……ごめんなさい、答えづらい質問ですよね。つい気になっちゃっただけで、忘れて貰って──」
「ユウカ」
慌てて取り消そうとした言葉に被せるようにして、先生が口を開く。
思わず固まったユウカと先生の目が合う。優しさを伴った、それでいて照れたような表情──照れ?
「私が一番頼りにしているのは、ユウカだよ。……あんまり、他の子の前では言えないことだけどね」
「……ぅえっ!?」
唐突な爆弾発言に思わず変な声が出る。
ガタンと椅子を鳴らしてのけぞったユウカへ、畳み掛けるように先生が言葉を放った。
「書類仕事も、戦闘面も、手伝ってくれる子は大いに増えたことは確かだよ。でも、ユウカとはその両方を一番長くやってきたからさ。……以心伝心、っていうのはちょっと恥ずかしいけど、ユウカとやる仕事が一番やりやすいんだ」
「ぅ、えっと、あの……っ!」
「この席も、改めてユウカに感謝を伝えようと思って取ったんだよ。
「ぁ…………」
思わず、涙が溢れそうだった。
よかった。先生は見てくれていた。一番だと言ってくれた。肯定してくれた。
今までの努力が全て報われたような、夢のような心地。
欲しい言葉を欲しい時にくれる先生は本当にずるくて──愛おしい。
「……ユ、ユウカ。大丈夫?」
泣きそうになっていたのが分かったのか、少し焦ったような表情になる先生にハッとなる。せっかく先生が最高の感謝をくれたのに、返さないわけにはいかないという気持ちがあった。
「……先生」
ぽつりと響いた音は思ったよりも涙声で、隠せていなかった。
でも、やっぱりそれでいい。涙が出るほど嬉しいことを、先生に全て知ってもらえるなら、それが良い。
「こちらこそ、ありがとうございます。キヴォトスに来てくれて。いつも、頼りにしてくれて。……私と出会ってくれて。ありがとう、ございます……っ!」
「うん。……これからも、よろしくね、ユウカ」
関係性は確かに変わった。相対的にも、絶対的にも。
時を経て、確かな信頼関係を構築して。お互いにもう一歩踏み出したからには、二人の距離は触れるほどに近い。
それを証明するように、出された先生の手をユウカの両手が握りしめた。
この後落ち着いたのを見計らって入ってきた料理に舌鼓を打ちますし、食べ始めて五分後にやってきた美食研究会がタチの悪い客と揉め事を起こして騒ぎが起き、ユウカの幸せな時間は中断されると思います。