1.
大学三年の、後期が始まろうかという頃だった。
悪くはないが、決して良いとは言えない大学に通い、なにを学んでいるのかも分からないままただ機械的に足を運ぶ日々が続いていた。元来の人付き合いの悪さが祟って友人と呼べる相手はおらず、けれど今までの人生でグレたこともない俺は仮にサボって何をすれば良いのかもわからない。
「このままーーー」
つまらない人生を歩むのだろう。自分が特別であると考えていた時期はとうに過ぎており、ただただ俺は達観したふうを装って現状を認めることしかできなかった。そこには、自分でも驚くほど、劣等感や無力感というものは存在しない。忘れてしまった、と言った方が正しいのかもしれない。
東京に登ってくれば、何かが変わると思った。なんの確信も無しに、親の反対を押し切って単身向かったこの街は、視覚的にぐるりと町を囲う山がビルに変わっただけで、本質的なところでは俺の育った田舎町と何も変わらない。むしろ煙草が吸える場所が限られているだけ、窮屈なようにも思える。
月の綺麗な夜に、ふうと息を吐いた。白い煙がふわりと昇って、夜の闇と混ざり合って消えていく。あんなに望んでいた二十歳を超えても、見える世界に変化はない。飲酒と喫煙が合法になったことだけが、自分の現実から目を背ける逃げ道としてありがたかった。
フィルターギリギリになった煙草を灰皿にしているガラス皿に押し付け、二本目を取り出す。すっかりチェインスモーカーになってしまった姿を自嘲しながら、それでも手を止めることなく火をつけて、煙を深く吸い込んだ。
煙草を吸い出したのは、大学に入ってすぐだった。今はもう足を運ぶことも無くなったサークルの歓迎会で、たまたま隣に座った先輩に貰ったのが初め。自分は煙草を吸わないと思っていたし、そのときこそ息苦しい以上の感想は無かったはずなのに、気づいた頃にはもうやめられなくなっていた。なんとなく、口元に手をやるその仕草に憧れを感じていたのかもしれない。値上がりし続けているそれだが、他に趣味のない自分にはあまり痛手ではないのもやめられない原因のように思える。
灰を落として、もう一度深く息を吸い込む。多少の息苦しさを感じてから、煙を吐き出そうとしたそのとき、隣部屋の窓がカラカラと音を立てた。
今年から、隣に誰かが越してきたのはわかっていた。だけど、生活時間が異なるのか、一度も顔を合わせたことはなかった。ただ、その誰かが入居してすぐに玄関先に掛かっていた挨拶の品の選択から、なんとなく女性だろうということは当たりがついた。六畳の防犯もあまり整備されていないこのアパートに、女性一人というのは昨今の時勢から危ないのではないか、なんて余計な節介も春先こそ湧いたが、姿も見たことがない他人への気遣いなどすぐに萎んでしまい、ここ最近は隣人の存在など頭から消え去っていた。
さて、どうしようか。最近の女性、というより日本人は、煙草そのものを嫌う風潮にあることは喫煙者である自分が一番よくわかっている。アパートのベランダは家賃に見合った粗末な作りで、もはや必要かもわからない針金のような柵で隣と区切られているだけだ。間違いなくベランダに出てくれば、顔を合わせることになる。
逡巡の末俺が出した結論は、何もしないことだった。何も出来なかったとも言えるが。今まで顔を合わせなかったのが奇跡なくらいだ。仮に隣人が極度の嫌煙家だろうが、このアパートが禁煙という決まりはないわけだし、自分が嫌われるくらいの問題でしかない。そうならば、お互い適当に気を遣いながら生活すればいいだけだ。薄い壁一枚を隔てて住んでいる他人との関係なんて、そんなものだろう。
人影が暗い部屋から白いスポットライトの元に身を晒す。やはり女性だ。俺と同じくらいの歳で、背は小さい。目が合った。俺が隣部屋から目を離していないのだから、当然だろう。不躾な視線を向けてしまったと、遅すぎる後悔をした。
「……こんばんは。月が綺麗ですね。」
彼女は、一瞬目を丸くしたかと思うと、そう言って目を細めた。俺の口からは、煙が吐き出された。
「えと、あー……」
女性であることは知っていた。そして、こういった形で対面することも俺の方が先にわかっていたはずだ。なのに、俺は彼女よりも混乱していた。
「あはは、ごめんなさい。驚かせちゃいましたか?」
彼女は小さく頭を下げてからそう言った。違う、驚かせたのは俺の方で、君が謝る必要はなくて。言の葉が頭に浮かんでは消えていく。相応しい文句が、そのときの俺には全く思い付かなかった。
ぽとりと煙草から灰が落ちる。暗闇の中で唯一白いそれが、気味が悪いくらいに目にとまった。
「えと、ごめん。煙草。すぐ消す。」
硬直の後に出てきたそれは、半ば無意識のものだった。彼女が出てくる一瞬前まで開き直っていた自分は何処かへ行ってしまったようだ。そもそも、敬語くらい使うべきだっただろうか。いや、それよりも挨拶をーーー
「あっ、大丈夫ですよ。私、煙草の匂い、好きなんです。」
変ですよね。そう言って笑う彼女を見て、ようやく自分の状態に納得がいった。どうにも、俺は彼女に見惚れていたらしい。
猫のようなアーモンド型の瞳に、首元で二つに括られた濡羽色の髪。笑顔を見せると覗く八重歯の白さが対照的で、なによりも目を引いた。
「いや、変じゃない…と思う。少なくとも、俺はそう言ってくれるとありがたいかな。」
煙草を押し付けようとした手を止めて、俺はそう答えた。口角を上げたつもりではあるが、彼女の目には無愛想に映るだろう。昔から、笑顔が下手だとよく言われていたことを思い出す。
「改めて、こんばんは。それから、はじめまして。」
今度は、言葉を選ぶ必要はなかった。
2.
曰く、彼女は俺よりも一つ下で、半ば強引に単身上京してきたらしい。
自分と似たその境遇に、俺はどこか親近感を覚えた。
「大学に行こうとかは思わなかった?」
「はい、親にはとりあえず出ておけって言われたんですけどね。私、頭も良くないし、なにより勉強したいこともあるわけじゃなかったので。」
彼女はそう言って照れ臭そうに笑う。クールな雰囲気とは裏腹に、表情のよく変わる子だな、というのが俺の彼女に対する印象だ。
月明かりに照らされている姿に、飽きずにまた見惚れてしまう。そんな俺に気づかずに、彼女は束ねられた髪の先を指で弄りながら続けた。
「だから、すごいと思います。私からしたら、大学に通うっていうのは覚悟がいる事でしたから。」
「それはーーー」
再び、目が合った。世辞や機嫌取りでの甘言とは違う、本心からの言葉だということがなんとなくわかった。
それは、違う。やりたいことも見つけられずに、だけど社会に出る度胸もないから機械的に進学しただけの俺に、彼女の視線はあまりに眩しすぎた。ばつが悪くなって、視線を空へ向ける。煌々と光る月が、目に痛かった。
「俺は……その歳でその決断ができる方がよっぽどすごいことだと思う。」
自分は褒められるような人間じゃない。そう言おうとしたのに、口から出たのは歳上ぶった陳腐な台詞だった。とっくに捨て去ったと思っていた醜く汚いプライドが、そうさせなかった。ああ、吐き気がする。厭世的なふりをして、自分は特別でないと言い聞かせて、それでもまだ何かに縋っている自分が、たまらなく気持ち悪い。大人になれよ、お前は偉そうに物を言える立場じゃないだろう。
ぐるぐると頭を巡る不快な感情から逃げるように、三本目の煙草に火をつけた。
「えっと。それは、あの……あはは。」
彼女の反応は、芳しいものでは無かった。照れているのだろうか。もう一度彼女の表情を確認しようとして、やめた。
狼狽えていた彼女は、小さく咳払いをすると、大袈裟な動きで柵に手をついた。
「あ、あー! 私、そろそろ部屋に戻ろうかな。明日も仕事なんですよね……」
時計があるわけではないが、俺が煙草を吸いに部屋を出たのが午前零時を過ぎたあたりだ。それなりに話し込んだため、時刻はすでに一時に差し掛かっているだろう。
秋の夜は涼しいと良く言われるが、十月にもなれば寒いといった方が正しいようにも思える。自覚すると、突如として肌寒さが全身を襲う。一時間も薄着で外に出ていれば無理もないだろう。
「そっか。引き止めて悪かった。隣人として、これからもよろしく頼むよ。えーと……」
挨拶を返そうとして、名前を知らないことに気づいた。そういえば、出自の話をするばかりで、それ以上に大事な話をしていなかった。
「……あっ、そういえば。私もお名前をお聞きするのを忘れていました。」
彼女も俺が何に困惑しているかに気づいたようで、一度開けた窓を律儀に閉めてこちらに向き直った。所作の一つ一つから、育ちの良さのようなものが窺える。煙草を吸いながら碌に目も合わせていない自分の姿が、いっそう情けなくなった。
「私、シイナって言います。椎木のシイに、名前のナで、椎名です。」
丁寧に、わざわざ空中に漢字を書きながら、彼女はそう答えた。小さな身体を大きく動かすその仕草が愛らしい。俺もそれに倣おうかと思ったが、二十を超えた男が同じことをしても気味が悪いだけだと自重して、簡潔に名前だけを告げる。
「はい、ありがとうございます。こっちには知り合いもいないですし、頼りにさせていただいてもいいですか? 先輩。」
「せ、先輩?」
聞き馴染みのない単語に、俺は思わず鸚鵡返しで答えてしまった。確かに自分は名前を教えたはずだが、聞き取れなかったのだろうか。
困惑する俺を見て、彼女は悪戯が成功した子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
「はい、歳上ですし、東京暮らしの先輩ですから。……迷惑でしたか?」
下から覗き込むように、今度は不安そうな表情で此方を見つめる。俺は言葉に詰まった。これは、卑怯だろう。
「い、いや。驚いただけ。好きに呼んでくれて構わないし、頼ってくれると嬉しい。」
俺に何か出来るとは思えないが。卑屈になろうとして、すんでのところで口をつぐんだ。こんなことを言われても、彼女は不安になるだけだろう。言わない方がいいに決まっている。
「ありがとうございます! では、また。お休みなさい。風邪、引かないようにしてくださいね。」
彼女はニコリと微笑むと再び背後の窓を開けた。おやすみ。俺もそう告げた後、ふとあることが気になった。
「あ。」
「……? なんですか?」
半ば無意識の呟きだった。しかし、彼女はその声に気付いたようで、笑顔のまま再度窓を閉めようとする。
「いや、ごめん。そのままでいいよ。ただ、椎名がなんの仕事をしているか、聞いてないなと思っただけ。あまり、夜はいないみたいだから。」
ほんの興味のつもりだった。
だけど俺は、彼女の表情が僅かに動いたことに気づいてしまった。柔らかい笑みの中に刺す僅かな翳りは、白いキャンバスの上の小さなシミのようで、気にしないようにと思うほどにかえって強く目についた。
「……ただの、接客業ですよ。」
そう言って彼女は暗い部屋へと消えていった。カラカラカラ。窓の閉じる音が遠くから聞こえるようだった。
残った煙草の味は、よくわからなかった。
3.
季節は冬に移ろうとしていた。彼女との会合はそれからも続いた。
二回目は困惑だった。本当に彼女は煙草の匂いが嫌いじゃないらしいことに安堵するとともに当惑した。
三回目は安心だった。彼女が自分を必要としてくれているような気がして、馬鹿な犬みたいに安心した。
それ以降、俺は彼女と話をするのが密かに楽しみになっていた。彼女の不思議な魅力に惹かれていたのだと思う。
曜日や細かな時間を指定したわけではない。ただ、なんとなく。月が綺麗に見える日ばかりに会っていた。俺が先にいる事もあれば、彼女がぼうっとしていたこともあった。
話の内容は日によってまちまちで、他愛のないものばかり。お陰で俺は彼女の地元に少し詳しくなった。無趣味で、つまらない人生だった俺は、基本的に聞き役に徹していた。
話の内容なんて、とうの昔に記憶の海に流れていった。
ただ、彼女の仕事と俺の大学の話については、あの日以来一度もしていないことだけは覚えている。
「煙草って、美味しいものなんですか?」
ある日、彼女は俺にそう尋ねた。そう聞いてあわよくば一本貰おうとする人間をこれまで多く見てきたから、俺は煙草を一本箱から取り出した。
彼女の誕生日は三月だと聞いていたから、未成年であることはわかっていた。けれど、それを止めようなんて正義感みたいなものは持ち合わせていなかったから、何も言わなかった。
しかし、そんな俺を見て彼女は心外だとばかりに大きく手を振った。
「ち、違いますよ!貰おうとかそういうのじゃなくて、単純に気になっただけです。」
「ああ、そう。ごめん。」
私、誕生日教えたはずですよ。眉根を釣り上げてはいるが、口元は笑っていた。取り出した煙草を戻すのも面倒で、俺は右手の指先で火のついていないそれをくるくると回した。どうせ今日はもう一本吸おうと思っていたため、都合が良かった。
「人にもよるんだろうけど、俺は別に美味しいと思ったことはないかな。」
質問の答えだけを簡潔に答えると、彼女は意外そうな顔をした。
「そうなんですか? 周りの人が皆んな、暇を見つけては吸っているから、てっきり美味しいものなんだとばかり思っていました。」
子供っぽい考えだ。一つしか歳が違わないはずなのに俺はよくそんな感想を覚える。
先輩、先輩と慕われるのを自分は思っている以上に心地よいと感じているらしい。一方で、そんな俺を冷ややかな目で見つめる自分もいる。お前は、先輩などと呼ばれるような出来た人間ではないはずだ。勘違いするな。
頭の中の誰かに非難されるのは、とうの昔に慣れてしまった。だけどこんなことをしている自分は、二つの人形を同居させているみたいで気持ちが悪いと思う。
自己嫌悪に浸る俺の様子を気にする事なくーーー気にされても困るーーー彼女は食い下がる。そこには嫌味のようなものはない。純粋に、疑問なのだろう。
「それじゃあ、なんで煙草を吸うんですか? 身体に悪いんですよね?」
「なんで、か……」
言われてみて、俺はどうして煙草を吸っているのか自問する。空腹感を紛らわすとか、眠気覚ましとか。確かにそういう効果を期待して吸っているときもある。だけど、それは今この場で煙草を持っている俺には当て嵌まらなくて、さりとて吸わないという選択は出来なくて。
「カッコつけ、かな。」
「え?」
ポツリと溢れた呟きが、自分の口から漏れたものだと気づくのに時間がかかった。
「カッコつけ、ですか?」
彼女が目を丸くする。当然だろう、言った本人も驚いているのだから。
言葉こそ無意識のものだが、なんとなく理解はしていた。だからこそ思わず漏れたのだろう。俺は煙草の味がわかるほど大人ではない。解消するほどのストレスはただ生きているだけの俺では得る事もない。
「……あー、うん。カッコつけだよ。皆んながそうとは思わないけど、少なくとも俺は。」
カッコつけて、逃げているだけだよ。ばつが悪くなって、そう吐き捨ててから彼女から目を逸らした。こんなときすら、正面から他人に向き合えない自分が情けない。
結局、いつか何処かで観た映画かなにかの、煙草を吸う男に憧れただけの猿真似でしかないのだ。そうすれば大人になれると勘違いして、ただ行為だけを模倣する。現状からの、わかりやすい逃げ道。
俺の喫煙の理由なんて、そんなものだった。
「ふーん……。カッコつけ……」
彼女は何かを思案している。大方、俺の的外れな答えを、彼女の周りの喫煙者たちと照らし合わせているのだろう。
やめてくれ。切にそう願う。きっとその人たちは、俺なんかとはわけが違う。そう思っても、口に出すことは出来なかった。彼女と出会ってから、こればかりだ。なけなしの、塵芥みたいなプライドを大事に大事に抱える自分。そんなもの捨ててしまえと、また頭の中の誰かに後ろ指をさされた。
数秒動きを止めていたかと思うと、やがて彼女は顔を上げた。何を言われるか、俺は怯えていたと思う。
しかし、彼女の感想は、俺の見当とはまったく異なるものだった。
「大人だなぁ……」
「……は?」
自分の耳を疑う。彼女はなんと言ったのだろう。大人?惨めな現実から目を逸らし続けて、逃げ続けている自分が大人だと?
そのときの俺はもはや怒りのようなものさえ抱いていた。彼女に対してではない。かといって自分でもなく、もっとぼんやりとした何かに対して。マグマのようなそれをぶつけることも飲み込むこともできなくて、いつもよりも時間をかけて煙を吐き出した。
「あ、えっと。カッコつけが、っていうわけではないんですけど。なんていうか、その。先輩が、自分をしっかり理解していることが、その……」
上手く頭の中を整理できないのか、しどろもどろになっている。
俺は混乱していた。俺なんかより、彼女の方がよっぽど大人なはずなのに。どうしてそんなことを言うのだろうか。
そのとき、確かに理解した。彼女と話すのに心地が良い理由。次も、次もと我慢を知らない子供のように、彼女を求めてしまう理由。
こちらの心を、どろどろに溶かしてしまうような、甘美なそれ。たまに、本当に歳下なのかを疑ってしまうようなそれこそが、彼女が持つ特有の引力だ。
「はは。」
「わ、笑わないで下さいよ。」
俺は笑っていた。それは、煙草に縋っているように、歳下の女の子に縋る自分を自嘲したものなのだが、彼女は勘違いしたらしい。
自己否定と現実逃避の牢獄を、その存在ごと無くしてしまうようなそれは、薬か、それとも。
「………あの人も、そう、なんでしょうか。」
ーーーその呟きは、彼女からのSOSだったのかもしれない。
されど、蚊の鳴くような彼女の声は、俺には届かない。眩い月の光の下で、自分と、それ以上に彼女の魔力に酔っていた。溺れていた。
ああ、心地がいい。
4.
十二月は、一年の中でも最も早く時間が経つように思える。冬休みを心待ちにするのは大学生でも類に漏れず、構内は妙に浮ついた雰囲気だった。街を歩けば聞こえてくるクリスマスソングは俺が生まれる前に作曲されたもので、よくもまあ、飽きずに同じことを二十年間も繰り返せるものだと感心すらしてしまう。
そして、それが終われば一週間と待たずに年越しだ。キラキラとうるさいくらいに輝いていたネオンの電飾はどこへやら、今度は慌てて門松なんかを玄関先に飾り出す。和洋折衷、なんて言えば聞こえがいいが、俺の目には節操がないように見えてならない。
去年までは、そんな目まぐるしく変わる街の中で、俺の時間だけが止まっているようだった。機械のように大学に通って、時間だけを浪費してから家に帰る。時折出される課題やレポートがあるから、全く同じとはもちろん言えないが、それでもやることはほとんど作業みたいなものだった。クリスマスも年末も、一緒に過ごす相手がいなければ平日となんら変わらない。
しかし、だからこそ。今年は、例年通りの気分とは少し異なっていた。
「先輩は、クリスマスはどう過ごされるんですか?」
珍しく、雲の多い夜だった。十二月の某日。逢瀬とは到底呼べないが、偶然ともまた違う。そんな彼女との時間は、もう数え切れないほどになっていた。
秋口に比べ、すっかり冬の装いとなった彼女は、いつも通り、本当に興味があるのかよくわからない平坦さで話しかけた。
「別に。いつもと変わらないよ。休日だから、遅くに起きて、本でも読んで、それで終わりだと思う。」
彼女が話題を振って、俺がそれに答える。半ば恒例となったこのやりとりも、最初こそ申し訳なさを覚えたが、今となっては当然のように感じる。これが、色々と都合が良いと俺も彼女も分かっているからだ。
俺はどうにも話し下手というか、話題の振り方が下手らしい。そんなことに気が付いたのは、初めて彼女に出会ってから二週間ほどが経ってからだった。
「そうなんですか? なんだか意外です。先輩、モテそうなのに。」
「はは、ありがとう。そんなこと、初めて言われたよ。」
乾いた笑いが出た。俺の愛想の悪さなんて、彼女が一番分かっているだろうに。
「あっ、また適当に流して! お世辞とかじゃ無いんですからね!」
腕を組んで、見るからに怒っていますとアピールする彼女。大袈裟な仕草もあざとさを感じさせないというのは、仲良くなったための身内贔屓なのだろうか。
ごめん、ごめんと思ってもいない謝罪を繰り返す俺の目を惹きつけるのは、白く、折れてしまいそうなほどに細い彼女の腕。
ーーー正確には、その手首のあたりに黒々と残った火傷の痕だった。
彼女と出会ってから二週間後。件の話の内容も、彼女の身に残った傷跡について俺が不用意に触れたのが発端だった。
『腕、大丈夫?』
あの日は、秋にしてはそれなりに暖かい日で、俺も彼女も薄い服を身に纏っていた。そのため、彼女が何かの拍子に腕を上げると、重力に逆らえない服の袖は彼女の二の腕まで落ちてきた。
その時、俺は偶然目にしてしまったのだ。白磁のようなその腕に青く残った、痛々しい痣の跡を。
俺が遅すぎる後悔をしたのはその直後だった。彼女はビクリとわかりやすく体を震わせた後、慌てて袖を元に戻した。その動作は身体を見られた恥ずかしさからなんて可愛らしいものとは到底違う、鬼気迫ったものだった。
『……えっと。』
彼女が服の上から痣を押さえているのがわかった。だけどそれは、動物が大事なものを埋めて隠してしまうような、本能的な行為のように思えた。
その後の彼女は肌寒いだとか、虫がいただとか、滅茶苦茶な言い訳をした。俺も気の利いた返しが思い浮かばなくて、それでも目線を外すこともできずに、ただ黙っていた。
触れられたくないことには、触れない。俺と彼女の間に定められた暗黙の了解は、たぶん、このとき初めて確固としたものになったと思う。初日の俺の不用意な発言だって、何度も思い起こして、自分を責めたはずなのに。それすらも自分に酔う愚か者の行為のようで、自分を激しく嫌悪した。
黙りこくる俺の態度を、訝しんだそれだと勘違いしたのだろう。やがて彼女は観念したように瞑目すると、
『……私が、いけないんです。悪いのは、全部、私。」
消えてなくなってしまいそうな声で、そう呟いた。その言葉は俺への弁明のはずなのに、それ以上に自分に言い聞かせているような、そんな印象を受けた。
俺は返事をしなかった。結局、その日はぎくしゃくとした空気のまま解散となった。暗い部屋へと消えていく彼女を眺めながら吸った煙草の味を嫌に明瞭に覚えている。
「私くらいの女の子って、先輩みたいなクールなひとが好きって子、結構多いんですよ?」
次に会った時の彼女は、そんなやりとりなど無かったかのように振る舞っていた。変わらず、どこか距離感を計るように、毒にも薬にもならない話をした。
彼女は明るい子だ。その印象は出会ってから今に至るまで変わらない。歳相応に笑い、歳相応に怒る、一つ歳下の女の子。
だけど、その明るさ故に、地に落ちる影もずっと暗い。俺はその影に気づかないふりをして、光だけを目に入れ続けよう。
ーーーひとつ、忘れられないものがある。
彼女はそれ以降も、度々怪我をして俺の前に現れた。四肢に残った青痣。手首を強く掴まれたような跡。額にガーゼを貼っていたときもあった。火傷の痕を見つけたのも、今日が初めてではない。
それらは醜い傷痕の筈なのに、彼女の白い肌の上にあると、途端に芸術品のようにすら感じられた。視界に入れないようにすればするほど、他のものが見えなくなっていく。それでも、同じ失敗を犯さないよう、なにも言わないよう努めた。
ふと、会話の切れ目なんかに、彼女が怪我の上に手を置く時がある。意識されたくないのは本当だろうから、無意識の行動なのだろう。もしかしたら痛みが残っていたのかもしれない。
俺の記憶にこびり付くのは、そのときの彼女の表情だ。
傷痕を大事そうに撫でる彼女は決まって、哀愁と、恐怖と、それから、愛おしさが相まった形容し難い表情を浮かべる。
月明かりに照らされるその時の彼女は最早絵画じみてさえいて、この世の何よりも美しく見えるーーー。
「……先輩? 聞いてるんですか?」
「え? あー……ごめん。」
突然意識が引き戻される。思ったよりも深く思考の海に引き込まれていたようで、彼女が何を話していたのか、まるで覚えていない。弁明があるわけでもなし、俺は素直に本日二度目となる謝罪した。
眼前の彼女は、腰に手を当ててあからさまに不貞腐れていた。彼女が話好きな方だというのは短い付き合いでもわかる。それとも、女の子というものは皆こうなのだろうか。全身で感情を表現するその姿が微笑ましくて、俺の口からは思わず笑いが漏れた。
「あっ、また笑ってます!」
態度とは裏腹に、その声に棘は無かった。甘えているな、というのは自分でもわかる。
一体どうして、彼女は俺と会い続けてくれるのだろうか。たまに、どうしようもなく不安になる。話が上手いどころか、聞き役にすら満足に徹することができないというのに。いつか見放されることへの恐怖がこの身を支配する。だというのに、俺はいつまでも彼女に甘え続けることしかできない。
彼女は、もう、だとかまったく、だとかぶつぶつと呟いていたが、やがてその溜飲も下がったのか、一息ついて、ふっと小さく笑った。
「先輩は、たまにそういうところがあります。」
「そうだね。」
「私はあまり気にしないですけど、そういうのは嫌がる人も結構います。」
「うん。」
「……私だって、ちょっと、寂しくはなります。」
「ごめん。」
「だから、早く治してください。そうすれば、先輩はきっと、友達も、恋人も、なんだって作れますよ。」
「……善処するよ。」
そうして、夜の帳の中は、痛いくらいの静寂に包まれた。
“そういうところ”に含まれたものは、たぶん、今回の失態だけではないのだろう。もっと根幹にある、俺という人間を構成する腐った部分。
善処する。本心から出た言葉だ。自分より頭ひとつも小さい女の子に自信を持たされて、まったく、これではどちらが歳上かわからない。自分の周りに人が集まる光景は、どうやっても想像できないけれど、三か月という短いようで長い期間を俺と過ごした彼女は、本人すら諦めたそれを本気で信じているらしい。
俺なんかのことまで、気に病まなくていい。既にその身に余るほどの重荷を背負っているんだから、これ以上、抱え込まないでくれ。俺も、一人で歩くから。だから。
ーーーだから、そんなに悲しそうな顔はしないでくれよ。
「先輩。」
ぽつりと。彼女が口を開いた。そこにはいつもの太陽のような明るさは欠片も無くて、つられて俺も、身を固くした。
今日の彼女ははじめからどこかぎこちなかった。部屋から出てくるときの足取りだろうか。いつもより、貼り付けた笑顔に暗い影が落ちていたからだろうか。俺が彼女の違和感にどこで気付いたかはわからない。もしくは、全てをひっくるめてのものだったのかもしれない。
クリスマスの予定がどうだなんて、世間では普通の会話なんだろう。だけど、だからこそお互いに踏み込まないはずの俺と彼女の間でされる会話としては、それはあまりに歪だった。
「うん。」
聞かれたくないことなら、俺が呆けている間にでも言ってしまえばよかった。伝えたという事実だけが大事なら、後は俺の責任になる。けれど、彼女はそれをしなかった。
ならば俺は聞かなくてはならない。たとえそれがどんなに耳に入れたくないものでも、彼女に溺れて、甘え続けた俺にはそうしなければならない義務がある。
最後の一本を箱から取り出して、火をつける。小さなライターの火は、役目を終えたように消えてしまって、そのまま二度と点くことは無かった。
真っ黒な空を見上げる。ちょうどその時、月が雲に覆われた。横目では、彼女も同様に夜空を見上げているのが見てとれた。
「私、彼氏がいるんです。」
「そっか。」
彼女の言葉を聞いた俺は、自分でも驚くほどに落ち着いていた。
なんとなく、気がついてはいたと思う。そしてそれが、触れられたくないところだということも。
だけど、俺が彼女に惹かれていたのは事実で、存在を明言されたのも初めてで。
本の中でしか知り得なかった失恋の衝撃は、思ったよりも小さいものだった。後悔、悲壮、怒り。そういった感情はこれっぽっちも浮かんで来ない。俺はただ、ぽつぽつと紡がれる彼女の言葉に耳を貸し続けていた。
曰く、彼女の恋人は、東京で出会った人らしい。現在の仕事を始める前、近くのコンビニでバイトをしていた時の先輩で、告白のような告白もしておらず、成り行きの関係。
日中、彼女が姿を見せないのは部屋に篭っているからではなく、その彼氏のアパートで家事をしているからで、その足で仕事に行く。俺と会わない夜は基本的にその彼氏の家にいる。煙草の匂いが好きだというのも、その彼氏が吸っているかららしい。
「……それで。」
今まで、機械のように冷たい声で淡々と語っていた彼女が、そこで初めて言葉に詰まった。きっと、ここからが本題なのだろう。
「……同棲、するみたいなんです。」
彼女は再び息を吐くと、他人事のように呟いた。
同棲。その言葉の重みは、歳だけをとって過ごしてきた俺にはあまりピンとこないものだった。
確かに、彼女の話を聞いていれば、そうした方がお互いが楽なように思える。事実、彼氏からは何度もそう持ちかけられたようだ。
けれど、彼女はそれを躱し続けた。
どうして拒絶し続けてきたのかは語らない。それは彼女だけが知っている理由で、俺はその理由について考えることもしなかった。
彼女は観念したように続ける。
彼女の態度に痺れを切らした彼氏は、自分の家に彼女を招くことを諦め、彼女のアパートーーーつまり、俺の隣部屋に住むと言い出したらしい。それが、今年の九月。俺と彼女が出会った月。
煙草は、ほとんどフィルターだけになっていた。俺は黙って彼女の話に耳を傾けていた。
「それで……その。私も断り続けたんですけど、もう家も引き払っちゃったみたいで。クリスマス頃から、来る……みたいで。」
なるほど。その言葉を聞いて、遅まきながら理解する。つまり。
「つまり、こうして会うのも、これが最後、ってことか。」
「………。」
彼女の無言を肯定と捉える。
確かに、彼氏の身にもなってみれば、自分の恋人が顔も知らぬ男と親しく話していれば気分は良くないだろう。今日の彼女の不審な態度や、別れを告げるような指摘の言葉の意味は、結局はこの事実に収束するのだろう。
「……うん。わかったよ。」
何も言わない彼女に出来る限りの笑顔を浮かべて、俺はそう返事をした。
彼女との三か月は、楽しかったと思う。暗黙の了解こそあれ、俺が話をできる相手なんて一人もいなかったから、その存在には救われた。
それが、今日で終わる。
喪失感は確かにある。でも、もう俺は駄々をこねるような歳でもなくて。仕方のないことだと、自分に言い聞かせた。
こんなに早く終わるなら、もっと話をしておけばよかったのかもしれない。思い起こすと、やはり俺は聞き役ばかりで、本当に彼女は楽しかったのだろうか。
今生の別れというわけでもないのに、一目彼女を視界に収めておきたくなって、俺は首を動かした。
彼女の表情は窺い知れない。月の光が無ければそんなことすらもわからない。頼りない柵で隔たれた俺と彼女の距離は、近いようでずっと遠い。
ふと、彼女の腕が目についた。そこには、やはり痛々しい火傷の跡が残っている。
「彼氏のことは、好き?」
思わずそんなことを問いかけた。皮肉なものだ。最後の時になって、ようやく俺たちは普通の友達同士がするような話ができるのか。思えば、俺は彼女のことを何も知らない。彼女もきっと同じだろう。
やがて、月を覆っていた雲が晴れる。ゆっくりと彼女の顔が照らされていく。時間にして僅か数秒のそれは、永遠のようにさえ感じられた。
「……はい。好きですよ。彼は、私がいないとダメなんです。」
彼女の表情には覚えがあった。悲痛、諦観、それから、恋慕。たぶん、それ以上の感情がぐちゃぐちゃになった、そんな表情。それは、彼女が傷痕を撫ぜるときのものと全く同じもので。
月明かりに照らされる恍惚としたそれは綺麗で、妖艶で、淫靡でさえあって。
俺はきっと生涯忘れることはない。
5.
それからの生活は拍子抜けするほどに代わり映えがなかった。思えば彼女と話していた頃が特異であっただけで、もともと俺は二十年もこうして過ごしてきたのだ。在るべき形に戻ったと考えれば、驚くほどのことでもない。
大学と家を往復し、合間の時間に場所を見つけて煙草を吸う。ただその繰り返し。年末は地元には帰らなかったから、いつもより時間を持て余してしまった。趣味がないというのは、こういうところで不利になる。自主的に勉強でも出来る気概があれば別なのだが、そんな気にもなれずにただただ無為に時間を消化した。
ただ惰性で生きているだけ。そんな表現が最も今の俺には適しているだろう。別段したいことがあるわけでもないが、死ぬ理由もない。だから、ぼんやり生きている。
ただ、俺の行動そのものには変わりがないが、ひとつ、変わったこともある。隣部屋から声が聞こえるようになったことだ。
空き部屋のようだった彼女の部屋は一変して不夜城と化し、灯りの消えたときを見たことがないほどだった。夜毎に、彼女の部屋からは声が漏れる。ある日は切羽詰まった男の怒号だったり、またある日は複数の男の笑い声だった。俺は騒音を気にするほど敏感な質ではなかったから、狭くはないのかな、なんて的外れな疑問を抱いたりをした。
ただ、人の声が聞こえる時。決まって考えるのは彼女のことだった。男の声が筒抜けになっている一方で、ほとんどまったく彼女の声は聞こえない。正確には、くぐもった女性の声も聞こえる時があるのだが、それは決まって叫ぶ男の声にかき消される。何を言っているのかはわからない。けれど、なんとなく気分の良いものではない気がして、そういうとき、俺はいつも他の何かに意識を逸らす。だからやっぱり、彼女の声は聞こえないままだ。
「ねぇ、ちょっといいかな?」
「……ん?」
一月の某日。講義と講義の合間の時間、突然顔も知らない女子に声をかけられた。大学で誰かに呼び止められる経験など記憶にある限り皆無に等しかったため、思わず反応が遅れてしまった。
「ええと……何?」
我ながら愛想の悪い返しだと思う。けれど、これが俺の精一杯でもある。思い起こしてみても、眼前の女生徒に面識はないーーーはずだ。そも、大学で誰かと関わったことなど入学してすぐに入ったサークルくらいのもので、そのサークルだって二、三度足を運んだのちに行かなくなってしまった。その間は誰とも話をしていないし、飲み会だって行っていない。もし仮にサークルの関係者だとしても、この時期に声を掛ける理由がないだろう。
怪訝そうな俺の様子を察してか、彼女は申し訳なさそうに口を開いた。
「あー、ごめんね?急に声かけちゃって……。元々知り合いってわけでもなくて、私が一方的に知ってたっていうか、その。」
どことなく、歯切れが悪い。けれど、これで俺の潔白は証明されたわけだ。良かったと安堵する一方で、いかに自分が大学生活において何も築き上げてこなかったかに戦慄する。煙草を吸うと記憶力が低下するというが、果たしてその所為だろうか、それとも。
「え、えっとね。私、同じ学部の中野っていいます。それで……あっ、同じ学年だよ! 話をしたことは、一回だけあるんだけど……」
肩口で切りそろえられた髪の毛を揺らして、中野と名乗る女生徒は少し前のめりになった。
話をしたことは一度だけあると言ったが、皆目見当もつかないというのが俺の本音だ。知ったふうを装ってもいいが、俺は嘘が得意な方ではないから、いずれ気づかれるだろう。
「あー、ごめん。ちょっと、思い出せない。」
悩んだ末に俺が出した結論は、正直に打ち明けることだった。見栄を張っても、どうせ最後には相手を傷つけることになるのだから、それなら初めから真実を伝えた方が拗れずに済む。
今更何を考えているのだろうか。続く縁でもないだろうに。頭の中で、誰かがそう囁いた気がした。
「いや、私も突然話しかけちゃったっていうか……あはは。ご、ごめんね!ホントに、突然……。」
中野は少しだけ残念そうな顔を見せたが、直ぐにそれを引っ込めると今度は申し訳なさそうに笑った。そうあるべきはきっと俺の方なのだろう。けれど、意識してみても俺の表情筋は蝋で塗り固められたように動かない。
彼女と話しているときは、あんなにするりと笑顔が浮かんできていたはずなのに。
「そ、それでね!」
泥のような思考の波を吹き飛ばしたのは、さっきよりも大きな中野の声だった。意識の外からのそれに、危うく後ろへ仰反るところだった。
中野は必死に言葉を繋ぐ。その目には驚く俺は映っていないようで、少し安心する。
「その、多分。来週のテストで私たちって後期の授業が終わるでしょ、だから、あの……。」
大きかった声が尻すぼみになっていく。これは自身のなさ、だろうか。けれど、俺にはどうすることもできない。掛ける言葉を探すこともせずに、黙って耳を貸した。
彼女は暫し、もごもごと何かを言い淀んでいた。それほどまでに言いづらいことなのだろうか。ならば、何故それを俺に。そう尋ねることもできず、宙ぶらりんになった疑問が頭を渦巻く。
やがて決心がついたのか、一度大きく深呼吸をすると、中野は大きな目をぱっと開いた。
「わ、私と、どこか飲みに行ってくれませんか!」
腕の前に作られた握り拳が、中野の葛藤を表している、のだと思う。真正面から向けられたその目を、俺はじっと眺めていた。
これは、なんの誘いだろうか。まず頭に浮かぶのは、そんなつまらない疑念だった。どこかのグループに合流するのか、二人で行うものなのか。後者ならば、俺はデートに誘われているのか、否か。
「えっと……それは、二人で?」
俺がそう尋ねると、耐えかねたように中野はふいと目を逸らした。それから、か細い声で一言、
「そ、そうです……。」
そう呟いた。
お疲れ様会っていうか、なんていうか。逸らした目はそのままに、中野は顔を赤くしてそう弁明した。
正直に言って、気が乗らない。ぱっと出た結論は、彼女の誘いを断るものだった。大人数ならばまだ良かった。仮に俺がその場にいたとして、他人と話すことなど精々数度だろう。後は用事があるなどと適当に嘘を吐いて去って仕舞えば、後を濁さずに消えることができる。
けれど、二人となればそういうわけにもいかない。そもそも、会話が続くのだろうか。俺は中野のことを何も知らないし、逆も然りだ。上辺だけをなぞる会話を続ける姿を想像すると、吐き気すら催す。
さて、どう断ろうか。目を回すほどに慌てる中野を横目に、俺は思案する。やはり、用事があると嘘を吐くのが無難だろうか。
適当に、先約があるとでも言っておこう。そう決意した矢先に、中野の白い首筋が記憶の中の彼女に重なった。
刹那、頭の中に彼女の声が響く。
そうすれば、先輩はきっとーーー。
「やっぱ、突然すぎだよね、ごめんね!忘れてくれて、大丈夫ーーー」
「いいよ。」
「……え?」
あまり勝算が無かったのか、俺の返答に彼女はぽかんと口を開けている。
頭の中を埋め尽くすのはあの日の彼女の笑顔だった。ここで中野の誘いを断れば、俺はまた惰性だけの生き方に戻るだろう。
そして俺はそれを是とした筈だ。けれど、そうしてしまえば、あの日の彼女との会話は全て無意味で、無価値なものになってしまう。それだけは、たまらなく嫌だった。
「ほ、ほんと!?」
中野はその小さな身体を精一杯使って大袈裟に驚いてみせた。ガチャガチャと、背負われたリュックサックの中身が揺れている。けれど、そんなのはお構いなしとばかりに俺に笑顔を向ける。その笑顔には驚愕と、それから同じくらいの安堵が見て取れた。
「うん、本当。明日、宜しくね。」
眩しいくらいのその表情に目を細めた俺の顔は、少しは笑顔に見えていただろうか。
6.
『お、お店は見つけておくから!』
その後、そう意気込む中野と連絡先を交換し、俺は帰路に着いた。ほとんど開かないSNSに家族以外の名前があるのはなんだか新鮮で、少し落ち着かない。
卓上のデジタル時計は午前三時を示している。
無趣味の俺は普段何もすることが無いが、だからといって真面目に勉強をするというわけでもない。なので、期末のテストが重なる時期は毎日のように遅くまでテスト勉強に明け暮れる。非効率的だとは思うが、そうはいってもこれが一番手っ取り早いのだ。単位を落としてもう一度同じ科目を履修するのも馬鹿らしい。
『明日のテスト、頑張ろうね! おやすみ!』
そのメッセージの受信を皮切りに静かになったスマートフォンが目に入る。中野とは、午前零時を回るくらいまでやり取りをしていた。文字でのやりとりでは緊張もなく、というよりも俺が気づいていないだけなのかもしれないが、とにかく顔を合わせてのそれよりかはスムーズに話をすることができたように思う。中野が話題を振って、俺がぽつぽつとつまらない返事をする、その繰り返し。これではかつてと何も変わらないなと最中に自嘲してしまった。
明日の内容に一区切りがつき、伸びをすると腰のあたりがぽきぽきと音を立てた。存外、根を詰めすぎてしまったのかもしれない。ただ暗記するだけの勉強も、集中してしまうと手の抜き方がわからなくなってしまう。筆記用具の横に置かれた煙草とライターを手にして、俺はベランダへと足を運んだ。
「ーーーふぅ。」
息を吐き、夜空を見上げてみても月は何処にも見当たらない。そういえば、今日は新月だったか。毎夜同じ場所から見上げていれば、月の周期も多少わかるようになるものだ。わかったからといって、得になることはなにもないのだが。
隣部屋に目を向ける。街灯もない暗闇の中で、俺の部屋と彼女の部屋だけが煌々と光っている。この光景には未だに慣れない。かつては灯りといえば俺の部屋ばかりで、彼女の部屋は常に暗かったように思う。彼女が出てくるときでさえ、暗闇からぬっと現れるのだから、俺の記憶に間違いはないだろう。
幸か不幸か、彼女の恋人とは一度も顔を合わせていない。
単純に生活時間が違うのだろう。明け方まで隣部屋からは話し声が聞こえていたはずだ。さらに、俺は大学への行き帰り以外で部屋の外に出ることが無いため、出会う確率自体がそもそも限りなく低いことも理由の一つだと言える。
けれど、時折聞こえる耳を劈くような怒鳴り声で、その存在は認識できる。
不思議なものだ。顔も知らない男の声だけを、俺は知っている。言葉にしてみればなんてことのないこの事実が、自分の身に降りかかるとなんとも奇怪で、気味が悪い。
手摺りに体重を預けてもう一度空を眺める。星はこんなにも綺麗に出ているのに、月だけがどこにも見当たらない。風景を観て感傷に浸れるほどの感性など持ち合わせてはいないが、そんな俺でも物足りなさを感じてしまう。それくらいには、夜空から失われた月には思い入れがあったのかもしれない。
それは、彼女と眺めていたものだからだろうか。
気づけばフィルター寸前まで燃えていた煙草の火を消して、部屋に戻る。そろそろ寝なければ。今更ながら、そんなことを思った。明日はテストだ。寝坊して受けられなければ、単位を落とすのは確定だろう。
部屋の電気を落として俺は目を瞑った。今日は隣部屋から音が聞こえてこない。数ヶ月前には当たり前だったそんな事実が、最近では珍しいものになった。静まり返った部屋にいると、余計な音まで聞こえてきてしまう。例えばそれは、遠くを走る車の音だったり、電球のカバーの軋む音であったり。
ーーーガチャ
意識しまいとすればするほど良く聞こえるそれらの音から逃げるように寝返りを打つと、俺の耳が微かな別の音を確かに捉えた。それはよく聞き慣れた控えめな生活音で、彼女が帰宅したのだと悟った。
ああ、考えるな。寝てしまえ。
俺は頭から布団を被った。
「ーーー」
小さな話し声だ。珍しい事ではない。俺と彼女を隔った壁は、作り上げた距離が考えられないほどに薄い。
明日のテストは生物系だ。暗記は苦手ではないから、なんとかなるだろう。
ーー考えるな。
「ーー、ーーー!」
程なくして、男の怒鳴り声と共に、物が割れる音が聞こえる。これも、もう聞き慣れた。
明後日は化学系のテストだったように思える。
ーーー考えるな。
「ーーーい!」
か細い女性の声ーーー彼女の声だ。
ーー考えるな。
「ーーーさい!」
物が割れる音。
ーーー考えるな。
「ーーごめんなさい!!」
「……っ!」
俺は寝床から飛び出していた。
半ば反射的なものだ。水でも飲んで、すぐに布団に戻ろう。理性はそう言っているのに、俺の足は何かに取り憑かれたように歩き出す。向かう先は、玄関のドア。
やめろ、お前に何ができる。お前は他人だ。彼女の何者でもない。
頭の中で警報が鳴り響いている。実際、その通りなのだ。恋人同士のやりとりに口を出せるほど、俺と彼女の関係は深くない。
踵を潰して靴を履き、外に飛び出した。
一体俺は、彼女の何になれるんだろう。彼女と会わなくなってから、考えないようにしていたその疑問が頭の中で暴れ出す。俺は救われてばかりで、彼女に何か返せていたのだろうか。彼女を、救えていたのだろうか。
思い起こすのは、彼女の憂いを帯びた表情ばかりだ。儚くて、触れれば壊れてしまいそうな、そんな表情。
熱を帯びた思考のまま、俺は叩きつけるように呼び鈴を鳴らした。
ーーーピンポーン
そんな気の抜けた音は、俺の頭を冷ますのには十分だった。けれど、押したという事実は変わらない。
ガタガタと鳴り響く物音に、怒鳴り声と叫び声。それらの音は、呼び鈴が鳴り終わるか否かのタイミングでピタリとやんだ。
刹那の静寂。
永遠にも思えるそれが破られたのは、それから三十秒ほど経った後だった。
「……んだよ。」
ガチャン。乱暴な音と共に、暗闇から眩しいくらいの金髪の男が現れた。
思わず、拍子抜けした。聞こえてくる声音から、俺はてっきりもっと強面の男だと思っていたからだ。男は細身で、身長は俺と同じか少し低いくらい。男性アイドルと言われれば信じてしまうくらいには顔立ちは整っていて、どちらかと言えば中性的な印象さえ感じる。
けれど、だからこそ爛々と鈍色に輝くその目がとても歪で、恐ろしかった。
「………。」
黙っている俺を、男は訝しんでいるようだった。大方、俺が隣人だと気付いているようで、また訪問の理由も分かっているのだろう。だからこそ下手に噛み付くわけにもいかない、のだと思う。
対する俺はといえば、何を言えばいいのかわからないままただ立ち尽くしていた。
衝動に任せて呼び鈴を押したはいいものの、その行動は行き当たりばっかりのものだ。数秒前までぐつぐつと煮えたぎっていたはずの俺の思考はそんなことは忘れたとばかりにクリアになっていて、かえって何を言えばいいのかわからなくなってしまっていた。
「あー、夜更けに申し訳ない。」
沈黙に耐えかねて、俺は口を開いた。男は無言でこちらを睨み付けているが、この手の人間に下手にでても碌なことがないことは分かっていたから、努めて気丈に振る舞う。
隣人だということと、名前を適当に述べる。
「……はぁ。」
不服なのだろう。俺の軽い自己紹介に、男はつまらないという内心を隠しもせずに溜め息を吐いた。けれどそれ以上は何も言わない。存外、頭が回るようだ。
玄関から見える廊下の先は扉が閉められていて、様子はわからない。廊下に散らばった煙草の吸い殻だけが、この部屋の中の唯一の情報だった。
ここからが本題だ。消え去った情動をもう一度奮い立たせる。蘇るのは記憶に焼きついている彼女の表情と、傷跡。
「それでーーー。」
それで。それで?
続く言葉は、見つからなかった。
言えばいいのだ。悲鳴が聞こえたと。場合によっては嘘をついてもいいはずだ。気づかないようにしていたって、それは幾度となく聞こえた。言ってしまえば、彼女は解放されるはずなのに。なのにーーー。
なのに、彼女の愛おしそうな表情が、其れを許さない。
痛々しい傷跡と、その表情。普通なら嫌悪感さえ抱くその光景を見て、俺はあのとき何を思った?
鮮明に覚えている。
俺はその光景を、美しいと思った。思ってしまった。
ここで全てを曝け出せば、何もかもが終わる。俺が身勝手に信じる彼女の苦しみも、夜な夜な聞こえる騒音も、全てが終わるはずなのに。
俺は確かに、月明かりの下のあの光景を、終わらせたくないと思ってしまった。
漸く、答えが出た。好きな筈だった彼女に恋人がいると知っても、大した後悔も、悲観もなかったその理由。記憶を辿っても、同じ表情の彼女しか存在しなかった理由。
ーーー俺が好きだったのは、憔悴して、憂いて、悲壮な表情を浮かべた彼女だったからだ。
「少し、静かにしてもらえると助かる。明日、朝が早いんだ。」
認めてしまえば、するりと言葉が見つかった。頭の中はひどく冷たい。今なら、色々なものが良く見える。
例えば、男が僅かに驚いたことなど。
「……ちっ。」
やがて男は苦い顔で舌打ちをした後、暗闇の中へと消えていった。遅れて、バタンと扉が閉まる。
それは男の行為であるはずなのに、俺と彼女との間に落ちた、明確な隔たりのように思えた。
それから俺は、部屋に戻って、布団に入り、寝るわけでもなくただ白い壁を眺めていた。不気味なほど静かになった隣部屋から、時折聞こえる話し声と物音に耳を傾けて、何が起きているのかをただ考えていた。そうしていたら、空が白んで、鳥が鳴いて、日が刺して。
翌日、俺は初めて大学を休んだ。
7.
罪の意識は、一度目が肝心らしい。二日、三日と大学に行かない日が続いた。なんだ、簡単じゃないか。どうして俺は真面目くさって毎日飽きもせず、あんな場所へ通い続けたのだろう。親への負い目だったか、遠い昔の記憶はもう、見つからない。
あれから二週間が経った。
期末のこの時期は毎日のようにテストがあり、そしてそのどれもに出席しなかった俺はまず間違いなく留年だろう。突きつけられたその事実にも実感が湧かないまま、ただ何もしない灰色の日々を過ごした。唯一したことといえば、煙草を買いに近くのコンビニへと足を運んだだけ。気分転換にでもなるかと思ったが、その日はあいにくの天気だったため、俺はいっそう憂鬱になっただけだった。
中野からは、いくつかメッセージが届いていたような気がする。文字を打つのも面倒で、返事はしていない。安否の確認だったり、理由のわからない謝罪だったりしたそれも、三日ほど前からぱたりと止んだ。
昼過ぎに起きて、煙草を吸って、空を眺めて、味のしない食事を摂って。気づけば日は落ちているから、布団に入って、それからは明け方までぼうっと目を開けていた。目に入るのは白い塗装ばかり。壁の向こうの光景を想像していたら、知らないうちに眠りについているから、壁の奥には暗闇が広がったままだ。
俺の生活が変化した一方で、隣部屋の様子もがらりと変わっていた。まず、夜な夜な聞こえた複数の男の笑い声なんかがパタリと止み、さらに狂ったような怒鳴り声も聞こえなくなった。しかし話し声や物音は聞こえているから、存在だけは確認できている。先週の訪問で何かが変わったんだろうか。答えの出ない問いだけがぐるぐると回る。
喜ばしいことなんだろう。けれど、俺にとってはそれが本当に良いことなのか、よくわからなかった。
それから、煙草を吸う頻度が増えたように思う。今思えば、大学は敷地内が全面禁煙であり、街中を歩いていても喫煙所はどこにも存在していなかったのだから、当然だろう。よくそれで満足できていたものだ。今なんて、煙草を吸っている時くらいでしか生きている実感が湧かないというのに。もしかしたら俺はもう死んでいて、この部屋に存在しているのはその残滓だけなのかもしれない、なんて、そんなチープな作り話すら頭に浮かぶ。
空は暗幕に覆われている。動くのも面倒で部屋の電気をつけていなかったけれど、これでは何も見えない。しぶしぶ重い腰を持ち上げて、電球から下がる紐を引いた。切れかかった白熱電球の明かりは物寂しかったが、明るすぎるよりもずっと良い。しばらく明滅する電球を眺めていたら、瞼が重くなる。時計を見れば、日付はとうの昔に変わっていた。今日は金曜日だ。大学に通わなくなってから、曜日なんて気にしたことがなかった。平日も休日も、何もない日であることに変わりはない。迫る眠気を払おうと煙草の箱を手に取ったら、遂に電球が切れた。
頭上では、満月がその身を大いに輝かせて妖しく嗤う。月の綺麗な夜だ。こんな日はいつも、あの日のことを思い出す。彼女と初めて話をした、初秋のあの日。
あの時も、俺はこうしてベランダで煙草を吸っていて。先の見えない漠然とした不安感に辟易していて。そうしていたら、カラカラと小気味の良い音とともに、鈴の音のような彼女の声が聴こえてきてーーー。
記憶の中の音と現実のそれが重なった。なんとなく、今日はそんな気がしていた。だから珍しく眠い目を擦りながら、眠気覚ましに煙草を吸っていたのだ。思えばいつも、俺は予感していたように思える。今日は彼女が来そうだなんて、そんな眉唾みたいな浅はかな予感。
初めは幻かと思った。ついに頭がおかしくなって、未練がましく幻覚を見たのかと思った。けれど、一挙手一投足と共に俺の耳を震わせる音は確かにそこに居るということの証明で。
「お久しぶりです、先輩。月が綺麗ですね。」
目を見開く俺に無邪気に笑いかけて、彼女はそこに立っていた。
「ーーーー」
こうして初めて出会ったその日、俺は彼女に見惚れていたんだと思う。そんなことを回想できるくらいには、俺は言葉を失っていた。もし会えたら何を話そうなんて、この二週間数え切れないくらいには考えていたはずだ。けれど、いざこうして彼女を前にすると、やはり頭の中は真っ白になってしまう。
彼女はそんな俺を見てくすくすと笑った。その手の甲には真っ白なガーゼが貼られており、そして彼女はそれを隠そうともしなかった。
当然だろう。額に、頬に、手首に。至る所に白いガーゼが貼られている。ハイネックのセーターでそのほとんどが隠されていてもわかるくらいには、彼女の身体はボロボロだった。満身創痍、という言葉はこういうことを言うのだろう。月明かりを反射して光るその白色は目を背けたくなるものなのに、俺の目にだけは酷く蠱惑的に映った。
「もう、なんですか?幽霊でも見たような顔しちゃって。」
形の良い眉がわずかに吊り上がるのをみて、彼女がそこにいる事を実感した。コロコロと変わる表情、決して大きくは無いのに耳に届く声。その姿は記憶の中のものと何一つ違わなかった。
「……いや。ちょっと驚いただけ。久しぶり。」
煙草の火を消しながら、俺は遅れて発声した。本当は、聞きたいことが山ほどある。話したいことも、沢山ある。けれどそれを悟られないよう、精一杯格好をつけた。
「ふふ。そうですね。でも、私はあの日、一度だってもう会えないなんて言ってないんですよ?」
多分、彼女は気付いている。気付いた上で、気づかないふりをする。ああ、懐かしい。これが俺と彼女の距離感だ。決して踏み込むことをせず、表面だけをなぞった会話。不快なだけのはずのそれが、どうしてか彼女に対しては自然とできてしまうのだ。
俺は取り繕った笑みを貼り付けて、そうだと肯定した。彼女のそれと比べれば、比べるのも烏滸がましいくらいに不恰好だろう。
「あれから、何か変わりましたか?」
彼女は手すりに寄りかかって小首を傾げた。猫のような目が真っ直ぐとこちらを捉える。今だけは、彼女の目には俺しか映っていない。そんな当たり前の事実が堪らなく喜ばしくて、俺の心臓は子供のように早鐘を打った。
「別に。何も変わらないよ。」
嘘を吐いたつもりはない。中野とのやりとりや、結局大学に行かなくなったことなど、事実を見れば俺の行動は変化した。しかしそれらの根底には彼女の存在がある。結局、俺はあの日から、彼女に甘え続けたままだ。
その言葉を聞いて、彼女は満足気に目を細めて、目を伏せる。
「そうですか、それは何よりです。」
私も、なにも変わりませんでした。
声のトーンが変わったわけでもないのに、続くその言葉は、やけに俺の耳に残った。
二週間前、俺が訪問したことは彼女も知っているだろう。つまりは、そういうことだ。
「そっか。」
俺は何も知らないふりをする。彼女がそれを望むから。全てを知りたいと願う歳は、とうの昔に過ぎている。もっと俺が子供で有れば、こんな思いも抱かなかったのだろうか。
そうして、俺たちの間には沈黙が降りた。
何も変わらないのであれば話題が膨らまないのは当然で、それ以上に踏み込めないのもお互いに分かりきっていたからだ。手持ち無沙汰になって、徐に煙草を口に咥えて火をつける。
彼女は何を考えているのだろう。彼女に限らず、俺は人の気持ちを察するのが苦手だ。ずっと一人で過ごしてきたからだろうか。中野の謝罪も真意が読めないままだった。本来謝るのは俺の方で、彼女には一つも非はないはずなのに。
数分間続いた静寂を破ったのは、彼女の方だった。
「先輩。煙草を一本、貰えますか。」
彼女が煙草を欲しがるのは初めてだった。珍しいことだと思ったが、彼女はそれ以上何も言わない。断る理由も無いから、箱ごと彼女に渡した。丁度、最後の一本だった。
慣れない様子で箱を開けて口に咥えた後、彼女は再びこちらを向いた。ああ、火が無いのか。今度は逆のポケットからライターを取り出そうとして、
「えっと、ライターは要らないです。代わりに、先輩のそれ、貰えますか。」
彼女が指を刺したのは俺の口に咥えられた煙草だった。なるほど確かにこういう手法もあったはずだ。しかし俺が知っているのは創作の中だけで、実際に行うのは初めてだった。
ポケットを弄っていた手を止めて、柵から身を乗り出す。彼女も俺の様子を見て、同じ動きをした。
風の無い日でよかった。そんなことを思いながら、煙草の先を彼女のものへと近づける。彼女は目を閉じていた。
その距離が縮まっていく。あと3センチ、あと1センチ、あと1ミリーーー。
やがて、俺と彼女の距離は二本の煙草越しにゼロになった。毛恥ずかしくて背けていた目を彼女に向ける。彼女が身を倒していたから、たまたま、その首筋が目に入った。
真っ赤な跡が、白く細いそこに首輪のようにぐるりと巻き付いていた。俺は火がつくまでの数秒間、その跡を眺め続けていた。
「私、実はこれを吸うのは初めてなんです。」
やがて彼女は身を起こすと、ぽつりと呟いた。はっとして、遅れて俺も身を起こす。彼女の視線は夜の闇の中に向けられていたから、俺の様子には気付いていなかった。思わず安堵のため息を溢す。
煙草を吸ったことがないというのは意外だった。身近な人間が吸っていれば、一度は試しに吸ってみるものだとばかり思っていた。恋人が喫煙者なら、尚更なような気もする。
「そうなんだ。火の付け方、よく知ってたね。」
大抵の場合、初めて煙草を吸おうとすると戸惑うのがそこだ。自分もそうだったからよくわかる。誰かに教えられて慌てて吸ったが最後、今度は吸いすぎて咽せてしまうまでが喫煙者の第一歩なのではないだろうか。
彼女は俺の言葉を受けてきょとんと目を丸くした。珍しい顔だと思ったのも束の間、今度は何か納得がいったような顔をして、ああと声を漏らした。
「先輩が吸う姿、よく見ていましたから。」
彼女の笑顔を前に、今度は俺が呆ける番になった。
彼女の恋人が喫煙者なのは知っている。彼女もまた、俺がそれに気付いていることは分かっているはずだ。そも、これは彼女の口から聞かされた事実だった。
だからこそわからない。どうしてここで俺の名前が出てくるのか。
彼女は口が上手いが、こういったことはただの一度も言ったことがなかった。それくらい彼女があの男を愛しているということは、いつかの表情を見れば他人の機微に疎い俺でもわかる。
どうして。どうして。そればかりが頭を回る。それくらいにはやはりまだ俺は彼女に心酔していて、同時にこんなのは彼女ではないという拒絶の意識が俺の背後を付き纏う。
一人でに溺れて、理解したつもりになって。なんという傲慢だろうか。自分の都合の悪い事実を知ればそれを否定して、理想の彼女を頭に思い描く。客観視するまでもなく、今の俺はあまりに醜い。
「先輩。」
そうしていたら、すぐ隣から彼女の声が聞こえた。それだけで俺の思考は中断される。感覚が彼女にのみ集中して、次の瞬間、俺の世界にはもう彼女以外映っていなかった。
彼女は何かを思案していた。視線は手元の煙草に向けられていて、表情はわからない。
思えば、彼女との物理的な距離がこれほど近づいたことはこれまで一度もなかった。近くに来ると、彼女の美しさがより際立って見える。玉のような白い肌だとか、錦糸のような黒い髪だとか。
それから、その身に刻まれた、痛々しくも美しい傷跡だとか。
意識するな。そう思う頃には、俺の目は既に彼女の細い首筋しか捉えていなかった。
「煙草って、寂しいときほど吸いたくなるんですね。」
その言葉は遠くから聞こえてくるみたいだった。こちらを向いて、困ったように眉根を下げて笑う彼女。
俺の身体は考えるよりも先に動いていた。
煙が吐き出されたあとの彼女の艶のある唇に、俺は自分のそれを静かに重ねた。
「ーーー」
息遣いはどちらのものだろうか。
一秒、二秒。景色がコマ送りのように流れていく。その一瞬は、永遠よりも長かった。
触れ合わせるだけのその行為は、俺が動き出してからたったの五秒で終わってしまった。
「………。」
お互い、何も言わずに目を合わせる。彼女は少しだけ目を丸くして、それっきり動くことはなかった。俺はそんな彼女をただぼうっと眺めていた。筋書きのない三文芝居の観客は、ただの一人もいなかった。
月明かりに照らされた、束の間の静寂。先にそれを破ったのは、俺ではなかった。
「ーーーさんが恋人だったら、何か違ったのかな。」
彼女は初めて俺の名前を呟いて、声を出さずに笑った。その顔には見覚えがあった。
怒るわけでも呆れるわけでも、ましてや何かを期待するわけでもないその表情。
毎朝鏡に映る、見飽きた表情。
彼女の顔は、悲しいくらいに、諦めに満ちていた。
「……そうかもな。」
今度こそ、俺は嘘を吐いた。出会い方が違ったら、俺と彼女はつまらない男とつまらない女で終わっていた。そんな確信さえあるというのに。
全てを曝け出してしまいたかった。俺が彼女のどこに惹かれて、何を想っているのか。違ってくれと幾度となく願っても、思い起こすのはその光景のみ。壁の向こう側は、ただの一度も明るかったことなどなかった。現に、今だってそうだ。
終ぞ、俺の視界には彼女の首ーーー正確には、そこに残された赤い跡しか映っていなかった。
ああ、月が綺麗だ。
8.
「ただいま。」
重々しい扉を開けながら、俺は呟いた。そのままマフラーを解いて、コートを脱ぐ。時刻は午後六時で、とうの昔に日は落ちている。季節はすっかり冬になっていた。
「おかえりなさい!」
明るい廊下の奥から、同じように明るい声が聞こえた。遅れて、パタパタと忙しなくなるスリッパの音。寒いから玄関まで出てこなくてもいいといつも言っているのに、毎日のようにこの音を聞いている気がする。
コートをハンガーに掛けていると、エプロン姿の人影が俺の前に現れた。
「ただいま。出てこなくてもいいって、いつも言ってるのに。」
いつものようにそう言って、俺は彼女に笑いかけた。
「そんな寂しいこと言わないで欲しいです。それに、私がしたいからしてるんですよ。」
彼女は明るい色のボブヘアーを揺らして、困ったように笑った。
荻野唯。それが目の前で呆れ顔を浮かべる彼女の名前で、現在俺と同棲している恋人でもあった。
「今日は学校どうだった?」
靴を脱いで、廊下を歩きながらそんな事を聞いた。唯は看護学校の二年生で、出会ったのは去年の春先だった。
彼女に初めて触れた夜。あの日から、殆ど一年が経っていた。
「なんか、お父さんみたいな質問ですね、先輩。」
「お父さんか。まだそんな歳のつもりはないんだけどな。」
あの夜の翌日、俺は大学を退学した。
入るのには何枚も書類を書いた記憶があったのに、退学は用紙一枚で簡単に認められたのは呆気がないなと、親の署名欄を適当に埋めながらぼんやりと思っていた。
全てが終わった後、俺の預かり知らぬ所で親がその事実に気付いたらしい。電話口の母親は見たことがないくらいに激怒していた。決して安くない学費等を払っていたのにそれが気まぐれでふいにされたのだから、当然だろう。
結局、その日は殆ど勘当のような宣言をされて、電話を切ったのを覚えている。
「今日は和食にしてみました! けど、先にお風呂に入っちゃいますか?」
下からそう尋ねられる。どうしようか、なんて言いながら、俺は迷わずにベランダへと足を運んだ。
親からの絶縁宣言を皮切りに、俺の生活は目まぐるしく変わっていった。まず第一に、家賃が払えなくなった。親が支払いをやめたのだろう。直接家賃を督促されても、バイトもしていない学生には貯蓄がなかった。結局追い出されるようにアパートを後にして、漸く自分の置かれた状況を再確認したような気がする。
日々を食い繋ぐにも収入がなく、なけなしの私物を売り、掛け持ちしたバイトで毎日の食費を稼ぐ生活を一ヶ月ほどしていた。新たに部屋を借りる金もなかったから、夜は漫画喫茶やネットカフェを転々としていた。駅前で声をかけられた知らない人の家に転がり込んで夜を明かしたこともある。
そんな生活をしていた中で、偶々始めたコンビニのバイトの後輩が唯だった。
『そ、それなら! うちに住みませんか!」
唯にそう言われたのは、なにかの拍子で根無草のような俺の話をしたときだった。
多分、あの時から彼女は俺を好いていたのだと思う。けれど、かつての俺はそんなことにはまるで気づかなくて、それでも金を払わずに暮らせるならなんでもいいかと、俺は二つ返事で彼女の誘いに乗った。
懐から取り出した煙草に火をつける。思えば、どんなに金が無くても、これはやめられなかったな。
「……もう、また煙草ですか? 身体に悪いですよー。」
俺は苦笑した。それから、不満そうな声を漏らす唯をあやすように頭を撫でる。看護学校の学生なだけあって、彼女は俺が煙草を吸うのに良い顔をしない。それでも本気で止めようとしてこないのは彼女が優しいからだろうか。
そんな過程もあって、唯とは行きずりで関係を持つこととなった。どちらからと言うわけではないが、恋人同士がするようなことは大体してしまったし、これは共通認識だろう。
要は現在も、俺は安定した職を見つけるわけでも無く、ただただ日々を無為に生きていた。
「もう、またそうやって……。」
口調とは裏腹に、彼女はされるがままだ。いつまで経っても俺のことを先輩と呼ぶ姿は、在りし日の彼女に重なる。こんな月明かりの元であるなら、尚更だった。
あの日以来、彼女とは一度も会っていない。
唯という恋人がいながら、俺は今でも彼女を思い出す。八重歯をのぞかせて困ったように笑う彼女の表情は、俺の記憶に楔を打ち込んだように深く刻み込まれている。
彼女は今、どこで何をしているのだろうか。
「……先輩。」
こちらを見上げる彼女の唇に自分のそれを静かに合わせる。最近、煙草の匂いがあまり嫌じゃ無くなってしまったとは唯の弁。俺が一番この行為をするのが煙草を吸っている時だから、慣れてしまったのだろう。申し訳ないと思う。こんな匂い、慣れる必要は無いというのに。
過ぎていく季節と対照的に、俺は呆れるほどなにも変わらない。今もあの時も、誰かに依存して、寄りかかったままだ。
唇を離して、彼女の首筋を右手で撫でる。
あ、という声と共に、その手に小さな唯の手が重ねられた。
唯の首筋には、蛇が巻きついた後のような、赤い跡が残っていた。
綺麗だね。誰に聞かせるでも無くそう呟いて、俺は再び彼女の唇を奪った。
遅れて、煙草の火が消えた。