山田仁菜が平原美弦と一緒に生まれ育ったアパートを訪ねる話です。

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Adagio

 山田仁菜はソファに横になってまどろんでいた。そこで夢を見た。自分が子供だった頃の夢だ。

 夢の中で仁菜は母親と手を繋いでお出かけしていた。道すがら、駄菓子屋で砂糖のたっぷりついた丸い飴を買ってもらい、それをしゃぶりながらデパートへと向かう。仁菜がおいしそうに飴を舐める様子を見て母親が微笑んでいる。デパートでは洋服屋を巡った。母親の勧める服に仁菜はいちいち首を振り、自分で選んだ一着を掴んで頑なに譲ろうとしない。根負けした母親は、仁菜の選んだ服を手にレジへ向かう。それからフードコートで昼ごはん。お出かけのときだけは、デザートを先に食べても良いのだ。仁菜は生クリームのたっぷりと乗ったプリンに舌鼓を打ち、ご飯を食べられなくなってしまうのではという母親の心配をよそに、旗の立ったオムライスをぺろりと平らげてしまう。お腹がいっぱいになってうとうととしていると、そろそろ帰ろうか、と母親が窺ってきた。仁菜は首を振り、カバンからお気に入りの絵本を取り出した。けれど、文字は目の表面をつるりと滑ってどこかに飛んでいってしまう。ちょっとだけ目を閉じよう――そう思った次の瞬間には母親の背で揺られていた。すごく楽しかったし、母親の背中は温かくて安心だ。仁菜はいつまでもそうして揺られていたかった――そんな夢だ。

 目覚めて現実に戻った仁菜はほんの少しだけ幸せな気持ちになった。その後で強烈な不快感が胸の奥から迫り上がってきた。

 ――アタシにもまだこんな気持ちがあったのか。

 口の中に粘ついた唾が溜まる。それを床に吐き捨てて舌打ちをひとつ。目元を擦ると涙の乾いた跡があった。くだらない夢だと、仁菜は一蹴した。

 仁菜の母親はもうこの世にはいないし、仁菜は母親を必要としていない。母親に必要とされたことだってなかった。

 仁菜は誰のことも必要としていないし、誰からも必要とされていない。誰かに必要とされたいだなんてまっぴらごめんだ――仁菜の心の中にはそんな世界が広がっていた。だから、仁菜の心の穴は永遠に埋まらないのだ。

 

 仁菜は聖イネス学園の教会に住み着いていた。帰るところのない仁菜にとって、教会での暮らしはまあまあ快適なものだった。

 この教会へは『お姉様』と呼ばれる先輩に連れて来られたのだ。先日、お姉様の名前は平原美弦だということが判明したばかりだ。仁菜にとって美弦は憧れの存在だった。仁菜は美弦との共鳴を通じてお互いの過去と記憶を交換したばかりで、いまだに受け止めきれていない部分も多い。記憶を覗いたとはいえ、知らないことのほうがずっと多いのだ。

 その美弦が、あるとき「あなたの育った家に行ってみたい」と言い出した。

 これを聞いた仁菜は目を二、三度ぱちくりとさせた。怒り以外の表情が乏しい仁菜だったので、驚きは顔に出なかった。まつ毛が目に少し触れた程度の変化だった。けれど心の中は違う。なにせ憧れの『お姉様』を、自分の育った〝あの〟家に連れて行くのだ。仁菜にとってはとんでもなく大きな事件だ。荒れ狂う大海原に放り出された一艘の小舟になってしまったような気持ちがした。

 仁菜は安アパートで生まれ育ち、母親が死ぬと同時に家を出た。母子家庭だったし、出生届も出されていなかったので、部屋はきっと片付けられてしまっているだろう。記憶を見られることと実際に現物を見られることの間には大きな隔たりがある。狭いしきっと臭いし、自分を全部見られるみたいで恥ずかしい。けれど仁菜は恥ずかしさと嬉しさを天秤にかけ、最終的には嬉しさの方に傾いた。

「はい、お姉様。わかりました」

 仁菜はなんとか声を絞り出した。口がからからに渇いていたので、思いがけず低い声になってしまった。失礼な態度になってやしないかと顔を上げると、美弦は寒気がするほど無表情で見つめていて、仁菜は高いところから見下ろされているような心地がした。けれど、お姉様を至上の人と考えている仁菜なので、そんな気持ちにすら隷属する喜びを覚えてしまうのだった。

 こうして仁菜の人生はパラダイムシフトの時を迎えようとしていた。

 

 仁菜の育ったアパートは道路脇の細い路地を抜けた先にあって、整然とした街並みに突如として現れた空白のような土地に建っていた。アパートはところどころ劣化していて修復もされず、鉄製の外階段の塗装ははげ上がっていた。周りの建物はみんな背を向けていたし、どこかからドブの匂いも漂ってくる。変化していく街並みから完全に置き去りにされていた。

 いつから放置されているのか、蓋のこわれた洗濯機や錆びついた自転車が倒れていて、外から見ただけでは住人がいるかどうかさえもわからなかった。

 仁菜はアパートのそんな有様を見て急に恥ずかしくなってしまった。こんな気持ちは初めてだった。みすぼらしいものをお姉様に見られていると思うと居心地が悪く、無駄にそわそわしてしまう。軽蔑されてやしないかと美弦の顔に目をやるが、相変わらずの無表情だった。

 仁菜の住んでいた部屋は二階だ。扉の前で耳を澄まして何の音もしないことを確かめると、ポケットから合鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。予想に反して鍵はスムーズに回る。鍵が交換されている可能性も考えたが杞憂だったようだ。ドアノブに手を掛けると、思い出したくもない嫌な記憶が次々と蘇ってくる。ドアを開けたら死体があるのでは――と、ふと妄想がよぎる。仁菜は首を振ってそれら不吉な記憶を頭から追いやった。

 扉を開けると部屋の中からは家具がすっかり片付けられていた。けれど、古くなって黄ばんだ壁紙や穴だらけの柱や床に四角く残った家具の跡など、至る所に残る痕跡があの頃を思い出させた。薄暗い部屋の中で、寝室の畳だけが真新しいものに取り替えられてぴかぴかと光っていた。

「ここね」

 そう言って、美弦が寝室に足を踏み入れた。その瞬間、美弦の後ろ姿がまるで水に沈んでいくように揺らめいて見えた。嫌な予感がして仁菜もその後を追うと、寝室には重い空気が立ち込めていて、心細さや寂しさ、喪失感、自分なんて無力で無価値で生きている意味なんかない――そういう悲しい感情に押し潰されてしまいそうになった。それは共鳴で美弦の心に触れたとき感じた思いに似ていた。美弦の顔は何か醜い生き物と向き合っているときのように歪んでいた。

 

 ふと、背後で足音がした。音を立てないよう、慎重に足を忍ばせる歩き方だ。仁菜はこの歩き方に心当たりがあった。振り返ると、まだ小さな女の子が手に食パンを持って歩いていた。女の子はシンクの上で食パンをかじりはじめた。それから蛇口を細く開けてプラスチックの薄汚れたコップに水を注ぎ、それを一息に飲み込んだ。

 その女の子は子供の頃の仁菜だった。仁菜はサイズの合っていないシミだらけのシャツを着て、気配を殺して暮らしていた。今の仁菜にはその姿がまるで家の主がいない隙に部屋を這い回るネズミのように見えた。仁菜はそのままこそこそと歩いて美弦の横を通り過ぎ、押し入れの中に入っていった。

「ああもう! 何回言ったらわかるんだよテメェは!」

 急に怒鳴り声がした。居間を見ると、ローテーブルを挟んで母娘が向かい合っていた。テレビからはお昼のバラエティ番組が流れていて、なにが面白いのか軽薄な笑い声を上げた。壁沿いにカラーボックスが並んでいて、床に置かれたゴミ箱からは紙屑がはみ出していた。テーブルの上にはパック寿司や出来合いの煮物が何品か並んでいて、どうやら食事をとっている最中らしかった。母親は激昂していて、箸を持つ仁菜の手を赤くなるほどぎゅうぎゅうと締め付けていた。

「お前の箸の持ち方は気持ち悪いんだよ。一回で覚えろよこの野郎!」

 母親は怒りを叩きつけるように叫んで、仁菜の手を箸の形で固定した。箸の持ち方に慣れていないせいで仁菜の手は震えていて、寿司を挟もうとした途端に箸を一本落としてしまった。

「チッ!」

 母親は不愉快さを隠そうともせずに舌打ちした。仁菜はもう一度箸を握り直して、今度は寿司を上から突き刺して落とさないように口へ運んだ。それを見た母親はさもガッカリだとでも言うように大袈裟にため息をつき、仁菜は申し訳なさそうに背中を丸めて箸を置いた。

 居間の二人はそこで動きを止め、砂で作った像が崩れるようにして消えてなくなった。テーブルも、周囲の家具も、テレビやゴミ箱からはみ出した紙屑もすべて消え、何もないがらんとした居間に戻った。

 

 いま目の当たりにした光景は紛れもなく仁菜の育った部屋だった。記憶が幻を作り出しているというには、あまりにも精巧な幻だ。まるで現実と見分けがつかなかった。コモンには過去がすべて格納されているという話を美弦から聞いたことがある。これはきっとコモンに違いないと、仁菜は自分に言い聞かせた。脇や首筋がしっとりと汗ばんでいて寒気がした。

 キッチンでなにか物音がした。おそるおそる覗き見ると、小さい頃の仁菜がシンクの前に立っていて、皿の上に乗せた食パンを箸でつまんで食べていた。けれど、箸にまだ慣れていないせいでぽろぽろとこぼしてしまう。つまみ損ねたパン屑はすべてシンクの中に落ちた。仁菜はシンクに落ちて濡れたパン屑を箸でつまみ上げて口に運んだ。うまくできた――そう、にっこりと笑ったところで像が崩れて消え去った。

 続いて仁菜は寝室の窓辺に移動していた。窓の外では短冊が揺れていて、仁菜の目は短冊の虜になっていた。旗や鯉のぼりや短冊や電飾――窓から見える景色は季節ごとに変化して、仁菜の心を捉えて離さない。ほんの出来心だった。ほんのちょっとだけ近くで短冊を見てみたかっただけなのだ。仁菜はそれが短冊であることすら知らなかった。竹にぶら下げられた色とりどりの短冊が不思議で仕方なかったのだ。だから、仁菜はこの日、言いつけを破って家から外に出た。怯えるように背中を丸めて、壁に手をつきながら注意深く歩いていく。短冊は近所の駄菓子屋の軒先に掛かっていた。風に揺れる短冊たちをうっとりと眺めていると、店の中から店主のおばさんが出てきて声をかけた。

「願い事、書いていくかい?」

「願い事?」

「そう、願い事。なんでもいいから思いついたものを書いていきな」

 おばさんはそう言って長椅子に短冊とペンを置いて仁菜に勧めた。仁菜は地面に膝をついて長椅子を机がわりにした。願い事と言われて、最近箸の持ち方に慣れてきたことを思い出した。だから、願い事は――おかあさんにほめてほしい。

 願い事が決まっていざペンをはしらせようとしたとき、後ろから仁菜を呼ぶ声が聞こえた。

「仁菜。こんなところにいたの。探しちゃったじゃない!」

 母親はいそいそと軒先に駆け寄って、仁菜の脇に手を差し込んで立ち上がらせた。

「あなたがお母さん? この辺の人?」

「ええ、すぐ近所に住むものです。あ、この飴いただこうかしら。おいくら?」

 母親は飴の支払いを済ませ、仁菜を連行するようにして店を後にした。仁菜が短冊に書きたかった願いは、書ききれずに途中で終わってしまった。仁菜は短冊も気がかりだったが、それ以上に内緒の外出が母親にバレてしまったことが怖かった。この後きっと怒られるのだ。

「てめえ、ふざけんじゃねえよ!」

 アパートに戻り、扉を閉めるや否や母親は金切り声を上げて仁菜の頬を叩いた。

「勝手に外に出るんじゃねえって言ってるだろ。何回言ったらわかるんだよこの馬鹿!」

「ごめんなさい……」

 仁菜は家を出るなという母親の言いつけをちゃんと覚えていた。ただ、ほんの少し短冊を見てみたかっただけなのだ。

 幼い頃、母親がなぜ仁菜を外に出したくなかったのか、成長した仁菜はその理由を知っていた。仁菜には戸籍がない。出生届を出されていないので、そもそもこの世に存在しないことになっている。だから当然学校にも行っていない。母親が出生届を提出しなかった理由には心当たりがある。顔も見たことがない父親はひどいDVクソ野郎だったらしく、母親は仁菜を連れてそこから逃げたのだ。この父親は仁菜の母親が妊娠する頃にはほとんど家に寄り付かなくなったらしく、そもそも仁菜を自分の子だと思っていない可能性すらあった。母親の言うことには、気まぐれに現れて、気まぐれに殴る蹴るし、金を持ってどこかへ消えてしまうということだった。だから母親は仁菜の存在を父親から隠したかったのだろう。出生届を出してしまえば、仁菜は父親の子供として戸籍に入ってしまう。それは、仁菜の将来を案じたのかもしれなかったし、単純に住んでいるところを知られたくなかっただけかもしれなかったが、今となっては確認のしようもない。

「お前には言っても無駄だな。今日という今日はきっちりわからせてやる。来い!」

 母親は仁菜の髪を掴んで無理やり引っ張った。そして浴室に連れて行くと、服の上からシャワーで水を浴びせた。水は仁菜からみるみる体温を奪っていく。あっという間に芯まで冷え切って、身が縮こまってしまう。膝を抱えて耐えていると母親が、

「寒いか? 寒いよな。これから毎回これだからな。お前は頭が悪いんだから体で覚えろ」

 そう言ってシャワーヘッドを投げ捨てて、浴室を後にした。仁菜はシャワーを止めて、フックに戻した。寒さと惨めさで涙が後から後から溢れ出した。

 同じように像が崩れ去り、浴室に誰もいなくなった。濡れていたはずの床には水滴ひとつ落ちてなかった。

 この日から母親は仁菜を浴室で折檻するようになった。けれど暴力ははじめの一歩を踏み出すとたがが外れるものだ。折檻は常態化し、すぐに母親の機嫌ひとつで行われるようになった。仁菜は当たり前に殴られるようになった。

 

 寝室で、仁菜が天井近くを見上げていた。押し入れのもう一段上の天袋は絶対に開けるなと、母親から厳しく言い含められている。もし開けたことがバレたら冷たい水のシャワーと平手打ちの罰が待っているだろう。子供には危険な高さだったが、足場を工夫すれば届くことを仁菜は知っていた。けれど開けることはしなかった。罰が怖かったのではなく、母親への気遣いからだった。母親の口ぶりは厳しいものだったが、仁菜はそこから哀願するような気配を感じ取っていた。

 部屋の片隅にはピンク色のキャリーケースが置きっぱなしになっていた。キャリーケースは行き場のないまま、どこにしまわれるでもなく出しっぱなしにされていた。それなのに、仁菜がキャリーケースに触ると母親の機嫌は途端に悪くなる。まるで仁菜が触れたことで嫌なことを思い出してしまったというような、八つ当たりのような怒りだった。当時の仁菜はそれがわからずに、きっとお母さんの大切なものが入っているんだと思い込み、理不尽な怒りに堪えていた。

 ある夜のことだった。寝静まったアパートの廊下に母親の足音が反響した。母親は扉を開けて鍵をかけ、手に持っているコンビニ袋をテーブルに置いて煙草に火をつけた。それから冷蔵庫を開けたが、中にはジャムとマヨネーズくらいしか入っていなかった。空っぽと言ってよかった。母親は冷蔵庫の扉を閉じ、コンビニ袋をまさぐった。中にはツナマヨ味のおにぎりが一個とお茶が一本だけ。余分な食料を買うお金などなかった。家賃や光熱費の支払い日が近づいていて、そのことを考えると頭が痛い。通院しているクリニックの薬代も馬鹿にならない。パートの収入だけでやっていくには限界だった。いよいよ夜の仕事をするか、体を売るか、死ぬしかない。もうウンザリだ。母親は煙草を灰皿に押し付けて、おにぎりを一口頬張った。おにぎりを半分ほど食べた時、寝室で仁菜が寝返りを打つ音が響いた。

 ――なんでコイツを育てなきゃいけないんだろう。

 母親の胸に根源的な疑問が浮かんだ。仁菜さえいなければ生活はもっと楽になる。男を捕まえるのだってずっとたやすい。それに仁菜が生きていることを知っている人間なんて一人もいない。黙って捨ててもバレやしないはずだ。だったらいっそ――。

 母親はキッチンから包丁を持ち出した。刃を指で撫でる。研いでいないため随分ナマクラだが、やってやれないこともないだろう。母親は包丁を持って寝ている仁菜の枕元に近付いた。それから仰向けになった仁菜の首筋に包丁を当てた。ズレないように肩を抑えると、ガリガリに痩せている肩の骨を手の平に感じた。母親は肩に当てた手をそのまま腕に沿わせた。同年代の子供に比べて明らかに筋肉も脂肪も付いていない腕は簡単に折れてしまいそうだ。胸も腹も痩せこけていて、サイズの合っていないシャツは服というよりも体を包む布切れだ。母親はそんな仁菜から白いシーツを被ったお化けを連想した。別にいま慌てて殺さなくても、じきに死んでしまうだろう。明日死んでいても不思議ではない。自分がいなければ、仁菜は生きていくことができないのだ。

 その瞬間、不意に仁菜が目を開けた。

「どうしたの、お母さん」

 仁菜は寝起きだというのに、母親の顔色を窺うような目を向けた。卑屈な目だった。

「別に」

 母親は視線から目を逸らした。これじゃあまるでメンヘラの成れの果てじゃない――仁菜の哀れな目を見ていると自分がひどく情けなく思えてしまう。

「ごめんなさい」

 仁菜が申し訳なさそうに謝った。

「ごめんなさいって何よ。アタシが何したって言うんだ」

「……ごめんなさい」

「ッ! だ・か・ら! なんでそうやってすぐに謝るんだよ!」

「ごめんなさい!」

「ああもう! もう黙れようるせえな!」

 母親は怒りに任せて包丁を壁に投げつけた。壁に当たった包丁は床に落ちて軽い音を立てた。

「アンタさえいなければアタシだって! もっと――もっと楽に生きられたのに! なんで生まれてきたのよ! ねえ、なんで!?」

 母親は仁菜の両肩を掴んで前後に激しく揺さぶった。仁菜は大した抵抗もできす、されるがまま頭はガクンガクンと前後に揺れた。仁菜は母親が取り乱しているのを見て、どうしようもなく不安になった。なんだか恐ろしいことが起きてしまったような気がして、涙を目から溢れさせた。母親は急に無言になって立ち上がり、キッチンに戻ってテーブルに突っ伏した。仁菜は母親の後を目で追ったが、布団から動くことができなかった。その晩、母親は寝室には戻ってこなかった。仁菜はいつの間にか眠りに落ちていた。翌朝、仁菜が目覚めると、部屋はすでにもぬけの殻だった。母親はもう出勤してしまったようだった。煙草の煙が朝日を受けて低く垂れ込めていた。テーブルの上には半分残ったツナマヨのおにぎりが置いてあった。母親のものだとわかってはいたが、お腹がすきすぎて我慢できなかった。一口だけ――そう思いながら齧ると、とてつもない旨味が口の中で爆発した。今まで感じたことのないおいしさだった。こんなにおいしいものを仁菜は食べたことがなかった。気がつくとおにぎりを全部食べてしまっていて、お母さんに怒られるのではと急に不安になった。

 

 それからすぐに、仁菜の母親は昼だけでなく夜の店でも働くようになった。収入が増えて暮らしは楽になったが、処方される薬の種類も増えた。酒と薬の相性は悪く、体調不良は日常的になり、気分はいつだってすぐれなかった。母親は朝方帰宅して、少し眠ってから昼のパートに出かけ、夜は店に出勤するというサイクルで日々を送った。

 同時に仁菜の夜は完全に孤独になった。夜、目を覚ましても誰もいない。仁菜は夜に目が覚めてもトイレを我慢するようになった。ひとりぼっちが不安だったし、部屋に誰かいると悟られやしないか心配だったからだ。ある夜、どうしても我慢できずに仁菜はトイレに入った。けれど、用を足し終わっても怖くてトイレから出ることができなかった。誰かにバレるとか、母親に怒られるとか、お化けがいるかもしれないとか、そういった類のものではなく、恐怖はもっと漠然としていて掴みどころがなかった。ただ、ドアを開けてトイレから出てしまうときっと恐怖に飲み込まれてしまう――そんな予感があった。トイレに腰掛けてうとうとしていると、玄関から物音がして仁菜は目を覚ました。

「おかえりなさい」

 仁菜はドアを開けておそるおそる母親に声をかけた。母親の目はとろんと酔っ払っていて、アルコールと煙草の混じり合った匂いを撒き散らしていた。

 ああ起きてたの、アンタは気楽でいいわね。母親は誰に言うでもなくひとりごち、仁菜の横を通り過ぎて洗面所に向かった。

 

 別の日のある晩のこと。仁菜が眠っていると、やけに陽気な母親の声で目を覚ました。

「にぃなチャン! アタシのかわいいにぃなチャン! ママが帰ってきましたよぉ」

 母親は寝ている仁菜の布団を捲り上げて頬擦りした。母親はいつにも増して酒臭かった。

「一人でさみしかった? ごめんねえ! んんー、ちゅっ!」

 母親は頬擦りしながら仁菜のことを撫でまわし、甘えるような声で仁菜にキスをした。仁菜は内心で動揺したが、母親が構ってくれるのが嬉しくもあった。

「お母さん」

「なあに。ママになんでも話してちょうだい」

「あの中、なにが入ってるの?」

 仁菜はキャリーケースを指さして言った。

「ああ、あれ」

 母親は声を一段落とし、寝ている仁菜を自分の膝の上に乗せ、髪を指で漉いた。

「あれはね、アンタと、アンタのお父さんと、アタシの思い出が入ってるのよ。何もかもぜーんぶ」

 冷めた目のまま話す母親から、仁菜は投げやりな態度を感じた。

「なあに、お父さんのこと知りたいの?」

 母親の声は優しかったが、それが逆に不気味で、なにか踏み込んでいはいけないことのような気がして、仁菜は黙ったままでいた。

「あのねえ、アンタのお父さんは最低な野郎なんだよ。そしてアタシも最低。だからアンタも最低。アンタみたいな最低な人間がまともな人生送れるなんて思うんじゃないよ。絶対にロクな人生にはならないんだから」

 そう言った母親の顔には影がかかっていて暗く、表情がよく見えなかった。わかったと仁菜は影に向かって頷いた。

「わかったら早く大きくなって、たくさんお客を取ってきな。お客だよ、お客。わかるだろ。アタシらみたいな女が売れるものなんて体しかないんだから」

 母親は立ち上がって煙草に火をつけ、窓を細く開けた。風に乗って煙がたゆたい、仁菜はその中に煙ではないなにかの匂いを嗅いだ。トイレの芳香剤のような匂いだ。

「アンタ、この匂いわかる?」

 仁菜は首を振った。

「この匂いはキンモクセイ。トイレの偽物なんかじゃない、本当の匂い」

 そう言って母親は仁菜を振り返った。街灯の光が差していた。光は母親の輪郭で黒く切り抜かれていて、その中で母親は乾いた果実みたいに笑った。

 

 玄関から物音がしたので、仁菜は慌てて押し入れに隠れた。足音は二人分で、母親とお客が足をもつれ合わせながら三和土に上がる音が聞こえた。

「まだダメ。二万円、前金。はやくぅ」

 母親の鼻にかかった声が押入れの中にくぐもって響く。ドタドタという足音が押入れのすぐ外に聞こえて仁菜は身を固くした。これから『アレ』がはじまるのだ。

 なによこれ、立ってないじゃない。酒のせいかな。早く立たせなさいよ。舐めてくれよ。いくら払う。いくらでも。オッケー。ちゅぱちゅぱと粘ついた水音。服の擦れる音。荒くなる吐息。一瞬の沈黙の後、母親の悲鳴のような喘ぎ声が響く。ドン、ドン、ドン、とリズミカルに母親の膣がなぶられる。仁菜は両手で耳を塞いでいたが、それでも声と振動は容赦なく仁菜の脳に届いた。

 その光景を、仁菜と美弦が少し離れたところから見ていた。母親の痴態は想像していたよりずっと最悪なものだった。母親だけが全裸にされて、男は服を着たまま母親を後ろから突いていた。母親はまるで土下座するみたいな姿勢で堪えていて、突かれるたび大きな泣き声を上げた。まるで折檻されて、押入れの中の仁菜に許しを請うているようにも見えた。

 こんなものを美弦に見せてしまって良いのだろうか、こんな女から生まれた娘なのかと美弦に軽蔑されたりはしないだろうか。仁菜は横目で美弦を見たが、暗い部屋の中で美弦の表情はよく見えなかった。

 部屋の中には突かれるたびに鳴る母親の尻の音と嬌声と、押入れの中でゴリゴリと何かを削る音がずっと響いていた。

 悪夢のような夜の像は崩れ去って、部屋は再びがらんとした空き家に戻った。押入れを開けて中を見ると、奥の壁には獣が爪を研いだような跡があった。かつて仁菜がナイフで削った跡だ。壁の傷は文字のような意味を持ってはいないが、文字以上に仁菜の気持ちが刻まれていた。

 

 母親が客を取って体を売る暮らしは続いた。よく店に来る太客の愛人になったこともあった。けれど、仁菜の存在は慎重に隠されていたし、子供がいるかもなんて疑うような男もいなかった。仮に気付いたとしても、厄介ごとを嫌って無視するだろう。母親は女としての体だけが求められていた。

 仁菜がある程度大きくなると、ようやく外出が許されるようになった。それは自由を与えられたという意味などではなく、家に居られると単純に商売の邪魔だったし、仁菜が外に一人でいても誰にも気にされなくなったからだ。要するに、勝手に隠れていろということだった。

 この頃には仁菜の心はすっかり閉ざされていた。痛みも感じないし、同情も覚えない。何も感じないし、何も思わない。愛などない人間に育っていた。誰のことも愛していなかったし、誰からも愛されていなかった。誰のことも必要としていなかったし、誰からも必要とされていなかった。

 

 扉が開く音がして、仁菜が帰宅した。居間には母親の死体が転がっていた。母親の背中にはナイフが突き立っていて、そこから流れ出した血が敷布団をぐっしょりと濡らしていた。仁菜は無表情で母親に近付いて、背中からナイフを引き抜いた。そのナイフは仁菜がかつて壁を削っていたものだった。仁菜は刃に付いた血を布団で拭ってポケットにしまった。母親を足で蹴って裏返すと、その顔は緩みきって表情がなくなっていた。目は天井に向いていたけれど、もはや何も見ていなかった。母親だったこれはもう別人だ――そんな思いが仁菜の中に広がっていった。

 これ以上ここに住み続けるのは無理だろう。仁菜は天袋に目を向けた。そこに母親の通帳と印鑑と少しの現金が仕舞われているのを仁菜はとっくに知っていた。それらを全部リュックの中につめてしまうと、もうこの部屋には用がないように思えてくる。母親に言えなかったことや聞けなかったことがまだたくさんあったはずだった。それももうおしまいだ。仁菜と家族を繋ぐものはキャリーケースしかなくなった。けれど、キャリーケースの鍵はどこを探しても見つからなかったし、母親が開けるのを見たこともなかった。もしかしたらはじめから鍵なんて存在しないのかもしれなかった。仁菜はクローゼットからコートを取り出した。キャリーケースは何かの役に立つかもしれないし、何かの拍子に開くかもしれない。そんな思いからキャリーケースを掴んで、仁菜はアパートを後にした。外に出るとキンモクセイの強い匂いが仁菜の鼻をついた。

 

 家を出てから、仁菜は一人で生きていくことになる。売れるものは体だけ――という母親の言葉が強く残っていた。売春関係の知識はテレビから得た。とりあえずの金に困ってはいないが、寝泊まりする場所が必要だった。同時に、戸籍のない自分が泊まれる場所などないということも知っていた。

 駅前に行くと、売春婦が立ち並んでいる場所を探した。それはすぐに見つかった。ある歩道橋の一画に、十代くらいの少女が並んでいて、みんなスマホの画面に目を落としていた。仁菜もその列に加わり、様子を窺った。少女たちはひとり、またひとりと相手を見つけて立ち去っていったが、仁菜にはどうすれば自分が売れるのかまではよくわからなかった。仁菜の眼前を通り過ぎていく男たちは汚いものを見るような目を向けた。実際、仁菜はみすぼらしい格好をしていた。髪はボサボサなうえ、脂でぺったりとしていた。化粧なんてしていないし、目つきも悪い。それに毛玉の立って薄くなったジャージの上から母親の派手なコートを羽織っているのだ。けれど、そのときの仁菜には自分の姿がいかにおかしいのかすらわかっていなかった。立ち並ぶ少女たちは仁菜を置いて次々と姿を消した。仁菜がうんざりして地面に腰を下ろすと、一人の少女が話しかけてきた。

「アンタ新入り? そんな体じゃ売れるもんも売れないよ」

 その少女は名前を望といった――記憶を覗いている仁菜の胸がちくりと痛んだ。

 望の話だと、ここいら一帯はある売春チームの縄張りで、そんなところでモグリが商売をしたらシメられてしまうとのことだった。望は仁菜を部屋に連れて帰り、風呂に入れて、お下がりのスマホを渡した。この日から、仁菜と望は共同生活を送ることになった。

 望もまた家出少女で、部屋はチームのボスから又借りしているものらしかった。望は売春で生計を立てていた。売れるものは売ればいい、というのが望の口癖だった。自分にもやらせてくれと仁菜は名乗りをあげたが、お前なんかが売れるかよと望は一笑に付した。どんなに食い下がっても、望は決して首を縦に振らなかった。その代わり部屋をきちんと管理しろと言い渡した。それから、トラブルを避けたいから外には出るなとも告げられた。

 仁菜は再び部屋の中に囚われたが、母親との暮らしとは違う、幸せな時間でもあった。朝に起きて食事をし、望の出勤を見送り、日中にはいくらかのメールのやり取りがあり、望のいない間に部屋を片付けたり洗濯をしたり、望が帰ってきたら出迎えて、一緒に食事をしたり風呂に入ったり。そして夜は眠る。仁菜が初めて手に入れた清潔な暮らしだった。望の仕事は夜にもあったが、大抵は日を跨ぐ前に帰ってきた。望が未成年であることは客も承知していて、補導されると面倒なことになるからだ。

 夜中に目を覚まして、隣に誰かがいる暮らしというのは、仁菜にとって新鮮だったし安心できるものだった。

 ある夜、仁菜が目を覚ますと、望も同じように目を覚ました。部屋にはベッドがひとつしかないから、二人は至近距離で目を合わせた。

「起こしちゃった?」

「いいや」

「なんかさ、誰かと一緒に寝るときって大体セックスしてるから、そういうのが関係ないのって新鮮。お父さんと一緒に寝たこと思い出す」

「アタシにはそんな記憶はない」

「大変な家なんだね」

「そうかな」

「お父さんと寝るときって、くっついてると安心するんだよ。あったかくて、大きくて、それでちょっと臭いの」

「そうなのか」

「うーん、まあ、そんな時期もありました」

「お父さんとはセックスしたの?」

「するわけねーだろバカ!」

 望が吐き捨てるように言い、それから二人で大笑いした。

 仁菜は望に連れられてデパートに出かけ、服を買ったり、好きな匂いのシャンプーを買ったりした。仁菜にとって人生で初めて得た穏やかな暮らしの時間だった。

 あるとき、仁菜はマガジンラックの中にバイロン詩集を見つけた。意味はよくわからなかったが、言葉のひとつひとつになんとなく響くものがあった。仁菜は詩集をラックに戻さずに、常にそばに携帯するようになった。

 そんな穏やかな生活は長くは続かなかった。あるとき突然、望が失踪したからだ。望が消えて動揺する仁菜を見て、美弦は眉根にシワを寄せた。仁菜は部屋を出て、望に関する情報をとにかく集めた。すると売春婦のひとりから有力な情報を得ることができた。この界隈のボスは裏切り者を殺して、その内臓を組織に売り払っているというものだった。あまりにも荒唐無稽な話だったが、当時の仁菜はその噂に縋り付いた。そうでもしないと気が変になってしまいそうだったからだ。望という大切な身内が消えたことに加えて、いまの生活が脅かされることへの不安、将来への不安、望という依存先が消失したことへの抵抗。すべて未成年売春婦という儚い存在を直視することを避け続けたことの結果だ。そいつを見つけたら殺す――それが仁菜の出した答えだった。仁菜は絶望していたが、怒りでなんとか踏みとどまっていた。

 ――去れよ、去れよ、悲しみの調べよ。

 バイロン詩集の一編がどこかから聞こえてきて、仁菜は我に返った。

 ――黙せよ、かつては心を鎮めたひびきよ。

 ――ああ、さもなくば、この世から、私こそ去ろう。

 足を止めた仁菜の目から涙が溢れ出した。仁菜は悲しみを怒りで堪えていただけだった。足を止めたことで、あっけなく悲しみに飲み込まれてしまう。怒りより、怯えより、何よりも先に悲しみがあった。売春婦はいずれ殺される。母のように。なんの脈絡もなく。唐突に。理不尽に。

 母が殺されて、本当は悲しかったのかどうかはもうわからない。けれど、望がいなくなって悲しいのだ。望とは二度と会えないだろうという確信めいた予感があった。仁菜は自分が何も感じることのできない、欠如した、不完全な人間だと思っていた。けれど、今まさに寂しさや悲しみを感じていた。それは誰かを愛おしく思う気持ちの裏返しだ。

 このとき詩集を読み上げていた人物こそが美弦だった。「あなたの絶望が必要だ」と美弦は言った。自分が必要とされている――まるで望を必要とする自分のように。このときから仁菜は美弦と行動を共にするようになった。

 

 仁菜は思いに耽った状態から我に返った。隣にいたはずの美弦はどこにも見当たらなかった。玄関に美弦の靴がなく、きっと外に出ていったのだと思い、仁菜は慌てて扉に手をかけた。

 ところが、扉の向こう側は別の部屋に繋がっていた。アパートの外ではなく、どこかの家の玄関に接続されている。仁菜にはその玄関に見覚えがあった。そこは共鳴で見た美弦の育ったアパートの玄関だった。仁菜は嫌な予感がした。仁菜の記憶にはあまりにも死と絶望が溢れている。仁菜はそんな日常に麻痺しているが、普通はそうではないのだ。お互いに共鳴した状態であれだけの負の思いを喰らえば、自分を否定するほどの思いに飲み込まれてしまってもおかしくはない。仁菜は急いで部屋の中に上がった。

 その部屋の時刻は夕暮れだった。部屋の中にキンモクセイの甘い匂いが重く立ち込めていた。カーテンの開いたままの窓から黄色い西日が差し込んでいた。その西日の中で、振り子のように左右に揺れる影があった。影は天井からロープで吊られていて、輪郭を金色に輝かせながらゆらゆら揺れていた。振り子から生えた二本の足が振れ幅いっぱいまで揺れ、一瞬遅れてスカートが振れ幅に達した。振り子がゆっくりと回転して仁菜の方に向いた。

「うわああああ! お姉様! お姉様!!」

 仁菜は我を忘れて駆け寄った。美弦は天井から下げられたロープに首だけで吊られていて、口から涎を垂れ流し、足元の床は失禁した跡でぐっしょりと濡れていた。仁菜の体は考えるより先に動き出していた。仁菜はまず美弦の足を持って首への負担を軽くし、倒れている椅子を引き寄せて足場にした。美弦は完全に気を失っているようだった。仁菜はポケットからナイフを取り出してロープを切った。ロープから解き放たれた美弦は重力にしたがって落下したが、仁菜が自分の体をクッションにして受け止めた。美弦は呼吸をしていなかったし、脈もなかった。仁菜は恐怖で涙が溢れてきた。手が震えて歯がカチカチと鳴った。けれど、頭の中にある映像がよぎった。テレビで見た人工呼吸のシーンだ。仁菜はそれを忠実に再現しなくてはと思った。まず気道の確保。美弦の顎を上げて鼻をつまみ、二回息を吹き込む。次に心臓マッサージ。美弦の胸の真ん中に両手を当て、肘を伸ばして垂直に強く押す。これを三十回繰り返す。そして再び人工呼吸。これを何度か繰り返したところで、美弦は息を吹き返した。美弦は咳き込んで、喉につまった唾液を吐き出した。なんとか間に合って、仁菜は力無く床に手をついた。床は美弦の失禁した汚物にまみれていたけれど、そんなことは全然気にならなかった。なんとか目を覚まして欲しい一心で美弦の体を撫でさすった。少しでも体が温まって欲しいとの思いからだった。お姉様、お姉様と、自然と口をついた。

「もういいよー!」

 不意に、ひどく明るい、この場にはあまりにもそぐわない声が響いた。まだ小さな女の子の声だった。その声に反応するように、浴室の扉が開いた。

「よーし、どこにいるのかなー?」

 浴室から現れた少女は部屋中に聞こえるように楽しそうな声を上げ、下駄箱や台所の扉を音を立てて大袈裟に開けた。その少女は子供の頃の美弦だった。そういえばと部屋を見回すと、確かに共鳴の中で覗いた美弦の部屋とそっくりだった。美弦が足音を立てながら押入れに近づいた。押入れの中からくぐもった笑い声が漏れた。美弦は一息に襖を開け放った。

「みいつけた!」

「きゃああああ! あはははは! あはははは!」

 途端に押入れの中から嬉しそうな笑い声が響く。

「お姉ちゃんズルい、笑わせようとするんだもん」

「そんなことしてないわよ。陽桜莉が勝手に笑ったの」

「次はお姉ちゃんが隠れる番だからね」

 と、陽桜莉は笑いながら押入れから這い出した。陽桜莉は髪を頭の両脇で二つに結えていて、体に合っていないだぶだぶのシャツを着ていた。シャツの袖から伸びた腕が異様に痩せ細っていた。陽桜莉と呼ばれた少女は、どう見ても幼い頃の仁菜だった。陽桜莉はすっかり埃まみれになってしまっていて、それを見た美弦はちょっと困ったような顔で笑った。

「うーん。その前にお風呂に入ろっか」

「やだー! かくれんぼする!」

「もう、わがまま言わないの。お風呂で水鉄砲しよう?」

 美弦は陽桜莉を抱き抱えて浴室に連れて行った。陽桜莉は足をぶらぶらとさせ、楽しそうに笑った。美弦の口から陽桜莉の名が出るたび、仁菜は複雑な気持ちになった。美弦と一緒に暮らせたらどんなにか楽しいだろうと妄想することはあった。なんの気兼ねもなく甘えることができたら、きっと満ち足りた気持ち――幸せだろう。ちょうど今の陽桜莉のように笑っていたはずだ。けれど、あれは仁菜ではない。仁菜の形をした陽桜莉なのだ。

 浴室からは二人の楽しそうな声が響いていた。扉を開けると、立ち込める湯気の中で、ふたりはおもちゃの水鉄砲で撃ち合っていた。流れ弾が仁菜に直撃したが、そのお湯の温かさに動揺し、居心地の悪さを覚えた。こんなふうにお風呂が楽しかったことなどなかったからだ。美弦からの連射を受けた陽桜莉が最後の手段とばかりにシャワーに手を伸ばし、美弦に向かって放射した。ずるいよ、と言いながら美弦は笑っていた。お風呂の中で小さな仁菜は水ヨーヨーみたいに笑っていた。

 

 風呂から出た美弦はキッチンに向かった。お米を研ぎ、鍋に火をかけて味噌汁の準備をする。身長が足りないので、台の上に立って料理していた。子供二人が食べるにしては量が多かったので、家族の分も作っているのだと仁菜はようやく気が付いた。リビングでテレビを見ていた陽桜莉は、出汁の匂いを嗅ぎつけて物欲しそうな顔で美弦を見た。料理ができあがる頃には時計は六時を指していた。二人はリビングで揃ってテレビを見ていた。時刻は過ぎていき、十時を回ったあたりでようやく父親が帰宅した。父親は無表情で、どこかぼんやりとしていた。おかえりなさい、と美弦が声をかけると、父親は一瞬険しい顔を浮かべて、吐き出してしまいそうになる言葉を噛み殺した。偉いね――と父親は搾り出すように言った。それから、ありがとう、先にお風呂に入ってくるね、と言った。足取りの重い父親の後ろ姿は美弦をいつも不安にさせた。お風呂からシャワーの音に混じって父親の嗚咽する声が響いた。美弦は聞こえないふりをして、テレビのボリュームを上げた。

 日付を跨ぐ少し前に、ようやく母親が帰宅した。母親はただいまを言うよりも早く電気のついている浴室に目を走らせ、美弦が見ていることにも憚らずに大きくため息をついた。母親が浴室をノックするとゆっくりと扉が開き、目を赤く腫らした父親の顔が見えた。

 その日の夜、娘二人が寝静まった頃合いに、夫婦はキッチンで向かい合い、声を殺して話し合っていた。重い雰囲気が立ち込めていた。美弦は襖の閉じられた暗がりの中でリビングに背を向けて、目だけ開けたまま夫婦の会話を聞いていた。

「……まだそんなこと言ってるの」

「……」

「仕事辞めたいって、私たちはどうなるの? ちゃんと考えてる?」

 父親を問い詰める母親のささやき声が低く響いた。

「今だって大変なのに……。美弦はもうすぐ中学生になるのよ。陽桜莉だってまだまだ手がかかるし。お金はどうするのよ」

「もう限界なんだ」

「限界って言われても。私だっていっぱいいっぱいなのに。無責任なことばかり言ってないで、お願いだからもうちょっと頑張ってよ、ねえ」

「……」

「聞いてるの、ねえ?」

 それきり父親の声はしなくなった。母親の大きなため息が聞こえた。

 

「ただいま」

 玄関の扉が開き、ランドセルを背負った美弦が姿を現した。そして部屋に目を向けるなり絶句した。

 天井からぶら下がった振り子が、窓から差し込んだ西日を黒く切り抜いていた。振り子から伸びた影が美弦に掛かって黒く塗り潰した。振り子は手足をだらんと下に垂らしていて、足元の床には汚れた水たまりが広がっている。部屋の中に大便とアルコールの強烈な匂いが立ち込めていて、美弦は口に手を当てて吐き気を堪えた。

 首を吊った人物を父親だと認識して美弦が最初にとった行動は時刻の確認だった。父親から顔を背ける形で壁の時計に目を向ける。陽桜莉がいつ帰ってきてもおかしくない時間だった。こうしてはいられない――美弦はまず父親の足元にレジャーシートを敷き、高枝切り鋏でロープを切断した。父親の遺体はレジャーシートの上に勢いよく落下して鈍い音を立てた。美弦はシートの端を掴んで寝室までずりずりと引きずっていき、布団を敷いてその上にシートを引き上げ、布団の上に父親を残すようにシートを引き抜いた。父親の首は首を伸ばした亀のように変形していたし、ズボンにはお漏らしの染みもあったし、臭いもひどい。美弦は父親の首から下を完全に隠すように掛け布団で覆った。表情も不気味で陽桜莉を怖がらせてしまいそうだったので、口をマスクで隠し、額にタオルも乗せて目を隠した。それから美弦は換気扇を回して窓を開け、消臭スプレーを部屋中にまいた。父親のお漏らしの跡には特に念入りにスプレーした。

 これでよし、あとは――と考えて、電話が目に入った。こんなとき誰に連絡すればいいのだろう。美弦の頭に母親はよぎらなかった。こんなときは救急車を呼ぶとテレビで見た覚えがあった。受話器を取って一一九と番号を打つと、すぐにオペレーターにつながった。

『一一九番、消防です。火事ですか、救急車ですか?』

「……」

 父が死んで――と言おうとしたが、胸がつまってうまく声を出すことができなかった。受話器を持つ手が震えてしまい、もう片方の手でそれを押さえつけた。深呼吸して息を整え、陽桜莉が近くにいることをイメージした。すると、自分がいま何をすべきか自然とわかった。

「父が亡くなりました。首吊りです」

『脈と呼吸があるか、わかりますか?』

「ありません」

『直ちに向かいますので、お名前と住所を教えてください』

「はい。私の名前は平原美弦です。住所は――」

 もし陽桜莉がいたら、慌てふためく情けない姿など見せられない。陽桜莉がいると考えるだけで、指針とすべき人格が心の中でスイッチする感覚があった。

 通報を終えると、音のなくなった部屋の中で急に心細くなってきた。椅子に座っていると、世界が傾いていて斜めにずり落ちていきそうな感覚に襲われた。だから美弦は押入れの中に隠れることにした。押入れの中なら壁に寄りかかれるし、嫌な匂いを嗅がなくていいし、父の死体を目に入れなくて済む、もし陽桜莉が帰ってきたら一緒にかくれんぼをすればいい。美弦はそう自分を納得させて襖を閉じた。

 

 葬式を終えて数日が過ぎた。「ただいま」と玄関から美弦が声を掛けた。キッチンでは母親が腕を枕にして、顔を隠すようにうつ伏せていた。傍には骨壷が置かれていた。今朝、美弦が「いってきます」と声をかけた時も、母親は今と同じ姿勢でうつ伏せていた。美弦は母親に何も言ってやることができなかった。

 朝、美弦は陽桜莉を起こして、食パンを二枚トーストする。付け合わせは目玉焼きだったりジャムを塗るだけだったり、ハムときゅうりを挟んでサンドイッチにしたりと色々だ。美弦は手早く食べ終えて、早足で陽桜莉の背中に周りこみ髪を梳く。それから一本編み込んで横に流してやる。こうすれば髪で目が隠れにくくなるし、やんちゃな陽桜莉にちょうどいい髪型だ。けれど少し髪が伸びてきたみたいだし、そろそろカットしてあげなきゃいけないな。それから美弦は陽桜莉の尻を叩いて服を着替えさせ、登校の準備をし、忘れ物がないかチェックして、いってきますと声をあげる。扉を開けて振り返ると、母親は椅子に座ったままぼんやりと窓の外を眺めていた。学校から帰って来ても、部屋の中は出ていった時とほとんど変化がなかった。骨壷はテーブルの上に置かれたまま位置を変えなかった。父親の食器や髭剃りは誰にも触れられることはなく、玄関に出されたままの革靴はしまわれることなく、冷蔵庫に貼られたメモは剥がされず、父親の席だった椅子は引かれることなく日々が過ぎていった。早回しのように目まぐるしく変化し続ける世界の中で父親の痕跡と母親だけが取り残されていた。

 美弦は浴室で陽桜莉の髪にハサミを当てていた。立ち読みした雑誌から見よう見まねで髪を切り揃えていく。ただ切っただけだと重い印象になるからすきバサミも入れてやる。切り終えてシャワーをかけてやると、自分の目線が少し高くなっていることに気付いた。美弦はいくらか背が伸びていたし、美弦ほどではなかったが陽桜莉の背も伸びていた。陽桜莉はシャンプーを泡立てて頭からツノを生やし、自分の顔を鏡に映して大きな声で笑った。美弦が自分の髪をすべて前に垂らしてお化けの真似をすると、陽桜莉は嬉しそうに悲鳴をあげた。風呂から出ると、母親は机の上に肘をついて骨壷に目を落としていた。骨壷を責めるような目からは今にも涙が落ちてきそうだった。それを見て陽桜莉は表情を少し翳らせて、悟られまいとするようにすぐに笑顔を浮かべた。美弦はそんな陽桜莉の背中に手を当てた。

 ある日のことだった。美弦が学校から帰宅すると、玄関にカレーのいい匂いが立ち込めていた。キッチンに母親が立っていた。

「美弦、帰ってきたのね。おかえりなさい」

「ただいま、お母さん」

 美弦がいつもの流れで電気のスイッチを入れると、電球は一瞬まばゆく輝いて消えた。

「あら、電球切れちゃったのね」

 母親が言った。思いがけず明るい声で、美弦はこの声をどれくらいぶりに聞いただろうと思った。

「電球も蝋燭と同じなのね。消える前が一番明るい――美弦、お母さんちょっと電球買ってくるから、あとお願いしていい?」

 母親はエプロンを外しながら言って、小さなカバンを脇に抱えた。

「うん、わかった。いってらっしゃい」

 美弦は母親の脱いだエプロンを頭から被った。キッチンの前に立って玄関を見ると、母親はもう扉を出た後だった。

 それきり、母親が家に戻ってくることはなかった。

 

 母親が蒸発して、美弦と陽桜莉の二人きりの生活がはじまった。通帳と印鑑が残されていたので当面の間、お金の心配はなかった。

 必要な支払いはほとんど自動引き落としになっていたから、美弦は通帳に記載された内容と領収証をチェックするだけで良かった。両親が留守にしがちな家庭だったので、食費は冷蔵庫に貼られた封筒に入っていて、美弦はそこからやりくりしていた。だからやり方は今までと同じ、銀行からお金を下ろして封筒に入れておけばいい。買い物のついでに日用品も買い足しておく。毎日少しずつ減っていく口座残高を把握するため美弦は家計簿を付けるようになった。けれど、手間はほとんど変わっていないはずなのに、美弦は精神的な負担を感じていた。それはスーパーの中で自分と同じくらいの女子が母親に甘えているところを見たときやスーツを着た会社員に混じって銀行のATMに並んでいるとき、家計簿に小学生女子の平均的お小遣いよりはるかに高い金額を記入するときに強く感じた。そういった不安や葛藤を相談する相手が美弦にはいなかった。陽桜莉に言って同じ思いをさせるわけにはいかなかったし、そんなことをしたら緊張の糸が切れてしまうだろう。美弦が気を張っていなければきっと駄目になってしまう。

 叔母からは定期的に連絡があり、面倒を見る準備があると打診されていたが、陽桜莉にはまだまだ母親が必要だった。いま住んでいるアパートも叔母夫婦の助力で借りられたものだったから少しの負い目もあった。母親がいつ帰ってきてもいいようにこの場所を守らなければならないし、何より陽桜莉を手放すわけにはいかない。だから美弦はいつも感謝の意を述べて、それから叔母の誘いを断るのだった。

 仁菜はそんな美弦の姿を見て、あるとき突然いなくなってしまった望のことを思い出した。望もこんなふうに生活を守りながら苦しんでいて、その悩みを自分に打ち明けることができなかったのだろうか。あるいは美弦の母親のように、限界が来てしまったのだろうか。仁菜の母親が死んで世界にたった一人で放り出された時、美弦や望のように何かを守らなければという思いが仁菜にはなかった。仁菜の心の中には美弦と二人で暮らせる陽桜莉を羨む気持ちと、何もわからずに日々を送っていた今までの自分を悔いる気持ちがせめぎ合った。

 

 美弦はちょっとした発熱や体調不良など、自分の身体の不調は極力無視した。その代わり陽桜莉の様子には敏感だった。陽桜莉は体が丈夫だったからあまり病気になることもなく、発熱よりは擦り傷をよく作った。陽桜莉が一度高熱を出したことがあった。美弦は風邪薬を飲ませて様子を見たが、もし酷くなるようなら病院に連れて行かなければならないし、そうなると叔母の力を借りなくてはならないだろう。そんな心配をしていたが、このときは幸いにも熱が引き、事なきを得た。けれど、いつか子供の力だけではどうにもならない時が来るだろう。そのときはどうすればいいのか、美弦は答えが出せずにいた。

 ある日、美弦は腹痛を覚えて、キッチンの椅子によろけながら座った。陽桜莉が寝室の机からこちらを振り返ったので、美弦は何事もないというように笑顔を見せた。自分の身体の不調は今まで無視してきていたけれど、全然引いて行かない痛みに美弦は不安を覚えた。自分が倒れてしまったら陽桜莉はどうなるのだろうという類の不安だ。そんな不安を振り払おうとするように、美弦は机に両手を置いて立ち上がった。すると内腿から違和感がつたい落ちた。見ると、椅子に血が染みを作っていた。美弦は慌ててトイレに駆け込んだ。下着が血で汚れていて、美弦は生理がはじまったことを知った。戸棚を開けると母の使っていたナプキンが袋で残っていて安堵したが、取り出そうとして一枚当たりの値段が気になった。トイレから出て汚れた下着を洗濯機に入れる。「お姉ちゃん、どうしたの」と尋ねる陽桜莉に美弦は「なんでもない」と笑って答え、替えの下着を手に取って浴室に逃げ込んだ。生理が二人の生活を狂わせはしないかと、嫌な未来予想図ばかりが浮かんだ。血まみれの姿を見せて陽桜莉を怖がらせはしないだろうか、お腹が痛くて陽桜莉に八つ当たりしてしまわないだろうか、余計な出費は抑えなければいけないし――と考えを巡らせるうち、生理に弱さを暴かれてしまいそうな気がしてくる。生理のことも美弦の抱える弱さのことも陽桜莉にだけは隠し通さなくてはならない。けれどもし、陽桜莉が生理になったそのときは、姉としてきちんと対処を教えてやることだってできるのだ。と、美弦はポジティブに転換した。美弦は日々起こる変化に際し、陽桜莉を支えにすることで立ち向かっていた。陽桜莉を守ると決めた美弦は、同時に陽桜莉の存在に救われてもいた。この日、美弦は陽桜莉を風呂に入れてやりながら、自分は湯船を遠慮した。

 

 幾度かの季節が巡り、美弦は高校生になっていた。陽桜莉が月ノ宮女子寮に入寮したことで、部屋の中からいくらか荷物は減っていた。帰宅した美弦はキッチンの椅子に腰掛け、肘をついて部屋を眺めた。綺麗に片付いてはいるけれど、がらんとしていて物悲しい。時が止まったようになんの物音もしなかった。日が落ちて、部屋が暗く沈むと、美弦は電気のスイッチを入れた。一人で食事をするようになると、料理はあまりしなくなり、買ってきた弁当で済ますことが増えた。チーンという電子レンジの音が静かな部屋の中にこだまする。

 陽桜莉を寮に送り出した日に自分の役割は終わったと感じた。陽桜莉が元気でやっていることで確信に変わった。陽桜莉にはもう自分が必要なくなったのだ。これからも陽桜莉は成長し続けていくだろう。輝かしい未来が待っているはずだ。美弦は変わり続ける陽桜莉に思いを馳せながら、部屋の中にたったひとり取り残されていた。自由な時間が増えたところで何をしていいかわからなかった。自分というリソースをすべて陽桜莉に捧げていたので、友達は作らなかったし、趣味らしい趣味も特になかった。料理は得意だったが、食べさせる相手はいない。

 玄関には残された父と母の靴が下駄箱の一番前に入っていた。トイレには母親の生理用品と父親の読みかけの本が置いたままだ。浴室にはいい匂いのする少し高級なシャンプーと髭剃りが、食器棚には家族四人分の茶碗が、冷蔵庫には缶ビールと使い方のわからない母親の好きだった香辛料が。押入れには四人分の布団が入っているし、窓際にある観葉植物だってまだ枯れていない。柱には無数の線が引かれているし、壁には陽桜莉の落書きを消した跡があるし、襖は穴を補修してあった。両親の服は衣装ケースに入ったままだし、CDだって売らずに取ってあるし、アルバムを開けばそこには家族四人がいつだって笑っていた。これが美弦の世界のすべてだった。この部屋には美弦のすべてが詰まっていた。陽桜莉がどんな人間か、陽桜莉の好きなもの、陽桜莉の未来についてはすぐに思い浮かんだ。けれど美弦は自分がどんな人間か、自分の好きなものは、自分の未来についてまるで見えてはこなかった。決して部屋に執着しているわけではなかったけれど、どこにも足を踏み出せぬまま時間だけが過ぎていった。冷蔵庫に貼られたままの父のメモが黄ばんでいた。

 

 ある日、美弦が帰宅して玄関のスイッチを入れると、電球は一瞬まばゆく輝いてふっと消えた。部屋は夕暮れ時で薄暗く、西日が窓から低く差し込んでいた。どこからかキンモクセイの匂いが漂っていた。美弦は部屋に上がってキッチンの椅子に腰を下ろした。部屋にはなんの音もなかった。美弦が身じろぎした衣擦れの音は、厚い空気の層の間で圧縮されて、仁菜の耳に届く前に止まって消えた。仁菜は美弦から目が離せなかった。美弦は机に肘をついたまま長いこと動かずにいて、それからいきなり自然な動作で立ち上がった。美弦はどこかぼんやりとした目をしていて、それでいてちゃんとした足取りで玄関に向かい、扉を開けて外に出ていった。

 電球が切れたから買いに行くだけだ。きっとそれだけのはずだ――。

 仁菜は自分に言い聞かせたが、嫌な予感は拭えなかった。

 不意に、息を吹き返したような音がした。足元に目を向けると、眠ったままだった美弦の目が開いていた。何かを決意したような目だった。

「お姉様、目が覚めたんですね。大丈夫ですか、どこか痛むところや気分がすぐれないなどは……お姉様――?」

 美弦は仁菜の問い掛けが聞こえていないかのように、寝室の方へ顔を向け、空中の一点を見つめていた。仁菜もそちらに顔を向けると、天井から輪になったロープがぶら下がっていた。ロープは西日の光芒を丸く切り抜いていて、黄泉への門を開ける不吉な鍵穴のように見えた。仁菜の頭の中で、今まで見てきた光景全てが繋がっていった。仁菜の母親は痴情のもつれから刺し殺された。望は体を売る日々の中で突然失踪した。美弦の父親は絶望して首を吊って死んだ。母親は何も言わずに失踪した。自分は置き去りにされたのだ。そして今、誰からも必要とされなくなった。記憶が芽吹いて絡み合う羊歯のように織り交ざっていく。もつれた記憶はもう元の姿には戻らない。美弦は絶望していた。

 美弦が床に広がる汚物に手をついて立ち上がった。目はロープの輪を見つめている。

「お姉様、ここから出ましょう。もう十分です、アタシ達には使命があるんでしょう!?」

 仁菜が声をかけたが、美弦の耳には届かない。美弦は足を一歩踏み出した。

「お姉様はアタシの絶望が必要だと言ってくれたじゃないですか。あの言葉は嘘だったんですか!」

 仁菜は叫んで、思わず美弦の手を掴んだ。けれど仁菜の体はまるで摩擦のない床を滑るように、なんの抵抗もできずあっけなく引きずられてしまった。

「お姉様、お姉様! しっかりしてください! そっちに行っちゃダメだ!」

 仁菜は両手を美弦の腰に回して両足で踏ん張ろうとしたけれど、足の裏にスケートを履いたみたいに床の上を滑ってしまう。美弦の目は輪だけを見つめていて、歩みを止めることなく一定の速度で進んでいく。敷居につま先を掛けて抵抗しようと試みたが、摩擦は発生せずにするりと抜けてしまう。柱に手を鉤の形で引っ掛けてもあっけなくこじ開けられて、爪を立てても表面をつるつるとなぞるだけだった。それら仁菜の抵抗に美弦は気付いてもいなく、頑張りは徒労ですらなかった。そして、ついに美弦は足場に辿り着き、上に乗ってロープの輪に手を掛けた。

 美弦が死ぬ――この世にこんなに恐ろしいことがあるだろうか。もう二度と話すこともできない。未来も全て消え去ってしまう。過去は常に痛みをともない、記憶の中の死者は時に美しく、時に醜く、残酷にその姿を変える。心から引き剥がされた後には大きな穴が残り、その穴は決して埋まることがない。愛した者を思い出すたび痛みに胸が締め付けられるのだ。

 美弦の終わりが仁菜の目と鼻の先まで迫っていた。ロープにナイフを当てても表面を滑るだけだった。どんなに叩いても美弦の体は微動だにしない。仁菜は美弦の腰に縋り付いて狂ったように叫び続けていた。美弦の死に、自分が関われないことがひどく悔しかった。無力だった。必要とされないことがこんなに悲しいことだなんて知らなかった。どうすれば自分を殺すことを止めてくれるのだろうか。どうすればこの声が届くのだろうか。

 そのとき、記憶の底から美弦の声が聞こえてきた。聞く者の気持ちを落ち着けて、悲しみに寄り添うような声だ。一緒に泣いてくれる声だ。だからもし美弦が泣いているなら、そばにいて一緒に泣いてあげたい。立ち上がれないなら一緒に座ってあげたい。

 

「――去れよ、去れよ、悲しみのしらべよ

 黙せよ、かつては心を鎮めたひびきよ

 ああ、さもなくば、この世から、わたしこそ去ろう

 この調べを、またと信ずることはないのだ 

 それは、ただかがやかしかった過ぎた日のことのみを囁く

 ああ、絃をゆるめよ、いまばかりは私は

 考えてはならぬ、またみつめてもならぬ

 この心の今を、――また過ぎた日の心を。」

 

 美弦の手がいつの間にか止まっていた。輪に手を掛けたまま、仁菜の声に耳を傾けているようだった。

「……お姉様?」

 名前を呼ばれて美弦はびくんと体を震わせて、ゆっくりと仁菜の方に顔を向けた。美弦は怯えたような、差し違える覚悟を決めたような顔をしていた。見たことのない恐ろしい形相だった。そんな美弦の目が仁菜を認めると、途端に表情がやわらいだ。

「あら、陽桜莉。帰っていたのね。おかえりなさい」

 学校はどうだった――と言いながら美弦はゆっくりと足場を下りた。

「お姉様!」

 仁菜は美弦に抱きついた。足が地をしっかりと踏み締めている感覚があって、今度こそ絶対に離さないという気持ちが心の底から湧き起こる。

「あらあら、今日は甘えん坊さんなのね。よしよし」

 そう言って美弦の手が仁菜の頭を優しく撫でた。

「大丈夫、大丈夫よ。お姉ちゃんはどこにも行かないからね」

 うん、うん、と仁菜は鼻声で頷いた。自分の名前が仁菜だろうが陽桜莉だろうが、そんなことはどうでも良かった。とにかく生きていてくれさえすればいい。未来に繋がっていくならアタシはなんだってする。お姉様の絶望はアタシの絶望だ。

 

 人が死ぬということがアタシにはわからなかった。

 でも今ならわかる。人が死ぬということはとても恐ろしいことだったんだ。

 母親が死んでも何も思わなかったし、望が消えた時は悲しみよりも先に怒りがあった。でも本当は悲しまなくちゃいけなかったんだ。今でも母親のことはなんとも思えないけれど、望に黙って置いていかれたことで、お姉様の気持ちが少しだけわかった。お姉様にとって必要とされないことは自分の存在を否定されることと同じなんだ。母親に死なれても何も感じなかったアタシとお姉様では根っこのところではきっと全然違っている。それでも構わない。アタシにはお姉様と重なる記憶なんかない。そこが陽桜莉とは違うところだ。だからアタシにしかできないことがきっとある。アタシはお姉様を止めることができる。そう信じてる。たとえ乱暴でも、無神経だったとしてもいい。我が儘だと罵られたって構わない。アタシはアタシのするべきことをするだけだ。

 アタシは自殺なんかしない。お姉様を残していなくなったりしない。アタシはお姉様を絶対に死なせたりはしない。アタシにはお姉様が必要なんだ。

 仁菜は美弦の胸に顔を埋めながらそう誓った。

 顔を上げると、うっとりと落ち着いた表情で美弦が仁菜を見ていた。

 細く開いた窓の隙間からキンモクセイの香りが漂って、仁菜の鼻先をかすめて消えた。

 

(了)


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