深夜0時を過ぎて、今夜はここまでにしようと伶那はパソコンの電源を落として「うーん」と背伸びをした。今夜の進捗ヨシ。伶那が屋上部屋の電気を落とすと、月の光が降り注いで世界中を青く浮かび上がらせていた。今夜はいいことがありそうだ――そんな予感を胸に階段を下っていると、どこかから漂う甘い匂いが伶那の鼻先をかすめた。甘い匂いをたどって廊下を練り歩き、足音を殺してみんなの寝ている教室の横を過ぎ、やがて作業室の前に辿り着いた。作業室は電気がついていて、耳を澄ますと中からわずかに物音がしていた。
(こんな時間に……誰?)
伶那が訝しんでいると、中の物音が不意にやみ、不気味な沈黙がその場に立ち込めた。そして、いきなり扉が開かれた。
「あ、なんだ、伶那ちゃんだったのか」
責めるような顔で扉を開けたこころは、伶那だと知るや否やすぐに表情を普段のやわらかなものに変貌させた。けれど扉に掛けた手は離さない。伶那にはその姿が門を守る金剛力士の仁王立ちに見えた。
「靭さん……。こんな時間になにやってるの?」
「うーんとねえ。あ、そうだ。これあげるね」
後ろ手からすいっと差し出したこころの手にはチョコレートが一片乗っていた。
「? うん、ありがと」
伶那は疑うことなくそのカケラを口に放り込んだ。
「食べた? 食べたよね。じゃあ中に入って」
こころが笑って体を半身ずらし、伶那を室内へと誘う。伶那が室内に完全に入ったところで、こころは扉を閉めた。
作業室ではチョコレートの甘い匂いのなかにアルコールの匂いが混じっていた。作業台の上に並ぶボウルの間に琥珀色の酒瓶が見える。
「このチョコレートってたしか春日さんが使いたいって……。それにお酒まで」
伶那は酒瓶を手に取ってまじまじと眺めた。製菓用ではない四十度のブランデーは半分ほどなくなっている。伶那はこころに疑いの目を向けた。
「たまにね、ちょっとだけ」
「――まったくもう。こんな夜中にコソコソと何をしてるのかと思えば……。どうなっても知らないからね」
「ふふふー。伶那ちゃん、さては気付いてないね」
「気付くってなにを?」
「伶那ちゃんはもう共犯なのだ」
共犯――? と伶那は言いかけて、口の中に広がる甘みに気がついた。ほのかな苦さの中に芳醇な洋酒の香り。上品な甘さと香りが長い余韻を残している。
「これは……! う、靭さんが無理やり食べさせたんじゃない!」
「こんな時間に、二人きりで、作業室で、無理やり食べさせられた――そんな見えすいた言い訳を聞き入れてもらえるといいねえ」
「ひどい! 騙したのね!」
「ふふふ、伶那ちゃん。誰にも気付かれなければ、何も起こっていないのと同じなんだよ」
やられた――明日のことを考えると今から頭痛がする。と、伶那がこめかみに指を当てていると、こころが口の前に人差し指を立てて「しーっ」と合図をした。こころは油断なく視線を窓と扉に走らせて、扉に狙いを定めて体を前に傾けた。次の瞬間、恐るべき速度で移動して、まばたきする間に扉の前に立っていた。伶那の目には空間が歪んで、こころが床をスライド移動したように見えた。これが縮地――こころの移動を目の当たりにして伶那はようやく合点がいった。さっき私はこれを食らったのだ。
こころが扉を開け放つと、そこには詩が立っていた。詩は小首を傾げて手を小さくこちらに振った。まるで扉が開くのを待っていたようにも見えた。
「詩ちゃん。こんな時間にこんなところで何をしてるのかな?」
こころが言った。声は笑っているのに、どこか威圧するような気配があった。
「それはこちらのセリフです。私はなんとなく眠れなかったので散歩していただけ。靭さんは?」
「私は……そう、お腹が、お腹がすいちゃって!」
「あら、そうでしたか。で、宮内さんはどうされたんですか?」
詩はこころが横に伸ばした腕の上から顔を覗かせて、作業室の壁に張り付いている伶那に向かって問いかけた。
「わ……私は、その――」
伶那は咄嗟にうまい嘘が出てこなくて言い淀んでしまった。チョコを盗み食いしたことやお酒を飲んだことは伏せたかったけれど、じゃあそれまで何をしていたかと問われると、屋上部屋でパソコンを使ったアレやコレやが浮かんでくる。それだけは絶対に隠さなければいけないのだ。
「ま、いいです。ところで入ってもいいですか?」
「ダメ! ダメだよダメ! もう片付けて帰るところなんだから!」
「あら残念。せっかくチョコを頂きにここまで来たのに――あるんですよね、『春日さんのチョコレート』?」
詩の口の端が底意地悪く吊り上がる。ぐぬぬと、こころが後ろ姿で声を漏らし、歯軋りの音が鳴り響いた。
「あら、チョコレートがこんなにたくさん。それにお酒まで。二人とも本当に悪い子ですね!」
詩は作業室を見渡して、言葉とは裏腹に嬉しそうな声を上げた。
「ああやっぱり。春日さんが大切に取っておいたチョコレートがもう半分も無くなってるじゃありませんか」
詩は冷蔵庫を開けて、製菓用チョコレートの入っている袋を鬼の首のように掲げて見せた。
「いいから座ってよ。これがご所望のチョコレート。食べたらさっさと帰ってよね」
伶那がため息をつきながら詩に皿の上のチョコレートを勧めた。
「では遠慮なく」
詩も椅子に腰を下ろしてチョコレートを口に放り込み、それから酒瓶を無造作に掴んで中身をグラスに注いだ。
「えっ! ちょ、ちょっと! あなたまさかそれを飲む気!?」
「もちろん。お二人は飲んでらっしゃらなかったのですか?」
「お酒なんて飲むわけないでしょ!」
「あら残念、おいしいのに」
「だめだこの人、話が通じない。お願い、靭さんからも――」
言ってやってよ――そう頼もうと伶那が後ろを振り返ると、口をすぼめて生唾を飲み込みながらグラスを大事そうに抱えているこころが目に入った。
「アンタも飲むのかい!」
「毒をくらわば皿まで、だよ!」
「いや意味わかんないし」
「宮内さんは飲まれないんですか?」
詩は手慣れた調子でこころのグラスに酒を注ぎながら言った。アルコールのいい香りが立ち上る。
「えー……。いや、私は……」
「私たちは一蓮托生の共犯関係。ここで起きたことは他言無用。すなわち『ここでは何も起きてはいなかった』んですよね?」
「まあそうだけど……」
「それに、焼き上がるまでもう少し時間がかかりそうですし」
詩がオーブンに目をやった。百八十度に設定されたオーブンのタイマーがカチカチと一秒ずつ減っていく。
「ああもう、わかったわかった! 毒をくらわば皿まで! 了解!」
伶那はギブアップとばかりに立ち上がりシンクからグラスを取ってきた。
「でもさ、靭さんてすごいよね。ケーキをササっと自作できちゃうなんて」
伶那がブランデーをちびりとやりながら言った。他意のない言葉だったが、それを聞いたこころは眉間に皺を寄せ、口の中に残るチョコレートの余韻をブランデーで流した。
「出た出た、無自覚な都会自慢。あーあ」
「なによそれ。別に自慢なんかしてないってば」
「してるよ。どうせ田舎者はオシャレなチョコレートなんか買えませんから。自分で作るしかないんですよーだ」
こころは言い終えてすぐにブランデーを一口含んだ。
「ちょっと、なにヤケになってるのよ。もしかして酔ってる?」
「別にー」
「靭さんは都会への憧れが強すぎる」
「自分で作るより買ったほうが絶対おいしいもん。そりゃあ憧れますよ。お店が多いってことは選択肢が多いってこと。いいなあ、わたしも伶那ちゃんみたいな都会人の余裕が欲しいなあ!」
「絡み酒かあ……」
伶那は苦笑いを浮かべながら、こころの妬みになんとなく共感していた。伶那にだってなりたい自分への憧れがないわけではない。素直で明るくて場の雰囲気を変えてしまうようなムードメーカーに、はたまた常に沈着冷静でその場に最適な行動が取れる屋台骨のような人に。けれど自分にはそんな素質はないと思っていた。自分は自分にしかなれない。だからこそ憧れるのだ。伶那は理想の自分を夢想することがあった。その世界で伶那はみんなから素直で明るい人だと思われていた。また別の世界では常に意見を求められる頼れるリーダーのような自分を想像した。自分は変わっていないのに、周りが憧れを叶えてくれる、そんな都合のいい夢だ。
「靭さんも都会人になれるかも」
「なにそれ」
「あのね、こんな話があるの――」
そう言って、伶那は語り始めた。
あるところに三人の息子がいました。あるとき父親が亡くなって三人は遺産を相続することになりました。長男には家が、次男にはロバ、三男には余り物の猫が与えられました。このままでは飢え死にしてしまう、猫を食べてしまったら何も残らないと嘆く三男に猫は言いました。「心配いりません。私に袋と、薮を歩いても平気な長靴をください」。靴と袋をもらった猫は、手始めにウサギを袋に捕まえて王様に献上しました。そのときに三男を「我が主人であるカラバ侯爵から言いつけられまして、王様に献上するために持ってまいりました」と紹介を交えて言いました。王様はそれを受け取って「帰ったらカラバ侯爵にわしの感謝の気持ちを伝えて欲しい」と言いました。こうして王様と仲良くなった猫は、あるとき王様が姫と一緒に川辺にやってくることを聞きました。猫は三男に裸で川に入るよう言って、王様がやってきたタイミングで「誰か助けてくれ! カラバ侯爵が溺れているんだ!」と叫びました。王様のお供の者が三男を川から引っ張り上げると、丸裸の三男が現れました。猫は「泥棒に服を盗まれてしまったのです」と王様に言いました。本当は大きな石の下に服を隠しておいたのです。王様はさっそくお供に命じてカラバ侯爵のために立派な服を用意しました。王様の服を着た三男はどこから見てもやんごとないカラバ侯爵そのものでした。侯爵となった三男が姫に情熱的な視線を送ると、すぐに姫は恋に落ちました。それから王様は侯爵に一緒に馬車に乗るよう言いました。そこで猫は馬車の先回りをして、野原で草を刈る百姓たちにむかって言いました。「これこれ、もし王様のご質問があったら、この野原はカラバ侯爵様の領地でございますと、左様に申し上げろ。その通りに言わなければお前たちは細切れにされてしまうぞ」。やがて王様が野原に到着し、草を刈っている百姓たちにこの野原は誰のものかとおたずねになりました。すると「カラバ侯爵様のものでございます」と百姓たちは声を揃えて言いました。その先にある麦畑でも猫は同じことをしました。王様はカラバ侯爵が広い領地の持ち主だとすっかり思い込みました。最後に猫はあるお城にやってきました。そのお城の主は人喰い鬼で、どんなものにでも変化する能力を持っていました。猫はまず、百獣の王ライオンに変化できるか尋ねました。もちろんだと言って人喰い鬼はたちまちライオンに姿を変えました。それを見て猫は大袈裟に驚いて見せました。次に猫は、とても小さなハツカネズミに変化できるか尋ねました。きっと無理でしょうけれどと人喰い鬼のプライドを刺激するような言葉も添えました。人喰い鬼は猫の思惑通りハツカネズミに変化して、それを見た猫はたちまち飛びかかって食べてしまいました。やがて王様たちがやってきて、猫は馬車の前に駆けつけてこう言いました。「これはこれは王様。カラバ侯爵様のお城にようこそおいでくださいました!」。こうして貴族として認められた三男はお城を手に入れ、お姫様と結婚したのでした。めでたしめでたし。
「どう、わかった?」
「わかったって、なにが?」
こころがぼんやりとした目で聞き返した。
「だからさ、みんながこころを都会の人扱いすれば、こころは都会の人になれるっていうこと」
「いや、わたしがなりたいのはそういうのじゃなくて……」
「つまり、環境が人を作るということよね。だからもし靭さんが私に、その……憧れてくれているなら、私と一緒にいれば都会の人ってことになるんじゃない?」
伶那は決まったとばかりに指を一本立てた。けれどこころの反応は芳しくない。
「私も似た話を知っていますよ」
詩が言った。詩は伶那とこころの視線が自分に集まるのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。
むかしむかし、あるところに、すぐにお腹をすかせてしまう子どもたちがいました。お母さんは子どもたちにパンケーキを焼いてやりました。「お母さん、早く食べさせて」と一人の子どもが言いました。「ねえ、わたしにもたべさせてよ、きれいなおかあさん」と、もう一人の子どもが言いました。「ねえいい人できれいなおかあさん」と別の子どもが。「ねえいい人できれいでやさしいお母さん」とさらに別の子どもが。「ねえいい人で綺麗でやさしくて世界一のお母さん」と別の子どもが言いました。お母さんがパンケーキをひっくり返そうとすると、パンケーキはフライパンから飛び出して、クルクル回りながら戸外へ走って行きました。パンケーキは転がりながら、道をてくてく歩く男の人に会いました。「おいしそうなパンケーキ、そんなに急いでどこにいくの、食べてやるからさあお待ち」。パンケーキは耳を貸さずにクルクルと逃げ出しました。続いてパンケーキはメンドリに会いました。「おいしそうなパンケーキ。食べてあげるからちょいお待ち」。パンケーキはすごい速さで逃げ出しました。こうしてパンケーキはお母さんと子どもたちとてくてく男とメンドリからうまいこと逃げ切りました。すると一匹の豚に会いました。「こんにちは、パンケーキ」。「こんにちは、でっぷりブタさん」。パンケーキは言うや否や逃げ出しました。すると豚が言いました。「おーい、待ってくれ、そんなに急がないで、いっしょに森を散歩しようよ。一人より二人の方が楽しいよ」。パンケーキはなるほどと思って豚と一緒にゆっくり歩くことにしました。すると川に出ましたが、どこにも橋がありません。豚は川を泳げるので、こう言いました。「いいこと考えた。僕の鼻の上にお乗りよパンケーキ。僕が川を渡してあげる」。パンケーキは急いで豚の鼻の上に乗りました。「ブーブー」。豚は喜んで鼻を鳴らすとすぐに「ぱくん!」とパンケーキを食べてしまいました。おしまい。
「ということです」
詩は語り終えると、首を上に傾けてグラスに残ったブランデーを飲み干した。
「何よそれ。まるで嘘つきに注意しろって言ってるみたいじゃない」
伶那は腕を組んで、尖った声を詩にぶつけた。詩はその声を受けて、気持ちいいときの猫がするみたいに体をくねらせた。
「そうね、伶那さんに食べられないように気をつけないとですね、靭さん」
「どういう意味よ」
「他意はありません」
伶那の目から電光がほとばしる。その光が詩の目に吸い込まれ、つながった視線がバチバチとスパークした。
――チーン!
「あ、焼けた」
こころが嬉しそうに立ち上がってオーブンに駆け寄った。扉を開けるとたちまち焼きたてのブラウニーの甘い香りが部屋中に広がった。
「おいしそうな匂い。ね、伶那さん」
詩は伶那の隣に座り直して、空いたグラスにブランデーを注ぎ足した。それから伶那に向かって酒瓶を傾けると、伶那は拗ねたような顔をしながらグラスを差し出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
翌朝、作業室から一番鶏のような詩帆の絶叫が校舎中に響き渡った。伶那が慌てて駆けつけると、冷蔵庫の前に立つ詩帆のほかに愛央と勇希がいて、何やら詩帆に説明をしているところだった。
「だから、これは怪異なんだって!」
「そうそう。雫世界七不思議がひとつ、満月の夜には食べ物が消える伝説!」
「いやでも、チョコレートだけ消す伝説って……」
詩帆はそう言いながら、空っぽになった袋を手に掲げた。
伶那は「おや?」と思った。製菓用のチョコレートは、昨夜は確かに半分以上残っていたはずだ。それに、あの後やっぱりみんなで食べたほうがいいと思い直して、ブラウニーも半分ほど冷蔵庫にしまっておいたのだ。けれど冷蔵庫の中からブラウニーは皿だけのこして忽然と消えていた。
いや、消えたってことあるかい!
伶那はピンときた。愛央と勇希が食べたんだ。それ以外にありえない。この予感には確信があった。絶対といってよかった。だから、それだけに、この状況は伶那にとって非常にまずいものだった。
だって私も食べたんだもん。お酒だって飲んだ。
『みんなに黙って食べたけど、ちゃんと残しておいたし、きっと愛央と勇希が全部食べちゃったんだよ』
――春日詩帆はこんな言い訳が通用する相手だろうか?
『でも、食べたんですよね?』
そんな言葉が聞こえてくるようだった。
『――そんな見えすいた言い訳を聞き入れてもらえるといいねえ』
昨夜のこころの言葉が頭の中で残響する。
――このままじゃ共犯になってしまう。
伶那は腕を組んで考えを巡らせた。早く何か言わなければいけないのに、うまい言葉が出てこない。伶那の背中を冷たい汗がつたった。
「……そういえば、夕べ怪しい影を見た気がする」
伶那がおずおずと口を開いた。一か八かの賭けだった。
「本当に?」
詩帆が伶那に言った。尋ねると言うよりも詰問するような口調だった。詩帆の目の下には黒いクマができていた。もう後戻りすることなどできない。伶那は覚悟を決めた。
「うん。そいつは……大きな猫みたいなやつで……サンタさんみたいな袋を担いでて……二足歩行で歩いてて……足にはブーツみたいなのを履いてペタペタ歩いてた。で、校舎を出て線路の上を歩いて海の方に消えてった」
伶那はなんとか説明を終えたが、詩帆の目から疑いの光は消えていかない。
「ねっ、ねえ駒川さん。あなたも見たよね!?」
急に話を向けられて、詩は獲物を見つけた猫のように瞳孔を開かせた。嫌なやつに借りを作ることになってしまうが、やむを得ない。
「そうですね。確かに見ました」
ええ、ええ、と頷く詩にも詩帆は疑いの目を崩さない。愛央と勇希もどうなることやらと、まるで他人事のように固唾を飲んで見守っていた。
「とにかく! これからココロトープに行ってチョコレート狩ってくるから、それでいいでしょ。ね、春日さん?」
伶那は詩帆の背に手を置いて、優しく諭すように言った。
「違うんです……。犯人を責めたかったんじゃなくて、私……みなさんのためにお菓子を作ってあげたくて……」
「大丈夫。みんなわかってるから。春日さんはちょっと驚いちゃっただけなんだよね。これからチョコレート取ってくるから、そしたらあらためてお菓子を作って欲しいな。製菓用じゃなくて申し訳ないけど。春日さんのお菓子をきっと私だけじゃなくて、みんな楽しみにしてるんだから」
だから、ね、と伶那の手が詩帆の背をさすった。はい、と詩帆が頷いて、目からようやく暗い光がなくなった。
「じゃあ、私ちょっと行ってくるから」
そして伶那は意気揚々と振り返った。うまくいった、あとはやり遂げるだけだ――そう思って、伶那は肩を回して気合いを入れた。
伶那が校舎を出ると、すぐに勇希が小走りで駆け寄ってきた。
「あのさ、伶那……」
勇希は手を前に組んだまま、もじもじと体をくねらせて何かを言いあぐねていた。待っていても埒が明かなそうだったので、仕方なく伶那から口を開いた。
「チョコ食べちゃったの勇希でしょ」
「えへへ。バレてたか」
「当たり前。なにやってるのよ」
「それは伶那だって同じじゃん。詩ちゃんと二人でチョコパ、楽しかった?」
勇希が珍しく拗ねたような顔をした。伶那は勇希が何を言っているのかわからなかったが、すぐに食い違いに思い至った。
「違うの。あれは靭さんが、お腹がすいてやらかしちゃったのよ。しかもお菓子に使うお酒まで飲んじゃってて、そこに駒川さんも現れて大変だったんだから」
伶那は勇希の耳元に口を寄せ、間違っても誰かに聞かれないよう声を潜めて打ち明けた。
「そうだったの?」
「なんでこんなことになったのか、私だってよくわかってないんだから。でも春日さんの大切にしていたものを食べちゃったのは事実だし、とりあえず弁償はする。謝るのはその後かな」
「ふーん、責任感?」
「まあね、と言いたいところだけど、わかんない。こうするのがベストかなって思っただけ」
「そっか」
「そう」
「わかった。じゃあ待ってるね」
「うん。あ、このこと誰にも言っちゃダメだからね」
「どうしよっかなー」
「こら」
勇希がいち早く新しいおもちゃを手に入れた子供のように得意気に笑った。伶那も口では咎めているけど、本気で疑ってなんかいない。
「じゃあ行ってきます」
伶那が勇希に手を振ると、
「いってらっしゃーーーーーーい!!! おみやげよろしくねーーーーー!!!」
と、校舎の窓から身を乗り出した〝愛央〟が、叫びながら手をぶんぶかと振っている能天気な姿が見えた。
「アンタも来るんだよ!!!」
その姿にイラついた伶那は反射的に大声で叫んでいた。伶那の美しい顔が歪み、かん高い舌打ちが午前の澄んだ空気に響き渡る音を勇希はその耳で確かに聞いた。
「えっ!」
「早くする! ダッシュで! 3! 2! 1!」
「ハイ!!!」
愛央は飛び上がって返事をし、廊下を全速力で駆け出した。伶那は愛央の到着を待たずに舵輪を握り、目指すココロトープに狙いを定めた。
(了)