「じゃあ、いきますね?」
彼女の合図とともに、どこかの国の童謡が落ち着いた旋律で流れる。都内にある総合病院の一角で、子どもたちがその音色にそっと聞き入る。幼稚園児や小学生、歳も性格も好き嫌いもバラバラな子たち。普段は本を読んだり積み木遊びをしたりと思い思いだが、その時間だけはみな一人のウマ娘に注目している。
曲選は最近の子ども向け番組で流れているものだったり、彼女の幼い頃、ちょうどこの場所で聞いた思い出の曲だったりと様々。楽しげな調子の曲もあるが、彼女自身のどこか
演奏が一通り終わると、ぱちぱちとまばらな拍手が子どもたちの輪の中から起こる。ミラクルが立ち上がりこちらを向いて、そっとお辞儀をした。
「お疲れ様。今日もすごく良かったよ」
「いえいえ。いつも来てくれて、ありがとうございます」
「日曜日だし、いい気分転換になるから助かってるよ」
「おれも、毎週この時を待ち遠しく思ってるので。トレーナーさんにも会えますしね」
元担当のケイエスミラクルは、毎週日曜の15時20分になるとこうしてピアノ演奏をしに病院にやってくる。かつて彼女が過ごしたこの病院は中山レース場に近く、午前中に担当の子のレースを見届けてから、この「コンサート」に今日も間に合うことができた。彼女の背中が一番よく見える位置には、すっかり見慣れた縦ロールのお嬢様も凛とした様子で立っていた。ダイイチルビーだ。
「ミラクルさん。体調はいかがですか」
「大丈夫だよルビー。これくらいで倒れたりは」
「一度倒れたことがあるから申し上げているのです」
「……あはは」
ケイエスミラクルの希望進路は理学療法士。彼女を担当していた頃からその進路ははっきりしていた。それはいいのだが、大学進学にあたって一人暮らしをすると言い出したのが問題だった。夢や希望を持つのはいいことだが、ミラクルの「夢に向かって頑張る」は意味が違ってくる。根を詰めすぎて倒れられてはシャレにならない。ということで、ダイイチルビーがミラクルの面倒を見てくれることになった。大学を出た今も、二人は一緒に暮らしている。
「では、次の予定がありますので。本日もありがとうございました、ミラクルさんのトレーナーさん」
「待って、今日はトレーナーさんと少し話がしたいんだ。おれのことは置いて行ってくれて構わないから」
「…………」
「分かった。5分なら、許してくれる?」
「ミラクルさんがお望みなのであれば」
「厳しいなあ……」
ダイイチルビーがすたすたと場を後にする。その華麗な後ろ姿が見えなくなったところで、ミラクルが俺に苦笑いを見せた。
「ルビーのことだから、きっと執事さんに謝ってくれてるんです。おれのために、わざわざ。申し訳ないなあ……」
「それだけミラクルのことを大切に思ってくれてるんじゃないか? 真っ先に同居を申し出てくれたのもそうだし」
「それは分かってるんですけどね。でもちょっと、過保護な気もして」
ミラクルが自分を生かしてくれた人たちへの恩返しとして、病的なまでに頑張ってしまうところは、彼女の学生時代にうんと見てきた。そして他人に諭されるまで、自分が限界を超えて根を詰めてしまっているということに気づけない。どうすれば周りのみんなに最高の恩返しができるかを常に考えられる器用さと、ブレーキのきかない不器用さとが両立している。ミラクル以外にもいろんなウマ娘を見てきたが、ここまで「走ること」に深い意味を見出し、突き詰めようとする子は初めてだった。
「5分だけって言ってるのに、ルビーは怒ってるんですよ。きっと……」
「5分『だけ』か……」
「……?」
「こんなちょっとした時間を、『ちょっとした』って捉えてくれてるだけで、ミラクルは変わったんだなって思うな」
「あぁ……そうか。そうですね。……トレーナーさんは、こうやって。すごく、優しいんでした」
当主の座を継ぐ時が近く、今なお分刻みのスケジュールで行動するダイイチルビーにとって、5分という時間はその後の予定に影響が出るほど長い時間なのだろう。執事さんに伝えつつ、どこの予定を削って埋め合わせしようかと考えているかもしれない。そして彼女と一緒に行動するミラクルにとってもまた、5分は長い。しかし以前のミラクルにとっては、恩返しのために絶対に無駄にしてはならない5分だった。それに見出していた意味が全く違っていたのだ。
「おれは10分でも15分でも、トレーナーさんと話したいんですけどね。でもそれはルビーが黙ってないと思うので」
「俺はミラクルが今でもこうやって、俺のことを覚えてくれてるだけでも嬉しいよ」
「忘れるわけないじゃないですか。……おれにとっては、たったひとりのトレーナーなんですから」
「そうか。……そうだな」
俺も今後、トレーナーとしてどんな経験をしようとも、ミラクルのことを忘れはしないだろう。だが客観的に見れば、ミラクルはたくさん担当したウマ娘の一人にすぎない。どれだけ輝かしい実績があっても、レース史に名を残すレベルのウマ娘がごまんといるトレセン学園の長い歴史の中にそのうち埋もれてしまう。鮮烈な当時の記憶をとどめていられるのは、俺だけだ。
「……そうだ。近いうちに、新しい曲を弾こうと思うんです。冬にぴったりな洋楽をいくつか用意していて。せっかくなら、トレーナーさんがこの中から選んでくれませんか?」
「いいのか、俺で?」
「はい。トレーナーさんが好きな曲なら、きっとおれも好きですから。練習で上達するためには、その曲が好きであることも大事だと思うので」
ミラクルがバッグから楽譜を三部取り出し、俺に見せてきた。子ども向けかどうかはさておき、どれも素人目にはなかなか難しそうな曲選だった。これを理学療法士の国家試験の勉強と並行してやろうというのだから、ミラクルの頑張りには頭が下がる思いだ。頭を下げてばかりではいけないのだけれど。
「どれも弾けたらすごいな」
「どれも今までで一番難しいと思います。でも、だからこそ練習したいんです。おれが子どもの頃、ピアノの先生が難しい曲を弾いてるのを見て、感動したから。おれも、外の世界の青空を少しでも見せられたらいいななんて、思うんです」
「じゃあ……これはどうだ?」
俺が三つのうちから選ぶと、そっと微笑んだミラクルが表紙に可愛らしいウサギを描いた。
「トレーナーさんなら、これを選ぶと思ってました」
「最初から決まってたのか?」
「いや? ちゃんとトレーナーさんが選んだものにしようと思ってましたよ。ただ、トレーナーさんの好きそうな曲を一つ、混ぜておいただけです」
執事さんと話をつけてきたのか、ダイイチルビーが戻ってきて俺とミラクルから少し離れた場所でじっとこちらを見つめてきた。そろそろ5分経つようだ。
「それじゃ、そろそろルビーの視線が怖くなってきたので。また来週、ですね」
「ああ。体調には気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
ミラクルの活躍のおかげで以前より忙しくなってしまった俺は、ミラクルに会いに行くための時間がなかなか取れない。日曜日のこの時間だけが、昔を懐かしむと同時にミラクルの元気な姿を確認できる貴重な機会。
ミラクルが歩み寄るのを確認して、澄ました顔で車へ戻るルビー。二人の姿が見えなくなってから、俺も帰路に着くのだった。