肌寒さが本格的になり、吐く息も心なしか白く感じられる季節。
今日、教会では創立五百年の節目を祝う、それはそれは盛大な祝祭が催されることになっていた。
幼い頃、ルシアンと二人で祝祭の日の特別な食事を楽しみにしていた記憶もあるけれど、今回は比べ物にならないほど大規模だという。
なんでも魔王討伐後の祝賀も兼ねて、各国の重鎮や貴族の方々も招かれているのだとか。
前世の言葉で例えるなら、厳かで華やかなクリスマス・ガラといった趣だろうか。
そんな大切な祝祭に、聖女たる俺も当然のように駆り出されることになった、のだが……。
「うぅ……動きにくいですし、なんだか落ち着きませんね……」
今宵の俺──アルジェは、ため息が出るほどに豪奢なドレスにその華奢な身を包んでいた。
祝祭のパーティーに「大聖女アルジェ様」として臨むのだから、これが相応しい装いなのだろう。
しかし、普段着慣れた清楚なシスター服や、動きやすさを重視した私服とはあまりにも勝手が違う。
身体のラインを優美に描き出す、夜の闇を凝縮したかのような漆黒のシルク。
大胆にカッティングされた肩のデザインは、月の光を浴びて素肌を滑らかに照らし出す。
それは、俺自身が持つ美しさを最大限に引き立てているのは理解できる。
理解はできるのだが……いささか露出が多く、聖女アルジェのイメージとしては少々、その……刺激が強すぎやしないだろうか。
おまけに、この踵の高いヒール。生まれてこの方、足を通したことなど一度もない代物だ。
一歩進むごとに、身体が心もとなく揺らぎ、歩きにくいことこの上ない。これでは、優雅に微笑むどころの話ではない。
やはり、もう少しクラシカルで足捌きの良いものに替えてもらえばよかったか……。そんな後悔が、早くも胸をかすめる。
「アルジェ様、そろそろお時間のようですが──」
控えめなノックの音。
続いて、俺の私室の扉が静かに開き、ルシアンが姿を見せた。
彼もまた、いつもとは異なるフォーマルな装いに身を包んでいる。
それも新鮮だったが何より、ドレスアップした俺の姿を認めた瞬間の彼の表情に俺の心臓が小さく、けれど確かに音を立てた。
ほんのりと頬を染め、一瞬言葉を失ったかのようにその瞳を瞬かせた後、どこか戸惑ったように視線を揺らがせるルシアン。
その反応が、なんだかとても……。
「……こんなに飾り立てた服は、本当に初めてで……その、おかしくはないでしょうか……?」
つい、不安を滲ませた声で問いかけてしまう。
普段の俺の清楚な雰囲気とは異なる、どこか妖艶さすら漂わせるその姿に、ルシアンは戸惑いを隠せない様子で。
それでも言葉を紡いだ。
「あ、いえ……その、とても……お似合い、です……アルジェ」
ぽつりと、けれど確かに紡がれた称賛。
そして、最後の最後に、ほんの少し照れたように添えられた「アルジェ」という響き。
あの夜の約束を、彼はちゃんと覚えていてくれている。
二人きりの時は、ただの「アルジェ」と呼んでくれる、と。
その事実に、今度は俺の方がじわりと頬に熱を感じる番だった。
それでも、やはり気恥ずかしいのだろう。
ルシアンは称賛の言葉とは裏腹に、あえて俺から視線を外し部屋の隅の調度品へと逃がしている。
そのどこかぎこちない所作が、俺の目には微笑ましく映り。
同時に、ほんの少しだけ揶揄ってやりたいとそんな悪戯心が疼くのを感じた。
目を逸らしても無駄だぞ、ルシアン。もっと、今の俺をちゃんと見るんだ!
そう思うと不思議なもので、先程までのドレスへの不満もどこかへ消え去っていた。
よし、やはりこのドレスにして正解だった。
ルシアンもこんな俺を前にして、少しは意識してくれているみたいだし!
「では、参りましょうか」
気を取り直し、パーティー会場へと一歩踏み出した、まさにその時。
コツン、と硬質なヒールの音。
次の瞬間、俺の身体がぐらりと大きく傾いだ。
「きゃっ──!」
そう、見えるように、実にわざとらしくコケる演技をしてみせたのだ。
計算通り、俺の身体は美しい放物線(当社比)を描いてバランスを崩してすぐそばにいたルシアンの逞しい腕の中へとぽすり、と実に都合よく収まった。
そして潤んだ瞳(のつもり)で彼を見上げ、必殺の上目遣いを完成させる。
ふふん! どうだ、この計算され尽くしたあざとさ!
こんな絶世の美少女に、不意にこんな形で密着されてしまってさぞかし狼狽えそしてときめいていることだろう……!
──ところが。
「アルジェ、大丈夫?」
聞こえてきたのは、俺が期待していたような、慌てふためく上擦った声ではなかった。
鼓膜を優しく揺らしたのは、心からの心配を滲ませた、低く、そしてどこまでも真摯な声。
抱き寄せられた身体は、想像していた以上に力強く、けれど優しく支えられていて。
ルシアンの顔が思ったよりもずっと、ずっと近くにあることに気づく。
その深い色の瞳には、揶揄や下心などというものは欠片も見当たらず。
ただひたすらに俺の身を案じる、純粋な思いだけがまっすぐに映し出されていた。
「えっ、あ、その……だ、大丈夫、です……あの、ありがとう、ございます……っ」
あの夜、ただのアルジェとして彼にすべてを受け入れてもらってから彼は時折こうしてかつての気安い幼馴染としての顔を、不意に覗かせることがある。
そのあまりにもガードの低い剥き出しの優しさに触れるたび、俺の心臓はまるで警告のように速く、そして大きく脈打ち始めるのを自覚せずにはいられない。
言葉が、うまく続かない。
彼を揶揄って、赤面させてやろうと目論んでいたはずなのに。
どうして、俺の方がこんなにも──!
「……」
「……」
一瞬の沈黙が、部屋を満たす。
ルシアンの腕の確かな温もりと微かに漂う彼の清潔な香り、そして何よりも。
ただひたすらに俺の無事を確かめようとする彼の瞳の奥にある、言葉にならない確かな想いが俺の思考を心地よく麻痺させた。
ようやく現実へと意識が引き戻され、俺はまるで何かに弾かれたように、慌ててルシアンの腕の中から身を離す。
乱れた髪の毛を慌てて何度も何度も手櫛で整えながらも、彼の顔をまともに見ることができない。
「こっ、こんな歩きにくい格好だからですっ! ヒールなんて、履き慣れていないものですから!」
自分でも情けないほど声が上擦ってしまったのが分かった。
もう、強がるしかないじゃないか……!
「あはは、確かに。普段アルジェがしない格好だからね。でも少し、心配になる」
そんな俺の必死の取り繕いを、ルシアンは少しも咎めることなく、実に気さくに、そしてどこか柔らかく微笑んで言葉を返してくる。
その声色はどこまでも穏やかで、ほんの少しも動じていないように聞こえるのが、なんだか無性に悔しい。
むぅ……。どうしてそんなに平然としていられるんだ……ルシアン!
こっちは心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張しているというのに!
「じゃあ、手、繋ごうか? その方が、少しは歩きやすいだろう」
まるでそれが、ごく自然なことであるかのように。
ルシアンは俺の目の前に、そっと彼の手を差し伸べた。
その大きく、けれどどこか不器用でそして不思議なほど安心感を覚える手。
え? え、手……? そんな、 恥ずかしいにも程がある……!
頭の中では、そう必死に叫んでいるのに。
俺のそんな意志とは全く裏腹に。
気づけば俯き加減のまま、その差し出された手に自分の手をそっと重ねてしまっていた。
指が触れ合うか触れ合わないかの、ほんの一瞬。
ためらうように触れた彼の指先は、思った以上に熱を帯びていて──。
俺の全身に微かな電流が走ったような錯覚を覚える。
ぎゅっと、優しく。けれど決して離さないとでも言うように握り返された温もり。
俺の頼りなく細い手とは比べ物にならないくらい、大きくて、少し骨張っていて、でも、どうしようもなく頼もしい手。
「あ、あくまでも! 歩きにくいからであって、ですね……! 決して、その、ルシアンと手を繋ぎたいとか、そういうわけでは……断じてありませんからっ!」
口から飛び出す言い訳は、自分でも支離滅裂で、聞くに堪えないものだと分かっていた。
ルシアン、 まさかこんなことを、こんなにも自然にやってのけるなんて!
こっちは恥ずかしさでどうにかなってしまいそうな状況だというのに!
聖女ロールプレイにだって、羞恥心の許容量というものは存在するんだぞ!?
それでも、今更この温かい手を振り払うことなんて、到底出来るはずもなく。
不本意ながらも、このどうしようもない羞恥心を「歩きにくいから」という大義名分の下に無理やり押し込めた俺は、ルシアンに優しくエスコートされるがまま、祝祭の喧騒が待つ会場へと一歩一歩足を踏み入れていくのだった。
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しかし、会場の入り口で彼と手を繋いだまま入場するのは、さすがに周囲の目──特に、各国の重鎮や居並ぶ貴族たちの手前、あまりにも刺激が強すぎると冷静に判断した。
名残惜しい気持ちを心の奥底に押し殺して、そっとその手を離した。
以前の「お姫様だっこ」の時のように、衆目のもとで赤面するような経験はもう二度と繰り返したくはない。
パーティー会場は、まさに絢爛豪華という言葉を具現化したかのような賑わいを見せていた。
無数のシャンデリアが放つ眩いばかりの煌めき、華やかに着飾った人々の途切れることのない喧騒。
そして、どこからともなく流れてくる心地よい音楽の調べ。
俺は、再び「大聖女アルジェ」としての完璧な仮面をその表情に貼り付けるとお仕事モードに切り替える。
当たり障りのない優雅な微笑みと、当たり障りのない賞賛の言葉を駆使して次から次へと挨拶に訪れるお偉方や名だたる貴族たちをそつなくあしらっていく。
彼らが求めているのは、魔王を討ち果たした清らかで慈悲深くそして何よりも美しい救世の聖女。
それが、今の俺に与えられた役割であり、それを完璧に演じきることこそが、俺という存在のアイデンティティなのだから。
造作もないことだ。
……そう、頭の中では、いくらでもそう嘯いていられる。
それでも、元一般庶民にして、その魂の性別は男である俺にとってこうしたきらびやかな上流階級のパーティーというのはどうにも昔から息が詰まるほど苦手な場所であることに変わりはなかった。
慣れない豪奢な服装に、窮屈極まりない作法。
腹の探り合いとしか思えない会話の応酬。
ただひたすらに享楽に興じているようにしか見えない金持ちたちの姿。
そのどれもが、俺にとっては少々、いや、かなり荷が重く感じられた。
会場の喧騒から逃れるようにしてたどり着いたバルコニーは、ようやく一息つける安息の地だった。
ひんやりとした清浄な夜風が、無理な笑顔で引き攣っていた頬の火照りを優しく撫でてくれる。
静かに降り注ぐ月明かりの向こうには、遠くきらめく街の灯りが宝石のように散らばっている。
ふぅ……ここで少し、羽を伸ばさせてもらおう……。
「アルジェ」
ふと、背後からかけられた、落ち着いた、けれどどこか芯のある声。
その呼び方に、心が無意識に安堵を覚えてしまう。
こんな風に、今の俺を呼ぶのは、もう──。
「ああ、ルシアン。少し疲れちゃいまし──うわっ」
振り返り、声の主を確認しようとした俺の目に飛び込んできたのは、心のどこかで期待していた幼馴染の姿ではなかった。
月光を浴びて、淡い金が幻想的に輝くストレートの髪。
全てを見透かしているかのような、それでいてどこか涼やかで怜悧な光を宿すサファイアブルーの瞳。
寸分の隙もなく完璧に整えられた、まるで物語から抜け出してきたかのような貴公子然とした立ち姿。
その、あまりにも見慣れた──そして、正直に言えば、少しばかり苦手な気配を色濃く纏う人物の姿に俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「……久しぶりに会うというのに、その反応は随分じゃないか、アルジェ。私も少しは傷つくんだがな。これでも、一応は苦楽を共にした旅の仲間だというのに」
そう言って、どこか楽しむように片方の眉を上げてみせたのは、どう見ても、紛れもなく──。