pixivにも投げてます
トレーナー室と廊下を隔てる一枚の扉。その前に立つと、私はいつも緊張して胸が高鳴っていました。知らない男の人の部屋を訪ねるなんて……。と。
三年経った今でも、トレーナー室の前に立つと、私の胸は疼いて仕方がないのです。
「失礼します、トレーナーさん」
かちゃ、とドアノブを捻って、私はそっと扉を開きました。扉とちょうど対角にいつもトレーナーさんが作業をしているデスクがあるので、大抵扉を開けばトレーナーさんと目が合うようになっているんです。
でも、今日は様相が違っていました。
「トレーナーさん?」
まず目に飛び込んでくるはずの顔が見えません。デスクの奥に並ぶ窓から、白んで澄んだ青空が見えるだけです。
かちゃん、と扉が閉まる音が聞こえて、私は一歩ずつ踏み締めてトレーナー室を進みました。
「トレーナーさん……」
トレーニング用の教本が所狭しと並んだ本棚があって、レースの展開を話し合うためのホワイトボードがあって、……まあ、あんまり使ってはいないけど。あと、机とパイプ椅子……。
そして、何やら紙の資料が散らかされたデスク周り。
どれも見慣れた光景で、一番落ち着くはずなのに、ただ一つ、トレーナーさんが欠けている。
「……」
息を吸うと、私の大好きな匂いがする。多分さっきまで居たんでしょう。
「……」
こうして入れ違いになってしまうのも仕方ありません。だって、私は特に用がないのにここに来てしまうのだから。
でも、こんな静寂は好きじゃない。
「……」
ふと、私は傍のデスクチェアに目が行きました。深い青色のそれには、三年もトレーナーさんが座っていたのだから当たり前ですが、彼の背中や…… お尻の形に変形しているような跡がついています。
私は、何故か目が離せなかったのです。いつもあの人が座っているだけの、なんの変哲もないデスクチェアに。
「……」
思わず、私は誰もいないトレーナー室を見回しました。静まり返った中耳を澄ませました。当たり前ですが、何もいないし、聞こえるとすれば制服が擦れる音と、尻尾と髪が靡く音ぐらいです。
私は、もう一度デスクチェアに目を向けました。
「……」
一歩、眼下にあるデスクチェアに擦り寄りました。胸がどきりと跳ねたのがよくわかりました。
「……」
デスクチェアの背もたれの上に手を乗せてみました。いつも、あの人が寄りかかっている背もたれに。
さすがに温もりを感じることはありません。
……でも、胸の高鳴りは止まることを知らないのです。
「……」
私はもう一度耳を澄ませました。聞こえたのは、自分の心臓の音でした。
もう、私は自分の好奇心を抑えることができませんでした。いや、そもそも一般常識的に変なことではないはずです。だって、だって……。
私はただ、椅子に座るだけなのですから。
「……」
それを、変なふうに捉える必要は何もない。
「……!」
意を決して、私はトレーナーさんが使っているデスクチェアに腰を下ろしました。
はぁ、と、明確に自分のため息を意識した数少ない瞬間でした。
「……」
いつも、トレーナーさんがみている景色。とっくに冷めているはずの温もりに抱かれているような心地よい気分。私は胸のドキドキが止まりませんでした。
私はおかしくなってしまったのでしょうか? 最近はずっとそうです。彼の行動一つ一つに目がついていくし、彼の声を聞きたいと思うし、彼を、感じていたいと思うんです。
彼が座っている椅子というだけで、それに彼を求めてしまうのです。
「……」
彼がいつも腕を預ける肘置きに腕を任せ、彼の重みを支える背もたれに寄りかかる。
それだけで、なんでこんなに気分が良くなるのでしょうか? 私は、そんなに、変な癖があるというのでしょうか?
――その時でした。私は完全に自分の世界に入っていたから、外に目を向けていなかったのです。
ガチャリ、と力強い音が聞こえた瞬間、私は現実世界に帰ってきました。
「あれ? 来てたんだスズカ」
「と、とれーなーさん」
いつもトレーナーさんが私を見つけてくれる場所から、トレーナーさんの顔を見るのは、とても、とても……。