「なあフリーレン。フリーレンが今まで見てきた魔法の中で、一番強い魔法ってどんなのだったんだ?」
魔法都市オイサーストを発ってからしばらく。
フリーレン一行は、次の目的地へと向けた旅の途中、とある深い森の中で野営をしていた。
焚火を囲い、シュタルクが捕えてきた獣の肉を捌いて焼いているときのこと。
シュタルクがただの雑談として、フリーレンに問いかけた。
「シュタルク。魔法っていうのは相性なんだよ。例えば火の魔法の使い手は水の魔法に弱いし、水の魔法の使い手は雷の魔法に弱い。だから、強弱なんていうのはないんだよ」
「シュタルク様。魔法はイメージだって、何度もお話ししましたよね? 理解できていなかったのですか?」
例えば、フリーレンは強大な魔力を隠し持っている為、確かにそこらの魔族や魔法使いよりは強い。
だがしかし、例えば雨の中では『水を操る魔法』の使い手に勝てるイメージが湧かないし、一対一で向かい合った状態ならば『見た者を拘束する魔法』で完封されることもあるだろう。
つまり、魔法とは、強いか弱いかという単純なものではないのだ。
「あー、二人で怒らないでよぉ……。違うんだ、ただ単に、フリーレンがこいつは凄いって思うような魔法がどんなものだったのか聞きたかっただけだよぉ」
魔法使い二人に怒涛のツッコミを入れられたシュタルクは、情けない涙目になる。
が、彼が聞きたかったのはもっと単純なことだ。一番脅威だった魔法、一番ヤバかった魔法、そういうのを興味本位で聞いただけである。
「魔法そのものじゃなくて、今までで一番強いと思った相手だったら答えられるけどね。それは勿論、魔王……には勝てたわけだし、ゼーリエかな? いやでも、黄金の……」
「シュタルク様が変なことを聞くからフリーレン様が自分の世界に入ってしまったではありませんか」
「えぇー、俺のせいなの……?」
再び涙目。
しかし、フリーレンは長い回想の旅に出てしまったようだ。
ぶつぶつと呟く言葉の中には、シュタルクやフェルンが聞いたことのある単語もあれば、聞き覚えのない単語もちらほら含まれている。
フリーレンの記憶の旅は下手すれば数百年を超えるため、ちょっとした回想が途方もない長さになることもあり得る。シュタルクは頬っぺたを膨らませたフェルンに睨まれてしまった。
が、フリーレンは思いのほかすぐに顔を上げ、口を開いた。
「そうだね。私では対処不能だった魔法、という意味では一つ。私たち……勇者パーティが逃げるしかなかった、とある魔族が使っていた魔法があるよ」
そしてフリーレンの口から語られたのは、フェルンとシュタルクにとっては思いもよらないエピソードだ。
ヒンメル。ハイター。アイゼン。フリーレン。
今更説明もいらないであろう、世界の歴史に残る活躍をした勇者たち。その勇者たちが、敗走したという。
「勇者パーティーが逃げるしかなかったのか? それじゃあ、魔王より強いってことじゃないかよ」
「フリーレン様、それは相手がそれだけ規格外な魔族だった、ということでしょうか?」
「いいや、そいつは弱いよ。なんだったら、その魔族はそこら辺の野犬にも勝てない。ある程度の距離に近づいて『人を殺す魔法』の一発でも撃てば防御も出来ずに消滅するだろうね」
肉の油が焼け、パチパチと音が鳴る。
焚火に照らされてフリーレンは懐かしそうに話すが、フェルンとシュタルクにはさっぱり意味がわからなかった。
逃げるしかなかったという相手を、まるで弱者のように語るフリーレンの言葉を、うまく理解できない。
「え、それ、弱いんじゃん?」
「……つまりは、どういうことでございますか?」
「そいつは、八崩賢の一人、羞恥のシュヒタン。『羞恥を覚えさせる魔法』の使い手だよ」
八崩賢。
忘れもしない、グラナト領を苦しめていた大魔族、断頭台のアウラが八崩賢が一人だったはずだ。
「八崩賢って、断頭台のアウラと同じ魔王軍の幹部だろ。羞恥って、なんだよそれ」
「その『羞恥を覚えさせる魔法』とは、一体どのような魔法でございますか?」
異名といい、魔法の名称といい、何とも拍子抜けな響きである。
が、勇者一行を敗走させ、八崩賢まで上り詰めたその魔族の魔法とは一体なんなのか。
フェルンとシュタルクは、フリーレンの口から語られるその謎に惹かれていく。
「あれは、そうだね。魔王を倒すための旅に出て、どのくらい経った頃だったかな……」
「勇者様、この先には行かん方がいいですじゃ……」
とある街道沿い、次の村へと向かう途中の森で。
おそらく村の木こりの仮の小屋として使われている庵だろう。そこで、一人の老人と出会った。いや、道を阻まれた。
老人は顔色が悪く、今にも倒れてしまいそうな様子だ。見れば、顔は脂汗をかき、唇はカサカサに枯れ、見るからにとても尋常ではない。
このような老人が森の中に一人いては、ヒンメルでなくとも足をとめ、声をかけたことだろう。
「何があったのか、お話を伺っても?」
「……ま、魔族じゃ」
その言葉に、ヒンメルたち四人がピクリと反応する。それまでの旅を楽しむ空気が一転し、魔族と戦うための空気へと変わる。
魔族。
それは人間の言葉を話す魔物。人を食らい、欺く存在。人類の敵。
「そ、そうじゃ……ワシは、逃げて来たのですじゃ……皆を残して、生き恥を晒しているのですじゃ……あぁ、あぁぁっ!!!」
「魔族、ですか。いったいどのような?」
錯乱する老人の手を強くつかみ、屈んで目を合わせたヒンメルが強く問いかける。
老人は錯乱した様子を見せながらも、ヒンメルの瞳を見て、少しずつ、言葉を紡ぐ。
「わ、わからん、わからんのですじゃ。さ、最初は、角の生えた娘っ子が訪れて……子供たちが、泣き出して……それを見て、ワシは……もう、生きているのが恥ずかしくなり、しかし死ぬ勇気もなく、一人で逃げ出しちまった……戻ったときには、皆……うぅ……ううぅ……! ああ! ワシは、ワシだけ、なぜ死なずに生き恥を……!!」
「ちょっと、お爺さん! すまないハイター、頼めるかな」
老人はもうヒンメルを見てはいない。これ以上は危険だと判断し、錯乱する老人を強く押さえて、ハイターに呼びかける。
ハイターはすぐに聖典を取り出し、沈静化の魔法を老人に向かって使用する。淡い光が老人を包むと、老人は一時的に平静を取り戻した。
しかし、それでも小さく何かを恐れるようにつぶやき、その場に蹲ってしまう。
「お爺さん、落ち着いてください。私は僧侶ですから、安心してください。ひとまず休憩しましょう、さ、庵に入りましょう」
「ハイター、そっちは頼む。僕たちはちょっと、その村の様子を見てみるよ」
ヒンメルはハイターが老人を落ち着かせたのを確認すると、迷いなく森の道を進んで行く。
アイゼンとフリーレンも、特に何の会話もなく、当たり前のようにヒンメルの後を追う。こういう時にヒンメルがどうするかなど、もう会話などなくとも理解できていた。
「気を付けてくださいね。私がいないと、あなたたちは危なっかしいんですから」
「二日酔いのくせによく言うよ」
「ははは、痛いところを突かれました」
背後でハイターが老人を抱え、庵の扉を開く音が響いた。
「どうするんだ、ヒンメル」
「うん、もちろん元凶がいるなら倒すさ。ただ、あのおじいさんの話だと、よく分からないね。フリーレンはどう思う?」
「恐らく、精神に作用する魔法だね。人間を錯乱させる魔法かなにかだと思うよ」
森を進む。
先ほどの庵がその村の木こりの使っていた小屋だとすれば、魔族が襲来したという村もそう遠くはないだろう。
油断なく剣に手をかけるヒンメルに続くようにアイゼンとフリーレンが歩を進めながら、作戦を話し合う。
「精神か。厄介だな……。やはりハイターを連れていった方がいいんじゃないか」
「そうだね。だけど、今はあのおじいさんを独りにしたら危ない」
「あれは、死を選ぶ顔だったね」
本来ならば、女神の聖典の魔法を使えるハイターを連れて来た方が安全だろう。精神に関わる呪いなどは、フリーレンよりハイターの方が抵抗力が強く、対処法も所持している。
しかし、いまハイターをあの老人から離してしまえば、あの老人は自ら死を選ぶ。
そういう目をしていた。
「……厄介だな」
「生き残りは、いなさそうだな」
血の匂いの立ち込める村は、異質な地獄だった。
この旅で、助けられなかった命は数多くある。時には魔物に襲われ、時には魔族に騙され。ヒンメルたちが間に合わないことも数多くあった。
しかし、この村はそれとは違う。
今までの惨状と、全く違う。
村人は、自ら首を吊り。自ら胸を刺し。自ら飛び降り。自ら家に火を放ち。
魔族や魔物ではなく、全員が全員、自分で命を絶っていたのだ。例外は、母親に巻き添えにされた赤子のみだろう。
「まいったな……ここまで酷い景色は、初めてだよ」
「ヒンメル、ハイターのところへ戻った方がいい。精神に作用する呪いは、魔法使いじゃなくて僧侶の領分だよ。ここにはもう、助けられる命はいないよ」
人間よりも感情の起伏に乏しいフリーレンといえど、この惨状には眉をひそめていた。
しかし、彼女は冷静だ。
助けられる命がないのならば、今はハイターのもとに戻った方が良い。魔族の討伐を目的とするならば、それが一番効率的だ。
子供の遺体を抱き上げるヒンメルに向けて、そのように助言をする。
「フリーレン、残念だけど、それは出来ない」
「どうして?」
「それは、僕が勇者で、そこに倒すべき魔族がいるから」
一閃。
ヒンメルが投擲したこぶし大の岩の欠片が、空を切り裂くように遥か遠く村の出口へと飛翔し、その存在の顔を掠って背後の木を抉る。
「!?」
ヒンメルの超人技に驚く素振りもなく、アイゼンとフリーレンがヒンメルに続き武器を構え、その相手を見遣る。
見た目はフリーレン以上に幼い少女のそれだ。彼女がもし人間ならばヒンメルの半分も生きていない年齢であろう。
腹部と四肢を大きく露出した、水着のようなその衣装も明らかに特異なものではあるものの、しかし、それ以上に。
額から生えた二本の角が、少女の全てを物語っていた。
どのような外見をしようが。
どのような言葉を紡ごうが。
そこに居るのは、人間の感情を持たない。人を欺き、食うことを目的にした存在。
魔族だった。
「わ、わあ……さすが勇者様ですねっ。わ、私の気配に、魔法使いより先に勘付くだなんて……感激しちゃいましたっ」
少女……いや、その魔族は、身体全体を使った大げさな感情表現とともに驚きの声を上げる。本物の勇者に感動した素振りすら見せる。
だが、近づいてはこない。
「きみが、この村を滅ぼした魔族かな? 倒させてもらうよ」
「遠すぎるな。フリーレン、敵の魔法は分かるか」
「分からない。でも、精神に作用する魔法ならば、下手に近づかないほうがいいね」
ヒンメルは剣を構えるが、しかし距離が悪い。
いくらヒンメルが人間離れをした速度で切りかかれると言えど、距離があれば魔法を発動させる方が早いものだ。
アイゼンはそれを察してフリーレンに問いかけるが、残念ながらフリーレンもたったこれだけの邂逅では相手の魔法など判別がつかない。
そして相手の魔法が分からない以上は、下手にヒンメルを囮にするような真似もできない。
「ヒンメル、魔法の解析を試してみるけれど、時間は稼げる?」
「やってみよう」
フリーレンの言葉に、魔族を睨みつけたまま小さく頷いてみせる。
「僕はヒンメル。もう知ってくれているようだが、魔王を倒す勇者だ。君の名を伺っても?」
「勇者様に、アイゼン様、フリーレン様ですよね? すごーい、本物ですねっ! えっと、私はシュヒタン。八崩賢『羞恥のシュヒタン』なんていう恥ずかしい異名を与えられている者ですっ!」
名を名乗り、ぺこりと頭を下げる魔族。明らかに隙だらけ、いや、自ら隙を作っている。
だが、近づいてはこない。
「っ?! ……驚いた、八崩賢がこんなところで村を襲っているとはね」
「や、やだっ、八崩賢だなんて、私ごときには恐れ多い立場ですよっ。その、私なんて、力も強くないし、飛んだり跳ねたりも遅い、殴られたらすぐに死んでしまうような、愚鈍な魔族ですからっ」
愚鈍な魔族。その言葉に嘘はないのかもしれない。
会話をしている間も、大袈裟な感情表現を交えたその魔族の動きはとても戦いを前提とした身のこなしではなかった。それこそ、ただの何の力も持たない村娘と会話しているような錯覚に陥る。
だが、近づいてはこない。
「力がないとは言うが、この村を滅ぼしたのはキミだろう?」
「ふぇ? 嫌だなあ、違いますよっ? えっとぉ、私の『羞恥を覚えさせる魔法』は殺傷能力はないんですよ。だから、人間たちが勝手に、自分から死を選んだだけなんですっ! それって、私はぜーんぜん悪くないですよねっ? ですよねっ? あははっ」
ヒンメルは魔族から目を離しはしない。
しかし、ヒンメルと魔族の間には、村人の屍が横たわっていた。小さい子供。子を抱く母。そして赤ん坊。嫌でも、それがヒンメルの視界に入ってくる。
しかしその魔族は、その遺体が目に入らないかのように、感情表現の大げさな少女のフリを続けていた。笑顔を浮かべていた。
それは、ヒンメルを怒らせるには十分なものであった。
「……下種め……っ!」
「ええっ?! 勇者様ったら、酷いこと言いますねっ」
「ヒンメル、解析したけど駄目だね。この距離は私たちには不利だ。逃げた方がいいよ」
しかし、ヒンメルにかけられた言葉は、敗走を指示するものだった。目の前の魔族の討伐を、諦めろ、と。
「フリーレン、僕は……!」
「……アイゼン、この敵には勝てない。ヒンメルを連れて逃げよう」
ヒンメルは熱くなっている。
仕方なく、フリーレンはもう一人の仲間であるドワーフの戦士にも指示を出した。
「典型的な待ち伏せタイプだよ。あいつに近づけば近づくほど、あいつの魔法の影響を受ける。やるなら、事前準備をして遠距離から倒さなきゃいけない」
「えっ逃げるんですか? ……まあ、いいですけど」
ここで初めて魔族はフリーレンに目を向けた。
今の今までヒンメルを全身で挑発していたそれは、しかしフリーレンには途端に冷めた目を向ける。
やはり、あの魔族はヒンメルを意図的に挑発していたようだ。フリーレンは己の分析が正解だったことに確信を持った。
「ああ、逃げるしかないだなんて……僕は恥ずかしい……勇者失格じゃないか……!」
「アイゼン、ヒンメルを頼むよ」
「……ああ……ああ。俺は逃げるのは得意だからな……。そうだ、俺は逃げてばかりで……」
しかし、どうやらフリーレンの分析はあと一歩だけ、届いていなかったようだ。
すでにやられていた。
ヒンメルの様子がおかしいだけでなく、アイゼンまでが妙な言葉を口走っている。
「アイゼンもやられたか。ハイターがこの場に居なかったのは逆に僥倖だったかな」
しかし、まだ相手の『羞恥を覚えさせる魔法』が本格的に発動する距離でなかったのは幸いだろう。
正気を保ったままのフリーレンはもとより、ヒンメルも、アイゼンも、口惜しさに拳を握りしめはするものの、撤退という判断には異論はないようだった。
「本当に、皆さん、逃げるんですか?」
「お前が、跳ねても飛んでも愚鈍な魔族で助かったよ。牽制してるだけで近づいてこれないなら、負けることはないからね。それとも、自分から動いたら発動しない魔法、なのかな」
フリーレンが魔法を撃ちこむだけで、魔族――羞恥のシュヒタンはその場から動けないようだ。
動けないか、はたまた元から追撃という選択を取る気がないのかは分からないが、少しずつ後退していけば、フリーレンが分析した『羞恥を覚えさせる魔法』の射程からは逃れることが出来た。
発動条件は分からないが、恐らくこの魔族は自分から動くことは出来ない。この状況でも追いかけてこないあたり、その分析も間違ってはいまい。
「残念。フリーレン様が、もっと勇ましければよかったのに」
「私たちは、恐れることを知っているんだよ。それより、最初の演技が崩れてきてるよ、羞恥のシュヒタン」
先ほどまでの感情溢れる少女の素振りはもう消えていた。
全く感情を持たない顔で、冷たくフリーレンと目を合わせる羞恥のシュヒタン。そして、同じく冷酷な眼差しを向けるエルフの魔法使い、フリーレン。
「通じない演技なんて、意味がないですからね。フリーレン様。また、お会いしましょう?」
それが、唯一の邂逅。羞恥のシュヒタンからの敗走だった。
「ああ、僕は恥ずかしい。勇者を名乗って、いい格好をして、ただのナルシストじゃないか……! ああ……なんだこの白いマントは! 純白の王子様にでもなったつもりか、僕は! 恥ずかしい……!!」
「俺は……また逃げ出した! くそっ、なんだこの髭は! 弱いくせに、髭など生やして……!! とんだ恥さらしだ!!」
「ワシは……一人で逃げ出したのですじゃ……! ぐぅ……なんと恥ずかしい!!」
「なんですか、この状況は。気を付けてと言ったばかりだというのにこれですか」
木こりの庵は、ちょっとしたカオスな空間になっていた。
頭をかかえ、膝から崩れ落ちた男たち。
村人を皆殺しにされた老人が絶望するのは百歩譲ってしかたがないが、オマケで羞恥に苦しんでいる二人に、ハイターこそが頭を抱えて崩れ落ちたい気持ちになる。
「ハイターならどうにかなるでしょ? 僧侶なんだから」
「僧侶は何でも屋じゃないですからね。先ほどのおじいさんもまだ治療が終わってないというのに。時間はかかりますよ」
「いいよ。しばらくの間は。この庵に泊まらせてもらおう」
開けたままの扉の外に立ち、中に入ってこないフリーレン。
その眼は先ほどの村の方角を見つめている。どうやらシュヒタンの追撃を警戒しているのだろう。
「フリーレン、あなたは何の影響もないのですか?」
「そうだね。今のところは自覚症状もないけど、もしかしたらエルフには効きづらかったのかもしれないね」
しかしそう言うと、フリーレンは扉を離れてどこかへ向かおうとする。
敵か? と訝しむが、どうにもフリーレンから殺気のようなものは感じない。
「? フリーレン、どこへ行くのですか?」
「着替えだよ。ヒンメルたちがいるのに、この短いスカートはあり得ないでしょ。これで人前に出るくらいなら、死んだ方がマシだよ」
「……まあ、行ってらっしゃい」
「フリーレン様は、今は普通にスカートを着用なさってますよね」
じっくり火が通った肉を頬張りながら、フリーレンの話に相槌をうつフェルン。
なかなかに長い話だったので、炙っていた肉は少し焦げ付いてしまった。
「ハイターが頑張って解呪してくれたからね。当時は大変だったよ、ヒンメルは私のうなじを視るだけで大騒ぎするし、私も着替えをみられただけで大騒ぎだったし、アイゼンは髭を短くして悟りを開いちゃったし」
「完全に全員その魔法の影響受けてたんだな。っていうか、師匠は昔は髭を伸ばしてたのか?」
「そうだよ。顔の大半が髭なんじゃないかっていうくらい、髭が伸びてたね」
シュタルクも驚いているが、アイゼンが当時ながい髭を生やしていたのは本当だ。
アイゼンの中でどのような羞恥心が働いたのかは分からないが、あれ以降はあの強情な髭をかなり短くセットするようになっていた。
「髭を伸ばしたアイゼン様なんて、信じられませんね。先ほどのお話から察するに、ヒンメル様のトレードマークである、あの真っ赤なマントも?」
「旅の最初のうちは、白いマントを愛用していたんだよ」
「なんか冗談みたいだな」
シュタルクもフェルンも、それぞれ自分の師にあたる人物については知っていても、ヒンメルについては伝聞でしか聞いたことがない。
真っ赤なマントの勇者、それがヒンメルの一番有名な外見であり、トレードマークである。それがもともと白いマントで、謎の羞恥心でイメチェンをしただけだなど、だれが予想できよう。
「あの魔法の恐ろしいところは、魔法にかけられた自覚がないというところだよ。あの時は、人に肌を見せるのは恥ずかしいことだと本気で思っていたし、ヒンメルと手が触れるなんて考えられなかった。でも、それが異常だという自覚がないから、自分で解呪しようとも思わなかったんだよ」
ハイターがいてくれてよかったよ、と小さく付け加える。
「つまりは、影響を受けたことに気付かないまま、悪化すれば自死を選ぶ魔法、ということですね」
生きていることが恥ずかしい。
ひとり生き残った老人はどうにかハイターが解呪をし、隣村で受け入れられたものの、それでもやはり、最後までその言葉を吐いていた。
あれがどこまで『羞恥を覚えさせる魔法』の影響で、どこからが老人の本心の声だったのか、今となってはもう分からない。
あの村の人々を死に誘ったのは、ただの羞恥心。人間が誰しも持っている、普通の感情だったのだから。
「何より厄介なのが、影響を受けた自覚がない魔法が、近づくだけで発動しているんだよ」
「それでは、また羞恥のシュヒタンが現れたときは、逃げに徹して遠距離からの砲撃、ということでしょうか」
「……いや、どうかな。羞恥のシュヒタンは、そのあとゼーリエが戦って、どうにかしたという話だよ」
一度だけ、どうしても気になって人づてに情報を集めたことがある。
ゼーリエの名を聞いたときは数百年ぶりに聞いたその名前に驚いたものだが、しかしそれならばと納得した。
あの厄介な魔族も、ゼーリエならばどうにか出来たのだろう、と。
「ゼーリエって誰だ?」
「大陸魔法協会のトップの方ですよ、シュタルク様。フリーレン様のお師匠様であるフランメ様の、更にお師匠様なのですよね? 大変可愛らしいエルフの方でございました」
「まあ、そうだけど。そんなに可愛らしかった?」
おかしい。と、フリーレンは思った。
遥か昔の記憶では、フリーレンが言うのもなんだが、ゼーリエは可愛さとは無縁の生き物という印象だったのだ。
むしろ、可愛らしさなどという人間の少女のような要素は、途方もない遠い時代に無くしてしまったのかと思うような、人外の精神性だったと思うのだが。
「そうなのでございますか? 私が魔法を譲渡してもらう際は、自分の立場が分不相応で恥ずかしいと、お顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにしておられましたが……。ドレスの似合う方でございましたよ」
「そうなんだ。私は、カーテンに隔てられて、顔も見せてもらえなかったんだけどね」
「エルフにもそういう謙虚な人がいるんだなあ」
「どういう意味? シュタルク」
「うえぇ、怒らないでよぉ」
シュタルク相手に軽口を叩いて涙目にさせつつ、フリーレンは理解した。
ゼーリエが遥か彼方に置いてきた、少女のような感情。それは。
羞恥心。
「……そうか、ゼーリエでも勝てなかったのか」
「フリーレン様?」
「『羞恥を覚えさせる魔法』は、羞恥心を超えた狂気の持ち主でもなければ、攻略できないかもしれないね」
食べ残った骨を焚火の中に放りながら、フリーレンは過去に出会った恐るべき魔族を思い、思考に耽るのだった。
「シュヒタン、お姉さんが遊びにきたよ、お話ししよう?」
とある人里離れた秘境。そこに建てられた小さな屋敷には、一人の少女が住んでいる。いや、引きこもっている。
そしてそこには定期的に、妙齢の美しい女性が訪れるという。
その少女と女性は、それぞれが額に特徴的な角を生やしていた。
「うぅ……恥ずかしいっ。来ないで、ソリテール! また私のこと辱めに来たんでしょうっ……!」
「今日もシュヒタンは真っ赤になって可愛いね。もっと私に、『羞恥を覚えさせる魔法』をかけてもいいんだよ?」
ベッドに潜り、頭から布団をかぶるシュヒタン。
まさに年相応の少女といった感じに、いやいやと首を振ってソリテールの訪れを拒否している。
しかし、ソリテールは紅潮した頬に笑顔を浮かべて、ベッドの脇に腰を下ろした。
「そ、ソリテールは羞恥で喜ぶ変態じゃんっ……! へ、変態っ!!」
「だって、シュヒタンの魔法はどんなお話よりも凄いんだよ。魔法による疑似的なものとはいえ、魔族の私たちが人間らしい感情を得られる、奇跡のような魔法なんだから。もっと、お姉さんに感情を教えて?」
「『羞恥を覚えさせる魔法』っ! 『羞恥を覚えさせる魔法』っ! 『羞恥を覚えさせる魔法』っっ!!」
「うわあ……はぁ、はぁ、すごいよ、シュヒタン。これが人間の感情、羞恥心、なんだね。いまシュヒタンも、恥ずかしくてたまらないんだよね?」
無名の大魔族ソリテール。彼女は途方もない長い期間、人間の感情を研究してきた。
そしてある日、彼女が『手に入れた』のが、伝説的なエルフであるゼーリエと相対し、呪い返しの魔法により羞恥心を植え付けられてしまったこの魔族。羞恥で泣きわめくシュヒタンだった。
ソリテールにとって、それは実に僥倖なことである。
彼女の魔法さえあれば、疑似的とはいえ己自身が人間の感情を体感できるのだ。
それは実に、恥ずかしく、甘美で、魔族としての魂が裏返るような、衝撃的な経験であった。
ソリテールならば解呪をするのも容易いことだった。つまり、好きな時に羞恥心を得て、好きなときに羞恥心を捨てることができる。
以降、ソリテールは人目を恥ずかしがるシュヒタンのために秘境に屋敷を建て、定期的に疑似的な『感情』を味わいにくるようになった。
「うわぁーんっ! あほっ! 変態っ! ソリテールのド変態っ!」
「何度味わっても、凄いね。これが人の感情。人間はいつもこんな感情を持て余しているだなんて、すごいよね。お姉さん、もっと人間に興味が出てきたよ」
シュヒタンも知らなかった事実。
彼女が研鑽し続けてきた『羞恥を覚えさせる魔法』は、特定の相手には意味がない、ということ。
世の中には、羞恥を受け入れてしまう狂気の持ち主がいる、ということ。
その狂気にシュヒタンはいま、飼われている。
愛玩動物のように。
「うわぁぁんっ!」
「シュヒタン、自分の呪いを反射されて、羞恥心に芽生えたんだよね。ねえ、どんな気持ち?」
布団から出ているシュヒタンの脚を、優しく撫でる。
シュヒタンはビクッと反応を見せる。
「うわぁぁんっっ!!」
「昔着ていた、露出のものすごい衣装はどうしたのかな? なんでやめちゃったのか、お話ししてくれる?」
布団を持ち上げ、シュヒタンの耳を撫でる。
シュヒタンはビクッと反応を見せる。
「うわぁぁんっ! 死ねっ!!」
「残念。お姉さんはあなたより強いから、殺せないんだよ。シュヒタンのことは、お姉さんがこれからも大事に守ってあげるからね。『自害できない魔法』も、あなたのために作ってあげたんだから」
更には顔を出してソリテールに魔法を向けるシュヒタンを難なく捕えて、その首筋に手をかける。
もちろん首を絞めるなどということはしない。羞恥に悶える少女を、じっとりと観察するだけだ。
「ひぐっ……恥ずかしい……殺して、殺してよぉっ」
「そういえばね。そろそろマハトの結界が解けるよ。マハトは感情を知りたがっていたから、シュヒタンも一緒に行こうね? 例の、恥ずかしい格好で」
布団を引きはがすと、布団の中はじっとりと濡れていた。
「いや、いやぁあっ!! やだっ! やだっ!」
「本当は、アウラにも味わわせてあげたかったんだけど、死んじゃったから仕方ないよね。さあシュヒタン。今日もたっぷり。恥ずかしいことして遊ぼうね?」
今宵もそうしてもソリテールは、手に入れた『感情』を、その身にたっぷりと堪能するのだった。
「うぁああんっっ!!」
「フリーレンてさ、寝るの早いよな」
「フリーレン様は、朝は絶対に人より先に起きることにしているのですよ、シュタルク様」
「当たり前だよ。寝顔を人に見られるなんて、恥ずかしくて死んじゃうからね」