ビナーの咆哮が砂漠の空を穿つ。その瞬間から、この戦いは始まったようなものだった。
エイハブとホシノが駆けると、ビナーの瞳が二人を睨んだ。奴はこの二人を脅威と見做したのだ。
『ボス、アビドスは全力で支援をする! ランダムに支援物資を投下する、必要であれば端末から指示をしてくれ!』
カズヒラの声がイヤホン越しに響く。同時に、凄まじい砂嵐が一帯を襲った。ビナーの能力によるものだ。
だがそれがなんだと言うのだろう。むしろ、砂嵐は彼らにとって好都合だった。エイハブはアフガニスタンで、ホシノはアビドスでずっとそれを経験している。
砂漠の盾作戦、というものを知っているだろうか。
湾岸戦争内の大規模作戦として知られるものだが、概要を説明すれば、クウェートを侵攻したイラクに対しアメリカを主とする連合軍が上陸作戦を行った。
あまりに一方的かつ短期間に決着が付き、アメリカの勝利として知られるこの地上作戦では、実はかなりの誤射を出したことでも知られている。
その原因の一つが、砂嵐による
人は視界が奪われたら、代替としてあらゆる手段で何かを見ようとする。それはビナーにおいても同じであり。奴は赤外線を通して、自ら起こした砂嵐の中で視界を確保していた。
居た。赤外線装置越しに、ビナーは二つの人影を見つける。
しめた、と思いながら、ビナーはミサイルを放つ。すぐにミサイルは人影に着弾し爆発。同時に戦果を確かめるために砂嵐を晴らす。
だが、倒したはずの人間二人はピンピンしている。それに驚いてしまう。いくらヘイローがあるとはいえ、ミサイルだぞ。ミサイルを喰らえば、大概どうにか倒せる。そんな自信がビナーにはあった。
『待たせたな。いいセンスだ』
『うへ〜。おじさん腰が痛いよ〜』
「!!??」
ビナーはさらに驚く。倒したと思った人間達。それは人間などではない。二人によく似た風船だった。
それはデコイ。アビドスの研究開発部にて一番最初に開発された、陽動用バルーンだった。しっかり音声も出るタイプだ。
どうやらミサイル攻撃で穴が空いたのか、二つのバルーンはしなしなと崩れて行く。
次の瞬間、ビナーの横っ面に対戦車ロケットが突き刺さり爆発する。
いくら頑丈な機械の身体とはいえ、その衝撃は凄まじい。脳震盪のように視界を揺さぶられながらも対戦車ロケットが飛んできた方向を見ると、義手の人間が無反動砲をリロードしながら走っていた。
ビナーは怒りながらもそちらにレーザーを発射しようとし、けれどまた別方向から飛来した何かに邪魔される。目をピンポイントで撃たれた。
「……!!」
今度はそっちを見る。すると、先ほどいきなりやって来た狙撃手が今まさにライフルを撃って来ていた。
痛みに耐えながらレーザーを狙撃手に向けて撃つも、なんと消えるように跳躍して見えなくなってしまう。
違いを痛感する、とは言ったが、さっきからずっと痛いだけだ。物理的に痛感している。ビナーは混乱しながらも怒りが止まらない。
リロードするエイハブの隙を埋めるように、クワイエットが狙撃していく。ホシノは負けじと要請した使い捨てロケットを手にしてビナーに射撃する。
110mmの弾頭が飛翔し、ビナーの首元に炸裂すればホシノはさっさと移動する。そして次はエイハブが射撃する……と言ったように、彼女達はビナーを翻弄していた。
『了解した、榴弾砲による射撃を実施する!』
『戦車部隊、火力支援態勢完了しました! いつでも射撃できます!』
『ん、援護する』
カズとアヤネ、そしてヘリに退避していたシロコ達の無線が混交する。最初こそ驚いたが、このままいければ勝てるという確信がホシノにはあった。
その時だった。
ビナーがまた咆哮すると、先ほどのように砂嵐のようなものが起きた。それは良い。チャンスが増えるだけだ。
だが問題は、その砂嵐が赤みを帯びていたことだろう。その異変に対し警鐘を鳴らしたのは、エイハブとカズヒラだった。
「カズ!?」
『メタリックアーキアだと!? マズイ、アヤネ! ヘリを離脱させる!』
何が起きているのか分からなかった。だがすぐに、周辺の建物……正確に言えば、鉄骨部分に変化が起きた。
腐食している。それも、急速に。この赤い霧のようなものは、周辺の金属を蝕んでいるのだ。急いで
「先生、これなに!?」
「……金属を代謝する微生物だ。だが、なぜ奴が……?」
「エイハブ!」
ふと、スネークがバカでかい銃を持って合流する。諜報部が持ってきたミレニアムの情報で見たことがある、あれはレールガンだ。
「ヘリや戦車は避難させた。マスターが言うには、大型の兵器はこの霧に役に立たないらしいからな」
エイハブは頷く。どうやら何かを考えているようだった。
「どうした?」
「いや……今は奴を倒すことを考えよう」
「案はあるのか?」
次から次へと転がり込む問題に、エイハブは表情を変えない。
「攻撃は効いているようだ。だが決定打に欠ける」
だから、と。彼は腰のバックパックから爆薬を取り出す。C4のようだ。スネークとホシノは驚いたように顔を見合わせた。それと同時に、クワイエットが合流してきて首を傾げる。
昔から無茶な人だとは思っていた。凡そ、普通の兵士にはできないことを単独でやってきたのだ。
クワイエットのように寄生虫による治療を受けていないのに、それすらも凌駕する戦闘力と柔軟な思考。例え彼が本物でないとしても、その姿は正しくBIGBOSSだ。
クワイエットは手にしたレールガンの重みを確かめながら、駆ける。
あの頃の速度は、ヘイローがあるせいかこちらの世界に来てからも維持している。自分はこの世界でも少し特異な体質であるらしく、前の世界でクワイエットとしてできていたことは光合成以外はできるのだ。
自分よりは遅くても、それでも並走する勢いで走る自分のボスを見て、嬉しく思わない訳がない。顔は変われど、確かに彼は自分の知るBIGBOSSだ。
「援護開始!」
そう命じられると、クワイエットは一気に跳躍して近場の建物の上に登る。
そしてレールガンを構え、チャージボタンを押す。使い方は、あのBIGBOSSに似た若造に教えてもらった。
ビナーの頭がエイハブへと向くと、奴はまた咆哮する。そして、
「させないよ!」
アビドスのちっこい少女がそう言うと、エイハブの身体を抱き抱えて横へ逃げる。棘の範囲から逃れると、すぐにリリース。またエイハブは走り出す。
同時に、チャージが完了した。すぐに鼻歌を歌い、エイハブにその事を知らせる。
「デイヴィッド!」
「任せろ」
クワイエットとは反対側から出現したスネークが、パンツァーファウスト3をビナーに発射した。だがそれは、段々と慣れてきたビナーにあっさりと避けられる。
計画通りだ。スネークは陽動なのだから。
「クワイエット!」
両目を開いてスコープを覗く。そして横顔を向けているビナーの首裏を狙い……引き金を引いた。
閃光のような一撃が、ビナーの後ろ首を貫いた。戦車の代替として用いられていた月光の装甲すらも貫く一撃だ。電磁加速された弾丸は、ビナーの厚い装甲すらも貫徹したのだ。
ビナーが咆哮し、態勢を崩し倒れる。エイハブはすかさず、その口内目掛けてC4が詰まったバックパックを投げ入れた。
「!!??」
驚いたビナーは思わずバックパックを飲み込むと、暴れるように立ち上がる。エイハブは滑り込むようにヘッドスライディングするとビナーの身体から離れ、そのままうつ伏せになる。
刹那、とてつもない爆発がビナーの内側から起きた。咆哮する間もなく、ビナーは苦しみながら再度倒れる。そうなれば、ようやく活動を止めたのだ。
アヤネ達はその光景を、離れた上空から見ていた。
口から爆炎を吐き出し、そのまま倒れ込むビナーを見て誰もが歓喜の声を上げる。同時に赤い霧も晴れたため、すぐにアヤネはパイロットに現地に着陸するように言う。
『流石だボス、あの正体不明のロボットを倒すとは……あんた最高だ!』
カズヒラもその活躍に喜んでいるようだった。
ヘリが着陸すると、現地にはアヤネ達だけではなく戦車部隊や装甲歩兵部隊と言った、現地にいたアビドス生達も集まっていた。
彼女達は歓声をあげながら、BIGBOSSの名を叫んでいるという……カズヒラとエイハブにしてみれば、なんとも言い難い状況だった。
「おいおいお前ら、やめてくれ。そんなんじゃない」
宥めるエイハブだが、アビドス生からすれば彼は自分達のボスを救ってくれた英雄に他ならなかった。
ボスを救った大いなる大人。それが、彼女達が示すBIGBOSSであり、
「先生、本当に。本当に、ありがとう」
ホシノがエイハブに抱き付き、スニーキングスーツの胸に顔を埋めている。
いつものように優しく左の口角を上げて笑い、彼女の頭を撫でるエイハブ。今は、まぁ仕方ない。少しだけでも彼女に寄り添えれば。
クワイエットはため息混じりにその光景を眺める。あの立場が羨ましいかと言われれば、否定はできない。今すぐにでも歴史的再会に喜んで抱き着いてやりたいが、そんなものはいつだって出来るのだ。ボスの相棒は自分なのだから。
そんな正妻じみた考えで、隣のスネークにレールガンを投げ渡す。
「うぉ! ……ゲヘナの生徒か。お前は一体……」
「ボスによろしく、デイヴィッド」
スネークからすれば、歳下の少女から呼び捨てにされた上にレールガンを投げ渡されるという行為に、何か思わない訳がないが、ぐっと堪える。まぁゲヘナだしな、という偏見で。
「露出し過ぎだぞ。アコよりはマシだが」
「大きなお世話」
言葉を使って反論すると、クワイエットは振り返らずに手を振って去っていく。スネークはエイハブと彼女の関係性など知らない。
『ボス、よくやった。……やはり、そうだったんだ。俺達ダイアモンド・ドッグズや、アビドスの目に狂いはなかったんだ』
ホログラムのカズがしんみりしたように言う。
『あんたこそ、BIGBOSSだ。あの時、俺はBIGBOSSに捨てられたのだと、一人報復心に燃えていた』
「カズ」
ホシノを抱きしめながら、カズと目を合わせる。
『だが違う。俺は、俺達は見捨てられてなんかいない。皆、よく聞いてくれ!』
叫ぶようにカズヒラが言い聞かせると、アビドス生達は黙って彼を見つめる。無垢な瞳が彼を射抜いた。
『俺は昔、ボスに救われた。報復心に囚われ、世界を恨んでいた俺は、もう一度ボスと歩む未来を夢見ることができた! 君達はどうだ!? 社会から見捨てられ、ゴロつきになるしかなかった! アビドスも、世界から見捨てられ砂漠に埋もれるしかなかった! だが今は!? 俺達はキヴォトスでも有数の学校になろうとしている! ゲヘナを降し、今カイザーすらも打ち破った!』
一部の生徒達が同調するように拳を上げて叫んでいる。スネークはそれを苦虫を噛み潰すような表情で見ている事しかできない。
『俺達はこのまま突き進む! このキヴォトスに、自分達の存在意義を見直させる! これは、そのための一歩だ!』
歓声と拍手が巻き起こる。対策委員会ですらも、目を輝かせて拍手している。ただ一人、シロコを除いて。エイハブは。そして彼に最も近いホシノは、彼女達の希望なのだ。
相変わらず、マスターは話が上手いとスネークは思う。だがその一歩は、未来への一歩ではない。地獄への道のりだ。止めなければならない。彼女達が過ちを起こす前に。
『スネーク……』
「……分かってる」
だがスネークの懸念は、彼らだけのものではなかった。
「カズ、もういい。……聞いてくれ、皆。俺達大人は、もうじきここを去る」
義手を上げ、注目させてそう言い放つと歓喜から一転、皆の顔が曇った。当たり前だ、自分達の希望がいなくなる。それは、裏切られ続けた彼女達にとって望まぬ出来事だ。
『おいボス……!』
「カズ。ここは
『天使は……
いつかのやり取りに近いものを、二人はする。
エイハブはホシノの両肩に手を添えて、彼女と向き合う。今にも泣き出しそうな顔で、ホシノはエイハブを見つめていた。
「ホシノ。お前は
「せん、せい」
「俺の、俺達のボスが言っていた言葉がある」
脳裏に浮かぶのは、きっとカリブ海。或いはもっと前のことかもしれない。
「俺達に明日はない。だが、未来を夢見ることはできると」
彼女達に聞こえる声で、諭すように。
「けれど、俺達があの頃を必死で生きようとするほど、未来は遠くなっていった。死ぬまで、俺に未来が来ることはなかったんだ。アウターヘブンで、その最期まで俺は気付くことはできなかった。デイヴィッドに殺されるまで」
「……っ」
スネークは何も言えなかった。エイハブがビッグボスの部隊にいたことは知っていた。だが、まさか自分が殺した相手だとは思わなかったのだ。
「だからホシノ、お前は未来を夢見ていて欲しい。俺達ができなかった分まで。俺達が必要じゃなくなる、そんな未来を。自分の中の鬼を捨てて、今日より良い明日をお前達が作る。それが、俺やカズの、生きた証になるんだ」
スネークは驚いた。それはまさに、自分達が抱いていた思想そのものだ。
ありのままの世界を残すために最善を尽くすこと。そして次の世代に託すこと。それはかつての、自分達の命題だった。そして最期には、ビッグボスが気付いたことだ。
ザ・ボスの遺志。エイハブは、それを語ったのだ。
「そこに、私達の夢に、先生はいないの?」
「……俺たちは死人だ。戦うことしか知らない人間に、居場所はない。
ホシノの頭をエイハブが撫でる。まるで訣別であるように。
あれだけ盛り上がっていた少女達は、まるで通夜のように静まり返る。そして各々が考えるのだ。より良い未来とは、一体何であるのかと。
エイハブはホシノから離れ、ファントムシガーを取り出して咥える。
「ホシノ、帰ろう。お前達の家へ」
アビドスは既に、エイハブの居場所ではないと。彼はそう言った。ホシノは頷くことができないでいる。
だがふと、シロコがホシノの横に立つ。
「違う。あそこは、みんなの居場所。私達だけじゃない。エイハブ先生も、デイヴィッド先生も。みんなが帰る場所」
「……シロコ?」
「先生。いつでもいい。すぐじゃなくていい。だから、いつか帰って来てほしい。私達が待つ場所で。昔、ホシノ先輩が私にしてくれたように、あそこは先生の居場所でもあるんだから」
強い瞳で、シロコはエイハブを見た。スネークも、そしてエイハブも。誰もがその言葉と強い意志に驚く。
「……アビドスは、いつでも先生を待ってるよ。だから、ね。先生」
ホシノは笑顔を作り、
「また、先生が葉巻を吸える場所を、私達は残しておくからさ」
「……ホシノ」
エイハブが笑う。その口から水蒸気を出しながら。
「あと先生? ここは禁煙だよ」
「え?」
ホシノが指差す先に、朽ちた禁煙の看板がある。どうやらカイザーは禁煙政策を進めていたようだ。きっとあの理事はやりづらかっただろうに。
「……はは、一本取られたなこりゃ」
ファントムシガーをポケットに収納すると、アビドスの生徒達は笑う。そして、帰ろう、というホシノの一言で帰還が決定した。
報復心。怒り。
凄まじい怒りが、ビナーのAIを支配していた。
全身を内側から焼かれ、けれどまだ生きている彼は、ゆっくりとその機会を待つ。
自分は死ぬだろう。だが、ただで死んでたまるかという、執念が芽生えている。
生徒達はほとんどが撤収し、今は目の前で自分を直接的に屠った二人が何かを話している。
絶好の機会だ。奴らに復讐を。自分の報復心で、奴らを焼いてやるのだ。
突然、エイハブとホシノの背後でビナーが動き出した。
幸いにも、ほとんどの生徒は撤収している。たまたま、ホシノとエイハブだけがこうして話し込んでいたのだ。
エイハブが振り返れば、ビナーが身体を立ち上げてこちらを睨んでいる。その瞳からは炎が漏れ出ていた。
報復心。かつて自分が、自分達が、撒き散らし、そして戦ったもの。まるで燃える男のようだった。
ボロボロで、スパークもしている。だがビナーはその口にレーザーを溜める。
「よせぇ!!!!!!」
咄嗟に、エイハブはホシノを庇う。驚くホシノは彼の名を叫ぶ間もなかった。
刹那、不完全なレーザーが放たれる。カズヒラはエナジーウォールを展開するも、完全には間に合わなかった。
不完全なもの同士がぶつかり合い、爆発を起こす。ホシノは見てしまった。その爆発がエイハブの半身を焼いているところを。
そのまま爆風で二人は吹き飛ばされる。
脳震盪を起こしながらも、ホシノはそばでうつ伏せに倒れていたエイハブを仰向けにした。
「先生、先生!!!!!!」
『ボス、死ぬな!!!!!! 衛生兵!!!!!!』
それと同時に、幾人かの生徒やスネークがホシノ達を見つけた。ビナーは既に、崩壊しかけているが立っている。
「エイハブ! クソ!」
あまりに酷いその傷を見て、スネークは冷や汗を流す。誰がどう見たって死んでいる。顔は半分ほど焼け爛れ、何かの破片が頭に突き刺さっていた。
「先生、先生! やだよ、先生!」
必死に揺さぶるホシノに、エイハブは応えない。
ただ虚な左眼が、彼女を見た。生きている。
生きているだけだ。その報復心が、ホシノを襲う。
スネーク達がビナーに向けて銃を撃っていることにも気がつかない。ホシノはただ、燃えるような報復心と深い絶望に襲われた。
神秘が、反転仕掛ける。
ホシノのヘイローが揺れ動く。
俺たちに明日はない。だが未来を夢見る事ができる。
ふと、ホシノの脳裏に先ほどの言葉が浮かんだ。
未来。自分達の未来。それを、絶望で覆い尽くしてはいけない。絶やしてはならない。
だが、生まれた報復心はどうすれば良い? これを捨てることなど、ホシノにはできないのだ。
もう二度と、失いたくはない。
一度目の絶望に、自分は負けた。だからもう、負けたくはない。
報復心が燃える炎だとするならば。今こそ自分に力を貸せと。ホシノは願う。
神秘は、ホシノの報復心に呼応する。
スネークは、砂漠で鯨を見た。
大きくて、燃え滾る鯨を。
ビナーはせいせいとした心で、後は死を待つだけだった。そんな自分を、大きな影が覆う。
何かと思い見上げれば、大きな鯨が。
燃える白鯨が、こちらを飲み込まんとしているではないか。
恐怖、という感情を、今までビナーは持ち合わせていなかった。
理解できない感情が自分を襲った。死を待っていた自分が、恐怖し、死を拒もうとしているなんて理解ができなかった。
だからもう、ビナーは必死に叫んだ。側から見ればそれは単なる咆哮だっただろう。けれどビナーにとってそれは、悲鳴に他ならなかった。
すべてを飲み込む白鯨が、その瞳で語っている。
自分にひれ伏せ。恐怖を受け入れろ。
ビナーはその顎に飲み込まれる寸前まで、恐怖に心を支配されていた。大きかった報復心は、更に巨大な報復心によって飲み込まれたのだ。
──心拍低下してる!
──ショック状態だ! 早く!
慌ただしい声がゲヘナの校舎に響く。その音は、救急医学部の手術室へと向かっていた。
夥しい量の血が、ストレッチャーに溢れている。そして肉が焼け焦げたような臭いすらも。
この日、カイザーPMCはメディアによりアビドス高校の生徒を誘拐したことをリークされ、親会社であるカイザーコーポレーションはその対応に混乱することになる。株価は大幅に下落し、連邦生徒会による査察が行われることとなった。