夕焼けに染まる病院の裏口で、スレッタ・マーキュリーはペコリと頭を下げた。
「ペトラさん、今日は本当にありがとうございました。ソフィさんのこと、どうかよろしくお願いします」
「あ、うん……。まあ、どうにか……」
頭を下げられたほうは、なんとも冴えない表情だった。
無理もない。ペトラ・イッタは朝からずっとスレッタの救助活動を手伝い、と同時にジェターク寮生に応援を求め、やってきた生徒たちや救急車に搬送の指示を飛ばし、入院の準備を整えさせ、さらに患者の手術が終わるまでのあいだに様々な書類手続きをこなしていたのだ。さすがに疲労の色は隠せない。
ついでに、というにはあまりにも重大だが、学園を襲ったテロリストを、自分たちの会社が経営する病院に匿わせる行為にも加担している。しかも――スレッタの勢いに押し流された形とはいえ――ほぼ彼女の独断でだ。
「大丈夫。戦闘が終わったら敵も救護しなきゃいけないって、授業でもそう習ったし。たぶんグエル先輩もラウダ先輩も受け入れてくれる……たぶん……」
自分に言い聞かせるようにつぶやく彼女の心労はいかばかりか。
「あの、ペトラさん……」
頭を下げたままのスレッタがおずおずと見上げると、ペトラと目が合った。
彼女は一つ息をつくと、気を取り直したように苦笑してみせた。
「アンタ、本当にタフなんだね。私はもう立ってるのもしんどいってのにさ」
そしてスレッタに顔を上げるように促したあと、
「救助活動をやってるときのアンタ、本当に凄かったよ」
素直な称賛を投げかけてきた。
「心音と呼吸を確認して、コックピットに患者を座らせたまま手早く止血して、すぐさま人工呼吸して……
こっちは患者が血まみれなのにビビってろくに動けなかったってのにさ。ホント、アンタはプロなんだねえ」
「それは、その。この学園に来るまで、ずっと水星で救助活動をやっていたので……」
「だから、それが凄いって言ってるの」
そしてペトラは、申し訳なさそうに首を振った。
「これじゃもう、アンタのこと気軽に水星ちゃんなんて呼ぶわけにはいかないね。
スレッタって呼んでいい? これからはさ」
それは、長く対立関係にあったペトラからの、対等な立場での和解のお願いだった。
「……はい、こちらからもお願いします!」
しっかりとペトラと握手を交わしてから、スレッタは踵を返す。喜びに満ちた笑顔で帰り道を行きかけ、
しかし、少女はすぐに表情を曇らせた。
一瞬だけ考えこんでから、スレッタは身体ごと振り返る。
「あの、ペトラさんっ!」
「……なに?」
「その、もしかしたら、また大変なことになるかもしれません」
「えっ?」
ペトラが眉をひそめる。
「大変なことって……またテロでも起こるの?」
「あっ、いえっ、そうじゃないです。たぶん。
でも、もしかしたら近いうちに……いえ、だいぶ後になるかもしれないけれど……」
「よく分かんないね。何が起こるっていうの? スレッタ」
「うーんと……」
スレッタは首を傾げ、考え込む。
何が起こるか、と問われると、実はスレッタにもまだ分かっていない。つい先日、無理やり流し込まれた知識の整理が追い付いていないのだ。
確かなのはただ一つ、自分の家族が何か大変なことをしでかすという予感だけ。
どう説明すべきか考え込む少女に、疲れ切ったペトラがジト目を送る。
やっぱりなんか頼りないなコイツ、とぼやいてから、彼女は告げた。
「……ええと、スレッタ。
何が起こるか判明したら、私の番号に連絡して。いつでも相談に乗るから。
だけど今日はもう帰りな。こんな時間だし、地球寮の連中も心配するよ?」
「あ、はい、そうですね……」
夜の闇が迫る中、ふたたびスレッタは踵を返した。
ペトラの視線に見送られ、今度こそ病院の建物を出ていく。
とぼとぼと、敷地を歩く。
スレッタの脳裏に、ぐるぐるといろいろな光景が巡る。
その多くは、姉であるエリクトからデータストーム経由で渡された知識だ。
21年前の虐殺。肉体的な死を迎えたエリクト。娘の生体コードをルブリスに移すことを決断した母。そして、肉体を失ったエリクトが現実世界でも活動できるようにするための計画。
「データストーム領域の拡大……」
無数の知識の断片が巡った後、最後にスレッタの脳裏に浮かんだのは、今朝助けたばかりの年下の少女の顔だった。
ソフィの頬に走る、痛々しい赤い傷跡。それが激しいデータストームの後遺症であることを、今のスレッタは知っている。
ガンダムに乗る人間の宿命。本来であればスレッタが晒されるはずだった運命。エリクトが肩代わりしてくれなければ、自分もきっと、ああなっていた。
そして、もし母の計画が実現すれば――
「……………」
唇をぎゅっと噛み締め、無言のままにとぼとぼと歩いていると、病院の門にたどり着く。
ふと顔を上げると、見知った人影が門のそばに立っていた。
今までずっと行方不明だった同級生。
そしてソフィの救助活動の最中に突然姿を見せて、ペトラとともにスレッタを手伝ってくれた少女。
ニカ・ナナウラが、元気のない笑顔を向けてきた。
「お疲れ、スレッタ」
待っててくれたんですか、とスレッタが声をかけると、ニカは力なく首を振る。
「正直、一人でみんなのところに帰る覚悟が決まらなくて、さ」
そしてニカはスレッタの隣に並び、一緒に歩き始めたのだった。
赤い光が夜の闇に変わっていく中を、二人して無言で歩く。
会話をしようにも、二人ともがそれぞれ重い事情を抱えていて、何を話せばいいか分からなかった。
ニカ・ナナウラ。
スレッタの同級生である彼女は、本来この学園に入学できる人間ではない。
会社の後ろ盾もなく、それどころか庇護してくれる両親もいない孤児の身であった。
どこかの工場で幼いころから部品の組み立てを強制され、死ぬまでそれを続けるしかなかった。本来ならば。
その運命から抜け出すために、ニカは違法の道を選んだ。
地球の支援者――皆からプリンスと呼ばれていた――から偽の身分を与えてもらった上で、このアスティカシア学園に通うことを決めたのだ。
代償として、彼女にはプリンスとテロ組織との連絡役をこなす使命が与えられた。
そしてその行動が、プラント・クエタやランブルリングでのテロに繋がることになった。殺人と破壊活動の片棒を、知らぬままにとはいえ、ニカは担ぐことになったのだ。
救助活動がひと段落ついた後、ソフィの手術が終わるのを待合室で待つ間に、ニカはスレッタに全ての事情を明かし、そして深く頭を下げた。
自分がもっと早く――せめて、プラント・クエタでのテロの直後にすべてを通報していれば、こんなことにはならなかった、と。
「私がやるべきことをやっていれば、学園で死者は出なかった。
みんなを命の危険に晒すこともなかった。
そして、あなたを戦いに巻き込むこともなかったんだよ。
……本当にごめん、スレッタ」
そして、顔を上げた彼女は、手術室へと憂いを含んだ視線を向ける。
「……私がちゃんとしていれば、ソフィもあんな目に遭わずに済んだかもしれない。
私がすぐに通報して、シャディク先輩の計画がもっと早く明らかになっていれば、そうすればあの二人はこの学園に来ることはなかった。
もしかしたら、今頃ソフィはガンダムを降りて、ノレアと一緒にどこかへ逃げられたかも知れない」
スレッタたちの前から姿を消していた間、ニカはソフィやノレア、そしてエラン・ケレスの影武者とともにグラスレー寮の一室に閉じ込められていたのだという。
その部屋の中で、ニカは彼女らと会話を交わし、その人間性の一端に触れたのだという。
「テロは、やっちゃいけないこと。許されないこと。私はもちろんだけど、ソフィもノレアも、絶対に裁かれなければいけない。
でも……」
ノレアはためらうように口ごもり、そして、続けた。
「ソフィもノレアも、ただの悪い人間じゃなかった。もう少しまともな受け入れ先があれば――ガンダムになんて乗せられなければ、きっと普通に生きられたんだと思う。
だってあの子たちも、友達のことを思いやることのできる子だったから。
友達の命を守るために、自分の命を危険に晒す人、だったから」
待合室の椅子に座り、膝の上で両手を組んだニカがこぼした、そんな言葉。
それがスレッタの心に残った。
……他人を思いやれる人でも、愛することができる人でも、悪いことをしてしまうことは、ある。
スレッタは下を向き、拳を握りしめる。
と、急に隣のニカが口を開いた。
何かを決心したように、顔を上げながら。
「私ね、寮に帰ったら、みんなにちゃんと全て話すよ。
みんなに謝って、そしてフロント管理局に出頭する。今度こそ、自首する」
「えっ……?」
「私は、みんなに嫌われたくなくて、この学園の楽しい日々を続けたくて、やるべきことをやらなかった。
みんなに黙って、自分一人の力でどうにかできると思ってた。やり過ごして、いつもの日常を続けられると思ってた。
……私がやるべきことをしなかったせいで、死ななくてもいい人が死んで、苦しまなくていい人が、今も苦しんでる。
それが私の罪」
「…………」
「私は、裁かれなきゃいけない。ちゃんと償わなくちゃいけない。
何年かかってでも。
そうしなきゃいけないから、そうするんだ。
……私はそう決めたよ、スレッタ」
決然と前を向いて、同級生がそう宣言する。
その横顔を見つめて、スレッタは再び思いを巡らせる。
母の計画。
そして、ソフィの顔に走る赤い傷跡。
――やるべき、こと。
――いま自分が、すべき、こと。
「あのっ……!」
スレッタは意を決し、口を開いた。
「ニカさん。こんなときに申し訳ないけど、聞いてもらっていいですか……っ!?」
「えっ」
びっくり顔の友人を真剣な表情で見つめ、スレッタは続ける。
「わたしも……です。やるべきことをやってなかったんです。
嫌なことから目を背けて、このままやり過ごそうとしてたんです」
自分の家族がしようとしていることを、もっと早く直視すべきだった。
自分の家族のことを、もっと早くみんなに相談すべきだった。
かつてソフィ・プロネから投げつけられた言葉を、スレッタは脳裏で反芻する。
――なんでエアリアルは武器持ってるの?
それは、力ずくで相手に言うことを聞かせるためだ。
――誰が暴力マシーンを作ったの?
お母さんだ。正確には、21年前に作られたルブリスという機体を、お母さんが全面的に改修した。
自らの願いをかなえるために。
みんなの反対を押し切って、力ずくででも世界を書き換えるために。
そしてもし、お母さんの願い通りに世界が書き換えられたなら――
ソフィの頬に走る赤い傷跡を思い出し、スレッタは拳を強く握りこむ。
「……お母さんを、エリクトを、止めなくちゃいけない。
そうしないときっと、恐ろしいことが起こってしまう。
でも、わたしには今、止める方法がなくて。どうすればいいかわからなくて。
だけど、止めなくちゃ。やるべきことを、やらなくちゃ……っ!」
「ちょっと待ってスレッタ、事情がよく分からないよ」
ニカが慌てたように手を振った。
スレッタの言葉が途切れたのを見計らい、彼女は優しくうなずき、そして促してきた。
「大丈夫、話はちゃんと聞くよ。
だから急がず、最初から説明してね」
その言葉で、スレッタは落ち着きを取り戻す。
ひとつ深呼吸し、そして覚悟を決める。
自分の出生と、そして家族の秘密を明かすことを。
夜の闇を歩きながら、スレッタ・マーキュリーは、21年前から続く物語を語り始めた。
この章の時点での原作との相違点は、以下の通りとなります。
・スレッタはソフィの命を助け、そのうえでデータストームの被害者がどうなるかを直接目にした
・スレッタがニカと二人きりで直接話し合い、ニカの罪を知り、そして自分自身を見つめ直した
・二度目の学園テロが被害0に終わったため、ペトラが無事
・ソフィがジェターク社直営の病院に担ぎ込まれている
これらの違いが何をもたらすかについては、次回以降で明らかとなっていきます。