救急車両11号は、トリニティ総合学園を目指していた。運転席にセナ、助手席に先生、そして荷台にヒナを乗せていた。
「できる限り急いで」と乗る際に伝えた先生は、角を曲がるセナの運転の荒さに、荷台のヒナの身を案じていた。
先生が荷台にちらりと視線をやったのに気づいてセナが苦笑する。それはわずかに口角を上げるだけのものだったが、先生には届いた。
「ご心配なく。そこまで乱暴な運転はしておりません」
「……そう、なのかな」
「ええ。ヒナの傷口を広げてしまってはカガリの頑張りが無駄になりますから」
セナのこぼした言葉を聞いて、先生はもう一人に意識を向けた。フロントガラスの先の景色へ向けられた視線は、もっと遠いものを見ている。あそこで別れたあの少女は、今、何をしているのだろう。無事でいるのかどうかも、自分のはったりが効力を発揮したのかも不明だった。歩く地雷のような彼女が道を踏み外していないとは、先生は断言できない。
「カガリは気難しい子だね」
思わず、口にしてしまった。
セナがちらりと先生の顔をうかがう。運転中にバックミラーを確認するような自然な動作だった。
「気難しい、ですか?」
「うん。私には、どうすればいいのか分からない」
カガリとのやり取りを説明しようとするとどうしても殺人や死体というワードに掠ってしまいそうで、それきり先生は黙りこんだ。セナの解釈に委ねることにした。本当は重いため息をつきたかった。けれどそれは、先生がやっていいことではない。今もまだ諦めていない子たちがいるのだ。そんな子たちを尻目にため息なんて、許されるはずがない。
もしも本当に殺してしまったとして、カガリや周囲が許せるかは不明だが、自分は許しに近いものを与えてしまうのだろう。先生は確信していた。
子どもに甘いとかそういう話ではなく、力づくで子どものことを止めるのは、違うと思うからだ。自分は先生だから、教え、導となれないことは自分の落ち度。責任を子どもに求めるのは、酷だ。子どもにそれを求めてしまったら最後、その子に残される道は成長ではなく人形となることである。
「先生は、カガリのことで思うところはございませんか?」
その問いは先生にとって不明瞭だった。はっきりと言葉にするセナの物言いにしては珍しく、セナ自身、言語化に困っているのかもしれない。先生はそう考えた。
「なんだか、あまり好かれていないと思うんだ。刺々しいって感じでは、ないと思うんだけどね……」
「ああ見えて、地雷のように繊細ですから」
セナは自分と同じ言葉を脳裏に思い浮かべていたらしい。先生はそう気がついて力なく口もとを緩めそうになったが、言葉の意味を考えて立ち止まる。
「私も地雷のようだとは思ったけど、気難しいと思っているよ」
「起爆する場所が分からないからですか」
「……うん、まあ」
ややあって、セナが口を開く。
「繊細です。カガリは」
「そうなのかな」
「足を乗せただけで起爆するのです。これを繊細と言わずになんというのですか」
重苦しい空気の中でふっと笑ってしまった先生に「どちらもあります」とセナは続けた。
他の生徒は、無条件に、大人というだけで嫌悪なり好感なりを分かりやすく示してくれる。けれどもカガリは初めて先生を見たときに、まさしく奇妙としか言いようのない表情をした。山奥の泉を覗きこんだら水底に別の世界が広がっていて、それに驚くような表情。かと思えば、笑顔でよろしくお願いしますなんて言ってくる。先生は彼女の真意が読めなかった。
もちろん、カガリが生徒であることに変わりはない。
シャーレの当番に入ったときはしっかり仕事をこなしてくれるし、雑談にも付き合ってくれる。元気いっぱいに話題を振ってくれたりもする。それでもどこか、常に肩に荷物を乗せているような、張り詰めた空気を持つ少女がカガリだった。
おいしいスイーツ店や買い物の話が出たときに誘ってみてもかわされる。街で偶然会っても、一緒に帰ったり店を回ったりすることもない。挨拶して終わり。自分が気を許した相手以外には寄りつかないような子だった。そしてその対象に、大人は間違いなく含まれていなかった。
「その上で不器用ですから、一緒にいたくなるんですよ」
「地雷、なのに? それは優しいからとか、そういう理由があるの?」
セナは目を細めた。遠くにある道路標識を眺めるみたいに、ぼやけたものを見定めようとする感じがあった。
「あれは決して優しさではありません。そして女の子はいつだって、信念のある人を好みます」
先生は首をひねる。この物言いも、普段のセナからかけ離れている。
「カガリの言葉?」
「いいえ、最初の一文はヒナの言葉です。無論ヒナは長い時間カガリと一緒にいますから、言葉が似通っているのかもしれませんが」
「二文目は?」
「……強いて言えば、二人の言葉でしょうか。誰と誰かはお任せします」
またしても、ちらりと先生を見たセナ。
「先生には分からないのでしょうか。全力な人は好ましいですよ」
「それが危うさだったとしても?」
「危うくない普通な人に、人は惹かれるものでしょうか? 『この人はなんて普通な人なんだ』『その平凡さに憧れる』と、果たしてそんなことはありえるのでしょうか」
「今、話をそらしたね」
「やはりカガリのようにはいきませんね」
「平然と肯定するんだ」
ふっと笑い合ってからそれきり会話は生まれなかった。先生はトリニティについたときのことを考えており、セナは運転に集中していた。
セナはヒナの怪我の具合を、見た目ほどはひどくないと踏んでいた。それは彼女の体が持つ異常な耐久力と回復力のためだった。むしろカガリのほうを心配していた。
戦場に流れる時間と、こうして人を輸送している時間は、何かが違う。セナは運転中に思う。事故を起こさないようほどほどに意識をさいているから、一応は安全だ。
人を傷つけるための時間と人を助けるための時間なのだから比べられないのかもしれないが、命の重みがかかっている方向性の違いの他に、密度とか緊張感といったものが違うように感じられた。
信号で止まっている時間が、もどかしい。この間にも流れ落ちる体液が、削り取られる魂がある。
先生はセナを慰めるようと話しかけたが、笑みを向けてもそれが帰ってくることはなかった。
どれだけ軽い会話をかわそうとも、諦念がうろつくトリニティ自治区を走る車の空気は重くなってしまう。
株価の値動きみたいに激しく上下するビル群。それはトリニティ総合学園に近づくにつれて、徐々に低い住居群へと変わっていった。
セナの気持ちも右肩下がりに落ちこんでいった。事実上は、出血はひどいが死に至るほどではない。けれど、初めて見る死体がゲヘナ最強と謳われている空崎ヒナになるかもしれないという想像に胸騒ぎを覚えていた。何もできない自分の中で無力感だけが募っていく。
ぽつりとこぼれる。
「私にできることは、なんでしょうか」
「……分からない」
セナは返答を求めたつもりはなかった。けれど言葉が返ってきたため、ひとまず先生に意識を向けた。
「ああでも」と口を開いてから、先生は考えをまとめるために間をあけていた。
セナはずっと黙っていた。
やがて先生が大きな吐息とともに話し始めた。
「私は、実を言うと、カガリとヒナの関係の深さがまだよく分かっていないんだ。カガリがヒナに向けている矢印の大きさは想像できているんだけど、ヒナからカガリへのものは未知数……って言えばいいのかな」
自分はこれから、おそらくトリニティにかかりきりになってしまうだろう。だからゲヘナの問題に介入できるかは分からないし、もしも介入できたとして、手遅れになっている可能性がある。
カガリとヒナが互いを思っている気持ちを見誤っている可能性が高いとまで話した。
先生とセナの視線が交わった。
「だから、可能なら、二人をよく見てきたセナに、ストッパーをお願いできないかな」
○
トリニティに着いてすぐ、先生は「話をしてくるよ」とどこかに行った。正門に群がる生徒の間を縫っての素早い移動だった。
セナは押し寄せてくるトリニティ生徒の波を救護騎士団とともに退け、医務室までヒナを運び、丁重にベッドに寝かせた。
ゲヘナの医務室と似たりよったりで、清潔を散りばめた白色を基調としている。セナは薬品棚に並ぶ瓶や室内にある小物を作っている会社名まで言い当てることができた。医務室に特有の、体にはよさそうだが……と言いたくなる香りや外から聞こえてくる喧騒まで、まるでゲヘナにいるときのようだった。
ヒナを寝かせたベッドはたちまち赤く染まった。ヒナの意識は戻らない。
「申し訳ありません」
セナは付き添いを提案してくれた二人の生徒を見上げる。
ピンクの髪をサイドテールにした穏やかな女性徒と、空色の長髪の大人びた女生徒。前者はわたわたと両手を振って否定し、後者は毅然とした口調で問題ないと言ってくれる。
自然とセナの肩が下りた。知らぬ間に緊張していたのだと、セナはそのとき初めて自覚した。
「ありがとうございます。遠慮なく薬品や機材を使わせていただきます。洗濯まで任せきりになってしまって……なんとお礼を申し上げたらいいのか」
言いながらも手早く服を脱がせ、傷の具合を確認し、しかるべき処置をする。弾丸やその破片を抜く必要がないのは幸運と言えた。救護騎士団もまたプロフェッショナルの集まりなのだろう。セナが処置に必要なものを言うのとほとんど同時に二人は動いていた。
へたに指図をしてこないのは、お互いのやり方や手順の違いから争いに発展しないようにとの配慮か。また、ときおり交わされる二人の会話からは、セナの手つきでいい所があれば取り入れようとする生命への真摯な取り組み方が伺えた。
処置は終わった。張り詰めていた空気が弛緩する。しかしそれは紐が解けるような緩み方ではない。海に垂らした釣り糸のように、細い糸がある一定の張り方をしていて、いつ魚に食いつかれるかも分からない不安定な緩み方だ。
少し休めば意識は戻るだろう。見解は一致していた。三人はベッドで休むヒナを見下ろす。
「私はヒナが目覚めるまでここにいるつもりです。手伝えることがございましたらお呼びください」セナはわずかに表情を曇らせた「命に差異がないことは重々承知していますが、ゲヘナの生徒に触られるのが嫌な生徒もいるでしょうから、無理にとは言いません」。
頭を下げたセナに対して、付き添いの二人は、まずはじっとしていてくださいと頼みこんだ。三人とも、唇を結んでいた。
そうしてセリナとミネ――セナは名前を教えてもらった――は医務室から駆けていった。
いまだ混乱の渦中にあるトリニティ総合学園。セナは、ゲヘナ学園がエデン条約を反故にしたのではないかと疑われていることを知っていた。多少は落ち着いたからか、様々なことに思考が巡るようになっていく。
室内に響く怒号や轟音。それにはどこか他人事のような軽さがあった。壁を隔てて聞こえてくるせいかもしれない。そう思って窓を開けたが、寄せては返す感情の波が余計に激しくなるばかりだった。
あほくさい。
セナの感想である。セナはエデン条約に関して、一切の注意を払っていない。怪我人はとっとと休ませるべきだ。その点にのみ注意をはらい、そしてそれができないことに、歯がゆさを伴った憤りを感じていた。セリナとミネも同じように感じていると分かったからこそ、セナは正門に向けてグレネードランチャーを向けずに済んでいる。本来なら堪忍袋の尾がずたずたに引きちぎれている。
大きなため息がもれた。非言語で伝えることが苦手なセナは、ため息がもれることも、ほとんどない。
セナは窓に背を向ける形で壁に体を預けた。ひんやりとしたそこに、流れている赤く滾った熱が吸い取られていくのを感じた。
壁に目をやった。アナログ時計の針は荒々しく回り続けている。秒針が立てる、ときの流れを知覚させる音。一つときが進むたびに、お前は何をしているのだと責められている気分になった。煩わしい。無力感が募ってゆく。熱が吸い取られたせいで思考まで温度を失っていく。まとまりのない思考は、まとまりのない結論を導く。
アナログ時計の運行表に、終点は存在しない。同じ感覚、同じ音でセナの耳を打った。再び響いた爆発音らしきものが、セナの思考の終点となった。
軽く反発をつけて壁から離れた。背もたれのない椅子に腰を下ろす。そうして視線を落とす。
ヒナは目を覚まさない。
懐からスマホを取り出す。何の装飾も施されていない、買ったままの外観。このあいだ変えたばかりのロック画面、ホーム画面。愛しい人の、少しだけ固い笑顔――操作部を撫でる。変な画面に行ってしまったのでスリープモードにした。
脳裏によぎるのは、事務的なカガリからのメッセージ。救急医学部として、もしもに備えて待機はしていた。そして、カガリと綿密な打ち合わせをしていたからこそ、対応に不備がなかったと言える。
「そう、対応に不備がなかった……。決して、何かを未然に防いだわけではない」
ヒーロー足り得る。それは、遅刻者を英雄視するための言葉ではないだろうか。ヒーローとは、問題が起こったときにしか現れないのだ。未然に防がれたのならばそれはヒーローとは呼ばれない。
喜ばしいことなのだろうか。焦りと無力感が募っている。終わりの見えない思考が強大な力となって心をこじ開けようとしている。こんなときは、動くに限る。
セナは立ち上がった。セリナとミネに、提案を。
やはりゲヘナの生徒というだけで嫌厭されたセナは、医薬品や担架を運んだりする力仕事を進んで引き受けた。信念に身を委ねて、セナは自分の戦いに身を投じた。その傍らで別の場所で戦っているカガリを想う。
――どうか、無事でありますように。
○
ことが収まったら連絡が来るだろう。カガリが何とかしてくれて、多少の怪我を負いながらも通話口でけらけら笑ってくれるだろう。セナの楽観的な見方は信頼の裏返しだった。
廊下の左手側の扉が、大きな音を立てて開いた。そこはヒナが休んでいた個室だった。憔悴しきったヒナとセナは目が合った。
「カガリを助けないと……カガリが死んじゃう!」
となりを歩いていたミネと目配せをした。「私が対応しますので。ミネは引き続き負傷者の対応を」
壁に手を当てながら歩くヒナと荷物を抱えるミネがすれ違った。ミネが心配そうな顔つきでわずかに体を動かしてヒナを見た。ヒナは気にする余裕もないらしく、一直線にセナのもとまで向かってくる。
「ヒナ。ひとまず個室で話しましょう。ここはトリニティです。ヒナの話す内容には、極めて個人的なこともあるでしょうから」
小柄な少女を個室へと連れ戻して、後ろ手に扉を閉める。ヒナは大人しくベッドに腰かけた。セナもストールに腰を下ろす。
「すぐに調印式の会場に向かってちょうだい。敵はアリウス分校。もういなくなったと思っていたのだけれど……どこかで復讐の機会を探っていたのね」
「私一人であれば、向かえますが」
「それに私もついていくと言っているの。風紀委員長として、このままじっとしているわけにはいかない」
「なりません。怪我人ですから」
「だから――」
「一つお伺いしますが……それは、本当に風紀委員長としてですか? 個人的な理由ではありませんか?」
「セナ」
低い声。小さな体躯から、歴戦の威圧感が放たれる。
それでも、毅然とセナは首を横に振った。「なりません」ヒナには移動手段がない。ここまで運んだのは救急車両11号だ。二人ともそれを分かっていた。
交渉の不利を悟ったヒナの表情がみるみるうちに歪んでいく。
騒音は遠い。ここには二人しかいない。
カガリならここで、自身の意見を押し通す。車を奪うと脅してでも提案を飲ませる。
しかし、ヒナは。理性的に、合理的にあろうとするふしがあった。「公私でいえば。僕は後者で身を滅ぼし、ヒナは前者で心を潰すだろうね」これはカガリの談だった。
リノリウムの床を見下ろしたヒナ。ワックス掛けされたばかりで傷もなく、真新しかった。そこにぽつぽつと言葉を投げ始めた。
「もう、カガリが血を流すのは嫌。私が動けなかったせいでカガリが傷つくのは見たくない」
探るように、セナは慎重に言葉を返す。
「……それは、過去の話ですか?」
「そう。カガリの角、片方が折れているでしょう? そのときの話」
「本人は『そんなこともあった』と笑って流していましたが」
「ああ、聞いていたのね……それは、カガリだからよ。あのとき、私たちは保育園の年長だった。年齢で言えば、五歳かそこら。強大過ぎた力を持った私は、当時、それに見合うだけの精神を持っていなかった。だから、ゲヘナの高等部の連中に目をつけられた」
いじめられたわけでも、攻撃されたわけでもないのだとは思う。詳しいことは覚えていない。高等部に上がってから、情報部の伝手を使って調べてみたが、結局分からずじまいだった。
気がつけば、カガリの見事な巻き角が一本、根もとから折れてしまっていた。カガリは数週間の入院を必要とする怪我をしていた。ヒナの両親もカガリの両親も何が起こったのかを決して話さず、カガリが交戦した事実のみを伝えた。
ヒナは理由が知りたかったのに、首を振られるばかりだった。当事者なのに、あなたには関係ないとでも言うように。それが気遣いなのだと、成長したヒナは気づいている。それでも知らないままでいるのは嫌だった。今も結局、知らないままでいるけれど。
目に見える形としてカガリの角は折れて、見えないものとしてヒナの心には鍵のない角張った箱が残された。
ヒナはここまでを説明した。そして軽く、まるで今思ったことのように付け足す。
「トラウマ……なのかもしれないわね」
「カガリが傷つくことが?」
「……断言できないわ。けれど、カガリには一定の基準があって、それを越えたら容赦しない。越えたときのカガリの怪我がトラウマになっているのかもしれない。そして、私の身体的な怪我が引き金になることが多いと疑っているわ。だから私は、あまり怪我をしないようにしている」
「話には聞いたことがあります。一度、イブキの口に銃口を突きつけたことがあるとか」
苦い顔をしたヒナがため息をつく。
「事実なのよ。それも。あれは、カガリも悪いわ。結果的に喧嘩両成敗のようになったけれど……」
ヒナの目尻が下がり、唇は固く閉ざされる。
言いたくないことを我慢しているのだと、セナには分かった。ヒナはカガリが悪く言われることを好んでいない。カガリの言動には問題点が多々あるが、それでもヒナは多くの場合、彼女の味方になってきた。
一緒に住んでいる家族のような存在だからこそ、言いたいことも言いたくないこともあるのだろう。
「怪我で意識が朦朧としているのでは?」
言ってから、ああ下手くそな気遣いだとセナは自嘲したくなる。こんなとき、なんとなくカガリはうまくやると思った。彼女もヒナも自分もたいがい不器用だが、その方向性は微妙に異なっているのだ。
ヒナは口もとを緩めた。セナの記憶にない、弱々しい表情だった。
「利己的で、激情家。でもどこか優しいところもある。私の目には、そう映っているわ」
語気は表情にふさわしいものだった。
「同感ですね」
「だからつい心配してしまうの」
「……同感ですね」
「あなたは朦朧としている訳ではないでしょう? いいの? そんなに頷いて」
「ヒナの意識が混濁しているのです。私は何も言っていませんよ」
「ああ、そう」
あばたもエクボ、とはよく言ったものだ。セナもヒナも、互いの内心を察して笑っていた。それは同情と共感を同じくらいの割合でまぜたものだった。
一度目を伏せたヒナは、不敵な笑みを浮かべて顔を上げた。
「だから、行かせてちょうだい。あなたも、大切な人がどうなっているか分からないのは不安でしょう?」
「ヒナは怪我人です。なりません。気持ちのみを受け取って、私が責任を持って輸送いたします」
剛毅果断。セナは医務室から足早に出ていこうとする。「セナ」ひんやりとした取っ手に手をかけた瞬間に背後からかけられた声。なぜだか、背筋に冷たいものが走った気がして背を伸ばした。振り返ってヒナの言葉を聞いて、悪寒の正体を知った。
「何だか急に体調が悪くなってきた気がするわ……まさか、救急医学部の部長ともあろう人が、トリニティにゲヘナの風紀委員長を――それも怪我人の――政治的に重要な人物を一人残していなくなるなんてこと……ないわよね? 私は自校の生徒、特に救急医学部の人員を信用しているのだけれど……
○
セナが車を走らせている。助手席には肩で息をするヒナが座っていた。ときおりつらそうに体を起こしては周囲を見ていた。ここは調印式の会場近くのトリニティ自治区だ。コンクリートジャングルは廃ビルと瓦礫の世界へと様変わりしていた。たった数時間の出来事だった。
病院着のまま脱走してきた助手席の人物に軽く目をやって、セナは納得のいかない思いで首を傾げる。
カガリのようなまねをする人だとは思っていなかった。ゲヘナとトリニティ全体とはいかないだろうが、少なくとも救急医学部と救護騎士団は対等な関係を築けるかもしれないと思っていた矢先に、ベッドは汚す、別れの挨拶もろくにできない、服は盗む――セリナからは返さなくてもいいとは言われている――と、まさにゲヘナらしい所業をしてしまった。
助手席で銃撃されたらたまらなかったので、荷台にマシンガンを積んでいた。銃身の装填は済ませている。
二人で相談して、カガリが戦闘箇所として選びそうな場所をいくつか決めていた。最初の場所には見当たらなかった。ヒナが唇を噛む。
「アリウス分校……まさか、カガリを連れ去った? でも、なんのために」
セナはしゃがんで、亀裂の入ったアスファルトや瓦礫に目を向けて手がかりを探していた。そして目的のものを見つけた。
ヒナが近寄ってくる。
「このあたりで戦闘が起きたのは確実かと。まだ新しい血痕です。誰のものかは分かりませんが、おそらくカガリか、カガリと交戦した人物でしょう」
「おそらく前者よ。カガリはあまり……体が強くないから」
「なるほど。でしたらより急がなければなりません。血がどこかへと続いていれば手がかりになりそうなものですが……見当たりませんね」
「――待って。あれ」
セナとともに周囲に目をやっていたヒナ。震える指が指し示した先には、ひしゃげた鉄のバレルが転がっていた。ついさっき目にしたものだから、セナにも覚えがあった。
「カガリが持っていたものよ。こんなところに……なぜ?」
ヒナは緩慢に近づいてそれを拾い上げ、焦点の合っていない目で何度も裏表を確認する。口径の大きな弾丸で貫かれた跡や、他にもいくつかの弾痕がある。血痕は付着していない。清潔なシーツに広がった赤を探すのとは難しさが違う。血眼になってヒナは見えない染みを探し続けた。
血がついていたら、先ほど見つけた血痕も、カガリが殴りつけた相手のものである可能性が高いと考えられたのに。それは見当たらない。
二人の想像は悪い方向に膨らんでいく。声には出していない。が、思い描いている結論は、二人の視線が交わったとき、瞬時に共有された。
互いに、それは違うと言えるほど楽観的ではない。ヒナはカガリの弱さを知っており、セナは、信頼していたカガリの結論を前に絶望しているヒナを見ている。
立ちすくむヒナ。それを尻目に、セナはより注意深く周囲を探った。
「これは……」再び何かを見つけたのはセナだった。拾い上げる。冷たかった。根もとは回したセナの手の中指と親指がくっつかないほどに太く、カールして鋭利な先端へと続いていた。それは、上下左右が灰色だらけになった場所で現実離れした光沢を放っていた。セナに見覚えるのあるものだった。
「角まで……!」
「ヒナ」
根もとが黒く、先端にいくに従って鮮やかな赤に変わっていった。
セナが手に取ったそれを目にして、さらにヒナは動揺をあらわにした。
「落ち着いてください。これが、確実にカガリのものである証拠は? 角が巻いている生徒は、まだ他にもいたはずです。それに、血痕と折れた角があっただけです。これらが同一人物のものであるかは分かりません」
「でも……! こんな角はカガリしか……これは、ゲヘナのデータベースにある確実な情報よ。もし万が一違ったとしても、これだけの光沢は、ちゃんと……ちゃんと手入れしなきゃ……」
「何かの間違いということは」
「――あり得ないの! 私が、一週間に一回必ず、何年も、なんねんも……! しているんだもの! 自分の銃を間違えるなんてことと同じくらい、ありえない!」
魂が叫んでいる。それは弱々しい叫び声となって虚空を揺らした。むせたヒナが激しく咳き込む音が残響を遮る。
ヒナはカガリの角を手入れする時間が好きだった。研磨剤も手入れの時間も、自分のものを二の次にしてしまうぐらいに、好きだった。自分のせいで折れてしまった一本目の、その付け根すら丁寧に磨き、拭いていた。
二本目が、無惨な姿で発見された。
角を受け取ったヒナの手に、二つの残骸。穴があいて折れかけている銃身と、黒から赤へのグラデーションを伴った光沢のある角。
「血痕についてはまだ、謎のままです。深くは考えないようにしましょう。分かってしまったら、私たちは」
セナは首を振って妄想を払う。そして内心で自嘲する。感情が表に出ないことが、こんな形で活かされるとは。声の揺らぎすら完璧にいつも通りだった。
力なく頷いたヒナ。
「分かっているわ……。それでも少し、時間をちょうだい」
「車を走らせている最中であれば、自ずと時間は取れるはずです。動かなければ想像は膨らむ一方です。とにかく車を走らせましょう。発見があるかもしれません」
「それがもしも――ごめん。なんでもない」
「いえ。不安に思う気持ちは、私も一緒ですので」
「それならどうして、セナはそんなに毅然としていられる?」
「性分、としか」
一歩目を踏み出して、立ち止まって振り返る。
「現実を確認したいようで、見てしまえば逃れることができませんから、逃げ出したい気持ちのほうが大きいです。ですが、救急医学部として。救える可能性があるのならそちらに賭けます。たとえそのせいで、長い間引きずるような傷を負ったとしても。急ぎましょう」
しっかりとした足取りで車に近づくセナ。となりに並んだ小柄な少女の足取りは不安定で弱々しかったが、進むべき場所に向かって、しっかりと歩いていた。
まもなく、ディーゼルエンジンの音がトリニティの街だった場所を伝わる。
○
二人はカガリが作ったトリニティの地図を元に彼女を探すことにした。その地図には合流場所や戦闘発生時の有利な場所や地形まで記しており、また、それをセナは覚えていた。だが、どこにも彼女は見当たらない。戦闘の形跡しかなかった。
「どこにも見当たりませんね……」
「連れ去られた?」
「考えたくはありませんが、ここまで見つからないとなると、その可能性もあるかもしれません」
どんどん険しい顔になっていく二人の耳に、突如として不規則な発砲音届いた。目配せをした二人は頷き合う。セナがハンドルを切った。
物が焼ける音、焦げたにおい、視界と皮膚から伝わってくる熱と埃。戦闘は終わったようだった。
カガリは地図とは全く異なる場所に倒れていた。
「――カガリ!」
いまだ癒えていない体で、ヒナはドアを蹴破る勢いで出ていった。カガリに向かう足取りは確かではない。それでも彼女は、全速力でカガリのもとまで走った。
悲痛な表情をしたのもつかの間、脈を確認してほっと息をつく。カガリは生きている。それから数秒で、ヒナはカガリの腕が伸びていたほうを見据えた。視界に入っていない敵を見ている。機械のような行動原理に、機械のような表情を乗せている。
カガリをお姫様抱っこしようとして、身長差と自身の怪我のせいでうまくいかず、膝をつく。立ち上がってセナを見た。
「カガリを運んでもらえるかしら?」
「承知しました。しかし――」
ヒナが続けるよりも早く、荷台に積んだデストロイヤーを取りに行くよりも早く、セナは腰から下げていた愛銃をヒナに向けた。
きっ、と幻聴が聞こえそうなほどに、セナを見上げるヒナの視線が鋭くなった。
「何のつもりだ。セナ」
「あなたは、カガリが誰を守るために戦ったのか、読み取れていないわけではないでしょう。誰を傷つけられたからここまでぼろぼろになるまで戦ったのか、分かっているでしょう」
「私も同じだ」
「あなたは、カガリの努力を無駄にするつもりですか」
「そんなことは」
「――でしたら、休んでください。先生はご無事です。先生がいればなんとかなるだろう。そう仰ったのはあなたでは? ヒナも傷が癒えたわけではありません。
ヒナは苦虫を噛み潰したような顔を浮かべたが、カガリを抱えて歩くセナの後ろを渋々ついて歩いた。
セナはカガリを荷台に丁寧に寝かせる。ヒナの悲痛に染まった表情を、セナはそのとき初めて見た。
暗い車内がそのまま内心を表しているようだった。ヒナは擦り傷などで赤くなってしまった手に自分のそれを重ねて、祈るように優しく握っている。
車内にあるもので可能な手当ての仕方を手短に説明して、セナは運転席に座った。
その説明の間に、ヒナはある程度の平静を取り戻していた。
ノックの音に後ろを確認すると、小窓にスマホが映った。確認しろということらしい。モモトークを開くとすぐにヒナからメッセージが届いた。
『アコには連絡した。救急医学部と合わせて動いてもらうことはできる?』
『構いません』
セナはエンジンをかけてシフトレバーに手を添える。ディーゼルエンジンが鳴いた。ヒナが荷台にいるのなら、荒い運転をしてもカガリを押さえてくれる確信があった。セナだって落ち着いていられるわけではないのだ。自らの親しい人が傷だらけになっても大した反応をできない性分が、自身にかけられた呪いみたいに思われて苦しかった。
自身への怒りすらアクセルペダルを踏む原動力にして、セナはトリニティ総合学園を目指した。