篝火の消えぬキヴォトスより   作:ぞんぞりもす

13 / 26
嘘の理由

 カガリが目を覚ましたのは、トリニティのベッドに運びこまれてからすぐのことだった。まだ戦える――咄嗟にそう思って体を動かそうとしても動かず、布団の下で指先がぴくっと動くばかりだった。

 染み一つない天井を見てゲヘナに運ばれたのかと考える。しかし視界の端に映るカーテンの存在に気づき、ここはどこなのだろうと考え直す。ゲヘナの医務室にカーテンはないし、あったとしても水色のパーテーションだ。

 生徒の騒ぎ声や銃声が壁を隔てて聞こえた。その音に、抵抗できない体が粟立った。

 

 声を出そうとして失敗し、咳きこむ。その音に反応して近づいてくる足音がある。白いカーテンを開けて様子を見に来たのはセナだった。セナは肩の荷が下りて表情が柔らかくなった。

 

 

「目が覚めましたか」

 

 

 なんとか。咳こみながらカガリはそれだけ言った。

「深呼吸しては?」セナの掛け声に合わせて、カガリはゆっくりと呼吸する。徐々に鳥肌が引いていった。

 呼吸が整い、礼を言ってから、カガリは体を起こそうとした。しかしやはり動かない。カガリの苦笑に、セナはほんのわずかだけ眉を寄せた。

 

 

「しばらくは絶対安静です」

「そうは言われてもね……」

「絶対安静です」

「事が収まるまでは――」

「絶対安静です」

 

 

 カガリが苦笑を引きつらせる。セナの顔がずいっと近づいてきて、至近距離で見つめ合った。カガリは決まりの悪さと恥ずかしさに目をそらしてから、小さく「分かりました」と言った。それでもセナは離れていかない。

 

 

「……セナ?」

「とても、心配しました」

「そんな……大丈夫だよ。心配されるようなことは何も」

「その怪我で心配するなと仰るのでしたら、心臓病や四肢の欠損でしか心配できなくなります」

「……すみませんでした」

 

 

 セナの様子を見るに、自分が思っている以上に怪我がひどいのだろうとカガリは結論づけた。

 セナはベッドの近くにあったスツールに腰を下ろす。

 

 

「どうやってそこまで動いていたのか、とても不思議です。奇跡に近いでしょう」

 

 

 意思の力と気合だよ――カガリはそんな軽口を叩こうとして、開きかけた口を閉じる。セナの表情は真剣そのものだった。

 

 

「アドレナリンが分泌されていると言いますが、それにも限度があるでしょう。神経物質ではごまかしきれない疲労があったはずです」

「確かに途中から苦しくはあったけど……」

 

 

 カガリにも無理をした自覚はあった。今までで最も過酷な戦闘をした。断言できる。しかし、そこまでだろうか、とも思う。生死の境目に片足を突っこんだことは理解できても、それがそんなに心配されるようなことだとは、死を経験しているカガリにはどうしても思えなかった。死んだら死んだで、とそれくらいの軽さだった。もちろん、生きられるのならそれはそれで嬉しい。カガリにとって自分の死とは、生きている中で当たり前の選択肢として提示される一つに過ぎなかった。車にはねられて死んだ猫に向けるものと似た感情に過ぎないのだ。

 カガリは不思議そうな顔でセナを見上げた。セナはカガリに自分たちの心配が伝わっていないのだと気づき、その悲しみを表に出さないように優しく言う。弱々しいほほえみは、カガリには伝わらない。

 

 

「本当によかったんですよ。カガリが生きていることが」

 

 

 布団からカガリの手を出して、そっと両手で包みこむ。包帯の巻かれた手からは体温が感じられない。カガリが痛がっていないかを観察しながら慎重に持ち上げる。自分の胸に押しつけて、目を閉じる。

 

 

「そうなのかな。きっとそうだよね。また会えてよかった」

 

 

 負傷者を死体と呼んで乱雑に扱う自分の言葉はその程度の効力しか持たないのかもしれない。セナは自分の言動を恨んだ。「はい」優しく布団の上に手を戻した。

 

 

「ヒナは?」

「別室にいます。先生と少し話したいそうで」

「怪我は大丈夫そう?」

「安静にしていたほうがいいのは事実ですが、カガリほどはひどくありません。それに彼女は丈夫ですから、一週間もしないうちに回復するでしょう」

「ならよかったよ。頑張った甲斐があったね」

 

 

 カガリは力なくほほえんだ。そのまま自分の手を持ち上げて、光に掲げるようにした。カガリの視界には、指の一本いっぽんに至るまで几帳面に包帯が巻かれた片手が映っている。

 結果として自分が大怪我したことをまるで勘定に入れていないカガリの様子に、セナは悲しみも怒りも覚えた。無事であったことに対する嬉しさは強いけれど、自分の命を軽んじるような行いは看過できない。太腿で重ね合わせた掌に力が入る。

 

 

「僕はどのくらいかかりそう?」

「あまり丈夫でないという話でしたから、一ヶ月はみたほうがいいでしょう」

「でも骨折とかはしていないんじゃないの?」

「はい。外的な怪我や目に見えて分かる怪我は少ないです。しかし、内部の損傷がひどすぎます。また、外的な怪我が少ないとは言いましたが、小さな怪我をそのままにしていた形跡が見られました。少し怪我をしても『面倒くさいから』と、私に相談しませんでしたね?」

 

 

 黙りこむカガリに、掌の力が強まる。

 何度か「怪我をした場合は私に言うように」と伝えたことはあった。しかしカガリは、風紀委員のメンバーの怪我は伝えても自分の怪我を伝えることはほとんどなかった。それをセナはカガリの強さの裏返しだと思っていた。夏季訓練での様子や、鎮圧作戦でのカガリの活躍を遠目に見る機会が多かったためだ。実際のところはおそらく、怪我をしても黙っていたのだろう。じっとカガリを見つめるセナ。当の本人はまったく目をくれない。

 

 カガリはセナと出会ったときにはなくなっていたほうの角をゆっくりとさすり、次いで、ついさっきなくなった角をさすった。重い息を吐いた。天井を見上げながら、カガリはどこか遠いものを見るような目をしている。

 

「そうだ」カガリがセナに視線を移す。セナは目が合ってすぐに険しい表情を解いた。

 

 

「僕のデザートイーグルは?」

 

 

 カガリの質問は、自分がどのくらいの期間休めば戦えるだろうか、と遠回しに聞いているように思われた。そこまでして報復がしたいのだろうか。セナは首を少し傾ける。それから首を横に振って答えた。

 さらさらと白髪が揺れ、蜂蜜が香る。それはこの医務室とは相容れない香りだった。

 

 

「あれはもう駄目になっています。分解をせずとも分かりました。これはヒナと私の見解ですが、カガリも、激しい戦闘をしたのですから想像はしていたのでは?」

「……まあ。もう何年も使っている銃だからね。そろそろやばいかもしれないなとは思っていたよ」

「ヒナが『戦闘中に壊れることがなくてよかった』と言っていました。それと、『買い替えを勧めても頑なに断る』と、ぼやいていましたよ」

「いやあ……慣れたものを手放すのはどうしてもね。感覚が狂うのが怖いというか」

「あのモデルは市販されているものです。もちろん許容公差程度の誤差はあると思いますが、心配するほどではないのでは?」

「そう、なんだけどさ……」

 

 

 カガリは口ごもる。ぎゅっと目を閉じて唸る。

 カガリが馴染んだ愛銃を手放さなかったのは、愛着と恐怖からだった。自分の半生を捧げて扱った銃だから、買い替えてしまったら、手に馴染んだ感触がすべて変わってしまう。量産されたモデルだからそんなことはないと頭では分かっていても、一度、馴染んだものをすべて失ったカガリにとっては恐怖の対象だった。また一からというのは、すごろくの『振り出しに戻る』と文面上は同じでも、まったく違う重みを与えてくる。

 

 理詰めしすぎただろうか。気づけば緩んでいた掌を、セナは胸の下に当てた。

 

 

「ずっと扱っていたものを手放すのが怖いんだよ。愛着があるからさ。僕はわりと、重いって言うとあれだけど、愛着が強いほうだから」

 

 

 しかし、買い替えたとしても倍の訓練をすれば勘を取り戻せるだろう。少なくとも銃器を扱う初期ステータスは最初よりもずっと上がっているのだから。カガリはそう考えた。

 

 

「でもまあ、早いうちに買いに行くよ」

「同じモデルでしたら、私が買いに行きますが。その怪我で出歩かれては困ります」

「え~……自分の命を預けるものだから、僕が選びたいな。一緒に行くのはどう?」

 

 

 自分の命を預けるもの。セナはその言葉に引っかかりを覚えた。表現としておかしくはないが、キヴォトスで過ごしているものの意識としてはあまりに物騒だ。しかし聞き返すことはしない。カガリが秘密主義であることには事情があるのだろう。セナは内心を隠して頷いた。

 

 

「一人で出歩かれるよりはましでしょうか。動けるようになり次第向かいますか?」

「そうしようかな。二日以内とか」

「それはまだ動いてはいけません。どんなに早くとも一週間後です。運転は私が引き受けましょう」

 

 

 カガリは救急車両って私情で使ってもいいのかな、などと思ったが触れなかった。

 

 

「威力のある銃を扱いたいのでしたら無理にデザートイーグルでなくともいいのではないかと思ってしまうのですが、込み入った事情でもあるのですか?」

「ん? ああ……僕、ハンドガン以外使えなくてさ」

「使えない? そんなことは――」

「あるよ。アサルトライフルとか、スナイパーライフルとか、マシンガンとか。僕がそういうのを使おうとすると装填不良が起こったり不発に終わったり、ひどいときだと暴発するんだよね」

 

 

 セナの経験上、そんなのことはありえない。だがカガリの真剣な口ぶりから推測するに、嘘は言っていない。セナは顎に手を当てる。カガリの秘密に抵触する話だろうかと思い、「そうなのですか」とだけ返答した。

 カガリはセナの一連の動作を観察して、慎重に言葉を選んだセナの様子を見て、一つの確信を得た。しかしそれは二人には共有されなかった。

 

 カガリの手が、大きなガーゼの貼ってある自身の頬に触れた。反対側に手が移る。カガリは同じように貼られたガーゼの感触を確かめるように、布地を撫でていた。額や鼻、顎にも手を伸ばした。ひとしきり顔の状態を確かめ、もぞもぞと体を動かしてから苦笑した。

 

 

「僕、こんなに怪我してたんだね」

 

 

 それはセナの言葉を聞いたとき以上に実感のこもったものだった。やっと今初めて、怪我の度合いを正しく認識したような感じがあった。

 

 

「本来は顔にも包帯を巻いておきたいところです」

「そんなミイラじゃないんだから……体だってたぶんぐるぐる巻きにされてるでしょ、これ。夏だったら蒸れて大変なことになるんじゃない?」

 

 

 軽い調子のカガリ。セナはその声を最後まで聞くことなく立ち上がり、頭を下げた。

 

 

「体を見たこと、申し訳ありません。緊急事態だったとはいえ、服をすべて脱がせて着替えさせたのは()です」

 

 

 救急車両の中で応急処置をしたのはヒナだ。トリニティに着いてからも二人でカガリの手当をした。ヒナは動揺が落ち着いてから「カガリは私たちに触られることを嫌がるし、私たちの体を見るようなことも極端に避けている」と食欲が沸かない人のような声で言っていた。カガリの幸せを望むセナにとって、カガリとヒナの関係が壊れることは最も避けなければならない事態だった。

 カガリは弱々しく手を振って答える。

 

 

「そんな、謝ることじゃないよ」

「しかし。ヒナからある程度の話は聞いています」

「……ばれてるんだね」

「カガリが思っている以上によく見ているものですよ、私たちは」

「体もよく見た?」

「いえ、できるだけ見ないようにしました」

「ならいいよ」

 

 

 首を傾げて眉根にしわを作ったセナに、カガリは呆れたように、しかし口調だけは朗らかに言う。

 

 

「本当に大丈夫だって。僕が勝手に気にしていただけだし。僕の事情だからさ」

「気にしないでと言われると余計に気になるものですよ」

「カリギュラ効果だね。そう言われるとなんて返せばいいのか分からなくなるな……」

「……ですが、分かりました」

「そう? ならよかった」

 

 

 ほほえみを交わした二人の間に沈黙が漂った。

 こうしてまた言葉を交わすことができてよかったと、改めてセナは安堵する。それが言葉となって出る。しみじみとしたものだった。

 

 

「生きててよかったです」

「そんな、そんなに?」

 

 

 カガリはどれだけ想われているかの自覚がない。胸に手を当てたセナの様子を見て、言葉を詰まらせた。

 

 

「そんなかんたんに死なないって。大げさだよ」

 

 

 セナは目を伏せた。生死の境目をさまよった人に対して「生きててよかった」と安堵した態度に、大げさだなんて、そんなことはない。表情や態度で伝えることが苦手なら人一倍言葉にすれば伝わるんじゃないかな、とカガリが言っていたことを思い出す。それをしても伝わらないことがひどく切ない。

 口に出すか迷い。決意を固めてカガリを見据えた。

 

 

「死ぬ覚悟で戦うことと、死んでも勝つことは違います。前者は、死ぬかもしれない戦いに身を投じることへの決意ですから、逃げることも視野に入るでしょう。しかし後者は、まず勝つことが条件に入っています。今回のカガリは、後者で戦っていたのではありませんか?」

「それは……そうだけど。結果として生きていたわけだし」

「死んでいたらどうするつもりだったのですか? あなたは、自分が死んだあとの私たちの顔を思い浮かべましたか? 私たちが笑ってくれると自分も嬉しいと過去に話していたあなたは、自分の死で私たちが笑顔になると思いましたか?」

 

 

 こらえていた内容は、一度口に出したら止まらなかった。俯いたカガリは口答えをしなかった。分かっていてそれを無視していたのだとセナは思った。余計に、腹が立った。

 

 

「みんなの笑顔を守れれば自分は死んでもいいなど、傲慢ではありませんか? あなたの死が私たちの心にヒビを入れるのだとは考えなかったのですか? カガリの頑張りは、自己満足に過ぎないのではありませんか?」

 

 

 しゅんと身を縮こませるカガリに、セナは尻すぼみの声になっていった。しかし最後まで言いきった。

 

 しばらくしてからカガリは小声で、ごめんなさい、と言った。

 何に対しての謝罪かも分からず、セナの問いにも答えていない。セナはそれきり黙ったカガリに言葉をかけるか迷った。

 

 言いたいことは、山ほどあった。

 

 ヒナが傷ついたから力を振るおうとしたのは分かるけれど、なぜ逆転が見込めない中でも抗おうとしたのか。

 態勢を整えてからアコなどとともに攻勢に転じることもできたのではないか。

 自分が生きている間はみんなに笑っていてほしいという姿勢には、間違いがあるのではないか。

 

 セナは傷ついている人間に追い打ちをするのは気が引けた。しかし消化不良なのも事実だった。セナとは反対方向の、真っ白なカーテンに目をやっているカガリは口を開かない。責められることから逃げているように、体をベッドの端に寄せようとする動きも見られる。

 もしもまた同じようなことが起こったとしたら、今度こそは本当に命が損なわれるかもしれないのに。セナはその想像から目をそらすことができなかった。

 

 

「カガリにとっての死とは、その程度のものなのかもしれません。ですが、心の傷のつき方、その塞がり方は人それぞれです。ほとんどが同じ免疫機能を持つ人間の外傷とまったく違いますよ」

 

 

 セナはカガリの信念が好きだった。自分と同じように、決して引けない一線を死守しようとする姿を好ましく思った。ヒナが困るだろうから、と自分の身を粉にして、でも表では一切その様子を見せようとしないところが好きだった。

 しかし、今回のこれは、やりすぎだ。

 

 

「あなたの信念は、いつから歪んでいたのでしょうか」

 

 

 カガリがふっと鼻で笑った。浮かべられた弱々しい笑みには、自嘲と諦念がこもっていた。真っ赤な瞳の火は今にも消えてしまいそうだった。

 

 

「最初からだよ」

「しかし私は、自分の観察眼が間違っていたとは思いません」

「そうかな」

「はい」

 

 

 セナの顔色をうかがったカガリに、セナは力強く頷いた。カガリが目を見開いた。

 別に最初から歪んでいようが、セナにとっては関係ない。カガリの信念を曲げないままにその強度を落としてくれれば、今回のようなことは起きないだろう。そんなセナの機微を察することはカガリにはできなかった。

 

 

「理解し合うように努力することは、できないのですか」

「分からない。ごめん――ああでも、今は少なくとも無理だと思う、とだけ」

 

 

 カガリは言い訳がましく二の句を紡ぐ。口にした内容は先送りをするものでしかないけれど、それが今のカガリにできる最大限に好意的な返事なのが伝わってきて、セナは緩慢に肩をすくめた。それはジャスチャーの話をしたときにカガリが教えたものだった。

 二人はそろって苦笑した。

 

 

「ゲヘナに戻りましょう。ここをいつまでも借りておくわけにはいきませんし、カガリの命にも別状はありませんから」

「分かった。立ち上がるの手伝ってもらってもいい?」

 

 

 ゆっくりとした動作でカガリは身を起こし、セナの肩を借りて救急車両に向かった。

 

 負傷者を死体と呼んでしまうような自分の言葉には重みなんてないのかもしれない。それでもカガリに響くことを祈ってセナは言葉を紡いだ。葛藤に揺れ、わずかに自嘲のほうが重くなった天秤によって作られた笑みは、誰の目にも映らなかった。

 カガリもまた、一人きりとなった救急車両の荷台で物思いに耽ける。自分のためとはいえ、鋭い言葉を投げつけられたのが痛くて、加えて、それを正直に受け止められなかった自分が嫌で、ため息をついた。

 

 

 

 

 先生が時間を捻出してその部屋についたとき、ヒナは何かの贖罪みたいにそこにぽつんと座っていた。「遅れちゃったね」と声をかけようと思っていたが、空気の重さにその思考は押しつぶされた。

 

 ヒナはテーブルに置かれたハンドガンから目を離さない。先生は銃に詳しくなかったが、状況を鑑みてカガリのものだろうと推測する。だがかけるべき言葉は持ち得ない。自分がそうさせてしまったが、そのことについて謝るのは、きっと違う。

 

 ひとまず先生はヒナの向かいに腰を下ろした。

 豪奢な装飾の施された広い部屋。使われていなかったらしく一時的に使用許可が下りた部屋だ。サイドテーブルや棚には、茶器やポット、様々な高さのケーキスタンドがある。二人は何にも手をつけなかった。部屋のまん中にある安そうなテーブルと椅子に二人はいるが、壁との距離がありすぎるせいで虚しさのようなものが周囲を取り巻いていた。

 

 先生が気を利かせて窓を開けると、じめっとした冷たい風が部屋に吹きこんだ。シャンデリアが軽く揺れた。

 先生が頭を下げる。

 

 

「カガリが、殺人をしようとしていた。止めたけど、もしかしたら……かもしれない。ごめん、ヒナ」

 

 

 深刻な声だ。

 再び冷たい風が吹いてきた。部屋の温度が一気に下がったので、先生は窓を閉めた。

 

 先生が席に戻ってもヒナは黙ったままだった。テーブルに置かれているカガリの愛銃に目を落としたまま、氷のように黙っていた。

 怒りがある。悲しみがある。悔いがある。虚しさがある。やるせなさがある。憤りがある。喜びはない。自分の心にあるものは全て、自分をよくない方向に導くものだとヒナは分かっている。だから、じっと感情の奔流に飲みこまれないように耐えていた。動き出したらそれらが一気に暴れだしそうだった。

 

 しばらくの間、二人の間には沈黙が漂っていた。実際には、二人は頭の中であらゆることが巡っていたので、傍から見れば沈黙であったけれど、二人の認識としては違っていた。

 

 

「ごめんなさい、先生。せっかく時間を取ってもらったのに」

 

 

 ヒナはそれだけ言って軽く頭を下げた。病院着の似合う声の調子と顔色だった。

 

 

「こちらこそごめんね。何もできなかった」

「いいえ。先生にはこれからできることがたくさんあるわ。私たちには見えていないことも、先生には見えている。私たちが政治的な理由でできないことも、先生にならできる。現状を変えられるのはあなただけよ」

 

 

 先生はヒナが内心を押し殺して理性でそう言ったのを見抜いていた。下唇を噛んでも言葉は浮かんでこない。

 

 

「その銃は……」

 

 

 先生はヒナの手もとに目をやった。ヒナのために時間を設けたのだから、せめて彼女の行く末が明るくなるように言葉を送りたい。しかし、ただきれいなだけの言葉を送ってもそれは心の表層を滑り落ちるだけだ。ヒナの心に浸透するような取っ掛かりを探しての言葉だった。

 

 

「行かなくてもいいの? 私の持っている情報はきっと、トリニティよりも量が少なく確度が低い」

「今はヒナだけの時間だから」

 

 

 先生がほほえむ。ヒナは細く息を吐く。

 

 

「それで、この銃、だったわね」

 

 

 ヒナが銃を見る。優しく目尻を下げ、頑張ったものを称えるような笑みを浮かべた。机上に置かれた手が、緩慢な動作で銃のバレル、スライド、グリップとなぞっていく。

 

 

「カガリのよ。分解しなくても分かるけれど、もう使えないわ」

「そんなに激しい戦いだったんだ」

「おそらくね……。でもこれが使えなくなったのは損傷によるものではなくて、無理をさせすぎたせいでしょうね。射撃訓練でもこれを使っていたから、おそらく使いすぎでもともと寿命はきていたのよ。いくらメンテナンスをしていても、寿命には抗えない。古ぼけた車に無理をさせたら、いつかはエンジンがかからなくなるのと同じ」

 

 

 抑揚のない声でヒナは説明した。それから「暴発しなかっただけでも奇跡みたいなものよ」と付け加える。

 

 ヒナはカガリが、自身も武器もぼろぼろになって戦ってくれたことが嬉しかった。

 道理に反する感情なのは分かっていたし、道理に反するからこそ感情なのだとも思っている。切り離して宙ぶらりんになった心が行き場を失っている。ヒナはそれを悪いことだとは思わない。カガリはちゃんと大切だ。でもそう思うがゆえに抱く気持ちは切り離すべきだ。それはセナの言動で冷えた頭が導いた結論だった。

 

 

「こんなになるまで戦うなんて、ため息がもれるわ」

 

 

 狂気の沙汰だ、とも思った。そしてヒナは、普通の人はそう思うのだろうと考えて、嬉しさを一切感じさせないように包み隠して口を開いていた。

 

 

「ヒナはそれを、本当に思っているの? よく頑張ったとまでは言えないけど、もう少し、他に思うところがあるんじゃないかな」

 

 

 先生がテーブルに肘を乗せて体を前にやった。ヒナはその分だけ椅子に深く座り直した。

 下手なことは言えない。ここは魔窟だ。気を引き締めたヒナは大きく息を吐き、首を横に振った。それを答えとした。

 

 先生はヒナの意図を正しく察して、「そっか」と姿勢を戻す。先生はヒナにほほえんだ。それは優しい大人が子どもに対して向ける、対価を求めない笑みだった。

 

 

「ヒナがどうしたいのか、カガリにどうしてほしいのか、しっかり話したほうがいいと思うよ。あの子は、危うすぎる。ヒナのためと自分のためがごちゃごちゃになっていて、おそらく心が成長していないから」

「心が、成長していない……」

「自分に対する欲求がとても少ないって言えばいいのかな。物事の考え方がヒナ中心で、そこに自分の苦労とかをまぜて考えられないというか」

「それは、自分一人だけのときは食事をおろそかにするとか、自分の容姿に頓着しないとか、そういうことも含まれるの? それなのに、私が『ご飯を食べる』って言うと途端に『自分も食べる』って言い出したりするのがおかしいってことよね?」

「そうなるかな……うん、そうだと思う。考え方に軸という言葉を使って説明すると、普通の人は、自分軸と他人軸の間のどこかに収まっているはずなんだ。でもカガリの場合は、ヒナ軸がそこに加わっていてかなりそっちに傾いている」

 

 

 先ほどまでは口を開きたくなさそうだった様子だが、考え事に脳のリソースを割かれているのか、ヒナは先生と言葉をかわした。少し抜けているというよりも、根が真面目だから疑問に思ったことを素早く解決させたいのだろう。

 先生は自分の言葉を受けてテーブルに視線を落としたヒナに「あと、ヒナもね」と言葉を投げる。

 

 

「合理的にあろうとすることも効率的にあろうとすることも、最善を尽くそうとする点で素晴らしいと思うよ。でも、無理にすべてをそうしなくてもいいんじゃないかな。いつか押しつぶされてしまうし、心が休まるときがないよ」

「……私は、カガリには」

「そうかもね。でもヒナはまだ少し頑張りすぎているよ」

「私がやらないと、カガリが全部やろうとするから。明日やろうと思ってまとめておいても、気づけばなくなっている。カガリがカガリ自身以上に私を気遣うから、私は私の心身に一番の注意を払ったほうがいいの。私も本当はカガリのほうを気にかけたいのに。私とカガリでは、どちらが自分の意見を通せるかなんとなく想像がつくでしょう?」

「そんなことが起こっていたの……? まず、自分の身を一番にしようね」

 

 

 先生は苦笑した。

 

 

「なんだか死に急いでいるみたいだね……二人ともまとめて頑張りすぎだ。ちゃんと周囲に頼れてる? 後継が育ってないって、風紀委員の誰かが言ってるのを聞いたけど」

 

 

 ヒナは重いため息をつこうとして、はっと思いとどまって口に手を当てる。その仕草がおかしくて先生はひとしきりくつくつと笑って、最終的には苦笑を深めた。

 

 

「……カガリはヒナの軸で考えている割には、かなり個人主義なんだね」

「話してと言ってもごまかされるのよ。それに、さっき先生が言っていた、私がどうしたいか、カガリにどうしてほしいかを話しても、あまり聞き入れてくれる感じがしない……というか、聞き入れた上でカガリが苦労する方向に話が持っていかれるというか。とにかく、そんな感じなのよ」

 

 

 外交もそれなりにやっているヒナが、カガリにはたじたじになっているのだという。笑ったら白い目で見られると思ったため、先生は何も言わなかった。そうだなあ、と身を引いて背もたれに体を預けた。顎に手を当てる。金や赤の幾何学模様の天井が目に入った。

 ふと、こんなふうに会社の愚痴を話すときのようなトーンで話せているのはカガリが生きていてくれたおかげなのだと思った。生きている事がすべてなのに、どうして命を奪おうとするのかが先生には理解できなかった。

 

 

「……自分がどんな気持ちになるのか、その結果としてどう行動してほしいのかをちゃんと伝えるのはどうだろう」

 

 

 今までどんな気持ちになるか、ヒナは恥ずかしくていったことがなかった。しかし恥ずかしがって関係がこじれるのは嫌だった。

 

 

「もしもそれでも駄目だったら? カガリがどれだけ頑固かは私がよく知っているから」

「そのときは……抱きしめながら話してみたり、もう口を利かない! って軽く怒ってみたり、私が傷つくとカガリは怒るのに、今あなたはそれをやっているんだよって教えてあげたりできるよ。とにかく相談してほしいな」

「そんなに……」

「何か困ったことがあったら私に相談してごらん」

 

 

 ちょうどそのとき、部屋にノックの音が響いた。

 先生の返事を聞いてからセナが部屋に入ってくる。セナは先生とヒナを交互に見てから「話は終わったのですか」とテーブルを見ながら言った。

 先生とヒナが目配せをして頷き合う。先生が答えた。「ちょうど終わったところだよ」

 

 セナが一つ首を縦に振った。

 

 

「そうでしたか。でしたらゲヘナ学園に戻っても?」

「カガリはやっぱり目を覚まさない?」

「はい。傷が深く、相当な無理をしていたようですから」

 

 

 セナは先生から、可能であればカガリと話がしたいというふうに連絡を受けていた。しかし、セナは、先生が事態を解決させるための考えを持っていることにカガリが勘づき、脅してでもその計画に入ろうとすることを危惧した。言葉で手ひどく殴りつけたとはいえ、カガリの行動は予測できない。そのため、嘘をつくことにした。カガリの頭から先生のことが抜け落ちているうちに物理的に干渉できなくしようと考えた。

 

 

「いつまでもここにいてはアコが何をしでかすか分かりませんし、トリニティの内部情報を我々が知ってしまうことも避けたいです。それに、私やヒナなど、まとめ上げる人材が校舎にいないというのも統率の面で問題が出てくるでしょう。戻るならば早いほうがいい。と、そういうことです」

 

 

 セナの言葉に先生は頷いた。ヒナがカガリの銃を持って椅子から立ち上がる。

 扉に向かったヒナの背中に、先生が思い出したように声をかけた。

 

 

「そういえば、カガリとヒナは家族ぐるみで付き合いがあるって前に言ってたよね?」

「ええ……」

 

 

 斜めにかけられた額縁をまっすぐ見ようとするように首を傾げるヒナ。気にせずに先生は続ける。

 

 

「家族仲ってどんな感じだった? カガリもヒナも。言いたくないのなら言わなくても大丈夫だよ」

「悪くなかった……というかむしろよかったんじゃないかしら」

「カガリはご両親に――」

 

 

 懐いていたの、と先生は聞きそうになった。すんでのところでこらえ、言い換えを探す。察したヒナが次の句を引き受けた。

 

 

「ときどきご両親が、『うちの子は全然甘えてくれない!』って嘆いていたわ。私も両親に甘えるのが得意ではなかったし、どちらかというとカガリと一緒にいたから、そんなものなのだと思っていたのだけれど」

「そっか。ありがとう。引き止めてごめんね」

「いいえ。それじゃあ先生も、頑張ってちょうだい。私たちにできることがあったらいつでも連絡して。協力は惜しまないから」

 

 

 そうしてセナとヒナは廊下に出た。

 カガリは医務室から救急車両に行くまでの間、物珍しそうに装飾や窓から見える景色に目をやっていたが、二人はそんなことをしなかった。等間隔に並んだ明かりを、同じ秒数で歩いていく。

 

 

「ヒナ。カガリのことを、抱きしめてあげてください。二人の話が済んだあとでも構いませんから、一度は必ず」

「……それは、なぜ?」

「今のカガリはとても、傷ついているからです。いいえ。私が傷つけたからです」

「目を覚ましていないんじゃなかったの?」

「目を覚ましてはいますが、先生と引き合わせて問題を起こすよりも、一度ゲヘナの医務室で大人しくしてもらったほうがいいでしょう」

「それは……そうだけれど」

 

 

 あなたが抱きしめなかったのはなぜ? 口に出さず、ヒナはとなりを歩くセナを見上げる。セナは視線に気づいて力のない笑みを浮かべる。

 

 

「意図的に人を傷つけたのです。抱きしめる資格などありませんよ」

「あなた、平気なの? そんなことして」

「私にとっての幸せはカガリの幸せですので」

 

 

 それはカガリがヒナに対して向ける矢印と同じだ。しかしセナからは、カガリのような不安定さが感じ取れない。それだけが救いだった。

 どの人も、自分の本当の気持ちを本人に隠しがちだ。ヒナはこめかみに手を当てた。このままではみんながみんな苦しい思いをしてしまう。そのためにはまず自分が一歩踏み出さなければ変わらない。ヒナが拳を握りしめるのを、セナは不思議そうに眺めていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。