退院の日がやってきた。
前々から決まっていたことだから、それは運動会が日程通りに開催されるのと何も変わらない。しかし、窓を開けた瞬間に風に乗って秋が運ばれてきたのだと感じたときのような、不思議な開放感と全能感がカガリの中にはあった。
シーツや掛け布団を手際よく片付けたセナは、じっとベッドを見ていた。
「これからは会いづらくなりますね」
カガリは窓を閉めたあとも、常緑樹とすっかり葉の落ちてしまった落葉樹のまざる外を眺めていた。緑と枯れ木色のコントラストには侘しさがあった。
病衣ではなく、ワイシャツにスラックスを身に着けている。コートは着ていない。
彼女は窓縁に肘を乗せながら首だけで振り返る。
「普通に廊下ですれ違ったりするって。また風紀委員に復帰するし、戦闘が起こったら確実に顔を合わせることになるよ」
「それもそうですが……くれぐれも無茶はしないように。それと、戦闘後は必ずメディカルチェックを行いますので」
「そんなに心配されなくても――」
カガリはセナの表情を見たあと、外に顔を向けた。
セナはつかつかとカガリのとなりに並んだ。背伸びをしてカガリの横顔を覗きこむ。
「絶対です」
有無を言わせない口調に、カガリは項垂れて返事をした。甘さを含む声音なのに、言っていることはちっとも甘くない。それだけのことをしたのだという自覚は薄いが、周囲の反応から、自覚との乖離を実感していた。
窓縁にカガリと同じように肘をついたセナ。うっすらと目を細めて外を眺めている。
「しかし寂しいものがあります。最近では頻繁に食事をともにしていたこともあって」
「僕の家にならいつ来てくれたっていいよ、前日にでも教えてくれれば。たぶんヒナが作ってくれると思う」
自分もヒナもそういうことではないのだが、とセナは思う。
病院食だとしても二人きりの食事が。
下手だとしても好きな人が笑顔を浮かべてくれる食事が。
パステルカラーで描かれた風景画のような現実を胸に抱いていたいのだ。
裸の落葉樹に止まっていた、まんまると膨れた冬毛の鳥がじたばたと飛び立った。カガリはそれを目で追う。「大変そうだな」
「そうですね」。伝わりそうもないですね、とセナは内心でごちて、口もとを綻ばせた。自覚のない笑みだった。
二人で何も言わずに外を見ていた。緩やかな時間だった。ふとセナが息をこぼす。
「シーツを洗濯するのが残念でなりません」
「ちゃんと洗わないと衛生的にあれだよ。よくないよ」
「……承知しております」
葛藤を含んだ間についてカガリは触れなかった。
和やかな日差しが差しこむ午前だった。
入院する前は毎朝走っていたのだが、すっかり衰えてしまった気がする。
ときおりセナに確認を取って、新調したデザートイーグルの試し打ちをしていたが、感覚がまだ戻っていない。
ゴルコンダから舞台装置のことを聞けていないし、報告物に関してそもそも音沙汰がない。
快晴なのが嘘みたいに気が重くなる案件ばかりだ。それでも。
「ひとまずいろいろと解決してよかったね」
「同感です。一時はどうなることかと思いましたが」
「はあ〜っ」と長い息を吐いたカガリが伸びをする。糊の効いたワイシャツが乾いた音を出す。
エデン条約が破談になったのだと報じられたり、虚妄のサンクトゥムがあらわれたり、空が赤くなったりした。誰も彼も慌ただしく動いていた。
入院中のカガリの出る幕はほとんどなかった。むりやり動こうとして全員から止められるばかりだった。
カガリは無関係を貫いたけれど――両学園や、他の学園がそれぞれ少しだけ歩み寄れたのではないかとヒナとアコが言っていた。
カガリが過ごした高校生活の中で、最も大きく変化した季節だった。
「僕たちが遭遇した敵が不明なままなのがネックか……」
一度脱走したあとから、二人は入院中も授業を受けられるよう諸々の手配をしてくれた。
見舞いに来てくれたヒナが仕事の疲れからか、ベッドに両腕を乗せて枕にして寝ることもあった。セナでも同様のことがあった。穏やかに話していることもあった。
ゲヘナの図書室や蔵書室を漁って、遭遇した敵について知ろうとした。
一点を除いて、命を落としそうになったことが幻だったかのような安寧の日々だった。
「私のほうでも資料を当たりましたが、何も」
「そっか」
「ヒナにはいつ相談するつもりですか?」
セナの視線を受けたカガリは頬杖をついて唸る。
「……一人、それについて詳しそうな人がいるから、その人と接触してからって感じかなー。そうそうすぐじゃなくても問題はないと思う……たぶん」
目撃情報はない。
今のヒナは普段の雑務に加えて、虚妄のサンクトゥム出現によるゲヘナ自治区の被害状況の確認、復興計画に追われている。まだ自分たちで抱えたほうがいいとカガリはセナに説明した。
「それに、学園内に資料が残っているか怪しい。ネットで探しても見つからなかったほどだしね。情報のなさはそれこそ虚妄のサンクトゥムと似ている。話して解決するとは思えないんだよ」
それきり二人は難しい顔で黙った。ちゅんちゅんぴぴ、と気楽そうな鳥の鳴き声が病室に入りこんだ。
そうだ、とカガリはセナを見る。
「コートを買いに行く日、決めてもらえると助かるかな」
「承知しました。せっかくですから、無彩色以外でもいいのでは?」
「え〜……黒がいいよ。学校で着ていても違和感なさそうだし。あと髪と目と角とヘイローで十分目立つし」
それぞれ金、赤、付け根のみなので黒、赤だ。賑やかな頭部をしている分、服装は地味にしようというのがカガリの基本方針だった。未だにガーリーな服への抵抗もあるし。
「む」とセナが眉を寄せる。カガリにはそれが、納得のいっていないヒナの表情に重なった。
「他に条件などは」
「内ポケットがあれよりも多いほうがいいかな……弾薬不足を痛感した」
「メーカーにもよりますが、戦闘用の衣類をメインに扱っているブランドでもなかなか見つからないと思いますよ。弾帯や弾倉入れを買ったほうがいいのでは?」
顔をしかめるカガリに、少し考えてセナが口を開く。
「もしもコートだけで済ませたいのなら、オーダーメイド以外にはないでしょう」
「そうなの……?」
「はい。上から下まで貫くような数のポケットがついている服は普通ではありません。風紀委員会のコートがいつから受け継がれてきたものかは知りませんが、特注でしょう」
「まぁヒナのも特注だったりするしそんなもんか……お金はまあまああったはず……あーでも治療費とか入院費とかあるから何も言えないな……保険……どうなってるんだ?」
カガリは分厚い本を床に落としたような低いため息をつく。
セナがその様子をほほえましそうに見ていた。お金のことだから切実な話ではあるのだが、命があったからこそ笑える話になっているのだ。命というのは、自分が思っているよりも価値の測れないものなのかもしれない。セナはそう考えるようになっていた。
「昼すぎにヒナが来ることは聞いていましたか?」
「聞いたきいた。午後から休み取ったらしいね。この忙しい時期に……アコもよく許可したよね〜」
あるいは、ヒナのわがままに目を爛々とさせたのかもしれないが。二人は揃って含み笑いをした。
「コートのこともお金のことも含めて相談してみてはいかがでしょう」
「お揃いのコートがなくなってなんとなーく落ちこんでいるみたいだったし、サプライズにしたいから……お金のことだけそれとなく聞いてみるよ」
「……なるほど。でしたらゆっくりお考えください」
セナが立ち去っても、カガリはしばらくその場から動かずに頭を抱えていた。そのあとスマホで保険のことを調べたり、季節物のコートを見たりしていた。検索サイトの履歴には、鬼や悪魔の伝承を調べた痕跡が連なっていた。
ヒナに後ろから声をかけられるまで、カガリは一人で悩んでいた。
最初だけ挙動不審だったカガリに不思議そうな目を向けたヒナは、しかし胸の中にある感情のほうが大きかったらしい。ぐんぐんと話を進めた。
ご馳走を作る、事前に確認した通りハンバーグでよかったのか、とカガリに迫った。口早なのを隠そうとしているような、独特の雰囲気をヒナは放っていた。カガリは若干気圧されていたが、それでも笑って答える。
「大丈夫だよ」
「分かったわ。ソースを複数作れば飽きないと思うし、家に荷物を置いたら買い物に出たいわ」
「おっけー、今日はハンバーグパーティーだね。作ってる間に書類仕事はやっておくよ」
「もう」と言いかけて、ヒナは笑って「助かるわ」と答えた。
二人は並んで病室を出た。
人の気配が薄い、しんとした廊下だ。ぱたぱた、ぱったぱった、と歩調の違うスリッパの音が冷たい空気を伝わっていく。薬品と埃のにおいが染みこんだ廊下ともおさらばだ。
スリッパと靴を履き替えているときに、ヒナが意を決したように口を開いた。
「角の研磨剤も、ついでに見に行きましょう。道具もおそらく足さないといけないわ」
「ああ、うん。任せるよ」
カガリは汚れのひどい運動靴に足を入れて、踵の調節をしながら返答した。ヒナの顔は見なかった。
最初は角なんてなくなってもいいと思っていたけれど、それはボディブローみたいにじわじわと効いてきている。日を追うごとに大きくなる後悔と自己嫌悪は、包み隠したほうがいいもので。
おにぎりだったら具が多いほうが好きなカガリは、しかしこの具だけは好きになれそうになかった。ご飯に染みこんでいって、発色のいい焼きおにぎりみたいになって、でも、ゲル状のさわり心地に変えてしまうから。
歩き出したカガリは、冷たく固い金属のドアの取っ手を掴んで引く。晩秋の乾いた風が頬を撫でた。少しだけ伸びた金髪がそよぐ。
ばーんと開け放して、自分が通ったあとにヒナがドアに触れずに出られるようにした。足早に近づいてきた小さな背がカガリのとなりに並ぶ。カガリはヒナに笑いかけた。「これからもよろしくね」
カガリを見上げたヒナは柔らかく笑った。
「こちらこそ、わがままに付き合ってくれてありがとう」
「とんでもない。諸手を挙げて喜ぶよ」
「それなら、今日は一緒に寝ましょう?」
「あ……!」カガリは思わず立ち止まって天井を仰いだ。少し時間を置いてなんとか頷く。セナによって丸く手入れされた爪が頬に触れる。
「今日だけでどうにか手を打ってほしいかな……」
「ありがとう」
ヒナは口もとに手をやって笑った。そのわがままは誕生日に子どもがプレゼントをねだるような、甘い幸福を二人に運んだ。
陽光を受けて、ヒナの紫がかった白髪がきらめいた。宝石が光を受けたみたいだった。
カガリが入院した直後はぼさぼさだったそれは、病室で病人に手入れをされるという不名誉極まりない出来事を経て、ちゃんと手入れされるようになっていた。毛先までを流し見たカガリの顔には安らぎが浮かべられている。
二人は久しぶりに並んで帰った。となりにヒナのいる景色はカガリにとって、とても馴染んだものだった。