カヨコと会った翌日は、退院してから初めての検査日だった。放課後に時間をかけて設備を巡り、終わったあと、空き教室で向かい合って座る。医務室で聞くこともできたが、なんとなく二人きりになる空気だった。
しかしそれは「問題ありませんでした」の一言で終わる。前日のメディカルチェックでも問題なかったので、カガリももしかしたらと思っていたが、椅子から古典的に落ちるまねをしたかった。
セナは机の面で書類を整え、封筒に入れてカガリに手渡した。
カガリは中身を確認することなく鞄にしまった。
「今日は非番ですか?」
「一応ね。ただまあ、これから少し射撃訓練場に行こうかなって思ってるよ」
「そこまで根を詰めなくても……とも思ってしまいますが」
それでも行くのでしょうね、あなたは。空気を震わせない内心は、カガリの心もまた震わせない。しかしその気持ちは伝わった。
片方の唇を軽く上げたカガリは目を黒板に移す。
もともと訓練場に籠りがちだったカガリだが、最近ではさらにそこに時間を注ぎこんでいた。
「趣味は何か」と前にセナが聞いたとき、カガリは「体力づくりや射撃の練習」と答えたあと、黙った。しばらく二人は無言で見つめ合い、同じ方向に首を傾けた。セナはそのときのことを思い出した。
無趣味が訓練に拍車を掛けているのだろう。ブレーキのない車輪は際限なく速度を上げている。上り坂にしか見えない道を困難とも思わずに。
「ヒナからも言われたんだけどね、それ。そこまで強く止められたわけではないから、どのくらいやりすぎてもいいのか分からないというか」
やりすぎの時点でやめてください、とセナは言えなかった。
「ヒナはやりすぎを心配する反面、カガリが不安に思う気持ちも理解できるということでしょう。かくいう私も」
「死力を尽くしても勝てなかったしね」
「ユスティナ聖徒会を連れたアリウス分校に勝つことができる人は、キヴォトス広しと言えど少ないでしょう」
「そのマイノリティに入りたいんだよ。僕ってどっちかっていうとそっち派だから」
「……一人もいないでしょう」
「そうなのかな〜」
セナの表情は固い。靴裏が床にぴったりと着き、太ももで重ねられた手に力が入る。
カガリはつま先を接地させて靴を床に垂直に立てている。ときおり椅子の背もたれに頬杖をつこうとしては、新品のコートが汚れるからと思いとどまっていた。手持ち無沙汰になった手が、開いた太腿の間の座面に収められる。
「最終的にあの状況で勝てるようになるまで鍛えるというのはやめてくださいね」
「目標に持つのはオーケー?」
「言葉狩りをしないでください」
きっぱりと言い切られ、カガリはなんとも言えない表情で肩をすくめた。はっきりとした拒絶のようで突き放された気分になったし、心配されているのだろうとも思ったし、そんなに言わなくてもいいじゃんとも思った。
カガリとしてはもっと軽い話をしたいのだが、調印式での戦闘は、周囲にカガリの危うさを知らしめたようだった。
今までは笑って流されたことが、実物を見せたことで警戒されている。カガリは身動きが取りづらくなっていた。
おそらくヒナやセナは、死生観の違いを感じることすら嫌なのだろう。だから、死との距離感が近い自分を、少しでもその存在から遠ざけようとしている。カガリはそう結論づけていた。頭の片隅では、大切に思われているだろうことも理解している。
「じゃあ、何を目標にすればいいのかな」
以前であれば笑ってごまかしていたところだった。だがカガリは、言葉にすることを選んだ。変わろうとしているのだから、嫌なことに直面するのは当たり前。そう考えて自分なりに試行錯誤していた。
カガリの視線が再び黒板に向けられて、手は自分を抱きしめるように脇腹に添えられる。
セナはその機微を察した。非言語で表すことが不得意な彼女は、しかし非言語を読み取ることが不得意なわけではない。
視線を床に落とす。不安を感じないようにするためには、経験を積み重ねるしかないだろう。否定されてきた経験を、肯定で上書きするように。
「目標というものは、たどり着きたい自分の像に向かうための指標のようなものです。カガリはどのようになりたいのですか?」
「それは……」
「一人でもあの勢力を倒せるくらいまで強く、ですか?」
カガリは俯いて頷く。消え入りそうな声で「はい」と言ったかもしれない。
「質問の仕方を変えましょうか」セナはほほえむ。カガリは事実を遠巻きで眺めて考察することができるが、自分の心理については適用外らしい。
「おそらく力がほしいからだと私は思っています」
「それは、たぶんそう」
「では、力がほしいのはなぜですか?」
カガリはまた俯いた。確信があるのだろう。
内心を話さなければならないような踏みこんだことを聞くと、カガリは俯く。そういう癖がある。最近セナはそれを知った。そういうときは自分から具体例をあげると彼女が話しやすくなるということも、最近になって知ったことの一つだった。
「大切なものを守りたいのだという決意からですか?」
「似ているかな。力がなければ、できることもできなくなるからだと思う」
「有事の際に自分の手が届く範囲を広げたいと?」
「うん。そのためにはさ」
カガリは一拍置いた。
「権力を持つことと、物理的に強くなることが大事だと思うんだけど。上の立場につかないのは、自分がそれに適していないと思ったから。周りの風紀委員を見ても、なんだかうまくいっている感じがしないというか。僕にはその能力がないんだろうね。だから必然的に力を求めるしかなかった」
カガリは風紀委員の中でも特殊な立場にある。それはオブラートに包まれた現実だった。
明確に嫌われているわけではなく、ただ、横断歩道が青に変わるまでを一緒に待つ集団のうちの一人のような、孤独とも孤高とも言えない単独。
カガリに落ちこみは見えない。彼女はそれを当たり前とする人なのだと、セナは改めて感じた。
中学に上がって間もないころ自分に話しかけてくれたカガリは、年々周囲との溝を広げている。胸が締めつけられるような思いがした。
それでも今は内面の言語化を手伝ったほうがいいだろう。セナはゆっくりと力を抜いた。知らず、体が強張っていた。
「子どものころに考えたことだったから、保育園児が権力を握る方法が浮かばなかったってのもあるかな」
「できることができないと、どう思うのですか?」
「どう……?」
「『できることができなくなる』のを避けたい。そのためには権力、もしくは力が必要。カガリの言ったことは理解できます。しかし、そこにはあるべきはずの感情がありません。あなたは何を感じてそうしているのですか?」
「確かに」神妙な顔で頷いたカガリは目線を下げた。
しばらくすると遠くから爆発音が聞こえてきた。セナは目を伏せる。名残惜しさを振り切るように勢いよく立ち上がる。
「私はそろそろ行かなければなりません。戦闘が発生した模様です。今日の話は次に会ったときか、もしくは通話ででも」
「では」いつも通りの歩調でセナは歩いた。扉が開く音が教室に響いたとき、それに被せるように「たぶん」とカガリが口を開いた。
廊下から入りこんできた風が冷たい。カガリに選んだコートはもう少し厚めにすべきだっただろうかと訳もなくセナは思った。
セナは足を止めて振り返る。カガリと一瞬だけ目が合った。身長差の都合でセナが見上げることが多いが、このときはカガリが上目遣いでセナを見た。弱く灯る赤い炎はすぐさまドア近くの壁に吸いこまれた。
「できることができないと、悔しいんだ。何も抵抗する手段がないと……奪われっぱなしだから。力があれば奪われなかった。世界を敵に回しても平気なくらいに強ければ、復讐ができて、それ以降はつらい思いをしなくて済むでしょ」
「……そうですか」
守りたい人を守れないのが嫌だと言ってくれたほうが、ずっとずっとよかった。
けれど、一歩先に彼女はいる。守りたいものが傷つけられることが前提の、振るうための力。不幸が突然襲いかかってくることを無意識に受け入れているような。カガリの矢印は他人ではなく、やはり自分に向いている。
なんと返答しようか考えているうちに救急医学部員の声がして、セナは曖昧に頷いたまま立ち去ることしかできなかった。
話しているカガリはつらそうな顔をしていなかった。それがやはり、セナにとっては悲しいことで。けれど表情に出ないせいでカガリに伝わることはなかった。
こんなときにどんな仕草をすればいいのか、カガリとは話したことがなかった。廊下を進むセナの足取りは、傍からはいつもどおりのように見えた。
セナが出て行ってからすぐにカガリも移動することにした。非番だが騒動の鎮圧に参加してもよかったし、邪魔するでも、このまま訓練場に行くでもよかった。なんでもよかった。
「あ。提出物まだ出しきれてなかった……」
入院していたときに溜まったものだ。立ち上がってすぐに思い出して、自教室を経由してから職員室に向かう。
用事を済ませたあと廊下を歩いていると、イブキと出くわした。彼女は先ほどまでカガリとセナがいた空き教室を見つめて首を傾げていた。余った袖が手首で折れて『へ』の字のようになっている。
あえてパズルのピースを欠けさせているような、計算ずくの仕草に見えて仕方がない。
イブキにいい思い出のないカガリは何も話しかけずに通り過ぎようとしたが、そこでイブキに呼び止められる。
振り返って目が合った瞬間、イブキは全身を小さくした。
彼女の口に銃口を突っこんで以来、カガリはイブキと接点を持たないようにしていた。怯えられているだろうという自覚があったし、パンデモニウムの敵愾心がとんでもなくなったし、イブキがそもそも苦手だったし、とにかく話すメリットを見つけられなかったからだ。
怯えるくらいならどうして呼んだんだと思ったが表情には出さず、気を遣って話しかける。
「あ~……うーんと、何か用事でもあった? 迷子?」
慎重に近づいて、ゆっくりと片膝を立てる。
コートから覗いたホルスターにイブキの目が吸い寄せられる。イブキの目が左右に揺れた。言葉とも吐息ともつかない不明瞭な音がする。
カガリが後頭部に手をやると、また身を縮こまらせた。
その態度がカガリを困らせた。
「とにかく、戦闘が発生したみたいだから巻きこまれないようにするといいよ」
空き教室を見て続ける。「そこに入ってじっとしていれば問題ないだろうから。その内に僕が誰かを呼んでくるよ。風紀委員かな、うん」
立ち上がって踵を返す。どうして空き教室を見ていたんだろうという疑問はあったが、関わらないほうが吉。しかし、歩き出したカガリの手を、イブキがしっかりと掴んだ。
カガリが固まる。振り返って、イブキと手を交互に見る。体温の高い手だ。イブキは思わず手を伸ばしたらしく、自分の行動に驚いたような表情をしている。
カガリの険しくなった顔が、段々と傾いていく。
くいくいと引っ張ってみる。
ふるふると首を振られる。金髪が遅れて空を舞った。
金髪の少女二人はしばらく見つめ合っていた。
「ええっと……」観念したカガリが口を開く。
イブキは無言のまま手を引いた。銃声と爆発音が、奇妙な空気に現実をもたらした。
二人は空き教室に入った。
「ヒナ先輩がね、教えてくれたの」
イブキは椅子に座ったまま熟考し、それだけを言う。
カガリはドアのすぐ横の壁に背を預けて腕を組んでいた。ついでに片足を曲げたり伸ばしたりしていた。「何を」言い方を考えて付け加える。「何を教えてくれたの?」
「カガリ先輩が、大怪我をしたって」
「あ〜……まあ、うん。あったけど」
なぜ今さら。睨むほどに鋭くなった目がイブキを捉えた。今度のイブキは、萎縮することがなかった。
「それで、ありがとうって言いに来たの」
「なぜ?」
きつい口調だった。やってしまったと天井を仰いだカガリが壁に頭をぶつけて派手な音を立てる。「いっ、あー……ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだけど。ちょっと気を張りすぎてるかも」
伸びをした。意識して笑いかける。
「礼を言われるようなことはしていないよ。僕が勝手にやったことだから」
「それでも、イブキが飛行船から降りたあと見つからなかったのはみんなのおかげだから……」
「よかったね」
「カガリ先輩にもありがとうって」
見当違いの返しをしても、イブキの感謝を伝える気持ちは潰えない。なんと返せばいいのか分からなくなって、カガリは薄く笑って流した。
頭を下げたイブキから作為は感じられない。だが疑念の霧が払われることはない。
たとえば、パンデモニウムの目をかいくぐるのに時間がかかった。しかし護衛をつければいい話だ。今さら一人で来る理由がない。
危険人物と話す踏ん切りがつかなかった。これは有りうる。それでも単独行動の理由にはならない。
「僕の居場所を教えてもらったって言ってたけど、他にヒナは何か言ってた?」
「えっと……あ、ちゃんと謝ってもらいなさいって。……その、
「ごめん、あのときは気が高ぶってて。ごめんね、怖い思いをさせてしまったね」
たどたどしい口調のイブキに近づいて、帽子の上からそっと頭を撫でる。意図して口調を穏やかなものにしたが、加減を誤ったせいで想像以上に甘い声になった。
ヒナはイブキの行動を疑問視していないか、もしくは流してもいいことと判断したらしい。であれば、カガリが事を荒立てる必要はなかった。
「あ、あの……お話してもいい?」
イブキの表情はぎこちない。
自分の顔が険しいからだと気づいたカガリは口の両端をにっこりと曲げて頷いた。
マコトが悪いのに、いつまでも当たるのはよくない。何より、イブキが気にしないようにと努力しているのだから、自分も応じたほうがいいだろう。
最近、上辺を取り繕って流すことが下手になっている。これは内面を話そうとしている弊害だ。赤の他人に対しては意識して笑う頻度を増やさなければならない。
イブキは肩にさげていたクマのカバンの中からプリンを取り出した。「仲直りのプリン!」ときらきらの笑顔を向けられ、カガリは笑みを強張らせた。何が起こったのかよく分からなかった。
話してもいいかと聞かれて頷いただけなのだと、自分の行動を思い返す。
固まるカガリを気にすることなく二つのプリンを机に置いたイブキは、今度はプラスチックのケースに入ったスプーンを取り出した。一つをカガリに渡そうとするが、依然としてカガリは動かない。
「カガリ先輩、プリン……嫌い?」
「い、いや、好きだな~! プリン大好きだよ!」
とっさに答えてしまったが、自分は何をしているんだろう。どうしてイブキのペースに乗せられているんだろう。イブキの努力に応じたいと思ったカガリの胸には、さっそく後悔が渦巻いていた。
カガリの片方の唇が不自然につり上がっている。前世と比べて甘党になったが、それでもカガリはあまり菓子を口にしない。ヒナとの質素な生活もそれを助長していた。女子高生というよりは、栄養管理士に食事を預けているような感じだ。
なかば押しつけられるような形でイブキからスプーンを受け取り、となりの席につく。べりべりと容器を開ける音が、どこか遠いものとして鼓膜を揺らした。さらにカガリの気を遠のかせる明るい声は、しばらくの間やむことがなかった。
イブキのプリンが三分の二まで減った。カガリはすでに食べ終えている。ちょうど数学の話が一段落ついて二人は無言になった。
小さな口で味わって嚥下したイブキが、ためらいがちにカガリを見た。
カガリは机に頬杖をついてイブキを見ていた。口もとは笑っているが目は笑っていない。
イブキはおずおずと口を開いた。
「カガリ先輩は、イブキのこと、嫌い?」
「ん? どうして?」
「ヒナ先輩とセナ先輩と一緒にいるときのカガリ先輩は優しい顔をしているのに、イブキといるときはなんだか怖い顔をしているから……」
「あ~、いや」これだから、賢さと幼さと優しさを兼ね備えた子どもは好きになれない。カガリは懐にいれる人を制限しているのに、その門をこじ開けて入ってくるのだ。これが正しく高校生であれば、たとえば風紀委員のように適切な距離を取って、カガリに面と向かって聞くことがないだろう。
「そんなことないよ」カガリは意図して笑みを作る。少しだけでも話したほうがいいだろうか。赤の他人に、なんのために。
また無表情になりかけたらしい。イブキの表情が曇った。カガリはイブキを通して自分の表情を認識する。甘いマスクで様々なものをごまかせることは、よかったと思える点だった。
「そんなことはないんだけど……ちょっと、難しくてね」
「何が難しいの?」
「……ひみつ」
じっと見つめて、相手を焦らして笑いかける。イブキの不安を柔らかく包んで握りつぶすために、頭をそっと撫でる。穏やかな声音も意識した。
くりくりな目で自身を見つめるイブキに、ウインクをしてつけ加える。
「知ってる? 女の子は、秘密があったほうが魅力的になるんだよ?」
女の子。口にした瞬間に鈍痛が胸に走る。それを笑顔でごまかした。気が高ぶっていないと、乙女なんて言葉を平気で使うのは無理だ。
イブキの笑顔が眩しかった。やっぱり曇り空が好きだとなんの繋がりもなく思う。
改めて意識させられると苦しさが勝るほどに、性自認があやふやだ。雲みたいに形が変わる一方で、核となるものは決して変わらない。
トイレに入るとき、体を洗うとき、ブラジャーを着けるとき。何度も経験すれば痛みが薄らいでいくけれど、女の子なんて言葉はほとんど使うことがない。黒ひげ危機一発みたいに、女性を象徴する出来事が剣となって容器に刺さり、そのうち自分自身がどこかに飛んでいってしまいそうだ。
「僕は魅力的でしょ? それは秘密があるからなんだよ?」
カガリは勝ち気に笑う。
イブキがきゃっきゃと楽しげに「魅力的」だなんて復唱する。
「イブキもカガリ先輩みたいに魅力的になれるかな!」
「大丈夫、もうなってるよ」
踏みこませずに済んだだろうか、とカガリは笑みの裏で安堵する。それでも隠してばかりでは、いずれ前の轍を踏むだろう。
「僕の顔が怖くなってしまう理由は……いつか、そうだな。イブキが一八歳になったときに、また聞くといい。そのときの僕はきっと答えてくれるよ」
「ほんと!? 約束だよ!」
「うん、約束。指切りでもする?」
そうして二人は指きりげんまんを歌った。清かに笑った二人のもとに入ってくる日差しが、ちょうど弱くなった。
子どものみが持っている大胆さと素直さを信用することは難しい。それでもカガリは変わろうとしていた。
それからしばらく二人で話しこんで――主にイブキが「聞いて聞いて」と話してばかりだったが――夕日が沈む時刻になった。
イブキのスマホが震えて、それを見たイブキが眉を寄せる。適度に人生の酸いも甘いも経験した人が、情報の真偽を見定めようとするような雰囲気を放っていた。
カガリはその様子を見て表情を険しくする。ほんの一瞬、息を止める。ほほえみを作り直して声を出した。
「どうかしたの?」
「カガリ先輩、悪い人なの……?」
「ん?」
何を言っているのだろう。イブキと話していてそう思うことは多いけれど、今の発言は根本に異質なものがあった。
イブキのスマホが慌ただしく震える。通話要求が届き始める。
「どうかしたの……? ひとまず出たら?」
「う、ううん」
ポップな音楽は鳴り止まない。イブキはスマホを操作しない。
戦闘の音が止んでいるのが、今になってカガリには不気味に思えた。鎮圧されたのだろうが、胸騒ぎは大きくなるばかりだ。
イブキは静かになったスマホに目を落とす。そして眉根にしわを刻む。
「もしかして何かあった?」沈黙によって心の鐘が叩かれる。
椅子から中途半端に腰を浮かせたままカガリは静止する。カガリの手はホルスターに伸びていた。
不揃いな足音が近づいてくる。音から判断して、廊下の左右両方からやってきている。その音は空き教室の前でぴたりと止んだ。前よりも整列が早くなっている。
イブキの言動から予想するに、自分がなんらかの窮地に追いこまれている。カガリはそう判断した。
カガリの行動は迅速だった。移動した衝撃で椅子が吹き飛ばされて倒れた。
音が消えないうちにホルスターから愛銃を抜いてセーフティを解除する。イブキの首を掴んで彼女の後ろに回り込む。イブキのこめかみに銃を当てる。
「立ち上がって動いて」
「カガリ先輩……?」
「言う通りにしないと撃つ。首を絞めてもいい。徹底的にいたぶる」
扉二つを正面にして、カガリは抑揚のない声で圧をかける。首を掴む手に力が入るが、手汗で滑って拘束が緩まった。驚くイブキの目の焦点が合っていないが、それはカガリも同じだった。カガリは自分の身を守るために、人を傷つけることを本能的に選んでいた。
「言うことを聞かないとどうなるか、分かる?」
カガリが力を強める。カガリの口角は上がっていた。イブキに対して浮かべた笑みの中で、それは最も自然な形をした笑みだった。
イブキは言う通りに動いた。
窓にゆっくりと近づく。外に敵影はない。まだ部隊を展開させていないらしい。窓を開けた拍子に吹き込んだ風の温度が、カガリには分からなかった。
二つの扉が同時に開いて、複数の銃口がカガリに向く。風紀委員が見たのは、余裕の笑みを浮かべる清らかな少女であった。
先頭にいたイオリは一瞬目を丸くして、しかしすぐさま口を開く。
「望月カガリ! 今すぐ――」
「状況が分かってないね。それは相手が状況を飲みこめていないときに効果的な言葉だ。今みたいに相手の準備が万端なときは、状況を崩した瞬間に撃たないと駄目だよ。手を出してから考えよう。基本じゃない?」
デザートイーグルをしまい、イブキをお姫様抱っこで抱えてカガリは窓から飛び降りる。戦うにしても場所が悪いと判断したためだった。
イブキは泣かなかった。途中から無言を貫いていた。通常であれば、カガリの奇行に困惑し、徐々に頭が現実に追いついていき、恐怖に駆られて涙を浮かべるはずである。また、以前のイブキはカガリが鬱陶しく思うほどに大きな声で泣いていた。
しかし、カガリはそのことに気づかなかった。