篝火の消えぬキヴォトスより   作:ぞんぞりもす

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ひみつきち

 イブキの手を引いて木々の群れを駆け抜ける。校舎から着地して周囲を見回しているうちにリロードは済ませたし、コートの外ポケットに入れていたスマホも内ポケットに押し込んだ。

 カガリにとって暴力は、不可視にして唐突なものだ。記憶の引き出しを乱暴に開けられたことで恐怖心が掻き立てられ、とにかく現状から脱出――ゲヘナ学園から出ることにした。人気の少ない旧校舎方面の出口を目指す。

 

 

 守りたいものがあれば、大切な人が傷つけられていれば、復讐心に駆られていれば。

 カガリは迷わず戦うことを選んだ。しかし、今は身の危険を察知しただけ。カガリの戦う理由は小さい。

 闘争と逃走。本能のせめぎ合いは、後者にやや傾いていた。闘争を選ぶために身に着けた強さは、虐げられてきた記憶がもたらす逃走に上塗りされていたのだった。ここでもしもヒナやセナを人質に取られるようなことがあれば、カガリは暴動をも辞さなかった。

 

 門の周りに風紀委員の姿はない。数名の生徒がいるのみだ。

 

 

(先回りはされてない。練度の低さが出ているかな)

 

 

 脳裏に描くのはアリウス分校。あれは統率の取れた軍隊だった。

 周囲を警戒しつつ出口に直進するカガリに、複数の銃口が向く。たまたま居合わせた数名の生徒だった。皆一様に、親の仇を見つけたような表情をしている。

 イブキを盾にしたカガリは躊躇せずに撃った。全員が沈黙したことを確認してマガジンを交換する。機械的な動作と表情の裏で懸命に考えを巡らせる。

 

 

(全員が敵と思ったほうがいい。原因は不明。直前のことを考えるに、スマホに送られてきた何かと判断するのが妥当)

 

 

 やましいことが多い自覚はある。黒に限りなく近いグレーなことだってしている。それでも、キヴォトスを敵に回すほどのことはしていない。カガリはそう考えたが、自分の感覚など当てにならないのかもしれないと思って考える対象を移した。

 

 

(イブキはなんともない? それとも恐怖で言うことをきいているだけ?)

 

 

 イブキを無感動に見下ろす。

 イブキはきょとんとした顔でカガリを見つめ返した。

 

 カガリにはそれが何よりも不気味だった。眉間に深いしわが刻まれる。

 

 

「カガリ先輩! あれ!」

 

 

 イブキの指さした方向から風紀委員が走ってきている。チナツ、イオリ、アコと――ヒナ。そうそうたる面々を視界に収めたカガリの顔がさらに険しくなる。ヒナが相手にいる以上、勝てる勝てないの話ではなくなった。

 カガリに交渉の余地はなかったし、風紀委員にもないように見える。既視感を覚え、今の自分はカスミやアルと似た扱いを受けているのかもしれないと気づいた。

 

 

 出口は塞がれていないし、脱出しようと思えばすぐにできる。その現状がカガリの足をアスファルトに縫い付けていた。睨んだまま相手の出方を窺う。

 

 

 アコに急かされるようにして走ってきたヒナは、ありありとした困惑を顔にあらわしていた。アコとカガリとを交互に見て、アコに何事かを話している。アコの剣幕が鋭くなった。

 その様子を見て、カガリにはヒナがどちらの陣営なのか見当がついた。しかし、ヒナの立場が悪くなるのは避けなければならない。

 

 カガリがイブキの手を掴むと、彼女は流れるように盾となった。カガリからは見えていないが、ちゃんと怯えた表情をしている。

 出口に向かってゆっくりと後退しながらカガリが叫ぶ。

 

 

「極悪人にパンデモニウムの重役が攫われたとなれば、風紀委員会の手落ちだね~! 銃の持ち方も忘れちゃった? 若年性アルツハイマー? それとも過労?」

 

 

 カガリはスモークグレネードのピンを抜く。足元に落として反転、イブキの手を引いて走り出す。

 言葉を交わすことなく分かたれた運命が煙に覆われて、未来を不透明なものに変えた。準備する時間を与えてくれないから、いつだって不幸は不幸たり得るのだ。

 

 カガリはゲヘナ学園を出てからもスモークグレネードを惜しみなく使い、足取りを掴めないようにした。

 

 煙の中は自身の末路を端的に示してくれている。先が見えず、薄暗い。それでも不敵に笑いながら進むしかない。

 

 

 カガリはゲヘナの輸送車両を警戒して、そして通行人による多勢に無勢を避けるために、路地裏と茂みをひた走った。

 行く手を塞いだ不良をなぎ倒し、動かぬ山を築き上げる。なまった感覚が極度の集中により研ぎ澄まされ、意識を向けた方向に正確に狙いがつけられていた。

 

 

「休憩する。息あがってるから休んでおいて」

 

 

 二人はゲヘナ郊外の廃屋にひとまず腰を落ち着けた。

 入る姿は見られていないはずだが、不良が伸びている道を追ってくればいずれ発見されるだろう。ゆっくりしている時間はない。

 

 しけった畳の上でしきりに肩を上下させるイブキを視界に収めながら、カガリはタンスや引き出しを片っ端から開けた。

 

 すでに残弾が心もとない。ゴルコンダのマガジンを持ってきてはいるものの、一○○発マガジンとは別種のものだ。掃討の速さを重視してしまったため戦い方が乱暴になり、手榴弾も大量に使ってしまった。

 最近はいつも資源に悩まされているな、とカガリは苦笑した。笑える状況ではないが、気を紛らわすために笑うことは大事である。

 そのままの調子でイブキに話しかける。

 

 

「状況を把握するために、もう少し誘拐されていてもらうよ」

 

 

 しかしイブキを長い間拘束していては、風紀委員会に責任が及ぶ。それはカガリの望むところではない。だから、もう少しだけ。風紀委員会への帰属意識ではなく、ひとえにヒナの心労を思いやっての配慮だった。

 

 息を整えたイブキがやっと口を開いた。

 カガリは家屋の探索を終え、次に潜伏する場所を考えていた。

 

 

「誘拐……かくれんぼ?」

「そうそう。見つからないようにこわーい人たちから逃げ回るんだ」

「でもさっき、カガリ先輩、自分のことを極悪人って言ってたよ?」

「ぐっ……」

 

 

 脳内に地図を描くのをやめてそれっぽい理由を考えたが、結局浮かばなかった。

 

 

「ちょっといろいろあってね……手札だよ。手札」

「イブキ知ってるよ! 身代金を受け取るためでしょ! カガリ先輩、お金がほしいの?」

「あ~……ほしいほしい」

「あとでマコト先輩に言ってあげるね! 風紀委員会の予算を減らすんだって言って、また何か面白そうなことしてた!」

 

 

 カガリはそのマコト先輩に全面戦争を吹っかけているのだが、黙っておいた。元気になったようだし、もう連れ出しても平気そうだ。ぺたん座りをするイブキに動くことを伝える。

 

 

「どこに向かうの?」

「さあ……とにかく遠く、人目につかないところがいいな。でも電波が届かないのは問題だ」

 

 

 情報収集がしたい。それはそれとして、ハッキングには注意しなければならない。連絡用にとゴルコンダからもらっていたスマホにはかなり強力なプロテクトが掛けられているらしいので、心配はないだろうが、電波が届かないのはまずい。

 鈍重な牛の足音みたいなため息が口からこぼれる。

 

 自分が今いる場所はゲヘナ自治区の外周部であり、ほとんど放棄されている地区だ。地理など把握していない。

 外に出ていたイブキは、なかなか動こうとせずに、それどころか後頭部をさすりながら深刻な顔をするカガリを振り返る。

 

 

「イブキ、いい場所知ってるよ! 秘密基地にしたいってマコト先輩に話した場所が近くにあるの!」

「それ、パンデモニウムにばれるでしょ」

「危ないから駄目って言われて連れて行ってもらえなかったから、イブキしか知らない場所なんだよ!」

 

 

 ぷんぷんと怒るイブキに緊張感など欠片もないが、それによってカガリの気持ちもだいぶ落ち着いた。少し考えてから靴を履く。「それじゃあそこまで連れて行って」

 

 

 イブキの先導でいくつもの路地を抜けた先にあったのはホテル跡だった。

 大通りには人影がない。

 舗装された路面にはひび割れが目立っている。名前も知らない雑草が、小さな隙間から懸命に生を芽生えさせていた。ゲヘナ自治区に雪はほとんど降らないが、近い内に枯れてしまうだろう。どの草も死に近い色をしている。もうすぐ冬だ。

 シャッターの下りた店も、下りていない店も、鉄錆が目立つ。経年を感じさせるわびしい場所だった。

 かつては栄えていた小さな街だったように見受けられる。

 

 

「人の移動に伴って、あるいは別区画に目新しいデパートとかができたせいで廃れたのかな」

 

 

 イブキがカガリの呟きを聞いて振り返った。「この間ね、ここをどうにか明るくできないかなってみんなで話したの!」

 

 

「厳しいだろうね。立地が悪い。駅から遠いし、この道路じゃバスだって走れないよ。道幅も狭いしね。建物の修繕費だって馬鹿にならない。でもって、修繕したところで費用を回収できるか……」

「遊園地にすればいいんだよ! そうすれば人がいっぱい集まってくれて、その人たちが住みやすくしてくれる!」

「そんなにいい人たちが多いとは思えないけど――あ~……いや、そうだね、ついでに水族館も建てようか」

「じゃあ動物園も!」

「いいんじゃない? 休憩できるように飲食店と、ホテルも必要かな。大儲けだね」

「うん! カガリ先輩にも分けてあげる!」

「嬉しいね~」

 

 

 にこにこ笑うイブキに「イブキがマスコットになればきっとみんな来るよ」と適当に言って、カガリは目の前のビジネスホテルだった場所に入った。

 

 探索で見つけたきれいな一室を拠点とすることを決めて――その際、室長はイブキとなった――カガリはそこでイブキを休ませた。かなり神経を使っていたらしく、イブキは布団にくるまるなり寝息を立て始めた。一緒に休もうと誘われたが、カガリは無論断っている。

 

 

 日が暮れてからもしばらくの間、カガリはときどきイブキが逃げていないかを確認しながら、各種設備を見て回った。

 そうは言ったものの、カガリには建築の知識が少ない。電気が通っているか、水とお湯が出るか、それが飲めるかを確認して、逃げる経路と周辺の建築物を見て歩いたくらいだった。

 

 

 一通り見て回って、イブキが寝ている部屋に静かに戻ったが、彼女は起きていた。室内の様々なものを物色していた。あれは何、これは何と聞いてくるイブキを適当にいなして、カガリは食べ物と箸を渡す。保存のきく缶詰だ。

 

 

「たぶん安全なものだから食べたほうがいいよ。夕ご飯にしては遅いけど。食べ盛りでしょ」

「いいの?」

「うん。食べたら休んで。次はいつ休めるか分からないから」

 

 

 ぱたぱたと忙しなく羽を動かすイブキに複数の缶を押しつけ、自身はベッドに腰を下ろす。道端に落ちていた小汚いバッグに有益そうなものを詰めて運び込んだから、それの整理だ。

 スクールバッグを置いてきたのは失態だった。おかげで荷物がデザートイーグルとスマホ二つとボックスマガジンしかない。

 

 とてとて歩いて、荷物を置いていないほうのとなりに座ったイブキ。

「なに? あー、そういうこと?」缶を開けられないのかと思って代わりに開けて手渡そうとすると、イブキは目をまんまるにしてカガリを見上げて、しかし受け取らなかった。

「あれ、食べないの?」思わず声が出る。

 

 

「カガリ先輩の分は?」

「僕はいいよ。お腹すいてないから」

「だめ! しっかり食べないと大きくなれないよ?」

「もうそれなりに大きいから大丈夫だよ」

「お胸も大きくならないよ?」

「お胸はそんなにいらないかな〜……」

 

 

 イブキはむっと口を尖らせて、そのあときゅっと唇を引き結んだ。

 

 

「ちゃんと食べないとだめなんだよ?」

「いや、いいって……」

 

 

 神経が過敏になっているせいで胃が痛むのだった。異変を逃すまいと、体から出た糸みたいなものがあたり一帯に張り巡らされている感じがする。前の学校や家にいるときみたいだった。

 それでもむりやり食べさせようとしてくるイブキから三口ほど食べさせられて、カガリはギブアップした。

 

 カガリは荷物を整理して、イブキは食事を進める。唸り声のような暖房の稼働音がする。

 

 

 イブキがぽつりと言った。「イブキね、こんなふうにお泊まりしたかったんだ」

「ふーん」カガリが手を止めてイブキを見る。

 

 

「これはお泊まりなの」

「お泊まりだよ!」

 

 

 なかば被せるようにして言われ、カガリは身を引いた。

 

 しばらく黙って口を開く。「イブキって、今、一一歳だっけ?」

「一二歳!」イブキは部屋に飾られている日焼けしたカレンダーを指さして「『4月14日』に誕生日なの!」と付け足した。

 

 飛び級のせいで修学旅行に行く年齢を飛び越えてしまったのか。それも小学と中学の二つも。

 カガリがわずかに唇を噛む。悲しそうに思わないことが痛ましい。そんなことを思ったのは初めてだった。

 

 

「今度パンデモニウムの誰かに言うといいよ。僕に攫われてたくさん怖い思いをしたから楽しい思い出で上書きしたい、とかなんとかいって」

「イブキ、今は怖くないよ? 最初は怖かったけど……でも今はとっても楽しい!」

 

 

 パンデモニウムの連中が聞けば「カガリからそう言えって言われたんだな? 怖かっただろうイブキちゃんよしよし」くらいに誤解すると踏み、カガリはそれきり雑談をしなかった。

 イブキから振られた話に答えるのみだった。その顔に当初の鬱陶しさはなく、若干眉尻が下がることもあった。

 

 

 食後にそのまま寝るかと思ったイブキだが、風呂に入るのだと言って聞かなかった。地下にある大浴場でなく備え付けのユニットバスで我慢してもらうようになんとか言い含めるころには、カガリはすっかりぐったりしていた。

 加えて「一緒に入ろう」と言い出されたときには言葉を失って天井を見てしまった。

 

 

「お風呂、嫌い……?」

「嫌いってわけじゃないけどさ~……!」

「じゃあ、一緒しよ! お風呂って裸の付き合いって言うんだよね? 仲がよくなるんだよって教えてもらったの!」

「甘やかしすぎでしょ」

 

 

 ユニットバスの扉を少しだけ開けて問答するイブキは裸だ。いつまでも話し続けては風邪をひいてしまうだろう。

 しかし、そうだとしても、カガリはヒナと入ることすら許容できないのだ。苦り切った顔で言う。

 

 

「それは本当に勘弁して」

「カガリ先輩はイブキとお風呂に入りたくないの……?」

「……まあ、そうだね。僕は一人でお風呂に入るのが好きなんだ」

「イブキのこと、嫌い……?」

「いや、だからね? そういう話じゃなくてね……?」

 

 

 羽をしゅんと床に向けて、悲しそうな表情で、力なく扉を閉めたイブキ。

 カガリはしばらくその場で固まったあと、とても慎重な仕草でドアノブに手をかけた。しかしイブキが早々に済ませたので、結果としては一人でシャワーを浴びる事になった。

 

 

 イブキが寝入ったことを確認して、カガリは床に座りこんだ。冷たい床だ。適当な織物にくるまってベッドに背を預ける。ゴルコンダのスマホで調べ物をして、事のあらましを掴んですぐに休む。

 外気温とは別の、心の温度が下がっていくような不安がある。浅く覚醒した状態が続く休眠は久しぶりだった。膝を抱えたまま眠ることになる日がキヴォトスでも訪れるなんて夢にも思っていなかった。イブキの寝返りや寝言で一回いっかい目を覚ましては、カガリは異常がないことに安堵していた。

 

 

 翌日は、寒さによって磨かれたような晴天の下に霜がおりるほどの朝だった。分厚いカーテンを蹴破るみたいに入ってきた乱暴な日差しで二人は目を覚ました。

 イブキは挨拶もそこそこに、目をこすりながら「先生のところに行かないの」と問うてくる。

 カガリはイブキの体調や顔色を吟味してから答えた。

 

 

「昨日はカヨコが当番って言ってたから行かなかっただけだよ。あの調子だとたぶんカヨコからも敵対されたから。今日は……どうしようかな」

「みんなに見つからないように、夜にこっそり行くのは?」

「イブキは行きたい?」

「うん! 先生ならなんとかしてくれるよ! イブキのことを大切にしてくれる先生は、カガリ先輩のことも大切にしてくれるんだよ!」

 

 

 別段、先生から大切にしてもらおうなどとは思わない。カガリは内心を穏やかな笑顔に隠して「考えておくよ」と返答した。

 先生を頼るつもりなど毛頭なかった。信用していいのか分からない相手を頼るくらいなら、一人で対処したほうがいいと思ったからだ。

 

 昨夜カガリが調べた限りでは、なんの変哲もない自分の写真が出回ったことにより、逃亡を強いられているのだった。

 温泉開発同好会がゲヘナ学園風紀委員会から目の敵にされているように、自分はキヴォトスから目の敵にされているらしい。昨日の戦闘を思い返しても、まったく実感がわかない。キヴォトスでは銃撃が茶飯事だからだ。

 

 カガリは伸びをしながら続ける。休めたはずの体は重かった。

 二ヶ月くらいなら、昔はこれくらい平気だったのに。ふとそんなことを思った。

 

 

「もしもシャーレが対応可だったら、昨日の段階でカヨコが連絡をくれると思うんだけど……ハッキングが怖くて自分のスマホ見れてないんだ。イブキも一応スマホ見ちゃ駄目だよ。電源切っといてね」

「大丈夫! 切ってるよ!」

 

 

「へえ、言い忘れてたはずなんだけど……」イブキに聞こえない声量の疑問がこぼれる。

 気を取り直して、ひとまず二人は顔を洗うことにした。やっと目が覚めても、カガリの頭は判然としない。外の景色とは対照的に靄に覆われている。

 

 ブラックマーケット由来の事態が発生したとき、カヨコなら連絡をくれるだろう。それがないということはおそらく、便利屋に舞いこんだ依頼との板挟みになっているか、そもそもこれがブラックマーケット由来ではないかの二択になる。

 考えを整理するためにイブキにそこまでを話した。

 

 

 進展を見せない事態に考え込む二人の耳に、軽快な電子音が届いた。カガリのコートの中からだった。

 ゴルコンダのスマホを取り出す。音は間違いなくそれから出ている。カガリとイブキは顔を見合わせた。

 

 

「だれから?」

「分からない。名前が出てない」

 

 

 ゴルコンダはその名前で登録されている。会ったことも話したこともないが『黒服』『マエストロ』なる人物も登録されている。それ以外の者たちでは干渉すらできないとゴルコンダは言っていた。

 みるみるうちにカガリの顔が険しくなっていく。イブキが不安げに声を揺らす。

 

 

「……出ないの?」

「出ないほうがいいと思う。このスマホは特別製だから、名前が出ないなんてことは起こらないはずなんだよ」

「先生が探してくれたのかもしれないよ?」

「それは――」

 

 

 理外の力が頭をよぎる。「あり得るね」しかし、これが本当に先生からの着信だったとして、それが自分を陥れるための罠なのではないかと疑念が頭をもたげる。

 しばらくすると自動的に通話要求が切れた。しかし、またすぐにそれが届いた。今度はスマホを操作して有無を言わさずに切った。三回目の要求は、勝手に通話状態になった。繋がったら耳もとに持っていってしまうのは一種の本能みたいだった。

 

 

『切らないで。私のことは分かる?』

 

 

 カヨコの声だった。怒っているような困っているような祈っているような、不思議な音の揺れ方をしていた。

 仮に通話相手がカヨコだったとして、どうしてそれが証明できるのだろう。通話というものは、相手の声を受け取り、通話の先で似た音声を再現しているにすぎない。カヨコの声と似ているだけの敵だったら――カガリはそう思ってしまった。どれもこれもが罠にしか見えなくなっていた。

 口が勝手に名前を呼んだ。

 

 

「かよこ……?」

 

 

 思わず出してしまった声は、内心とは異なる予感を孕んでいて。

 

 

「どうして?」

『ちょっと複雑で。まず、これは私のスマホからかけているんじゃないの。先生のタブレットからかけてる』

「先生の……。てことは、今はシャーレにいる?」

『そう。カガリにも先生にも、朝早くから申し訳ないよ』

「そんなに朝早いの?」

『んーと……今は六時すぎってところかな。まさかそっちに時計ない?』

「うん。スマホも見てないし、見つけた時計は全部電池がやられてて」

『……そっか、そうだよね』

 

 

 カヨコは状況を察したようだった。『ハッキングされるのは避けたいもんね』と得心するような声が聞こえる。

 

 

「ハッキングした側が何を言ってるんだか」

『それはまあ、特別措置だから』

「特別措置って呼べば違法も許されるとか思ってない? 大丈夫?」

『大丈夫だよ。おかげでこうして話せてるでしょ?』

「おかげで、の前後繋がってるのかなその文」

『ん~……どうだろう。もしかしたら繋がってないかも』

「もしかしなくても繋がってないよ」

 

 

 二人でくすくす笑った。

 カヨコと話しているうちに、カガリは落ち着きを取り戻していた。これはヒナでも、セナでもそうなっていた。しかし状況が許してくれたのは、ただ一人、カヨコとの会話だった。

『それで』気を取りなすようにカヨコの声が真剣味を帯びる。

 

 

『シャーレに来ない? 今日の夜』

「嫌だ……かな」

 

 

 反射で拒否していた。「あーいや、あ~……」なんとか取り繕おうとしてもうまく言葉が出てこない。

 

 

『それじゃあ、これからどうするの?』

 

 

 通話口の声はまったくもって怒気を含んでいなかった。ひたすらにカガリの身を案じていることが伝わってくる音調が、心の中に押し寄せてくる大波をさーっと凪に変えてしまう。

 

 

『私が信用できないのは、悲しいけどそれでもよくてさ。でも、カガリはこれからどうするつもりなのかなって』

「別にそんな、信用してないとかじゃなくて」

 

 

 二年にも及ぶカヨコとの付き合い。トリニティに引けを取らないほど腐った精魂が跋扈するブラックマーケットにおいて、カヨコは義理人情に厚く、信頼の置ける人物だ。カガリはカヨコを人として好ましく思っていた。

 

 積み重ねた失望と、調印式での失態が体の内側でせめぎ合っていた。カガリは時を止められたみたいにぴたりと静止している。

 

 

「イブキは先生のところに行ったほうがいいと思うよ!」

 

 

 突如響いた声にカガリの頭は真っ白になった。カヨコも『え、誰かと一緒にいるの?』と当惑している。

 カガリは状態をスピーカーにしてベッドに置いた。

 イブキがベッドに両手をつけて伸膝前転するみたいにぴょんぴょんしている。

 

 

「イブキだよ! カヨコ先輩、元気だった?」

『……カガリ、イブキといるの?』

「はい……」

 

 

 大きなため息が聞こえた。

 イブキはにこにこしている。

 

 

『私が知ってる限りでは、ゲヘナはそれを公表してないよ。風紀委員長が止めてるのかも。でも、そのままにしておくのはまずい。万魔殿(パンデモニウム・ソサエティ)にはイブキから連絡させてる?』

「させてない……」

『場所はばらしたくないもんね』

 

 

 同情する調子で穏やかにそう言って、『それじゃあ』と声音を切り替えた。

 

 

『なおのことシャーレに来て。イブキをそのままにしていたらどうなるか予想がつかないよ。それは予想できるでしょ?』

「できるし、まずいとは思ってた。どうやって開放しようかな、とも」

『うん。そうだと思う。そのスマホはかなり特殊な秘匿回線を使ってるみたいだから、先生のタブレットにならいつでも連絡できる。夜に動くタイミングを教えてもらえれば待ち合わせができるから、教えて』

「シャーレに行く……ってことだよね。大丈夫なの?」

『何が大丈夫なのかは分からないけど、たぶんなんでも大丈夫だよ。今日の当番はムツキだし、ある程度の融通は利く。便利屋とシャーレは少なくとも味方。あとの相談はシャーレでしよう』

「……分かった」

『それじゃあ、夜にね』

「バイバイカヨコ先輩!」

『うん、ばいばい、待ってるよ』

 

 

 通話先でほほえんだことが分かる柔らかな声だった。

 

 通話が切れてしばらく、カガリは黙って考えていた。緩慢な動作でスマホをポケットにしまう。

 イブキは笑みを浮かべてカガリを見上げる。

 

 

「今日の夜にお出かけだね!」

「それ、なんだけどさ。イブキが一人で行くのは、駄目?」

「だめ!」

 

 

 やはり、会うことが怖い。罠のような気がしてならない。そう思ってしまうことは、カヨコを信頼しきれていないことの証明だ。罪悪感が立ちこめて申し訳なくなって、けれどもそれと同じ分量の恐怖が毒みたいに体の内側で疼いている。

 

 イブキは小さな顔の小さな顎に手を当てている。萌え袖がだらんと垂れていた。

 

 

「イブキも一緒にいるからへーきだよ!」

 

 

 カガリは淡く笑んで肩をすくめたが、何も言わない。

「やっぱり怖い?」とイブキは言った。

 

 カガリはにっこりと笑ってそれっぽいことをうそ(・・)ぶく。

 

 

「うん、怖い。先生にまで敵対されたらつらいでしょ?」

「でも、ヘイローのない人たちはカガリ先輩を見てもなんともなさそうだったよ?」

「……そうなの?」

「うん! 昨日ね、途中で何人かとすれ違ったけど、みんな不思議そうな顔でカガリ先輩のこと見てたもん!」

 

 

 肌を焼く炎天下の日に、アイスをゆっくり食べるような。奇妙で素晴らしい合致だった。世界がそうであると定めたみたいに、イブキからは必要な情報が必要な分だけ出てくる。

 自分が考えすぎているのか、それともイブキの観察眼を知らなかったがゆえの不気味さなのか。カガリの背筋が自然と伸びる。ホルスターに伸ばしかけた手を脇腹に添える。

 

 イブキを預けることを最優先にしようとカガリは決めた。

 

 

「ご飯を食べたら、夜まで少し休もうか」

「うん! カガリ先輩もおなかすいてるの?」

「う~ん……少しくらいならいただこうかな」

 

 

 カガリはイブキの頭を撫でて、優しげな作り笑いを浮かべた。

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